轂亭・酔夢録(こしきてい・すいむろく)

 外堀通りから神楽坂へ入り、二分ほど登ったら左へ。

 そんな曖昧すぎる道案内しかされていなかったが、不思議と不安ではなかった。

 仄かな暗がりの心地よい、思い出そのもののような路地を行く私の足はひとりでに、ある地点で止まった。

 傍らを見上げると『Bar HUB』という店名が刻まれた、古めかしい銅板がランプの光に照らされてあった。

 ここで間違いはなさそうだ。


 ギャング気取りの若者のように、コートのポケットに両手を突っ込み、しばし立ち尽くす私のため息が白く尾を引いて流れ去ってゆく。

 ここへ来たかったはずなのに、私の手はなかなかそのドアにかかろうとしない。

 怖いのだ。

 あの男が歌うように告げた、『轂亭に来られるのは一度だけ』というルールがではない。

 この店には、私の全てがある。

 私が選ばなかった、選べなかった道の果て。その全てが。

 とてもではないが、鼻歌混じりにくぐれるような扉ではなかった。

「陶子」

 数十年振りに、私はその名を呟いた。

 甦る、懐かしい微笑み。声。匂い。

「寒いでしょ? 中へ入ったら?」

 いつかのそんな言葉も、思い出した。

 私は一人頷くと、いかにも寒そうに歯の間から息を吸いながら、ようやくそのドアを開けた。


「いらっしゃいませ」

 そう言ってカウンターの中で迎えたのは、やはりあの男だった。

 先日、忽然と私のオフィスへと現れ、この店の話をし、目を離した数瞬の隙には消え失せていた、あの男。

「轂亭へようこそ」

 腹蔵の欠片もない笑顔で男は言う。出自も正体も不明ながら、見ていると抱いて当然の警戒心さえ、何故だか急にふやけてしまう。そんな男だった。

 軽く片手を上げて男への返礼とし、私は店内を見渡した。

『轂亭は、自己紹介のいらない店です』と、男は言っていた。

 目を引く装飾も、まぶしい光も、音楽もない。暖かく暗い店内には二十人ほどの客たちがいて、思い思いの場所から、私を眺めている。

 その客たちは全員、私と同じ顔をしていた。


 承知していたこととはいえ、やはり呆然となる。すると一人の客が、にこやかに私をスツールまでエスコートしてくれた。

 並んで席へつくとその"私"は、ホテルマンをしているのだと明かした。さすがというべきか、彼の柔らかな言葉と笑顔は、こちらの凝りを巧みにほぐしてくれた。

 初めはぽつぽつと、次第に和やかに。二人の私はこれまでの互いの人生を語り合い、思いのほか楽しい時間を過ごすことができた。

 勢いを得た私は、店内に散らばる一人一人の"私"のもとをまわり、飲み、話し、笑い合った。

 会社社長の私。会社員の私。車椅子姿の私。ホームレス同然の私。様々な私がいた。

 中には刑務所から出たばかりという私さえいたが、恐れる必要は何もなかった。私が私の人生を愛している限り、彼らはみな同胞なのだ。


 この夜に集った、異なる次元の"私"たち。

 その中でも特に会いたいと願っていた"私"は、北陸で漁師になっていた。

 その薬指にまだ光る指輪を見据えたまま、私は口をつぐむ。

 どんな答えを聞きたいのかが、自分でも分からない。だから、問いかける言葉も見つからない。

 すると、

「彼女は幸せだったよ。最期まで」

 そんな私に微笑みかけながら、彼は一言だけそう言った。




 それで充分だった。

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