おばけ達の夜 ― その6

「弱りましたね」

 再び蛍光灯の皓々とした明かりに包まれた職務室で、遠野はコーヒーを人数分用意しながら、誰ともなしに言う。捜査が振り出しに戻ってしまったため、遠野はもはや帰宅するのを諦めていた。

 遠野はコーヒーを、まず自分のデスクについて難しい顔をしている卯月にやり、それから応接ソファーでふんぞり返っている九里の前に置く。それから遠野は、九里の傍らに立ったまま、やや濃く作ったコーヒーをすする。

「やっぱり、間違いないんですよね」遠野は九里に訊ねる。「成瀬伸が、もうこの世にいないということは」

「戸籍から除籍されていたと言ったろ。除籍事由も確認したから、間違いない」

「そうですよね……」

 そういった成瀬伸の戸籍回りを調べていて、九里は問題の事実に至ったようだ。

 戸籍という重要な事柄だから、管轄している課は何重ものチェックを行っていることだろう。よって何らかの処理ミスという可能性は極めて低いはずだ。しかし念のため、朝一番に確認を取っておこうと遠野は思う。

「それが事実だからって」卯月が固い声で言い、九里に冷たい視線を送る。「何も今の真由ちゃんに、ありのままを伝えなくてもよかったのではないでしょうか」

 遠野は、先程真由が、兄と会うことが叶わないことを知ってしまったのではないかと思った時、とりあえず彼女を落ち着かせるために、当たり障りのない言葉を掛けようとしたのだが、しかし九里は、成瀬伸がもうこの世にいないことを、根拠も交えて真由にしっかり説明した。

 そのせいで真由は今、仮眠室で寝込んでいる。ショックを受けて茫然自失となった彼女を介抱したのは卯月だから、九里に対して一言言いたくなるのも頷ける。

「中途半端な知識のまま放置して、不安にさせるよりはマシだろう」九里は平然とコーヒーを飲んでいる。「いずれは彼女が乗り越えなければならないことなんだ。早めに教えておくに越したことはない」

「お兄さんと死に別れてからずっと荒んだ生活を送っていたような彼女が、そう簡単に乗り越えられるとは、私には思えませんが」

 遠野も卯月に同意だった。精神的に強いとはいえない真由が、よりどころだった兄に会わずに成仏するのは困難だろう。ということはつまり、

「乗り越えてもらわなければ困る」九里が言う。「でなければ、強制執行するしかなくなるからな」

 この件は強制執行案件となる可能性があった。強制執行――除霊は原則、成仏させるのが不可能だと判断された霊に対して行われるためだ。

 なぜ除霊は優先順位的に成仏の下に位置するのかというと、除霊は霊を強制的にあの世に帰すがために、霊自身に障害を負わせてしまう恐れがあるからだった。

「健気に兄を慕っていた結果、いいことではないけれどこの世にやってこられたというのに、目的を果たせないで、あまつさえ強制的に退去させられる、か」卯月がやるせなさそうに息を吐く。「そんなかわいそうな結末にはしたくないですね」

 迅速確実に霊をあの世へ送れるので、除霊にもメリットがあると遠野は思っていたが、卯月が真由に同情する気持ちも理解できた。

「それもそうだし、そんな結末にさせないのが、俺達の仕事だ」九里がコーヒーを飲み干して立ち上がる。「何にせよ、まだ結論を出すのは早い。もう一度一から捜査だ。俺は成瀬伸の生活を調べてみるから、遠野、おまえは成瀬真由について洗い直してみろ」

「わかりました」

 遠野はコーヒーカップを片付けて、部屋の出口に向かう。九里の指示を承諾したのはいいが、真由の身辺を洗うには何をするべきだろう。彼女は今寝ているから、本人から再度聴取できるのは明日になる。それ以外にできることといえば……。

 などと考えながらドアを開けたからか、目の前に人がいたことに気付くのが遅れた。

「あ、すみませ――って、え?」

 そして驚いた。寝ていると聞いていたから、まさかここに成瀬真由がいるとはまったく思わなかった。

 真由は、卯月に与えられたのか、サイズの大きいパーカとジャージに着替えていた。彼女は自分でここまでやってきたというのに、髪の毛先をいじるばかりで、何も言わない。

「どうしたの?」と遠野が真由に訊ねてみるも、

「いや……、その……」と要領を得ない。

「眠れないの?」見かねたのか、卯月がやってきた。「ここは警察署だから、あまり出歩いちゃだめだよ。さあ、戻りましょう」

 と言って卯月が真由に近づくと、真由はさっと遠野の背中に隠れた。

「……遠野くん?」にこりと笑う卯月には怖さしかない。「いつの間に彼女をそんなに手懐けたの?」

「言葉が悪いですよ、卯月さん。誤解です。僕は何もしていません」

「そんなにくっつかれていたら、説得力に欠けるけど?」

 確かに真由は、遠野の背中にぴったりと張り付いて、スーツの裾を握っていた。

「あの、真由ちゃん?」これ以上同僚に白い目で見られたくなかったので、遠野は真由を引き剥がしに掛かる。「僕、これから仕事にいかなければならないから……」

 がしかし、真由は離れるどころか、より遠野にくっつく始末だった。

 卯月の眉間に皺が寄る。あ、これ知ってる、説教が始まるパターンだ、と遠野が諦めた時、「おい遠野、そう邪険にしてやるなよ」と九里が助け船を出してくれた。

「いや、しかしですね。僕にもやることがありまして」

「そんなの後回しにしろ。どうせこんな遅い時間じゃあ、やれることは限られるんだし。だったら保護対象者のケアでもしっかりしておけ」

 九里にしては珍しい気の回し方だったが、遠野にはその魂胆が見え見えだった。

 九里の薄く笑みを浮かべた表情は、ほら、霊媒体質の出番だぞ、と告げていた。

「……わかりましたよ」遠野は渋々引き受ける。

 霊媒体質の特徴の一つに、霊に好かれるということがあるが、それはつまり、霊が遠野に親近感を抱き、心を開くということを意味する。よって霊媒体質に惹かれている今の真由なら、遠野が相手ならば心を開いてくれるかもしれない。

 だから確かにこの状況は、真由から改めて話を聞き出すいい機会ではあった。


「……とは言ったものの、これは警察官として、いかがなものか……」

 遠野は真由を仮眠室に送り、彼女が落ち着くまでそばにいてあげることにした。そのために真由を布団に寝かせ、照明を落としたまではよかったが、彼女は眠る段になっても、遠野の手を離してくれなかった。

 なので現在遠野は、布団に入って横たわっている女子中学生の傍らで座りながら、彼女の手を握っているという、何とも誤解を招きかねない状況にいた。

 仮眠室に誰も入ってきませんように、と遠野は神様に祈りつつ、内心で首を傾げる。

 今まで、ここまで霊に好かれた、憑かれたことなんてあっただろうか、と。

 いくら遠野が霊媒体質者だとはいえ、今回の程度の甚だしさに、遠野はどこか納得がいっていなかった。

「……お兄さんは」真由がふと呟く。

「え?」

「お兄さんは、どうしていなくなったのでしょうか」

「ああ」遠野は自分のことを聞かれたのかと思ったが、真由は兄のことを言っていたようだった。「それは、具体的な理由については今調べているところだからわからないけど、この世からいなくなったということは、それが君のお兄さんの寿命だったのは間違いないだろうね」

 病気だろうが事故だろうが、そうなったのが何歳であろうが、この世で人間が死ぬ時というのは、その者の寿命が尽きた時であると考えられている。

「言い換えれば、お兄さんは寿命を全うしたんだ。だからお兄さんが死んだことは、悲しむべきことではないんだよ」

 そんな一般論を聞いただけで気持ちを切り替えられたら、誰も苦労しないよな、と遠野は自分で言いながら思う。人を慰めるのって難しい、とも。人の心の機微に疎いという自覚が遠野にはあった。

「……悲しいわけじゃないんです」また真由が小さな声で言う。「ただ、どうしたらいいのか、わからなくて」

 遠野は真由の顔を見る。言葉通り、彼女の目には涙も、哀しみの色もない。

「どうしたらっていうのは?」

「お兄さんのいない、一人の暮らし方が、です」真由がぽつぽつと語る。「私達の両親は早くに亡くなりました。それから私達は、当時はまだまだ自立するには早い歳でしたけど、二人で暮らすようになりました。それができるように、お金を援助してくれる親戚がいましたので。でもそれだけでした。引き取ろうとする親戚はいませんでした」

「……そう、大変だったね」

 やはり月並みな言葉しか出てこないので、であればいっそ黙っていようと遠野は思う。

「大変ではあったけど、辛くはなかったです。よく知らない親戚がいなくても、お兄さんがいれば十分でした。お兄さんがアルバイトをして家計を助けたり、学校や近所の行事では私の保護者代わりになって、私は家事を担当して、暮らしていました。そうしてお互いを支え合うのが日常でした。自分の役割をこなして兄を助けること、それが私の生活だったんです。でも、お兄さんがいなくなって、その役割がなくなってしまって、私はやることがなくなりました。それじゃあどうしようって考えたけど、わからないんです。自分一人でどうやって生活していけばいいのか、想像がつかないんです」

 真由の淡々とした語り口が逆に、彼女が本当に困惑していることを遠野に感じさせた。

「……だから、寒いんです」真由が寝返りを打ち、遠野の方に身を寄せる。「心にぽっかり穴が空いてしまったみたいで、時が経つにつれて、兄の記憶がだんだん遠いものになっていっているというのに、それがいつまでも埋まらなくて、すごく、寒いんです……。だから、助けてほしい、です」

 実際に凍えているかのように、真由が布団にくるまり、遠野の手を強く握る。

 やれやれ、と遠野は溜息を吐くのを堪えつつ思う。

 第一に、自分の霊媒体質に対して。どうやらこの体質は、今夜も絶好調のようで、あの重かった真由の口をも開かせた。それについては助かったものの、今後もこの調子で霊から打ち明け話をされるのかと思うと、少々気分が沈んでしまう。

 第二に、そうやって霊から打ち明け話をされると、毎回うんざりするというのに、その度に彼らを助けてやりたいと思ってしまう自分に対してだ。

 自分にできることは限られているというのに。必ずしも全ての霊に喜ばれるとは限らないということを、身をもって体験して知っているというのに。

 それでもいつも、お人好しにも、霊に対して世話を焼いてしまう。そして今では、それを職業にすらしてしまっている。本当に、やれやれだ。

 だから遠野は今回も、真由を助けたいと思った。

 理由は……もちろん、それが遠野の仕事だからだ。

 少なくとも、そんな大義名分を持てたことに関しては、遠野はこの幽霊生活安全課に異動してきてよかったと思っていた。

「うん、わかった。僕らに任せて」遠野は真由の手を握り返す。「だから、今は安心して休みな」

「はい……」

 胸の内を吐露したことで楽になったのか、真由はようやく瞼を閉じてくれた。やがて穏やかな寝息が聞こえてきたので、遠野は職務室に戻ることにした。

 しかし、立ち上がろうとしたものの、いまだに真由が遠野の手を握っていたので、できなかった。遠野は苦笑しつつ、彼女を起こさないよう注意しながら、その手を引き剥がしにかかる。

 なかなか離せずに悪戦苦闘していると、不意に仮眠室のドアが開いた。

「……遠野くん」

 立っていた卯月が遠野を見下ろす。卯月の目は犯罪者を見るそれだった。

「誤解です。僕は何もしていません」

 冤罪を防ぐのに大切なことは、毅然とした態度を貫き通すことだという。

 なので遠野は、絶対に屈しないぞ、と固く心に誓う。


「よう、色男。コーヒー入れてくれ」

 遠野が職務室に入ると、先に戻っていた卯月から聞いたのか、九里が開口一番からかってきた。遠野は無言で目一杯苦くしたコーヒーを作り、九里に渡す。

「で、何かわかったのか」

 それを平気な顔で飲む九里は、相変わらず応接ソファーでくつろいでいた。遠野を真由に付き添わせておいて、その間、この人はきちんと仕事をしていたのだろうか。

「まあ、はい、いろいろと」遠野は釈然としなかったが、報告を行う。「結論から言いますと、成瀬真由の霊化原因は、ただ単に兄に会いたかったからというわけではなかったようです。確かに彼女は兄の不在に苦しんで、兄との再会を願っていましたが、それは単純に兄を求めていたというわけではなくて、兄がいない生活の仕方がわからなかったからなんです」

「つまり、彼女を成仏させるのには、必ずしも兄が必要ではない可能性があるということか」

「そうです」

 成瀬伸がすでにこの世にいない状況で、その可能性は光明だった。

「そうか」この閉塞した状況に改善の兆しが見えたというのに、九里の顔はやや浮かないものだった。「で? その新たな成仏の方法に、あてはあるのか?」

「いえ、それはまだですが」

「ないんだな」

 真由から話を聞いた今の今で解決策を思いつけというのは、さすがに酷ではないか。

「では先輩は、何か新しい情報を得たりしたのですか?」

 いささかむっとして遠野が訊ねると、意外にも九里は、「ああ」と頷いた。

「証拠は?」思わず遠野は疑惑の目を九里に向けてしまう。

 九里が鼻で笑う。「まるで刑事みたいな言い草だな」

「刑事ですから」

 ならず者を取り締まるのは警察官の職務だ。

 しかしそこで、着信音じみた電子音がした。すると何やらデスクで作業していた卯月が立ち上がり、書類の束を持って九里の下に来る。

「九里さん、申請していた書類が届きました。担当の方がまだ残っていてよかったですね」

「ああ、残業さまさまだな」

 九里が書類を受け取り、目を落とす。が、少ししてちらりと遠野を見上げる。

「俺がさぼっていたと思っていただろ」

「いいえ?」旗色が悪くなった遠野は話を逸らす。というか本題に戻る。「それでその、申請していた書類って何なんです?」

「成瀬伸の個人情報だ。言っただろ、調べてみるって。とりあえず関係各所に当たってみた。時間が時間だから連絡取れないところもあったが、意外に対応してくれたところも多かったな。こんなに遅くまで働いているなんて、同情するぜ」

「先輩も同情とかできるんですね。初めて知りました」

「何か言ったか?」

「いいえ?」

 こんなに身近に、その遅くまで働いている人がいるというのに、その人には同情の意を示さないなんて、きっと九里はもう老眼が始まってしまったのだろう、と遠野は思うことにする。

 遠野はこれ見よがしに、深く息を吐きながら、眼鏡を取って眉間を揉む。疲れているアピールをしてみた遠野を、九里は確かに見ていたが、ただじっと見ているだけで、やはり労いの言葉すらない。

「僕にも見せて下さいよ」

「ん? ああ」

 遠野は九里から成瀬伸の個人情報書類を受け取り、一番上にあったものを見てみる。運転免許に関する情報なのか、そこには成瀬伸の顔写真が載っていた。パーマがかった長めの髪に、怜悧そうな眼。小振りな鼻や口元に、妹との血の繋がりが感じられた。

「それで、何か新しい成仏の方法は思いついたのですか」

 と、遠野は単に先程の意趣返しのつもりで訊ねたのだが、

「ああ、思いついた。たった今な」

「え?」

 まさか肯定されるとは思わなかったので驚いた。

「やはり成瀬真由を、兄に会わせようと思う」

「はあ?」

 しかもその答えが突拍子のないものだったので、二重に驚いた。

「そんなに驚くことか?」九里が言う。「理由が何であれ、成瀬真由が一番望んでいるのは、兄と再会することだろう。霊の望みを叶え、最良の形で霊を成仏させる。それが俺達の仕事なのだから、彼女に対してそうしようとしても、不思議じゃあるまい」

「いや、不思議ですし、おかしいでしょう」遠野は当然反論する。「成瀬真由の望みを叶えることは不可能なのですから。彼女の兄は、成瀬伸は、もうこの世にいないのですよ?」

 遠野の指摘は正論だったはずだ。しかし九里は、遠野のその言葉を待っていたかのように、にやりと面白そうに笑むと、

「この世にいないのなら、この世に化けて出てもらえばいい」

 もはや遠野のような真っ当な人間には理解できない理屈を述べた。

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