おばけ達の夜 ― その5

 遠野と九里は、資料室という名の九里の私室に移動した。資料室といっても、数台のパソコンとモニターと書類棚で一杯になるような狭い部屋だ。

「やっぱり、試してみてよかったじゃないですか」

 遠野は、書類棚の前に並べられてあったパイプ椅子を片づけている九里の背中に声を掛ける。さてはパイプ椅子でベッドを作って寝ていたな、と遠野は推察する。どうりで今日の夕方、資料室から九里がしばらく出てこなかったわけだ。

「何がだ?」

 九里が椅子に腰掛けて、パソコンモニターに向かう。遠野も一つ椅子を広げて座る。

「成瀬真由の過去を探ってみて、ですよ。おかげですぐにわかったじゃないですか」

「今回はな。だが、常にそううまくいくものじゃない」

 そうなのだろうか、と遠野は内心で疑問に思う。少なくとも、ここに異動してきてから、自分の知る限りでは、九里が失敗したことなどなかった。

「それで、何だったんです? 成瀬真由の霊化原因は」

「彼女は?」九里が資料室のドアに目をやる。「まだ眠っているのか?」

「はい」

 怒濤の一日を送って疲れたのか、真由は聴取の途中からうとうととし始めたので、とりあえずそのままソファーで寝かせることにした。

「今卯月さんが、宿泊の用意をしにいっています」

「そうか。では、通常執行に取りかかるのは明日にしよう」

「明日? そんなに早く行えるのです?」

「やろうと思えば今からでも可能だが、もう時間も遅いし、先方の都合もあるだろうしな」

「先方? 誰かに会いに行くのですか」

「ああ。成瀬伸に、成瀬真由の兄に会いに行く」

「彼女の兄、ですか」

 真由の口から、彼女に兄弟がいるという話は出なかった。おそらくまだよく思い出せていなかったのだろうが、本人すら忘れているような記憶を、九里は引き出すことに成功したらしい。

「どうやら成瀬真由は、言ってしまえばブラコンだったようだ」九里が真由の事情を語り始める。「まあ、環境を考えればそうなるのも仕方がない感じではあるが」

「環境? 家庭環境でも悪かったのですか」

「悪かったかどうかは本人達の気持ち次第だから何とも言えないが、一般的な家庭とは言えないだろうな。彼らは両親がいなくて、兄と妹の二人暮らしだったようだから」

「なるほど」

 互いに協力せざるを得ない環境で過ごせば、依存心が育つのも無理はない。

「しかし、その健気な依存関係は、無慈悲にも死によって断たれてしまった」

「そんなことがあっては、未練が残らないわけがないですね」

 ここまで聞いて、ようやく遠野も、この辺りに真由の霊化原因があるのだとわかった。

「ああ。生者はもちろん、死者だって、それぞれの世界で暮らさなければならない。生者は死ぬまで、死者は輪廻するまでな。そのために、あの世もこの世も社会が成り立っている。だから成瀬真由も、たとえ頼れる兄と死に別れてしまったのだとしても、きちんと生活していかなければならなかった。しかし彼女は、そうはできなかった」

「もしかして」遠野は一つ推測を思いつく。「彼女の髪が伸びっぱなしでぼさぼさだったり、服装が適当だったのは……」

「彼女が一人でしっかり暮らせていなかったことの証拠だな。さらに証拠をもう一つあげるとすれば、彼女は中学三年生の時のことを覚えていないと言っていたが、それは当たり前のことだったんだ。彼女は兄と死に別れてから、つまり三年生に進級する前から、不登校になっていたのだからな」

「三年生の時のことを覚えていないのは、そもそも三年生になってから学校に通っていなかったがために、記憶そのものがなかったからというわけですか」

「身だしなみを整えることもせず、学校にも行かず、そして身体が痩せ衰えるくらい食事を満足に取らなかったほどに、彼女はもう会えなくなった兄のことを想い続けていた。この世に思いを馳せ続けていた。できるならこの世に来て、もう一度兄に会いたい、とな。それが成瀬真由の霊化原因だ」

「では、彼女にその兄を会わせれば」

「彼女は成仏するはずだ」九里が言い切る。

 なるほど、確かに九里は、成瀬真由が霊になった背景を全部理解していた。

 遠野は改めて九里の能力に舌を巻く。人格的には少々、いや大いに問題があるが、少なくとも霊を成仏させることに関しては一級品の人材だった。

 そんな九里に、遠野は霊媒体質をもって霊をせっせと供給し続けている。何だか最近の自分は、九里を活躍させるために霊を誘う餌のようではないか、と遠野はふと思う。

「よかった。とりあえず一件落着ですね」

 遠野は今後のめどが立ったことにほっとする。この分なら、今夜はもう帰宅しても構わないだろう。

「霊を成仏し終えるまでは、何が起こるかわからないぞ。しかしまあ、今回は構図的に難しいものでなかったことは、確かによかったな」

 九里ならここで、そうと決まればさっさと帰るぞ、などと言うと遠野は思ったが、九里は意外にも目の前にあるパソコンで何やら作業をし始めた。

「何してるんです?」

「事前に成瀬伸の住所や何やらを調べておこうと思ってな」

「ここから? できるんですか?」

 言うまでもなく、住民の住所は個人情報なため、取得するには本来手続きが必要だ。それをこの場のパソコンだけで行う? 警察所有の捜査情報ならともかく、他の役所が管理している情報など閲覧できるのだろうか。

「ああ、できるぞ」遠野の懸念などよそに、九里はしれっと肯定した。「警察の機密情報と同じように、住民の個人情報にアクセスできる権限はもらっているからな」

「……例の特権ですか」

 九里が一級品の人材であることは警察上層部も知っているがために、九里には普通の捜査官にはない特別な権限が与えられていた。例をあげれば、出退勤時間の自由や、この資料室の私的使用などがある。アクセス権もこの一環らしい。

「便利ですね」

 その特権は九里を甘やかしすぎてはいないか、と思うが、しかし捜査において非常に使えることは知っていたので、遠野は少々複雑だった。

「便利なのは確かだが、他の者より優遇されるというのは、決していいことばかりではないということを、俺は特権を得て知ったよ」

「贅沢な悩みですね」

「ま、持てる者の愚痴だと思って聞き流してくれ」

「わかりました」遠野は言われた通り聞き流して、立ち上がる。「それじゃあ、僕はお先に失礼します。明日の朝結果を教えて下さい」

「先輩より早く帰るとは、いいご身分だな」

「残業している後輩にパワハラするなんて、ほんといいご身分ですね」

 九里が笑いながら、いいから帰れと手を振る。許可も得たことだし、新たな仕事が発生する前にさっさと行こうと、遠野は帰宅するべく資料室のドアを開ける。

「――おい、待て」しかし、また九里に呼び止められた。

「……ったく、今度は何です?」

 何を言われてもドアを閉めて帰ろう、と遠野は決意して振り返るが、九里は遠野の方を向いておらず、視線をモニターに釘付けにしていた。

「先輩?」

 遠野に呼ばれて、初めて九里が振り向く。「何だ、まだいたのか」

「まだいたのかって、先輩が待てって言ったんじゃないですか」

「ん? ……ああ、いや、今言った待ては、おまえを呼び止めたものじゃない。霊が成仏するまで何が起こるかわからないとは言ったが、まさかこうくるとは思わなかったから、思わずそう呟いてしまったんだ」

「どういうことです?」

「成瀬伸には会えないことがわかった、ということだ」

「え?」意味がわからないので訊ねたら、さらに訳がわからない言葉が返ってきた。「成瀬伸には会えないって、どうしてですか?」

「彼はもう、この世にいないからだ」

「なっ……」事態が一変したことを悟り、遠野はつい声が大きくなる。「成瀬伸が、成瀬真由の兄がこの世にいないって、それじゃあ彼女は――」

 ばさ、と背後で布か何かが落ちた音がして、遠野はさっと振り返る。

 資料室の外の暗がりの中、成瀬真由が呆然とした顔で立ち尽くしていた。

 しまった、声が大きかった、聞こえてしまったか――遠野は舌打ちを堪える。成瀬真由の足下には、遠野が眠る彼女に掛けた毛布が落ちていた。おそらく彼女は、目が覚めたから話し声がするこちらにやってきて、ちょうど遠野の成瀬伸についての言葉を聞いてしまい、ショックを受けて、持っていた毛布を落としたのだろう。

「……どういう、こと……?」

 真由が説明を求めるように、か弱い視線を向けてくるが、遠野はそれを受け止めることができなかった。

 通常の生活に支障が来すほどに兄のことを想い、霊になってまで兄と再会しようとしたのに、肝心の兄はすでにこの世にいないことがわかった。

 そんな真由の気持ちを推し量ることなど、遠野にはできなかった。ましてや彼女に掛ける言葉など、思いつきすらしなかった。

 ただ一つ、遠野にもわかることがあった。

 自分達は失ってしまった。

 成瀬真由を成仏させるための、手立てを。

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