おばけ達の夜 ― その3

 事件事故は時間を選んで発生してくれないから、常時それ相応の警察官を待機させておかなければならないが、各種手続きの受付は終了しているため、夜間の北警察署は人の気配が薄い。静まり返っている廊下を、遠野は自分が所属する部署の部屋へと向かう。

 遠野は目的の部屋のドアをノックする。普段はノックなどしないが、室内で女の子が身だしなみを整えているのであれば、話は別だ。

「どうぞ」

 まもなく卯月の声が返ってきた。遠野は中に入る。

 幽霊生活安全課の一室であるこの部屋は、さして広くない。デスクの島とキャビネット、それに一対の応接用のソファーでほぼスペースは占められている。奥に名目上は資料室となっている別室があるが、そこは実質九里の私室であるため、勘定には入らない。

「こっちは終わった」

 と言った卯月は、応接ソファーの傍らに立っていた。彼女のお決まりのスタイルであるポニーテールと黒のパンツスーツは、この時間になっても颯爽としている。

 そして彼女の横では、遠野が保護してきた霊の少女が、ソファーに腰掛けていた。

 少女はコートを膝上に置き、セーター姿で俯いている。卯月が整えたのか、少女がホラーじみた容姿になっていた一番の原因だったぼさぼさの髪は、櫛が入って綺麗になっていた。長い前髪も分けられていて、遠野は少女の顔を初めてしっかり確認できた。

 まだ幼さが残っている顔つきを見る限り、遠野より年下、おそらく中学か高校生くらいの年齢だろう。しかし、彼女の表情には若者らしい溌剌さがなかった。顔色は色白というより蒼白で、肩を落とした佇まいも相まって、憔悴している印象を受ける。

 遠野は卯月に問いかけるように視線を送る。すると卯月は察したのか、遠野の方に近づいてきて、少女に聞こえない程度の小声で囁く。

「とりあえず外傷は見つからなかった。特に異常はないみたい」

「そうですか」

 卯月が少女の身繕いを手伝ったのは、少女がそれすらできないほどに疲弊していたからという理由以外にも、身体検査を兼ねるという意味があった。

「ただ、少し痩せすぎだと思う。しばらく満足に食事していなかったのかもしれない」

 遠野は少女の全身を眺めながら、先程後ろから抱きつかれた時の、彼女の身体の感触を思い出す。確かに肉付きは薄く、必死にしがみついていたにもかかわらず、その力は弱々しいものだった。

 単に年頃であるためにダイエットでもしていたのだろうか。それとも、その痩せすぎであることが、彼女が霊になった原因に関係しているのだろうか。

 その辺り早く、きちんと各課員が協力して調べるべきなのだが……。

「で、先輩は? まだですか?」

 わかりきったことではあったが、遠野は一応確認してみる。

「まだよ」案の定、卯月は首を横に振る。「九里さんの方が近くにいたっていうのに、遠野くんの方が早く来るなんて……まだ説教し足りないっていうの……」

 卯月がぶつぶつと独り言を話す。念のため補足しておくが、卯月は九里の後輩だ。

 遠野の教育係であり卯月の先輩であり、かつ遠野らの部署の実質的な現場リーダーである九里が不在なのは少々問題ではあるが、いつ来るかわからない人をいつまでも待ってはいられない。それだけ霊を――この世にいるべきでない存在を、長くこの世に留めてしまうことになるのだから。

 九里には後ほど事の次第を伝えればいいかと思い、遠野は少女の聴取に向かおうと足を踏み出しかけるが、そのタイミングで部屋のドアが開かれた。

 ぶらりと短髪の男が入ってくる。すらりとした体躯にびったりとしたブラックスーツをまとい、片手をポケットに入れている立ち姿が妙に様になっているこの男こそ、件の九里航平だった。

「よかった」九里が室内を見回して、何食わぬ顔で言う。「間に合ったみたいだな」

「全然間に合っていません」卯月がぴしゃりと否定する。

「そうですよ」遠野も卯月に同調する。「今まで先輩のこと待っていたのですから」

「過程はどうあれ、捜査が始まっていないのなら、間に合ったで合っていると思うがな」

 九里がネクタイの結び目を緩めながら、いつもの調子でああ言えばこう言う。

「九里さん、まさかとは思いますけど」卯月が眉をひそめる。「お酒を飲んではいないでしょうね? 何だか顔が赤いようですが」

 卯月の言う通り、九里の顔はうっすら紅潮していた。遠野は卯月に、九里と連絡を取れたことは告げていたが、九里がどこにいたのかまでは報告していなかった。別に九里を庇ったわけではない。雷が落ちて時間が無駄に消費されるのを避けるためだ。

「酒? いいや?」九里がさも不思議そうに首を傾げて、平然ととぼける。「顔が赤いのは、ほら、あれだ、きっと外が寒かったせいだ」

「……今日はぽかぽかとした陽気になることでしょう、と天気予報で言っていましたが」

「そうだったか?」卯月の疑惑の視線から、九里はひょいと顔を背けて逃れる。「だとしたら、風邪でも引いたかな。大変だ、早く帰らないとだな」

「待って下さい」卯月が身を翻しかけた九里の肘を掴んで引き留める。「その前に証拠の提出を求めます。熱を計らせて下さい」

 卯月の追及は、まさに犯罪者の罪を暴く警察官のそれだった。

「何だ、計ってくれるのか?」しかし、同じ職業で、おまけに無駄に顔がよくて気障なこともあってか、九里は卯月のあしらい方をよく知っていた。「そんなに俺のことをお世話したいのか、美衣弥。仕方ないな、ほら」

 九里がずいと卯月に顔を寄せて、自分の額を卯月の額と合わせようとする。

「ひっ」卯月がさっと下がって避ける。「やめて下さいっ、そんなわけないじゃないですか! もういいです、わかりました。さっさと始めましょう。……まったく、ほんと九里さんと話すのって、時間の無駄なんだから……」

 そう言って、卯月は少女の下へかつかつと歩いていく。心なしか、今度は卯月の頬が赤くなっているような気が遠野にはした。まさか照れたわけではないだろうから、きっと怒りでそうなっただけなのだろう。

 九里が何やら得意げな顔を遠野に向ける。遠野は溜息で応える。少しは卯月をからかうのを控えてほしかった。九里は楽しいかもしれないが、卯月の方はそろそろストレス過多で参ってしまうのではないか、と遠野は密かに心配している。

「ところで、室長はいないのか?」

 卯月に続こうとする遠野に、九里が訊ねてくる。

「まだ酔ってるんですか? いるわけないじゃないですか」

 デスクの島から一つだけ離れている室長の席に、主の姿はない。あるわけがない。定時という言葉はこの人のためにあるのではないか、と思うほど時間ぴったりに出退勤する人なのだから。

「今日も愛娘の手料理が待っていたんだろうな」九里がそう言った後に、ぽつりと付け足す。「羨ましいような、羨ましがってはいけないような」

 室長は娘と二人暮らしらしい。つまり奥さんがいない。九里はそのことについて呟いたのだろう。

「いえ、今日は娘さんと外食らしいですよ」遠野は一応九里の認識を訂正する。「先輩がいない昼間に、室長が娘さんと待ち合わせの時間について電話をしていて、勤務中に私用の電話は控えて下さいと卯月さんに怒られていましたから」

「別に電話くらい構わないだろう。しかも相手は、室長にとってただ一人の娘なんだから」

「娘さんを気にかけるのもいいですけど、部下の精神衛生も心配してもらいたいものです」

「それもそうだな」

「いや、先輩もですよ?」

「ん? 何がだ?」九里は遠野の返答を待たずに、霊の少女の向かい側のソファーに腰を下ろす。「待たせたな」

「ええ、本当に」

 少女の代わりに、彼女の隣に座っている卯月が答える。遠野はその卯月の向かい、九里の隣に腰掛ける。

「では、始めるとするか」九里は卯月の皮肉を無視し、少女に目をやる。「この霊を成仏させるための聴取を」

「霊……?」九里のその言葉が気になったのか、少女が顔を上げる。「……私が?」

「自分が霊である自覚はないようだな」九里が所感を述べる。

「僕に焦った風にして助けを求めてきたところからしても、彼女は霊になってまだ間もないのかもしれないですね」と遠野は補足する。「であれば、自身が霊であることに気付いていなかったとしても不思議はありませんから」

 霊は、この世に現れてからしばらくの間、記憶が曖昧になることが多い。ひどい場合だと、自分がどこの誰なのかすら忘れてしまうこともある。

「落ち着いて聞いてね」卯月が少女の手に、自分の手を重ねる。「あなたは、あなたが本来いるべきはずのあの世から、そうじゃないこの世に迷い込んでしまったの」

「そしてそういう霊達を成仏させて、元の世界に帰してやる」九里が卯月の後に続けて言い、部屋全体を示すように両手を上げる。「それがこの、幽霊生活安全課でやっている俺達の仕事というわけだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る