おばけ達の夜 ― その2

『残念だったな遠野。今この店、満席みたいだぞ』

 九里の言う通り、確かに電話口からは、酒場らしいがやがやとした音が聞こえた。

 が、九里の推理はまったくもって見当違いだった。

「行きませんよ」呑気な九里に付き合ってなどいられない。「違います。僕が用があるのは、その店ではなくて、先輩の方です」

『俺に? 何だ、日頃のお礼に奢ってくれでもするのか?』

「酔ってるんです? なわけないじゃないですか」いつも九里の雑務を押しつけられているのだから、遠野の方がお礼をもらいたいくらいだった。「仕事のお知らせです。出たんですよ、霊が」

『ほう、それは大変だな』言葉とは裏腹に、九里の口振りに焦りは微塵も感じられない。『頑張れよ。応援しているぞ。じゃあな』

「いやいや」通話を切られそうになって、遠野は慌てて声を出す。「するだけじゃなくて、来て下さいよ、応援に」

『悪いが遠野、俺は今手が離せないんだ」

「どうせお酒からでしょう」

『よくわかったな。さっき頼んだばかりなんだ』

「いいから、さっさとグラスから手を離して来て下さい。こっちは今まさに霊に追われているんですよ。悠長なことを言っている場合じゃないんです」

『またつきまとわれているのか? いい加減少しは時と場所を選べよ』

「その言葉は、捕まえた後に、霊に直接言ってもらえれば助かります」

『だったら、捕まえた後にまた呼んでくれ』

「僕一人で霊を逮捕しろというんですか?」

『おまえもそろそろ慣れてきただろう。一人で対処してもいい頃合だ。大体、こっちも捕まえるのに忙しいんだよ』

「え? 霊をですか?」

『いや、もつを』

「酔ってるんです? もしくは馬鹿にしているんです?」

 遠野が抱えている危機感がまるで伝わらず、一向にいつもの飄々とした態度が変わらない九里に苛立ち、遠野はつい声が大きくなった。

「……あっ」

 声を大きくしてしまった。

 しまった、迂闊だった――背後の霊を刺激してしまっていないかと、遠野はさっと振り返って後ろを確認する。

「――やば」

 本当に迂闊だったのは、その動作だった。

 なぜなら件の霊と、ばっちり目が合ってしまったからだ。

 霊は長い前髪の隙間から片方だけ覗いている目を細め、口角を微かに上げる。

 若い女性に微笑まれたというのに、遠野は恐怖しか感じなかった。

『ああ、ほんとやばいなこのもつ。口の中でとろけたぞ――』

 遠野は携帯端末を耳から離す。九里のグルメレポートを聞いているどころか、電話をしている場合ですらなくなった。

 霊が走り始めたからだ。もちろん、遠野に向かってだ。

「やばいやばいやばいやばい――っ」

 遠野は一目散に駆け出す。迫り来る霊から本気で逃げる。

 内情を知らない人からすれば、警察官が職務放棄しているようにしか見えない有様だろうが、傍目を気にしている余裕など今の遠野にはない。彼女が一般的な霊だったら問題ないが、もし悪霊だった場合、遠野一人ではまず手に負えない。彼女がどのような霊なのか不確かな状況で接触するのは、リスクが大きすぎる。だから遠野は危険を冒さない。消防士が何よりも自身の安全を第一としているのと同じことだ。

 よって遠野は全力で風を切る。夜の住宅街で鬼ごっこをするのは初めてなのでなかなか新鮮だった。しかし追ってくるのは鬼ではなくリアルな霊で、しかもごっこ遊びとは程遠い真剣勝負なので、童心に返っている暇など到底なかった。

 そうしていくつ曲がり角を曲がった時だったか。ずいぶん自宅から離れてしまったな……と遠野がふと思い至り、辺りを見回すと、霊の姿はなくなっていた。

 遠野は走るのをやめて立ち止まる。乱れた息を整えて耳を澄ましてみるも、どこからも足音は聞こえてこない。

「撒いた……かな」遠野は傍らの電柱に手をついて寄りかかる。

 本来保護すべき対象である霊を撒いてしまうなど、警察官としてあるまじき行為ではあったが、思わずほっとした遠野だった。

 その瞬間だった。

「――――お兄さん」

 背中で、すぐそこで、か細い、思ったより幼げな女の子の声がした。

 遠野は口から心臓が飛び出るかと思った。

「……待って、お兄さん――」

 その飛び出そうだった心臓を押さえ込むかのごとく、霊は遠野の胴体を抱き締めた。

 抱きつかれた。捕まえられた。完全に取り憑かれた――。

「わあ――――――っ!」

 夜が更けつつある閑静な住宅街に、いい大人の本気の叫び声が響き渡る。

 終わった、と遠野は思う。単なる通行人につきまとい、逃げれば追いかけ、それだけでは飽き足らず、あまつさえがっしりとしがみつくような霊が、悪霊でないわけがない。

 殉職という文字が遠野の頭に浮かぶ。二階級特進したら警部補か。だとすると補償金はいくらになるのか。しかしながら、孤独の身の遠野には遺すべき相手がいない。ならば少しくらい九里に奢ってやってもいいなと思う。その時は化けて出て、もつ鍋でも食べながら、延々と恨み言を聞かせてやる。

「ねえ……」

 遠野の背にくっついているせいか、くぐもった霊の声がした。そしてさらに強く抱き締められる。ついに万事休すかと思い、遠野はごくりと唾を飲み込む。

「…………助けて」

 ああ、本当に、助けてほしいものだ――「――え?」

 ……助けて?

 誰が誰を助けるという意味なのか、遠野はすぐにはぴんと来なかった。

「助けてよ、お兄さん……」

 しかし、遠野にしがみついている霊が身体を震わせていることに気付いたことで、遠野はようやく事の本当の様相を理解した。

 どうやら霊は、遠野を害する意思などなかったようだ。それどころか、彼女は遠野に救いを求めて頼ろうとしていたらしい。

 つまり事態は真逆の方向に動き始めたということだが、それでも遠野はやっぱり、「またか……」と思う。

 霊媒体質は、霊を引き寄せるだけでなく、霊を惹き付けるものでもある。

 なので霊から助けを請われることも、これまでにもしばしばあったことだった。

『おーい、遠野ー?』遠野が握り締めていた携帯端末から九里の呑気な声が聞こえて、遠野は一気に脱力する。『どうした、悲鳴なんかあげて。大丈夫かー? 生きてるかー?』

「生きている感じは全然しませんけどね……」

 遠野は何とかそれだけ答えた後、深く息を吸って吐いて、いまだにばくばくいっている心臓を労った。

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