幽霊生活安全課 外伝/著:灰音憲二

富士見L文庫

おばけ達の夜 ― その1

 誰かにつけられているような気がして、遠野助は後ろを振り返る。

 ごみごみとした住宅街は夜に沈み、ひっそりとしている。街路に等間隔で並んでいる外灯は光量が乏しく、瞬いているものもあって頼りない。しかし見通しは良いため、背後の状況は問題なく視認できた。

 人影はなかった。

 だが遠野は、間違いなく『いる』と思った。

 そう警察官の勘が告げていた。

 いや、警察官云々以前に、遠野の身体自体が警告を発していた。

 先程からぞくぞくと、背筋に寒気が走って仕方がない。

 この感覚には覚えがあった。いやになるくらい味わっていれば、骨の髄まで叩き込まれるというものだ。だから遠野にはわかる。

 背後にいるのが、巷で霊と呼ばれる存在であることを。

 冷気から逃れるように、遠野は前に向き直り、心持ち足を早める。

 ――コツ、コツ、コツ……。

「……」

 耳に自分のものでない足音が届くようになった。遠野は警察での勤務を終え、帰宅する途中だったが、自宅への道程を逸れ、曲がれる角をひたすら曲がる。

 ――コツ、コツ、コツ、コツ……。

「…………」

 しかし足音は離れない。それどころか近づいているようでさえある。

 遠野は銀縁眼鏡を押し上げながら、思わず顔をしかめる。何度も経験していることではあるが、だからといって慣れているというわけではない。異質の存在である霊に慣れろ、彼らと馴れ合え、なんて無理がある。たとえ霊に好かれる遠野であってもだ。

 そんな霊媒体質者の遠野が霊に追われている。

 つまり遠野は現在、霊につけられているというか、憑かれていた。

 遠野は深く息を吐く。諦めの溜息だ。こうまで引きつけてしまった以上、霊はただでは離れてくれないことを、遠野は数々の体験から知っていた。

 ただでは――こちらからアクションを起こさなければ。

 ただ幸い、何の力もないごく普通の一般人だった以前と違い、現在の遠野は霊に対して有効な手を打つことができる立場にいる。

 しかしその有効な手を使うには、今遠野の後ろにいる者が確かに霊であることを確認しなければならない。不確かな推測だけでは動かせるものも動かせない。

 だから遠野は、霊が霊であると確信するべく、背後の存在を目で見てみる。

 素直に振り向いて見る、のは愚策だ。目が合いでもして接触を試みられては堪らない。遠野が持つ有効な手とは、つまるところ応援を呼ぶということなのだが、それを待たずに単独で霊と向き合うメリットはないに等しい。

 よって鏡を使って確認する。今遠野が歩いている弧を描いた道の外縁には、カーブミラーがあった。曲がり道の内縁沿いを進みながら、視線のみを動かしてカーブミラーを覗く。

 闇ばかりがあった円鏡に、外灯に照らされた彼の者が映る。

「――」

 遠野は息を呑んだ。動揺が歩調に表れなかった自分を誉めてやりたい。

 彼の者は女性のようだった。薄手のコートや暗色のスカートから白く浮かび上がるように覗いている手足は折れそうなほどに細く、体つきも未成熟な女性を思わせたからだ。

 しかしそう感じさせたのは、何より髪が長かったことが大きい。

 具体的にいうと、腰に届きそうなほどに長い。その黒く重い髪が、彼女の顔をほとんど覆っている。窺えるのは、乱れた髪の隙間から覗いている口元ぐらいだ。

 ぞっとするような風貌だった。暗闇の中で突如この姿を目にした心中を察してほしい。

 そんなぼさぼさでほったらかしの髪型や野暮ったい服装といい、生気の感じられない歩き方といい、もはや疑う余地はない。実際のところ、遠野は一目でわかった。

 彼女は間違いなく霊だった。

 そうとわかればもう遠慮する必要はない。遠野は職場に連絡をすることにする。職場は北警察署だから、車で来ればここまで十分とかかるまい。応援は間もなくだ。

 なぜ霊が現れたら警察の出番なのか。

 霊は社会秩序を乱す存在なためだ。そういった者達を取り締まり、法を守るのは、番人たる警察の職務に入る。

 とりわけ遠野が所属する部署は、霊を専門的に扱っている。霊的事件でお困りの際はこちらにどうぞ、と世間的に案内が出されている。まさに霊でお困りの遠野もそれに従う。

 携帯端末をスーツの内ポケットから取り出す。依然背後でしている足音からは注意を背かないまま、遠野は今電話したら誰が取るだろうか、と考える。

 異動してきてまだ日が浅い遠野の教育係である九里航平だろうか。それとも労働意欲に欠ける諸先輩方のせいで、連日連夜あくせくと孤軍奮闘している卯月美衣弥か。

 思考するまでもなかった。あの隙あらば休憩という名のさぼりを行う九里が、電話なんかに出るわけがない。

 しかし九里はまだ署にはいることだろう。遠野が退勤する間際、確か九里は卯月に捕まり、居残りを命じられていたはずだ。「遅く出勤したくせに定時も何もないでしょう。所定労働時間くらい働いてから帰って下さい」などといって。

 卯月の言い分はもっともだったし、その彼女の生真面目さが結果的に遠野を救う形になった。普段の業務では、勉強のために遠野は九里と行動を共にしていた。なので応援に駆り出すとしたら九里だと思っていた。九里は退勤後は飲みに行くことがままあるから、所在が判明していて、おまけに近くにいてくれたことはありがたかった。

 ちなみに、一応部署にはもう一人いるにはいるのだが、こういう場合勘定に入れるだけ無駄であることは、まだまだ新人の身である遠野でもよく理解していた。

 となると、電話に応じるのは卯月だろう。そう思いつつ、遠野は発信する。

『はい、こちら北警察署、幽霊生活安全課――』

 聞こえた女性の丁寧な口調は聞き慣れたものだった。

「もしもし、僕です」予想通り相手は卯月だったので、彼女のマニュアルに沿った応対を途中で遮る。「遠野です」

『え? 遠野くん?』しかし、卯月のそのどこか期待がこもった反応は予想外だった。『よかった。ちょうど遠野くんに聞きたいことがあったの』

「聞きたいこと?」それが何なのか、遠野はぱっとは思い当たらない。「何です?」

『九里さんがどこにいるか知らない?』

「はい?」遠野はきょとんとしつつもうすら寒くなる。もしやあてが外れたのではないか、と。「あれ? でも、今日は先輩、まだ残っていましたよね? 卯月さんが引き止めたおかげで」

『そうなんだけど、私が来客の対応でちょっと席を外していた間に、いなくなっていたのよ』

 逃げたか、と遠野は推測する。心なしか、背中に感じる圧力が強くなった気がした。

「帰ったってことですか? 鞄もなくなっているんです?」

『あの人、鞄を置いてどこかへ行ったと思いきや、帰ってきたのは翌日だった、なんてことをしでかした前科があるのよね』

「……普通の推測はあてにならないというわけですか。では電話は? 出ませんか?」

『出るわけないのよそれが。電源切ってるから』

 逃げたな、と遠野は確信する。もはや言い逃れできる行動ではない。

『だから、九里さんのお目付役の遠野くんなら知っているかも、って思っていたところだったの』

「普通逆ですよね、それ」年齢的にも、キャリア的にも。「残念ながら、僕も知りませんよ。九里さんの行方なんて」

『先輩だからって庇う必要ないからね。もし隠しているのならさっさと白状しなさい。でないと、あまりおおっぴらにできない取り調べが待っているわよ。今私、ちょっと危ないラインまでストレスが溜まっているから』

「卯月さんの冗談って、全然冗談に聞こえないから困るんですよね……」

 今日はよく背筋が凍る日だった。

『冗談を言っていないのだから当たり前じゃない』

「それこそ冗談じゃないですよ。しませんよ、先輩を庇うなんて。第一、僕の方こそ先輩に用があって電話したんですから」

『ああ、そうだったの』卯月は一応表面上は信用してくれたみたいだった。『用って何? 伝言で済むのなら、私がしておいてもいいけど』

「いえ、残念ながらそれでは済みません。急を要するものでして」

『何? もしかして、出た?』

「察しがいいですね。ええ、霊が出ました。出くわしました」

『また?』

 卯月がやや呆れた声を出す。遠野が霊媒体質だということは、同僚故に卯月も知っていた。遠野が自覚なく次々と霊を見つけてくるために、どんどん仕事が増えていくのを、卯月は身をもって経験している。遠野はそれに対して一抹の申し訳なさがあるが、悪意があってのことではないので、そこは勘弁してほしいと思っていた。第一最も大変なのは、他の誰でもなく、自分なのだから。

「はい。ちなみに今、現在進行形で追われている最中です」

『遠野くんって、本当についているわよね』

「そうみたいですね。いろんな意味で」

 まだまだ若輩者ではあるが、遠野は自身の霊媒体質について、そんな諦観じみた態度を取ることができるほどには大人になっていた。

『助けにいきたいのはやまやまだけど』卯月が一転、心配げに言う。『ちょっと私、今手が離せなくて』

「いいです。気にしないで下さい。他当たりますから」

『他って、まさか室長のこと?』

 卯月がいう室長とは、遠野らが属する部署の長である、雪創一のことだ。例の、勘定に入れるだけ無駄な人のことである。

「まさか」よって遠野は即否定する。

『まさかね』卯月も同調する。室長に対する評価は、おそらく部下全員一致していることだろう。『じゃあどうするの?』

「先輩を探しますよ。どうせどこかの酒場にいるでしょうから、知っているところに片っ端から連絡してみます」

『そう。それじゃあ、もし九里さんを見つけたら、遠野くんの用件の後でいいから、ちゃんと署に戻るよう言っておいてくれる? あと、もし戻ってこなければ、これから毎朝迎えにいきますよ、とも伝えておいて』

「……わかりました」

 冗談を口にしない卯月がそう言うのだから、署に帰らないと本当に甲斐甲斐しい恋人みたいな真似されますよ、とでも九里に伝えておこうと遠野は思う。

 遠野は挨拶をして卯月との通話を切り、早速携帯端末に登録している北署近辺の酒場に電話を掛けてみる。

 遠野が電話をして人と話しているためか、背後からする足音から察するに、霊はいまだつかず離れずの距離を保っているようだった。このまま気付いていない振りをしていればそのうち消えてくれるだろう――というような甘い考えは、今まで散々煮え湯を飲まされてきた遠野にはない。

『九里さんかい? ああ、いるよ』

 という返答があったのは、遠野が三件目に掛けたもつ鍋屋だった。

「……代わってもらえます?」九里の居場所を判明させた喜びは、予想が当たってしまった残念さで掻き消えた。「遠野と伝えてもらえればわかりますので」

 あいよ、という店員の威勢の良い返事の後、ややあって、相変わらず余裕がたっぷり含まれた男の声がした。

『残念だったな遠野。今この店、満席みたいだぞ』

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