第7話 最後のバツ印
目を覚ますと、そこは見慣れない場所だった。
でも不安はない、むしろすごく落ち着く……。
嗅ぎ慣れた匂いっていうのかな……お母さんの胸の中みたいな、そんな感覚だった。
トントンっとまな板を叩く音が聞こえる。
夢でも見ているんだろうか……僕は思わず声が出る。
「母さん?」
台所にいるその人はふふっと笑う。
「輝くん寝ぼけすぎ!私だよ」
すりガラス越しの様な視界が、だんだんと定まって莉帆の姿が見えた。
僕は焦った。昨日、あのまま一泊してしまった……。
「今何時?」
「4時だよ!」
少しホッとする……始発で帰れば何とか出勤には間に合う。
「ごめんね……昨日私も寝ちゃって。」
「こっちこそごめん。凄い落ち着いちゃって……」
お互いに微笑む。
朝まで一緒にいたことで改めて「特別」を実感できた。
「朝ごはん出来たから食べてから帰りなよ」
「ありがと」
莉帆は焼きたてのトーストとポタージュスープ、目玉焼きとコーヒーを持ってきてくれた。
トーストも目玉焼きもいい色で焼けている。
晩御飯を食べてなかったせいか、自分だけが聞こえる音でお腹がなった。
コーヒーを少し飲んでからトーストを食べると、朝だぞって声が全身を駆け巡った。
朝ごはんを食べ終わると莉帆の家を後にする。
「じゃあ、また職場で!いってきます!」
「いってらっしゃい!!」
ドキッとした。今までは「行ってきます」の返答なんてなかったのに……莉帆の声が優しく包み込んでくれているような気がした。
家を出てから電車に乗って家に着くまで、僕の頭では「行ってらっしゃい」がリピートしていた。
部屋に入るとスーツに着替える。
また電車に乗って会社に向かった。いつも通りのことなのに、どの景色も色づいて見える。
ありふれた表現だけど、これがしっくりきた。
白黒で気にもしていなかった景色に、色がつくことでこんなにも素敵に見えるものなんだ。普段よりも車窓を見る回数が増える。そして彼女も景色が好きだったことを思い出した。
「あいつも好きだったっけなぁ……」
思ったことが声に出ていて、恥ずかしくなって我に帰る。
気づけばもう目的の駅についていた。
電車を降りて職場へ向かう、今日はいつも以上に人が多く感じた。普段はあまり気にしないから、少なく感じていたのだろうか……ここでまた、いつもとは違うってことを噛み締めた。
会社に着くと自分のデスクに向かう。
僕より早く来れたはずの莉帆の姿がなかった。
事故にでもあったんだろうか……僕は少し不安になった。
すると莉帆が社長室から赤塚さんと出てきた。
僕が不安そうに見ていると、視線に気づいたのだろうか、嬉しそうな表情を向けてきた。
ホッとした。クビにでもなったのかとハラハラしてしまった。ホッとすると疑問が生まる。なんで莉帆は社長に呼ばれてたんだろう……。
でもその疑問は赤塚さんから貰った仕事をこなしているうちに小さくなっていった。
莉帆は相変わらずなんだか嬉しそうな表情で仕事を続けている。
小さくなった疑問の答え合わせがされたのは、昼休みに入ってからだった。
莉帆が珍しくお昼を誘ってきた。
社食を食べながら莉帆がおもむろに話を始めた。
「実は、社長から大きい仕事を任されました!」
「ほんとに!?よかったじゃないか!」
社長の呼び出しが良い話で良かったと心から思った。
そして、なぜ大きい仕事を新人の莉帆が任されたのかすぐに分かった。
この前の騒ぎの件だ。あの規模の混乱を1人で収めたのだから赤塚さんからの評価はもちろんのこと、社長からの評価も良好だったに違いない。
そして、その後の莉帆の話で僕は、善意は回り回って自分に返ってくることを身をもって実感した。
「本題はここからなんです!社長からの仕事内容なんですけどね……地方を回ってそこで他企業に宣伝をする、広報の仕事を任されたんですよ!」
「そっか、旅行気分になりそうな仕事だな」
「そーだよ!旅行気分になれるぐらい各地を移動出来るの!それで、サポートで1人社内から連れて行きなさいって社長が言ってくれたんだよ!」
莉帆は今までにも増して目を輝かせた。
その目線は僕の目をじっと見つめている……。
「そーか、使えそうなのを連れて行けよ!」
さっきまで輝いていた嬉しそうな目が一変したかと思うと、睨まれた。
「にぶすぎ!!!バカ!アホあきら!」
「え?なんだよ急に……。」
「私が連れて行くのはもちろん輝くんだよ!!!」
「7月には会社辞めるんだけど……。」
前にも言ったよなって顔で莉帆を見ると、さっきより一段と睨みが強くなっている。
その顔を見て少し焦った。
「私の気持ちも考えてよ……せっかく職場も同じなのに離れたくないよ。広報の仕事で各地方に行けるんだから、彼女との思い出の場所も廻れるでしょ!」
「でも……。」
そう言いかけると、キッと睨まれて言葉が詰まる。
莉帆には僕が何を言おうとしたのかわかったんだろう。
でも、この旅に彼女を連れて行くのは酷すぎる。元カノとの思い出巡りになんて、行きたい女の子はこの世に存在しないだろう。
でも、莉帆はそれも全部ひっくるめて覚悟して、僕の為に決めてくれたんだろう。その覚悟ができるほど、僕と離れたくなかったのだと分かって嬉しくなる。
僕は「でも」を飲み込むと笑って一言だけ呟いた。
「ありがとう」
すると莉帆も笑って返してきた。
「どういたしまして」
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それからの日々は足早に過ぎていった。
変化のない毎日の連鎖に、少しの色づきを帯びた景色。
変わらないことに幸せを感じたのは初めてのことだった。
そう思えるようになったのも彼女おかげだと思う。
莉帆に真剣に向き合う為にも、まず彼女と真剣に向き合わないと行けないと強く感じながら、僕は6月のカレンダーに最後のバツ印を書いた。
いよいよだ……明日から進み出せる。
嬉しい表情とは反面、足はなぜか震えていた……。
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