5 芸術的な死を


 東京の地下を走る終電。車両には酒に酔った中年の男性、大学生ぐらいの女性、そして本を読む青年が乗っていた。

 もう終着点に近いころだ。

 

「これは古い話だ。昔、同じ乗り物に乗り合わせた男女がいた。男は眠りに陥りそうだった。そして、同乗したか弱い女性も同じく。しかし、彼女は突然、何かに操られたかのように、全く面識のないその男性の首にナイフを突き立てた」

 青年が本を眺めて声に出すと、突然女性が立ち上がった。その目には光が宿っていない。

 男性の目の前に立った彼女は、鞄から鋭い刃物を取り出す。

 そして、男の首にそれを突き立てた。

「女は苦しむ男に対し、執拗にそれを何回も突き刺す。血を浴び、肉を浴び、恍惚の表情を浮かべながら」

 彼女に刃物を突きつけられた男性は、酔いなど覚めたかのように目を見開く。苦しそうに呼吸をする男性に何度もその刃物を突き刺す女性。

 男性が動かなくなると同時に電車は駅に停まった。

「終着点だ。芸術作品の出来上がりを告げるのは、彼女の笑い声。そしてそれは、新たな物語の始まり」

 青年は駅のホームでそう言い残し、車内を赤に染める二人を置いて去っていく。


 年が開けて、一月の真冬の寒さが身にしみる中、私達治警一係は地下鉄の車両で死体を眺める。

「犯人は駅員に現場を取り押さえられたらしいな」

 係長の言葉に小梅が資料を読み上げる。

「はい、都内の美術系大学に通う女子学生だそうです。害者の男性とは面識は全くないという話ですが」

「見知らぬ相手に、ここまでするか」

 遺体の横に屈んで、私は言う。

 昨日の終電、終着点に着く直前で女子学生がいきなり男性の首に、持っていた刃物を突き立てた。

「こりゃ、ただの殺人事件では済まなさそうだ」

 アレンが私の向かい側で、遺体の周りを見渡しながら言う。

「車内の映像見せてもらえるそうです」

 蘇芳さんに駅員室まで来るように言われ、私達は駅員室の幾つかのモニターの映像を観る。

 それは終着点に着くしばらく前から始まった。

 女子学生と男性だけになったのは終着点の三つほど前の駅だ。

 二人ともただの乗客のように見える。

 終着点近くになった時だ。女子学生が立ち上がった。

 その瞬間、映像が途切れる。

 係長が訊くと、駅員が確認した時からだそうだ。

 そして、映像が戻ったかと思うと、もう女子学生が高らかに笑っており、そこを駅員に押さえられる所だった。

「別視点のカメラは」

 私が言うと、駅員は、首を振る。

「別のカメラは先程のカメラで観る事の出来ない手前の席が映るんですが、そのカメラは終着点に着く更に前から映らなくなっていました。さっき見せたのが唯一長くあの車両内を映していたものです」

 私は礼を言い、もう一度、現場になった車両に戻る。

 何か引っかかるのか、と私の横に経つアレンが問うたので、気になる事を話す。

 何故、この席を映すときだけカメラは正常に仕事をしなかったのか。

 私はカメラに映らなかった場所に座る。

 大事な時に停まったカメラと、その前から停止していたカメラを見る。

「ここに映りたくない何かがいた」

「まさか、そんな簡単にカメラを弄れるとは思えないが」

 私は係長の元に戻る。

 犯人である女子学生に話を聞きにいきたいと申し出るためだ。

「彼女なら、駅員に見つかってからパニックに陥ったらしい。セラピーを受けているだろうから、香澄に連絡を取った方がいいな」

 そう言われ、香澄に通信を入れてみる。相変わらずの疲れたような声が聞こえる。例の女子学生はどうなっているか訊くと、今は特に問題がないとのことだ。

 アレンを連れて、私は被疑者の元へと向かう。


 本庁に戻り、医療課にあるセラピー対象者用の部屋に向かう。

「何を訊くつもりなんだ」

 彼の言葉に、私は色々とだけ答えておく。

 部屋の前に着き、ドアをノックする。中から入っていいと許可が出たので、自動で開いた。

「香澄、被疑者の女性は」

 そこだよ、と振り向かずに指で私の背後を示す。

 後ろにはカーテンを閉めてあるベッドが置いてある。

 ゆっくりとそれを開けると、眠っている女子学生の姿があった。

 私達が向かっている間に、落ち着いたのだが、そのまま眠ってしまったのだという。

「タイミングが悪かったわね。まあ、いいわ。彼女について何か分かった事あるかしら」

 私の質問に香澄は溜め息をつく。

「さっきまでずっとパニック状態でな。ここに来るまでずっと、私はやっていない、の一点張りだ。何とか落ち着いたと思ったら、疲れが溜まっていたせいか、眠ってしまった」

 私はやっていない。その言葉を頭の中で反芻する。

 あの映像を観ると、彼女がやっているに違いないが。アレンが頭をかきながら、困ったように言う。

 すると、彼女の瞼がゆっくりと開かれた。

 起きたか、と声をかけながら、香澄がベッドまで歩いてくる。

「あの、私は」

 寝ぼけているのか、自分が運ばれたことを忘れているように、辺りを見回す。

 そんな彼女にコーヒーを手渡した。

「飲めますか。申し訳ないんですが、これしかないので。一応豆はちゃんと挽いてるので、味は大丈夫だと思いますが」

 普段なら見ない彼女の丁寧な対応に驚きの視線を送る私達の側で、女子学生はカップを受け取り、ゆっくりと口に近づける。

 少し飲むと、ホッとしたような表情を浮かべた。

 香澄が私達の事を紹介し、話を聞けることになった。

 私が、彼女が電車に乗る経緯を訊いた。

「昨日は大学から返る途中、友達とご飯を食べに行きました。それで、帰りが遅くなったので終電に乗りました。そこで、眠くなって、降りる駅まで居眠りしてたんです」

 そして、起きたと思った時には駅員に取り押さえられ、血の付いた凶器を手にしていたという。

 次の質問に移る。

「あなたは男性との接点は何もなかったんですよね」

「ありません。初めて見た方ですし、私も疲れていたので、誰が乗っていたかなんて見てませんでした」

 両膝を抱え込んで座る彼女を見て、ふと気付いたことを訊いてみた。

「すみません。付かぬ事をお伺いしますが、あなたの左手は――」

 私がそこまで言うと、彼女は何かを察したように左手の袖を捲る。

「“電子義手”です。子どもの頃に事故に遭って、その時に取り付けました」

 私は彼女のその義手を見せて欲しいと頼み、了承を得た。

 触れてみると、至って普通の義手だ。外装は強化プラスチックで出来ているため、硬度は高いが重さをさほど感じない仕組みになっている。人間の本物の腕に近い動きを行えるようにプログラムされているのだ。

 私は、彼女に礼を言い、腕を放す。

「私、どうなってしまうんでしょうか。このまま警察に――」

 その場を去る前に、私は不安な表情の彼女に言う。

「今すぐにとはいきませんが、真相は突き止めます。ただ、期待はあまりしないでくださいね」

 はい、と彼女の顔は、先程よりかは安心を見せた。


 オフィスに戻った私達は、その後の調査で分かった事を川内課長に話してもらう。

「凶器は“パレットナイフ”だ。油絵に使うやつ。こんなもんで殺人なんて、まあ俺は今まで聞いた事ないな」

 ホログラムで作られたスクリーンに血の着いたパレットナイフが映し出される。「例の監視カメラについては」

 係長の質問に課長は困った表情をする。「あれなんだが、どこも異常が見当たらなかった。現に今は正常に作動してる。あの一部分だけ映らなかった理由はまだ分かっちゃいない」

 女子学生が立ち上がった瞬間に映らなくなったカメラの映像。私はその事も含め、今回の事件で重要な点を頭の中で整理する。

 課長の報告が終わった後、係長から各自に仕事が言い渡される。

「秋月と小梅は例のカメラについて調べてくれ。蘇芳と柳さんは現場付近の調査を。私と弓月は被害者についてもう少し詳しく調べる」

 それと、係長は付け足すように言う。

「今回の事件のことではないんだが、この場で話しておく。この前の連続殺人事件の犯人である諏訪と、この前の事件の犯人、乾の口からも“DD”という人物の名前が出てきた」

 一係全員に緊張が走る。

 諏訪の連続殺人事件の計画に協力、乾に殺人を促したのは、その人物だと言う。

 ここ最近の事件に出てくる名前。男とされている奴は何者なのか。姿を見せることなく、私達を弄ぶかのような奴を一刻も早く捕まえなくては。

 そのことを念頭に捜査を開始する。 

 私は駅からもらってきていた、例のカメラのデータを自分のPCに入れた。

 まずは、可能な限り、復旧作業を行う。どんな些細なことでもいい。手がかりが見つかれば。

 データ復旧ソフトを起動し、その映像の復旧を試みる。

 だが、エラーの連続で復旧の気配がない。そこで、このカメラの機能に気付く。

「もしかすると、音声が録れてるかも」

 車内カメラにしては、結構いいものを使っているじゃないかと思った。

 ほとんどの公共機関には、カメラが取り付けられる義務が為された。何かトラブルが起きた場合、それを記録しておき、事件解決に用いるためだ。

 通常は撮影だけで、音声まで録れるものは中々ない。

 私は音声プログラムの復旧を始める。

 女子学生が立ち上がった瞬間から映像が途切れた方のカメラが録ったと思われる音声を復旧させるため、キーボードを叩く。しばらく試してみた結果、雑音(ノイズ)混じりだが復旧は出来た。

 私と小梅はパソコンに耳を近づける。

『これ――古い――。昔、ある――に乗り合わ――いた。男は――』

 聞こえてくるのはノイズ混じりで途切れ途切れだが、男のものだ。

『女は――対し、――それを何回も――。血を――、肉を――、恍惚の――』

 断片的にしか聞こえてこない声で、何を言っているのか全く分からない。しかし、小梅がそこまで聴いた所で、あることに気付いたようで、監視カメラの映像を流しながら、その音声を再び流す。

「これ、多分この二人のことですよ」

 そう言って示したのは、殺された男性と女子学生だった。

 私はもう一度音声を再生する。

 集中して聴くと、確かに合っている。この声が言う、“男”と“女”は被疑者と害者のことだろう。

 分かったことは、やはりカメラに映らない場所にも人がいたということだ。

 だが、何故映らなかったのか。何か仕掛けがあるに違いないが、それが分からない。

 そこで、小梅の端末に通信が入った。

「別に出て構わないわよ」

 私の言葉に彼女は頭を下げて、一係のオフィスから出て行った。

「エリちゃんどうかしたの」

 近くにいた蘇芳さんに声をかけられたので、通信が来ていたことを話すと、最近よく誰かと通話していることを教えてもらった。

 彼女は、小梅に交際相手が出来たのでは等と話していた。

 いくら後輩とはいえ、通話の相手まで探る必要はないだろうと思い、片隅に置いておく程度にそれを覚えておく。

「すみません、遅くなりました」

 一〇分程で戻ってきた彼女と音声の解析を始める。

 テミスシステムにこの声と近い人物をリストアップさせた。結構な人数がヒットしたが、これで分かったことは、この声の主が男だということ。

 再度リストの作成を依頼した。今度は予想できる年齢を割り出し、その年齢に近い人物を出させた。

「大分数が絞れたわね。十人ぐらいならすぐに回れそう」

 そのリストに載っている人物に電話をかけてみる。

 二人程、今すぐにでも会えるというアポを取ったので、係長に捜査の進捗を報告し、聞き込みに行くことを伝える。

「この中に事件の真相を知っている人物がいるかもしれないんですよね」

「そうね。あの声だけじゃ頼りないけど、貴重な証拠だから」

 そんなやりとりの中、私は道中の車内で、小梅に質問してみた。先程の通話についてだ。

 すると、恥ずかしそうに、最近仲の良い男性が出来たと言う。

 同じ絵画教室に通っている青年だそうだ。彼女が芸術方面に興味を示しているのも驚きだった。

「彼の絵を見た時、なんと言っていいのか、すごく引き込まれる気がしたんです」

 そう語る彼女は楽しそうであった。

 私達のように普段から過激なものを見る職業に就く人間は何よりも趣味を大事にしたほうがいい。そして、それを共有できる人間も必要になる。

「余程、素敵な絵を描くのね。その彼」

 私も見てみたいと言うと、その内彼に話してみるそうだ。


 あのカメラに録音されていた声の主を探しに行ったが、今日会った人物は二人ともハズレであった。

 両名とも昨日は電車に乗っていないということで、裏もちゃんと取れている。まだ八人は残っている。この中に真相を知る者がいることを願うしかない。

 御堂係長達も被害者について調べに行き、戻ってきたところだ。

 だが、思うように進展はない。私達は気を取り直し、続きは明日からにした。

 帰る仕度をしていると、時計を見た小梅が急いでオフィスを出て行った。

「何かあったのか」

 アレンが椅子に座ったまま移動してきた。

 さあね、とだけ返して私もオフィスを出た。彼女に仲の良い男がいることは言わずに。



 いつも待ち合わせ場所は変わる。

 今回は美術館だった。

 場所は二一区。警視庁から車でおよそ一時間程の場所だ。

 入館料は端末を翳す事で、電子マネーによって支払われる。

 静かな雰囲気の中、私はなるべく音を立てないように、しかし急ぎ足で、彼の姿を探す。

 すると、一枚の壁に飾られた絵を見つめる人影があった。

 少し乱れた呼吸を整え、鞄から取り出したコンパクトの鏡で髪とスーツの襟を正して、歩み寄る。

「遅くなってごめんなさい」

 私が小さく声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いて微笑んだ。

「エリさん。お仕事中にすみませんでした。どうしても会いたくなって」

 宮島アスカ。私と同じ絵画教室に通う美術大学に通う青年。銀色に染められた、男性にしては少し長いと思われる髪が揺れる。

「いいのよ。今日の仕事はとりあえず終わったから。それで、何を見ていたの」

 私は彼の見ていた絵を横に立って見る。

「イタリアの画家が描いた物です。特殊な技法で書かれていて、まだそれを実践している人は数えられる程度なんです」

 一見すると普通の絵で描かれている。それは、広大な草原に赤い服を着た人物が描かれた幻想的な絵だ。

 しかし、彼が言うに赤い色は動物の血を用いているらしい。

「何だか気味が悪いね――」

 私の感想に彼は、他の絵を見ようと提案した。

「なぜ、急に美術館に」

 私が質問すると、彼はいつもの微笑み浮かべて、勉強の一環ですと答えた。

「一人ではつまらないので、エリさんも一緒にと思いまして」

「なんだ、そうだったの。私はてっきり――」

 そこまで言って、言うのを止めた。

 彼が先を求めたが、私は何でもないと誤魔化した。

 絵画を見ている時の彼はとても楽しそうだ。私も彼と一緒に見ている内に楽しくなってくる。

 色々な人物の、様々な作品。

 それは別世界のようだった。

 一通り館内を回った私達は、美術館を出て、すぐ近くのレストランに入った。

「楽しかったです。付き合って頂いてありがとうございました」

 彼が例を述べるが、私としても色々と勉強にはなったので良い時間だった。

 料理が運ばれてくるまで、本の話をした。彼は本もよく読んでいる。

 様々な分野に手を出し、インスピレーションを求めている。

「私もその本、読んでみようかな」

 彼は今度その本を貸してくれると言う。

 職場にもよく本を読む先輩がいると話した。そして、彼の絵を見てみたいと言っていたことも。

「本の話は楽しそうですが、僕の絵を見せるなんて恥ずかしいですね」

 照れくさそうに笑う彼の顔も魅力的なものだった。

 店から出た私は車で彼を送る。車内で話すのは、絵のことだ。

「今度はどんな絵を描くの」

「まだ決めていなくて。よければ、同じテーマで描きませんか」

 私が彼と同じテーマなど描けるのだろうか。

 一五区にある住宅街で彼を下ろした。家まで送らなくていいかと言うと、遠慮された。

「じゃあ、今週末は絵画教室で会いましょう。アスカ君」

 私は家に帰るべく車を走らせた。


 彼女は僕に惚れているだろう。

 この宮島アスカという偽の名前を使う男に。

 僕は自分の芸術作品を作るために手段を惜しまない。

 髪を風に揺らしながら、今回の作品の為に歩く。

 時間は二二時。作品作りにもってこいな場所まで歩く。

 しばらくすると、喧騒が聞こえてくる。飲食店の並ぶこの場所は仕事帰りの人間が多い。

 端末から音が鳴る。すぐ側のバーに条件を満たした人物がいるようだ。そこに入ると、客は僕以外に女性一人しかいない。ちょうどいい。ここは喧騒が聞こえてくる割に人の入りは少ないようだ。

 まずはコートのポケットに入っているリモコンで店の隅にある監視カメラの機能を停止させる特殊妨害電波を流す。

「お客さん、ウチの店は初めてだね」

 マスターと思しき人物がグラスを拭きながら話しかけてきた。

「分かりますか」

「ええ、人通りは多いのにあまりお客が来ませんからね」

「いい店だと思いますよ。雰囲気が好きです」

 礼を言ったマスターは注文を訊いてきた。

 僕は“ブラッディ・マリー”を頼む。

 ウォッカをベースとしたトマトジュースを用いたその酒は、まさしく血の色に見える。

 一六世紀のイングランド女王、メアリー一世の異名に由来している。彼女が即位した後に三〇〇人のプロテスタントを処刑した事から、『血まみれのメアリー』と恐れられていた。

「これを頼まれたのも店を開いて二回目ぐらいだ」

「少ない物なんですね。まあ、もう頼まれる事もないでしょう」

 マスターが不思議に思い、その訳を訊いてきたが、僕は時期に分かると言った。

 五分後、僕はコートの懐から小さな本を取り出した。

「今日も私は芸術を生み出す。新たな作品作りの幕開けだ」

 僕の唐突な朗読をマスターは目を瞑って聴いていた。

「ここには女が一人と男が一人。準備は整った。さあ、始めよう。まずは刃物を手に取る」

 すると、二つ席を開けて座っていた女性が立ち上がる。

 そして、カウンターへと入って行く。

「ちょっと、お客さん、ここへの立ち入りは禁止しています」

 マスターが席に戻そうと近寄った瞬間、女性はマスターの腹に何かを当てた。

 密着した状態から離れたマスターの腹部には先程まで、置いてあった包丁が刺さっていた。

「女は何度も男を刺す。彼女はその血を元に酒を作る。そのためにはもっと必要だ」

 女性は呆然と立ち尽くすマスターを押し倒し、抜いた包丁を何度も突き刺し、グラスを片手に取る。

 それを傷口に押し当て、血を入れる。次にウォッカを注いだ。

「これこそ、真のブラッディ・マリーだ」

 僕は目の前に置かれたマスターの血で作られたその酒を見つめながら呟く。

 そのまま店内を出て、再び歩き出す。今度こそ自分の家に帰るべく。



 地下鉄での事件から二日後、私達は第二の現場に来ていた。

 一六区のバーのマスターが女性客に殺された。刺殺だ。何度も刺された後があり、カウンターにはその血を使って作られた酒が置かれていた。

 発見が遅れたのは殺害された後、その日に客が来なかったこと。容疑者の女性がマスターの死体を見て気絶していたことに、翌日は定休日としている日だっので、二日という期間が開いたのだ。

「ふざけやがって」

 アレンが苛立ったように床を強く踏みつける。

 私は彼をなだめて、現場を観察する。

「またしても不可解な事件だ。それにしても、何で容疑者の女性は自分が殺した者の遺体を見て驚いたのかだ」

 係長の言葉に小梅が端末から捜査資料を開ける。

「さっき、香澄さんから来た情報では、女性はこの店で飲んでいることは覚えていたそうです。睡魔に襲われ、いつの間にか眠っていたと。そして、気付いた時には自分の目の前に害者の遺体があったそうです」

「つまり記憶が抜けていると」

 私が言うと小梅は頷く。

 そこで、アレンが店の隅にカメラがあるのを見つけた。店内で唯一の監視カメラだ。

 バーの奥に録画されているレコーダーがあったので、データを映しておいた。

 川内課長達、鑑識に任せて本庁に戻った私達はさっそく、カメラの映像を再生する。

 店内がマスターと女性だけになる状態まで映像を早送りした。そして、目的の部分になって少しした所で、映像が途切れた。次に映った時には、マスターがカウンターで女性に刺されている映像が映し出された。

 私は頭に手を当て、溜め息を吐く。確信した。この前の事件と同様で何者かが裏で糸を引いていると。

 

 この前の事件と今回の事件の整理をした。

「前回の事件は地下鉄の終電で起こりました。害者は中年男性、犯人はその場で抑えられた女子学生です」

 小梅がまとめた資料をスクリーンに映しながら読み上げる。

「そして、今回の事件は一六区のバーの店主が常連客である、近くの会社に勤める女性に包丁で何回も刺されたというものです」

 そこまで読み終えると、スクリーンの画面が消えた。

「女性の方はさっき、香澄先生が話を訊いたそうなのですが、やはり覚えていないと」

「自分で殺したのに、覚えてなくて、気付いたら目の前に死体があって気絶しましたって、ショック症状的なもので一時的な記憶喪失ってこともあるかもね」

 蘇芳さんの言葉に係長は頷く。

「いずれにせよ、この事件、何か裏がある。一刻も早く解決せねば」

 私はもう一度あの映像を再生する。何度か見た所で停止した。

 なるほどと呟いた私に、隣で見ていた小梅が質問してきた。この映像で疑問に思ったことを述べる。

「マスターが扉の方を見ている。映像が途切れる寸前だが、誰かが入ってきたのかもしれない」

 この監視カメラは扉の真上から店内全体を映しているため、扉が開いたのか分かり辛い。そして、誰が入ってきたのかもすぐに分からない。

 だが、マスターがこのカメラの方を見ていることが、誰かが入ってきたことを物語っている。

「誰なんだ。一体誰が入ってきた」

 私が音声の復旧を試みる。

 しかし、今回の監視カメラは音声まで録る事ができないものだった。

「とりあえず、マスターを殺した女性に話を訊く」

 私と小梅は香澄のいる、セラピー専用室に連絡を取り、今から向うと言った。


 私達が着くと、ベッドの上で女性が香澄の出したコーヒーを飲んでいるところだった。

「初めまして、治安維持課一係の秋月です」

 小梅も続いて名乗ったところで、私は話に入った。

「今回はあなたに事件のことを訊きたいと思いまして」

「セラピストの方にも言ったのですが、覚えてなくて――」

「覚えている部分を話して頂ければ良いです」

 女性は、仕事終わりにあの店に寄った。

 しかし、疲れていたせいか少し飲んだ所で寝てしまい、起きたと思った時には目の前にマスターの死体があり、自分の手に血の付いた包丁が握られていた。

「眠ってしまったのはいつ頃ですか」

「それも詳しくは覚えていないのですが、店に来て三〇分ぐらいだったような――多分、二三時近くだと思います」

 そこで、カメラの映像が途切れた時間を思い出す。

二十三時、女性が机に突っ伏していた姿が映っていた。

「寝そうになっている時、誰か入ってきませんでしたか」

 女性は顎に手を当てて考える。そこで、何かを思い出したように話す。

「確か、扉が開く音が聞こえました。私もそこで寝てしまったので、誰が入ってきたのかは分かりませんでしたが――」

 やはり、誰か来ていた。それだけでも充分な情報だ。

 私が立ち上がろうとすると、女性が足を摩っていた。

「どうかされたんですか」

 私の質問に女性は自分の足を見せた。

 それは、一見普通の足のようだが、精巧に出来た義足だった。

「たまに少しだけ痛むので、こうやって摩ってると落ち着くんです」

 態々言わせてしまったことを謝罪し、前の事件の犯人とされた、女子学生を思い出す。

「その義足、見せていただけませんか」

 私の言葉に戸惑いながらも、女性は義足の右足をベッドから下ろした。

 その義足はあの女子学生の義手と同じ会社、仕組みのものだった。

 彼女に例を述べて、私は一係の部屋に戻る。

「電子義手と義足について調べるわ」

「どうしたんですか、急に」

「今回の事件を解く鍵かもしれない」

 早速、電子義手を作っている会社を調べ、電話をかける。

 すると、その会社からある人物の名前を紹介された。

 東央大学理工学部の教授が、義手に使う電子回路の開発者だと。

 早速教授に連絡を取ってみた所、今日会えると言ってくれた。


 東央大学、日本で一番の学力を誇る国立大学だ。その歴史は長く、あのMOGシステムの開発者もこの大学出身である。

 その古く、何度も改修工事を為されたであろう研究棟に私達は来ていた。

「ここが、教授の研究室か」

 扉をノックすると、どうぞという声が聞こえ、鍵が解錠された音がする。

「失礼します」

 私達が中にはいると、そこには様々な論文と思しき紙の束が、机に散乱しており、とてもじゃないが綺麗と言えない光景が飛び込んできた。

「警視庁治安維持課一係の秋月リゼです」

「同じく一係の小梅エリと申します」

 挨拶を終えると、奥にある椅子に座る老人が立ち上がる。

「東央大学理工学部教授、西城(さいじょう)ハジメです。どうぞ、おかけになってください」

 私達は、近くに置いてある椅子に腰掛けた。

「こんな汚い場所で申し訳ない。私にはこの方が慣れているもので」

「いえ、構いません。それよりも急かすようで申し訳ないのですが、お話を聞かせてください」

「そうでしたな。しかし、私に話とはどういったものですか」

 私は今回の事件ついて話した。

 彼は、自分の開発した技術が事件に関連しているのではということで真剣に話を聞いていた。

「なるほど、電子義手の使用者が事件を起こしたと。それで、私を疑われているのですか」

「いえ、違います。電子義手の特性についてお聞きしたいんです」

 昔に観たドラマの真似事だと笑っている彼に、電子義手の影響で監視カメラに何らかのトラブルが起きるか訊いてみた。

 彼は、笑うのを止め、質問に答える。

「それはあり得ません。電子義手からは確かに微弱ながら電波が出ていますが、それが監視カメラなどの機器に影響を与える事はないです」

 次に電子義手の仕組みについて質問した。

「電子義手は本物の腕、足のような動きができると言われていますが」

「脳に直結している回路があります。人間の本来の手と同じ動きが出来るように、脳から送られてくる信号を受け取って動かしているのです」

 私はその言葉に驚いた。

「つまり、脳と直結していると」

「完全にではありませんが、そういうことになりますね」

 二つの事件、犯人とされている女性二人は電子義手・義足の装着者だった。

 つまり、脳の手足を動かすための信号を受け取るために一部の神経繋がっている機械を身に着けているようなもの。

「その電子義手や義足は、電波を逆に感知することはあるのでしょうか」

「基本的には電波などを感知する事はありません。影響もそうないかと。ただ、ウイルスなどを流されれば別ですが」

 教授に協力してくれたことの例を述べて、本庁に戻るべく車を走らせる。

「先輩、何か分かったんですか」

「仮説の段階だから、正しいか分からないけど、この事件の鍵にはなったわ」


 本庁に戻った私は一係メンバーを集め、西城教授から聞いてきた話を元に立てた仮説を話す。

「今回の事件、犯人とされる女性二名はどちらも、この電子義手・義足の装着者でした」

 それぞれの仕組みを説明し、本題に入る。

「西城教授の話によるところ、この電子義手・義足自体からも微弱な電波を出しているが、外部からの電波による影響はないということだそうです」

 ここからが私の仮説だ。

「ですが、全ての電波が影響を与えないものとは限らない。私は現場に居合わせた第三者がこの電子義手の回路にウイルスを流した。それは脳にまで影響を与え、体を自在に操ることが出来るのではと」

 そう、犯人は別にいる。その人物が女性達の義手・義足に何らかの方法でウイルスを流し、脳を操る事で、殺人事件を起こさせたのではないか。

「そんなことが可能なのか。まさか、初対面の男か女にウイルスを流されるような距離まで近寄られないだろう」

 アレンの言葉も最もだ。

「その方法がまだ分かってない。これはあくまで仮説なのよ。もしかすると、接近を許せる身内の犯行かもしれない」

「秋月の仮説、事件の進展としては充分だな。とりあえず、被疑者の親しい人物をあたってみよう。それと、彼女達の義手と義足を調べてくれ」

 係長から言い渡された仕事のために、私と小梅は被疑者の元に早速赴いた。

 留置場にいる一人目の被疑者を川内課長の元に連れて行く。

「電子義手か。これにウイルスを流して犯行なんてこと考えつく奴は、結構頭がいいかもしれんな」

 関心したように呟きながら、素早くキーボードを叩き、電子義手の回路を調べるための装置を起動させる。

 目の前にはベッドに寝かされた彼女が不安そうな顔で、天井を見上げている。

「よし、準備完了だ。スキャンだけだから、痛みを感じる事とかはないし安心してくれ」

 課長が彼女の不安を和らげるように言った。

 ベッドの側にある機械が彼女の義手に赤外線を当てる。

 数分間、念入りにスキャンされて出た結果は、義手の回路に微かな異常が見られたことだ。

「これだ。恐らく何かのウイルスか電波の影響を受けたに違いない。回路に見たこともないプログラムが仕込まれていた」

「どういったものですか」

「遠隔操作系だ。しかもこれは、複雑なだ。じっくり解析する必要がある」

 私の読みはあたっていたと確信した。二人に礼を述べ、オフィスに戻る。

「犯人は何らかの形で、彼女達を犯人に仕立て上げたんだわ。自らの手を汚さずにね」

「川内課長が言っていた遠隔操作のウイルスがそれを表しているってことですね」

 問題はそれをどのようにして流したかだ。

 私は考えるのに疲れた脳を休めるため、明日の予定を確認する。

「そういえば、小梅は明日非番だったわね」

 私の問いに、彼女が返事をする。

 となると、一人で捜査を進めることになりそうだ。

「私も明日調べておきましょうか」

「休める時にはしっかり休んでおかないとダメよ。ただでさえ、神経をすり減らすような仕事だからね。明日はしっかり休むこと」

 私の言葉に小梅は嬉しそうに頷く。



 薄暗いこの空間で僕は側にあるランプの光だけを頼りに本を読んでいた。

 『言霊を持つ者』。名前の通り、主人公は言葉による呪力という『言霊』を持ち、自分の力を見せつけるかのように言葉で人を殺す。実に芸術的だと思う。

 口にするだけで、相手が死ぬなど、夢のような話しだ。

 僕が胸を踊らせてその本を読んでいると、人の気配がした。

「また、その本を読んでいるのね」

 声の主は女性だ。もう何度と聞いた声。暗くて顔は見えなくとも分かる。

「僕の今回の作品に必要なものなんだ」

「知っているわよ。あなたの作品、三つ目が楽しみね」

 声だけで彼女が楽しそうにしているのが分かる。

 僕はふと、腕時計を見る。いつもの時間になっていた。

「そろそろ行かなくちゃ。また帰ってきたらゆっくりと」

 立ち上がって、壁にかけてあるコートを手に取る。暗くても場所は覚えているので分かるのだ。

「例の絵画教室ね。また素晴らしい作品を期待してる」

 部屋の扉に向って歩く際に彼女に礼だけ言った。

「ありがとう。また貴女を楽しませてみせるよ、”DD”」


 日曜の今日、私は毎週のようにこの絵画教室に通っている。

 昔から父の影響で絵を見るのも、描くのも好きだった。

 だから、今目の前には真っ白なキャンバスが置かれている。

「今日は何を描かれるんですか」

 私がそれをみつめていると、背後から声がかかる。

「アスカ君。今来たところ」

 私の問いに微笑んで彼が頷く。

 私はもう一度キャンバスを見る。

「まだ何を描くか決めてないの。テーマは自由なんだけど」

 すると、彼は顎に手を当て何やら考えている様子だった。

 そして、思い付いたようにいつもの柔和な笑みを浮かべて言った。

「エリさんが思う自由というものを表現してみてはいかがでしょうか」

 その言葉に私は不思議と納得した。

「私の思う自由――ありがとう。頑張って描いてみる」

 鉛筆を取って、下書きを始めた私は先程までとは違い、作業が捗っていた。

 昼過ぎに講座が終わるので、続きは次になる。

「ねえ、アスカ君。よければ、この後どこかでお昼どうかしら」

「構いませんよ。どこがいいかな」

 私は、彼と一緒に近くの店に入った。

 そこで彼が先程の絵について話した。「そういえば、前に同じテーマで描こうって言ってましたね」

 確かにこの前会った時に言っていたことを覚えている。しかし、私が自分の好きに描いてしまっているので、彼と同じとは行かないだろう。

「なら僕も自分の好きな絵を描きましょう。そうすれば、エリさんと同じテーマで描いたことになりますし」

 そういうことなら、好きに描いても問題ないだろう。

 絵についての会話を終えてしまったので、私は何気なく彼のことを訊いてみた。

「アスカ君って大学生だったよね。もう就職先は決まったの」

「いえ、就職活動中です。恥ずかしいことに中々決まらなくて」

 自分もまさか二年前まではこの仕事に就くとは思っていなかった。

 アドバイスのつもりではないが、実際自分がどのような仕事をしているかなど分からないものであると話すと、なぜ治警に入ったのかと言われた。

 その質問に私は改めて自分が治警に勤めようと思ったのか考えた。

「私、就職のための模試を受けたら、治警を勧められたんだ。調べてみたら、治警って一般刑事課程ではないけど、難解な事件を幾つも解決してたの。だから、私も犯罪を少しでも減らせるようにしたいって」

 普通過ぎて彼には退屈な話だったかもしれない。

 しかし、彼は素敵な理由だと言ってくれた。

「エリさんに合っている職業だと思います」

「そうだといいんだけど。なんで私がこの仕事向いてるのか未だに分からないんだよね」

 今でも事件の現場で遺体を見ると緊張はするし、先輩達の後についていってるに過ぎない。

「まだ治警になって二年目じゃなかったですか。なら、エリさんの才能が開花するのには早すぎるということですよ」

 才能と私は小さく声に出す。

「人には誰しも隠された才能があります。ですから、その模試の結果を鵜呑みにする訳ではないですが、エリさんには治警としての才能がちゃんと備わっているはずです。まだそれが発揮されていないだけで」

 自分よりも年下の彼の方がよほど大人に見える。

「アスカ君はなんだか、年下に見えないね。私よりも人生経験豊富そう」

 何だか複雑です、と彼は笑った。

 私はその後、彼と別れてから帰路についた。

 才能。私にその才能が備わっているとすれば、いつ開花するのだろうか。

 そんな事を考えながら、明日の仕事のために資料を少しだけでもまとめておこうとパソコンの電源を点ける。


 彼女と別れた後、僕は笑いが止まらなかった。

 犯罪を減らすなど無駄な話だ。何ともおもしろい彼女。

 今日も作品を作りに行こう。僕が喜ばせたいのは、小梅エリではない。もっと、崇高なあの人を楽しませるために僕は作品を作るのだ。

 彼女から、少しだけ事件の話を聞き出した。

「私が言ったこと誰にも言わないでよ。今追ってる事件の解決には半分ぐらいは近づいてると思う。先輩が凄い人で、犯人はその女性達じゃないってことはほぼ明確にしちゃったの」

 彼女から聞かされた通りであれば、僕の予想よりも早く追いつかれてしまいそうだ。

 仮に捕まったとして、その間に出来るだけ多くの作品を作らなくては。

 今回は住宅街を歩く。

 どこかに気配がないか探る。

 すると、いつもの感覚がしてくる。

 電子義手を装着している者がいるはずだ。その気配は至って普通の民家からしてくる。僕はコートの懐から眼鏡を取り出す。もちろん伊達だ。レンズを通して中の様子を伺えるようにプログラムをフレームにインプットさせてある。それをかけて民家の壁から中を覗く。

 二人の男女がいる。見た所、姉と弟のようだ。

 電子義手を使っているのは弟らしい。再度。コートの懐を探る。銀色の蝶の形をした集音装置。ひとりでに飛び出したそれは、民家の壁に張り付いた。

 これは僕が自分でプログラムを組み込んで開発したものだ。

 ただ、素材は彼女が用意してくれた。

 Bluetoothヘッドセットを耳にはめ、蝶が拾う音を聞いた。

『よく頑張ったわね。内定も決まって私も安心だわ』

『ありがとう。姉さんも結婚が決まって良かったよ。僕のせいで今まで迷惑かけて』

 なるほど、幸せの始まりか。僕は心の中でそう思い、自然と口元が歪む。

 さあ、始めようか。そう頭の中で呟き、音を立てないように颯爽と柵を飛び越え、庭に侵入する。壁にもたれ掛かり口を開く。

「仲の良い男女がいた。二人は家族だ。姉は苦心して、弟を立派に育て上げた。しかし、彼の心は姉を慕うあまり、やがて彼女を自分だけのものにしたいというものに変わる。そう独占欲に」

 僕が話すに連れて、弟に変化が訪れる。

『どうしたの』

 姉の疑問と不安が混じったような声で放たれる問いに弟は椅子から立ち上がる。

『姉さん――僕は』

 弟が姉の首を両手で掴む。

 姉の苦しみにもがく声と弟の悲しそうな声が絶妙なハーモニーとして僕の中で流れる。

 その声も止んでしまった。

 これで今日の作品作りは終わりだ。そうして帰ろうとした僕は背後の気配に振り返った。

 突如、何かが飛びかかってきた。

 真っ黒な猫だ。

 ただ飛びかかられただけなら無視して帰ればいいのだが、耳にはめていたヘッドセットがなくなっていた。

 急いで辺りを探そうとした時だ。車の音がする。柵から少し顔を覗かせて見ると、巡回中のパトカーであった。

 このままヘッドセットを放置して行くわけにはいかない。暗闇の中、必死でそれを探す。


 パトカーに乗っている警官の一人があくびをする。

「おい、パトロール中だぞ、集中しとけよ」

「眠いもんは仕方ないだろ」

 注意した警察官もその言葉には無理もないと思う。ここ最近、犯罪の件数は増えている。自分達の対処するものなど、細かな事件だが、だからこそ毎日多くの事件に遭遇している。

 もう少し犯罪が減らないものかと思いながら、何か異常がないかチェックする。

 すると、何やら民家の庭の木々が揺れている。何か不自然な動きのそれを確認するため、パトカーを停めてその民家に庭を調べることを伝えようとインターホンを押す。しかし、反応がない。

 警官の一人は許可をもらうまえに庭へとゆっくりと歩みを進める。

 一人は再びインターホンを押す。

「すみません。警察の者です。お宅の庭で何か不審な動きがあったので調べさせてもらいたいのですが」

 扉越しに少し大きな声で告げる。相変わらず反応がない。

 何やら嫌な予感がする。

 扉に手をかけると鍵は開いていた。

 中に入る事を伝え、ゆっくりとリビングに出ると思われる扉を開けた。

 そこに飛び込んできたのは、倒れた女性とその側で泣いている青年の姿だった。

「警察のものです。何があったんですか」 

 青年に声をかけても、泣いてばかりで返事がない。

 すると、窓の外にもう一人の警官の姿が見えた。そちらも察したらしく、急いで窓を開けて入ってくると本庁に連絡を入れた。



 危なかった。猫という予想外のアクシデントに焦っていた。

 しかし、現場に証拠を残すような真似だけはしないという冷静さだけは発揮できた。

 ヘッドセットは警官に見つかる前になんとか回収できた。

 走ったせいで少し息が荒い。

 今日の作品作りは美しい終わりを見せられなかったが、僕はそのまま彼女の待つ隔離区画へと急いで帰る。



 私達は新たな事件の現場に来ていた。

「これで三件目か。しかも、住宅街でとはな」

 疲れた声でアレンが現場を睨む。

 夜遅くの通報にも関わらず、野次馬が何人もいる。

「被害者は犯人の姉だそうです。何でも、警官達がかけつけた時には既に遅かったようで、青年は遺体の横で泣いていたと」

 私の言葉に係長が反応する。

「つまり、自分が殺したという自覚があった」

 そう、青年は他の加害者達とは違い、自分の犯した罪の意識があるのだ。

「そして、彼は右手が電子義手でした」

 一連の事件とみて間違いない。

 ただ、ここは普通の民家。監視カメラなどあるはずもなく、手がかりという手がかりがないのだ。

 そこに柳さんが入ってくる。

「現場を発見した警察官の話を聞いた所、庭の木々が不自然に揺れていたのを調べようとしていたそうです」

 私は早速、庭に出る。窓を開けて、家からの光が差すそこには、白いペチュニアが咲いていた。花言葉は“あなたと一緒なら心がやわらぐ”だったか。皮肉なものだ。この花言葉が合う姉弟だったのだろうと思いながら、ライトを片手に手がかりを探す。

 その時だ。リビングに誰かが入ってくる音が聞こえた。

 現場を荒らさないための手袋はめている小梅だった。

「すみません、遅れました」

 焦りを感じさせる声だ。

「災難だったな。折角の非番の夜だったのに」

 アレンが彼女にそう告げると、自分も刑事としての勤めを果たすまでですと力強く答えていた。

 小梅に事件の詳細を自動でまとめたファイルを転送し、再度手がかりを探す。

 すると、何か音が聞こえた気がした。鈴の音だ。それと同時に側の植え込みが揺れる。

 かき分けてみると、一匹の黒猫がいた。

「こんなとこで何してるのかしら」

 私が抱きかかえると、一鳴きした猫は、飛び降りて横の壁をガリガリと引っ掻き始めた。

 家の中から顔を出したアレンが、猫を見た。

「ここの猫みたいだな」

「何で分かるの」

「被害者の部屋を見に行ったんだ。そしたら、その猫と一緒に映った写真があった」

 そう、とその猫を見ると何とも言えない気持ちになった。

 私は猫の元まで歩み寄る。

「あんた、飼い主が亡くなったのに何してるの」

 相変わらず壁を引っ掻く猫が気になり、壁を見てみるが、何も変わったところはない。

 もう一度抱きかかえ、正面から見据えた。

「その壁に何かあるのかしら」

 私の質問にまた一鳴きした猫の前歯を見て私は気付いた。

「ちょっとこれ。アレン、これを見て」

 私は猫の口元を少し強引に持ち上げ、前歯を見せる。

 すると、そこが微かに赤くなっているのが分かる。

「これ、血か」

 その言葉に私も考えが一致した頷きをする。

 腕の端末を外し、リビングのテーブルに置き、川内課長に通信を入れる。

 課長に要件を伝え、猫をホログラム画面の前に持ってきた。

 最初はただの猫と思っていた課長も歯に付着している色に気がついたようで、画面から血液かどうかを調べてみると言い、猫の顔が移った状態の画面を撮影した。

 数分後、通信が入る。

「その猫の歯に付着しているのは血液で間違いない。画面上からでは分かり難いから、血液型までは分からん。もう少し他にもあるといいんだが」

 私は庭にもう一度戻り、ライトで周囲を照らす。あの猫が引っ掻いていた壁の近くを重点的に。

 そして見つけた。壁のすぐ側にある白いペチュニアの中に赤色を帯びているものが一輪だけあるのを。

 こちらも少量だが、持ち帰って調べるなら充分かもしれない。

 私は両手を合わせ、小さく謝罪の言葉を述べてからその一輪を切り取る。

「課長、これを持ち帰るので、調べてもらえませんか」

「ああ、構わん。できるだけ早く持ってきてくれ」

 私はその花を無菌のナイロン製の袋に入れ、証拠品として持ち帰る事にした。

「秋月はそれをすぐに届けてくれ。小梅も一緒に頼む」

 係長を含む四人は家の中と庭で引き続き有力な証拠を探すらしく、私と小梅だけが本庁にいる川内課長の元に行く事になった。

「これで、犯人が分かるんでしょうか」

「断定はできないけど、かなり有力だとは思う」

 道中の車内で私はこれが有力であることを願いながら車を運転する。


 走って戻ってきたためか、それとも予想外の出来事に未だに心が落ち着かないせいか。それも分からないまま僕はアジトに戻ってきた僕は、ソファに身を任せるように座る。

 とにかく、一息つき部屋の明かりを点ける。出かける前にランプの元に置いていった『言霊を持つ者』に目がいく。

 この狭いアジトでもランプの明かりだけでは心もとない。

 普段なら気にはならないが、今日はいつもと違う。一刻も早く気分を落ち着けたいのだ。

 すると、扉の開く音が聞こえる。そこには長く端麗な金色の髪に深い青の瞳。赤いYシャツにデニム姿の彼女がいた。笑みを浮かべた彼女は歩きながら、

「遅かったのね」

 とだけ言った。

 僕は今日のことを悟られないように出来る限り平静を装う事と、言い訳を考えた。汗をかいているのは帰りに警察の車両と遭遇して、面倒ごとにならないよう走ってきたからだと言うと、彼女は近くまで歩み寄り、右の頬に手を触れる。

「大変だったようね」

 彼女の手は少し冷たかった。

 そうでもないと強がって答えておく。

 僕の返答に彼女は離れて行く。

「おやすみさない、エリス。いや、アスカの方が良かった」

「からかわないでくれ、ここでは本名でいい」

 扉が閉じられ、彼女の姿が見えなくなった所で僕はコートを脱いで、壁にかけようとしたが、そこで気がついた。

 コートに何か赤いものが付着していることに。白の中に赤く染まる部分がある。

 それは血だった。彼女がさっき触れた右の頬から耳にかけてまで手で触れると、指先にその赤い液体がついていた。

まさか、これはあの猫にやられたものか。

 だが疲れていた僕は、そんなことを考える余力もない。体を休めるために寝床についた。



 翌日、私は一係のオフィスで昨日課長に頼んで調べてもらった血液の結果を話す。

 血液型はA型。更に、そのDNAでテミスシステムに検索をかけてみたのだが、

「該当する人物が一人も出ませんでした」

 私の言葉に全員が驚く。

 無理もない。この結果を始めに聞いた私も小梅も信じられなかった。

 調べた川内課長も驚きを隠せない様子だった。

 テミスシステムは犯罪捜査のために国民全員のデータが入っている。それを閲覧できるのは、私達治警や一部の関係者だけだ。

 しかし、そのシステムに該当しない人物などいるのだろうか。現在の日本の人口はかつてのMOGシステム稼働時よりも減っているが、それでも少ないとは言い難い。

 システムが登録を損なっていた可能性も考えたが、その確率も低いだろう。

 システムに該当しない、登録をなされていない人間など今までに見た事もない。

 とにかく今分かっていることは、最初の車内監視カメラから取れた音声で男だということ、そして血液型はA型。

「これだけの情報では特定の人物と断定する事は困難だな」

 係長が苦い表情を浮かべる。

 新しく手がかりを見つける度に犯人に近づいた気はするが、いつも足りないのだ。決定的な人物を見つけ出す程の手がかりにいまだありつけない。

「とにかく、犯人はA型の男ということぐらいしか分かっていない。そして、テミスシステムに登録されていない人物」

「でも、本当に信じられないです。街頭カメラ何かに映ってたりしたら不自然だと思うんですよね。登録されてない人物なんて」

 蘇芳さんの言う事も一理ある。今の時代において、テミスシステムから完全に隠れて生きる事など相当困難だろう。家に引きこもっているにしてもそれは同じ事である。

 ともかく、引き続いて捜査を行う事にした。

 だが、私は何故か係長と二人で車に乗り、走っている最中だった。

 彼女が私をある場所に連れて行きたいというので、それに応じたためだ。

「突然連れ出してすまないな」

 問題ないとだけ答えて、窓から外を眺めていた。

 今日は雨が降りそうだ。

 しばらくして車が停まった場所は隔離区画に近い中古ショップであった。

 ここは、という私の問いに係長は、入れば分かると店の扉を開ける。

 中は薄暗く、視界が悪い。誰もいないのだろうか。などと考えていると。奥の方から足音が聞こえてきた。

「なんだ、まだ治警に残っていたのか」

 渋く低い声からは男性という事だけが分かる。

「おかげさまで。今日は会わせたい人がいるの」

 係長が言う人とは私のことだろう。相手は彼女と知り合いのようだが、一体どのような人物なのか、見当もつかない。

「会わせたい。まったく、何を言っている。まあ、まずは明かりをつけよう」

 スイッチを押す音が聞こえると同時に薄暗かった部屋が明るくなり、突然の光に私は一瞬目を隠した。

 明るさに慣れてきた私は、声の主を見る。そこに立つのは、短い白髪に眼鏡をかけた、目つきの鋭い初老の男性だ。

「そいつが紹介したいって奴か」

 彼の言葉に係長が頷く。すると、男性は店の奥に続く通路を顎で示す。来いということなのだろう。私も係長もついていく。

 奥にある部屋は失礼だが、店の中よりも断然綺麗であった。

 部屋の中央に置かれた向かい合うソファにそれぞれ座る。

「紹介しよう、秋月。この人は風見ジン。表向きは中古ショップを営んでいるが、本職は情報や裏物を取り扱っている」

 私はその言葉に驚いた。情報屋という職業は本の中でしか出てきた事がないからだ。このご時世、調べる手段など山程あるので、それを専門職にしているなど珍しい。

 私の心を読んだかのように彼が話す。

「機械に調べられる情報には限界がある。じゃあ、機械で調べられない情報を調達するのは誰か。人間だよ」

 確かにその通りだと思う。私達も機械頼みではなく、被疑者に取り調べを行うなどの行為は今でも生きている。

 風見は係長の姿を真っ直ぐ見つめたまま私に言った。

「そこの女に銃を撃ったのも俺だ」

 彼の言葉に私は少し前の事件を思い出した。

 係長はそれを明かされたことに驚く様子は見せなかった。ここに連れてきたからには嫌でも分かるからだろう。

「彼女は私の部下、秋月です」

 私はフルネームで名乗る。しかし、風見は分かっていると言った。

「俺を誰だと思ってる。治警にいる人間は大体把握してる」

 互いの紹介が終わった所で、係長が本題に入る。

「秋月にも情報の提供をお願いしたい」

 係長は真剣な表情で風見を見つめる。

 すると彼は、ソファに背を預けるように座り直す。

「そいつに特性があると言いたいんだろう。俺のテストをクリアしないことには了承できないな」

 テスト、と私は疑問に思った事を訊いてみた。

「俺は自分が面白いと思った奴にしか情報を売らないんだ。だから、お前が面白い奴かを試させてもらう」

 私の了承も得ずに話を先に進められる事に憤りを感じないことはないが、ここまで抵抗もせずに足を踏み入れてしまったのは私自身にも責任があるとした。

「テストは簡単だ。俺の質問に一つ答えてくれるだけでいい」

 その程度なら簡単だろうと普通は思う。しかし、明かりが点き、彼の顔を見た時から思っていた。彼は普通ではない。

「テストを受けます」

 しかし、情報をもらえるのはありがたい。それに、彼がどのような質問をするかを知りたい、好奇心も大きかったためだ。

 彼は質問する。

「目の前には傷ついて動けない人間がいる。そいつはお前に関わりのある人物、あるいは全くもって赤の他人でもいい。そして、お前は弾の一発入った銃を持っている」

 風見はそこで一度言葉を区切る。

 少しの間を開け、言った。

「そいつを殺すか、それとも殺さないか。 どちらかを選べと言われればどちらを取る」

すぐには答えられなかった。彼が求める答えはどちらなのか。それをじっくりと見極める必要がある。

「時間はやる。ただし、あまりにも遅いと不合格だがな」

 私は目を瞑り、視界に何も映らないようにして集中する。

 状況を頭に思い浮かべる。

 私は真っ直ぐ立っている。目の前には誰か倒れている人がいる。

 それは誰なのか、じっと見つめ続ける。そうすることで誰か分かりそうな気がするからだ。

 しばらくして、見えたのだ。

 目に映るその人物、髪は白く短い、身長は私とそう変わらない。綺麗に整っているはずが傷ついている顔。

私は、銃の弾を確認する。一発だけ入っているその銃を倒れる人に向ける。

 大きく息を吸い、止める。

「私は」

 目を見開き、

「殺しません」

 上に向けて引き金を引いた。

「理由は」

「大切な人を思い浮かべました。苦しみから解放しようという思いの元、撃つか躊躇しました。ですが、それは私の身勝手な行動でしかない。命を奪うというのは、いかなる理由の元でも愚かな行為でしかないから」

 私は言い切った。これではまるで綺麗ごとの塊だ。彼がそんなものを聞きたがる人物とは到底思えなかったが、言わずにはいられなかった。

 沈黙の中、彼はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し火を点けた。

 一服したところで、彼が口を開く。

「身勝手か。なら、お前がその人を生かそうとするのも身勝手じゃないのか」

 予想もしていなかった答えだ。

「相手はそのまま死ぬのがいいと思っていた場合、助けてしまったお前はそれを阻害したことになる。それは身勝手な行いじゃないのか」

 彼の問いに私は反論が思い付かない。彼の言葉からして不合格だろう。

 半ば諦めかけていたところで彼が口を開く。

「だが、選択する理由は人によって変わる。お前さんのその考え、俺は嫌いじゃない」

 彼はうっすらと笑みを浮かべて一服する。

「良い答えだ。あんたにも情報提供を行うことにしよう」

 合格ということなのか、私は気付かれないように安堵の息をつく。

 彼は早速何か知りたい事があるか訊いてきた。私が係長の方を伺うと、彼女は何も言わずに頷く。

「テミスシステムに登録されていない人間というのは、今の時代いるのでしょうか」

 私の質問に風見はそんなことかと、知っているような反応を見せた。ソファから立ち上がった彼は背後の本棚にある本を指で追いながら、一冊だけ取り出した。

「あの“三ヶ月間の混乱”を覚えてるか」

 本を読みながら私達の前に戻ってくる彼が言っているのは、MOGシステムが停止してから起こった三ヶ月の世界的混乱のことだ。

 私にとっては嫌なものでしかないそれを思い出せた彼に対する嫌悪の気持ちが募ってしまった。

「何があったかは知らないが、頼むからそんなに睨まないでくれ」

 自分でも知らずのうちに目を鋭くしてしまったようで、彼に感情的になったことを謝罪する。

「話に入ろう。これを見てくれ」

 彼が見せてきたのは新聞を切り抜いて本に貼り付けているものだった。

 私は本題よりも先にその本について訊ねた。

「スクラップブックという奴だ。最近じゃ新聞は電子化されてしまったが、お前さんの世代じゃまだ紙のものは見たことぐいあるだろう。それの中で気になる部分を切り取って保存しておくものだ」

 私が幼少の頃には確かに新聞は紙であった。毎朝父が熱心に読んでいるのを思い出す。

 そんな事に何の意味があるのかと思ったが、こうして昔の事件が今になんらかの影響を及ぼしているということをしることが出来るというのが、これの役割なのだろう。

 貼られていた新聞の日付は二〇年近く前のもの。世界的混乱が終結してしばらくしてから発行されたものが何ページかに渡って貼り付けられている。

 内容は世界的混乱で親を亡くした、はぐれたまま見つからない子どものことが書かれた記事ばかりが貼られている。

「この記事にも書いてあるように当時、あの混乱が終結してしばらくしてから懲りない政府は、新たなシステムの開発を技術開発局にさせた。それがお前さん達法を守る人間を手助けするために、国民の情報を教えてくれるテミスシステムだ」

 MOGシステムのように何もかもを管理している訳ではなく、その人物の存在を照明するために様々な情報が登録されているシステム、いわば戸籍だ。

「そのシステムを作る際にな、各地で全国民の様々なデータを収集して登録した。新しくこの世に生を受けた者は各所に設置されている管理局にDNAを持って行き、登録してもらう」

「それはテミスシステムの仕組みですが、それが関係しているのですか」

「最初に言ったようにシステムが出来た当初は義務として登録に行く必要があった。しかし、ある場所にいる人間だけは義務とされなかった」

 私はそこで該当するような場所を考えてみた。

「まさか、隔離区画」

 私の疑問混じりの答えに彼はそうだ、と答える。

「この記事に書いてある子ども達はな、自分がいた場所が隔離区画になってしまい、取り残された。あるいは隔離区画に連れて行かれた可能性が高いと俺は考えている」

「根拠はあるんですか」

 係長の問いに彼はソファに背を預けるようにして天井を見上げた。

「御堂、お前にも言ってなかったことだが、俺はもと刑事だった。今のように治警と一般で分けられていない時代のな」

 彼は懐かしむように話し始めた。

「ある日、殺人事件で俺達がかり出された。被害者は子どもだった。体中に殴られた後のある女の子でな、死体を見るだけで怒りや犯人に対する殺意ってのを抑えるので精一杯だった。一刻も早くその子を殺した犯人を捕まえてやろうと意気込んだ矢先だ、その子の情報が一切なかったんだよ。名前はおろか、血液型、どこの生まれかなんかはもちろんのこと分からねえ」

 そこで彼は新しく煙草に火を点け,一服する。

「そして俺達は隔離区画に目をつけた。そこに長くいる老人にその女の子のことを聞いてみた。すると、知っているらしくてな、犯人と思しき男まで辿り着くことができた」

「それが、隔離区画に過去の混乱の際に紛れ込んでしまった子ども達がいるという推測を生み出した」

 私の言葉に彼は、ああと小さく答える。

「俺の中では推測ではなく、ほぼ確信に変わっている。当時子どもだった彼ら彼女らは今でも隔離区画で、運が良ければ生きているに違いない」

 確かにあり得ない話ではない。だが、確率としてはあまりにも低いだろう。

 街とは違い、隔離区画では暴力や窃盗など日常茶飯事だと聞く。そんな状況で、更に二〇年以上も前のその場所で生きていくのは相当困難だ。

「まあ、俺に分かっているのはこのぐらいだ。少し隔離区画を調べてみたこともあるが、どんな人間がいるかまでは掴めなかった」

「いいえ、とても参考になりました。ありがとうございます」

 店を出ようと立ち上がると、私と係長の端末に通信が入る。

 係長にはアレンから、私には小梅からの通信だった。

「どうしたの」

『先輩、今弓月先輩と現場から少し先の区にある街頭カメラを調べてみたんですが、怪しい人物が映っているんです』

「どんなものか送ってもらえる」

 今送ります、と小梅から届いたファイルは昨日の夜一〇時前後の映像だった。そこには白いコートにフードを目深に被っている人物が走っている姿が映っている。

「これは。今からそっちに向うわ」

 私は通信を切り、同じ内容を聞いていた係長と車に急いで戻った。

 風見に再度礼を述べて。

 

 街頭カメラの管理局に着いた私は小梅達と合流し、あの不審な人物が今どこにいるかをカメラの映像で検索をかけてもらった。

 すると、一五区の一台のカメラに類似した人物の姿が映る。昨日と格好は同じで、背格好も似ている。

 私達はその人物の映像を追うことが出来るよう、街頭カメラの映像が端末にも流れるように設定を申し出る。



 昨日の失敗を彼女に気付かれたのか。僕は分からないまま、隔離区画を歩き回っている。ここで人が死んでも警察がくるのは遅い。来ないことだってある。ここは隔離された世界なのだ。

 だから、芸術作品を作るには街に出るのが一番だ。

 警察が僕の犯した失敗に気付いていたとするとまずいが、僕の血液だけでは誰か分かることはまずないだろう。

 とにかく、また彼女に作品を見たいと言われたので、僕は街に来るしかないのだ。

 一五区、人が多く、作品作りには持ってこいではあるし、隠れるのにもちょうどいい。

 だが、そんな考えが裏目に出るかのように僕の視界に映ったのは、真っ黒な車二台が走ってくる様子だった。建物の影から伺う。中から下りてくる人間は皆スーツに身を包んでおり、その中には小梅エリの姿があった。

 治安維持課の捜査官達で間違いないと確信した僕は急いでこの場を離れなくてはと思った。

 だが、彼らは端末を眺めている。そして、僕が動き出すと同時にこちらを見た。おかしい、見えてはいないはずだ。

 だが、相手は追ってきている。とにかく逃げるしかない。

 路地裏に入った僕は息を整える。

 今の所追っ手は来ていない。だが、彼らが僕を犯人と思っている可能性は高い。何がいけなかったのか。現場の治を見つけたとしても、テミスシステムに僕の情報はないはずだ。

 すると、端末に通信が入ったので応じた。

「大変そうね。大丈夫」

 彼女の声だった。

「何のことだい。今はターゲットを探している所だよ」

 僕は治警に追われている可能性があることを隠す。

「あら、そうなの。まあ、いいわ。もしものための逃げ場所を用意してあるの。あなたのいる場所から近いから、必要になれば使ってね」

 通信が切られ、同時に地図が送られてきた。なぜ彼女は僕の居場所が分かるのか。端末にはGPS機能など備えていない。コートのポケットを探ると、中から小型の発信器が出てきた。コートをその場に脱ぎ捨てる。発信器だけを捨てなかったのは治警の目を欺くためでもあった。早速、端末に表示される場所へと向かう。


 一五区に着いた私達は、街頭カメラの映像を切り替えながら、白いコートの人物を追う。すると、偶然にもすぐ側のカメラに目標が映った。その方向を見ると、こちらに気付いたのか、白い何かが翻るのが見えた。

 私は小梅を連れて後を追う。

 しばらく走った所で、カメラの無い場所に逃げられたのか、どのカメラにも映らなくなった。

 カメラの映像を切り替える横で小梅が不安の表情を浮かべている。

「どうかした」

 私の問いに、彼女は理由を話す。

「さっき、管理局で映像を観た時からなんですけど、あのコート、見た事ある気がするんです」

 どこで見たのかを問うと、彼女は断定はしなかったが、自分の通っている絵画教室で仲の良い青年が同じものを着ていたような、と話す。

「本当はそうであってほしくないんですけど」

 親しい人間が事件に関与しているなど、信じたくもない。

 彼女の肩に手を置く。

「それは、被疑者を捕まえれば分かる事。今はとにかく仕事に専念しなさい」

 そこにアレンから通信が入った。

「どうしたの」

『被疑者のものと思しき、白いコートを見つけた。残っていた毛髪から簡易スキャンでテミスシステムに検索をかけたが、情報がない』

「分かった。私達もこの近くを探してみる」

 そのコートを見つけた場所の地図が送られてきたので、周囲の建物を3D展開してみる。

「小梅、犯人のものと思われるコートが見つかったらしい。今映しているこの部分がその発見場所。この付近で人が隠れられそうな場所を検索して」

 私の指示に彼女は、同じように端末で3Dマップを表示し、テミスシステムから各建造物の詳細な情報を要求する。

「この、建物。もう使われていないビルが一つだけあります」

 見せてきた地図には、そのビルだけが赤く表示されている。

 私はビルの近くにいる蘇芳さんと柳さんに通信を入れ、至急向ってもらうように頼んだ。

「でも、先輩。こんな簡単な検索なら、先輩にすぐできるのでは」

 その問いに私は微笑んで微笑えむ。

「あなたの成長を確かめるためよ。前に教えたこと、ちゃんと覚えてたようで良かったわ」

 私達はそのビルに向って走りだした。


 もう使われなくなった小さなビルだというのに、エレベーターはしっかりと機能している。

 彼女から送られてきた地図には四階、このビルの最上階に逃げ場所があることを示す。どうやらそこは社長室のようだ。

 今回の失態は恥ずべきものだ。たった一つの予想外な出来事で、全てが狂わされた気がした。

 それを自分の力で補うことも出来ないのが一番の失態だ。

 四階に着いたことを示すエレベーターの音が鳴り、扉が開く。

 一体何の会社だったのかも分からないが、廃ビルだけあって何もない。

 エレベーターを出て直ぐ、目の前は廊下になっており、そこから左右に扉が幾つかある。

 奥にある扉が元社長室だ。

 ゆっくりと扉を開ける。そこには、奥に大きな机が一つ置いてあるだけであった。

 暗いので、扉の横にある電灯のスイッチを押してみた。

 エレベーターだけでなく、このビルにはまだ電気が通っていたようだ。

 電灯の明かりに目が慣れるまで手をかざしながら歩く。

 机の前に立ち、僕はそこにあるものの存在にようやく気付いた。

 小型のモニターと、その前には鈍く光る拳銃が置かれていた。

 これは、と誰に言うでもなく呟くと、モニターの電源が点いた。そこにはこの場所を教えてくれた彼女が映っている。

「これは一体」

『あなたには失望したわ、エリス』

 その言葉に背筋が凍り付く気がした。

『言葉による、人を操れるプログラム。おもしろいアイデアだけど、あなたには所詮過ぎたおもちゃだったようね』

「待ってくれ。これからもあなたに僕の作品を――」

『黙れ』

 鋭く言い放たれた彼女の言葉に僕は、その場に磔(はりつけ)にされたかのように動けなかった。

『そこにある銃の意味、あなたになら分かるわよね』

 先程とは打って変わった笑顔で語りかける。

『あなたの作品は見ていて楽しかったわ』

 そこでモニターが切れた。

 この銃で僕がすること。様々な考えがよぎるが、恐らく一番最適なものを僕は思い付いた。その瞬間、背後の扉が開かれる。


 蘇芳と柳はリゼが怪しいと言うビルに着いた所だった。

「ここに犯人がいるんでしょうか」

「まだ分かりませんが、嫌な気配がさっきから治まりません」

 二人は中に入り、かつてここにあった会社の物であろう、各階にある部署が書かれたパネルを見つけた。

 エレベーターのボタンを押してみると、まだ動いているようで、それは四階から下りてきた。

「四階に行くのに誰かが使ったということですね」

 柳の言葉に蘇芳も賛同する。

 二人はエレベーターに乗り、四階で降りる。

 まっすぐと続く廊下の左右には扉がいくつかあるが、奥にある部屋だけ電気が点いている。

 音を立てないよう慎重に近づくと、中から声が聞こえてきた。

 男の声だ。誰かと会話しているようだが、もう一人の声は小さくて聞き取る事ができない。

 蘇芳は柳と顔を見合わせ、扉に手をかけた。

 そして、開くと同時にハンターを構える。

「警視庁治安維持課だ。無駄な抵抗はやめろ」

 蘇芳が叫んだ言葉も意味がないほどに部屋は静か、というよりも男だけが背を向けて立っていた。

「そこのあなた、ゆっくりとこちらを向きなさい」

 呼びかけに応じたのか、男はゆっくりとこちらを向いた。

 それは真っ白な髪に白い肌の青年。そして、彼に不釣り合いな黒い銃が握られている。

「武器を捨てなさい。あなたを連続殺人事件の容疑で逮捕する」

 その言葉に青年は突然笑い出した。

 気が狂ったかのように笑っている彼に蘇芳と柳は困惑を隠せない。

「なるほど、こういうことだったのか――分かったよ」

 何かに納得したような青年は、自身の頭に銃口を当てる。

「馬鹿な真似は止めなさい」

 柳の呼びかけに青年は言った。

「貴様らのようなシステムに飼われた犬に殺されるぐらいなら、全ての秘密を持ち、僕は喜んで命を捨てよう」

 銃声と同時に、その真っ白な髪が赤く染まった。

 ゆっくりと力なく横向きに倒れた彼を前に呆然と蘇芳は立つ。

「蘇芳捜査官、これを」

 一人、前に進んだ柳に声をかけられ、意識を取り戻した。

 青年の背後の机に、モニターがあるのに気付く。

「恐らく彼は、モニター越しに誰かと話していたようですね」

 柳の推測も蘇芳は頭に半分程度しか入ってなかった。

すぐ側にある青年の死体に気を取られて集中できない。

 そこに遅れてリゼ達がかけつけた。

「蘇芳さん、被疑者は」

 リゼの言葉に彼女は側にある青年の死体を見やる。

 そして、小梅がゆっくりと歩み寄ってきた。

「そんな、嘘。なんで――」

 小さな声で、泣きながら死体の頬を撫でる。

「知り合いなの」

 蘇芳はリゼに歩み寄り耳打ちする。

「そのようですね」

 リゼは青年の顔を見つめながら答えた。

 その後の処理のために鑑識課と医療課が到着した。セラピストの香澄は強いショックを受けた小梅を医療課の車に乗せて、搬送するように助手に告げている。

「まったく、最近一係の人間でセラピーを必要とするのが多いな。お前も受けるか」

 彼女の言葉に冗談でしょう、とリゼが軽く受け流す。

 運ばれる死体を見ながら、アレンは私に一冊の本を持ってきた。

 犯人の着ていたと思われるコートの中に入っていたらしく、鑑識に渡す前に私に見てもらいたいと言う。

「どうして私に」

「本をよく読んでいるお前なら、この本のことも分かるんじゃないかと思って」

 受け取った本のタイトルは『言霊を持つ者』。

 残念ながら、聞いたこともない本だ。私は本を開いてページを流すようにめくる。

 すると、途中で多くの書き込みがされている部分が見つかる。

「随分と熱心に読んでいたようね。それもただ読むだけじゃない」

「どういうことだ」

 本をただ読むのではなく、その仕組みを理解しようとする読み方。

 鑑識に渡すようにアレンの手に本を置く。

 現場から出た私が煙草に火を点けようとした時だ。上から落ちてきた水が煙草の先端に当たる。

「雨か」

 車に乗り込み、再度煙草に火を点けてから、エンジンをかけた。


 家に戻った私はソファに座り一息つく。そして、手に持ったケージを置いて開ける。中から一匹の猫が出てきた。

 今回の事件の被害者である姉弟の飼い猫を譲り受けたのだ。

 元から動物は嫌いではない。

「今日からここがあなたの家よ」

 私の言葉に一鳴きする。思わず笑顔になった私が名前を考えなくてはと思う。「キール。あなたの名前でどうかしら」

 前に読んだ本に出てきた登場人物の名前だ。その登場人物も猫が好きであった。キールの柔らかな毛並みに触れるだけで、心が少し和む。

 今の小梅にはこういった存在が必要なのかもしれないという思いが私の中に出てくる。

 そんな私の膝に乗ったキールが鳴いた。

 



 モニターを切った私に声がかかる。

「彼を捨てて良かったの」

 女性の声。自分とそう年齢も変わらないであろう彼女に答える。

「いいのよ。まだまだ手はあるから」

「さすがだね。次はどうするの」

 私は目の前のキーボードを操作し、モニターの映像をあの社長室にしかけておいた、隠しカメラに切り替える。

「秋月リゼ、楽しませてくれそう」

 モニターに映る彼女を指で撫でる。

「警察の人間を相手にするのは危険じゃない」

 彼女が私に不安混じりの問いをする。だが、いずれは私達と相対する。今のうちにどれほどの力があるのかを試す必要がある。

 そのことを伝えると、彼女はいらぬ心配だった事を謝罪した。

 私は彼女の横に座り、その頬を撫でる。

「あなた程、私のために動いてくれる人はいないわ。都合良く聞こえるかもしれないけど、悪い意味じゃないのよ」

「大丈夫、私があなたに不満をもったことなんてないよ」

 私は警視庁の人間を標的にできるかと思うと楽しくて仕方がなくなった。

 そろそろ彼らと直接戦ってもいいだろう。しかし、もう少し準備がいると告げた。彼女は自室に戻ると言い、立ち上がる。部屋から出て行くところで、こちらを振り向く。

「あなたの計画、楽しみしているわ、“DD”」

 扉の閉まった音が部屋に響く。

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