1 治安維持
立てこもり事件の犯人を裁いた私達は、駆けつけた『警視庁医療課』に人質達の心理セラピーと事後処理を任せ、その様子を表のパトカーに寄りかかりながら見ていた。
警察内部にも医療関係者の組織が備わっている。治警などが動く場合に医者が必要な時、この『医療課』が真っ先に出動する。
遺体の処理、現場の整理などは医療課の仕事だ。
「無事に解決は出来たが、やっぱりこの手の事件で人質が完全に無傷ってわけにはいかないな」
「犯人に拘束された時点で無駄よ。私達の仕事は表向き、外傷がないように努力すること。心の傷まで気は配れないわね」
それもそうかと、アレンが寂しげに地面を見つめる。
そんな彼をよそに私はスーツの内ポケットから取り出した煙草を咥えて火を点けた。
「また、吸ってるのか」
「仕事終わりの一本がたまらなくてね」
私が子どもの頃は、外で煙草を吸うことなど許されなかった。
というより、煙草なんてもの自体無かった。
世界が変わると同時にこの世にいらないとされて、消えていたものは幾つか生き返った。これもその一つだ。
私は犯罪の発生率が多い時代に世界を逆戻りさせた人物は嫌いだが、煙草を復活させてくれたことだけはありがたく思っている。
煙を吐き出すと、現場のビルから一人の女性が出てきた。
真っ直ぐに私の近くに来た彼女。
「まったく、一〇人以上もセラピー送りなど、どれだけ仕事を増やせば気が済むんだ」
「私達だって、増やしたくてやっている訳じゃないのよ」
「もう少しやり方を考えろ」
白衣に黒のYシャツ、紺色のパンツスーツのズボンを履いた彼女、香澄(かすみ)アリサ。警視庁専属の心理カウンセラーだ。
私、アレンと所属は違うが、同期である。
毎度事件の度に出る被害者のセラピーを彼女と助手の複数人で行っている。
「結構頑張ってんのよ、私達も」
「まあいい。どっちにしても、事件後はセラピーを受けないとダメな人間は出るからな」
黒く整えてある髪を乱すかのように、頭を力強く掻く彼女の顔は。とても嫌そうなものだった。
私も専門は違うが気持ちは同じだ。
「とにかく、事後処理は終わった。犯人の遺体は片付けたし、清掃もしたよ」
「了解。じゃあ、俺達も署に戻って報告してこよう」
アレンが車に乗り込む。続いて私も助手席に乗ろうとした時だ。
「おい」
「何」
アリサに呼ばれ、顔を上げて煙を宙に吐く。
「煙草は程々にしとけ。肺が腐っちまうぞ」
私は手持ちの灰皿に吸い殻を捨て、大きなお世話よ、とだけ言い返し、車に乗った。
警視庁治安維持課一係に戻った私とアレンは早速、局長室に赴く。
扉に立つと、私とアレンの網膜、指紋認証がなされ、扉が解錠される。
扉を開けると、部屋には私達のボスが来るのを待っていたように椅子に座っていた。
「治安維持課一係・秋月リゼ捜査官、並びに弓月アレン捜査官、ただいま戻りました」
敬礼した私は一息に言い切る。
「ご苦労だった。二人とも。今回も見事だったよ」
警視庁刑事局局長、和泉(いずみ)シモン。私達治安維持課の全てを統括するボスだ。
「光栄です」
「まあ、堅苦しいやり取りは終わりにしようじゃないか」
彼が手を下げるので、私達は敬礼を止め、手を体側につける。
「今回は人質の数も多かったため、セラピー送りになる人間の数が多いのも仕方の無いことだ。我々の目的は善良な市民を守り、犯罪の危険から遠ざけること。しかし、限度がある。その限度が今回の事件にはよく表れている」
ボスの言うことは正しい。私達が来る前にもう人質は取られていたのだから、人質の心理を守ることなど出来ないのだ。
「これからも頑張ってくれたまえ。君達は明日非番だったはずだ。ゆっくりと休むといい」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
私とアレンは局長室から出る。
緊張が解けて、深呼吸する。
「やっぱり、事後連絡には慣れないな。局長は凄くいい人だけど、あの威厳が」
「とりあえず、事件は終わりよ。一係に戻りましょう」
一係に割り当てられた部屋に戻ってきた私達を迎えたのは、他の仲間だった。
「お疲れです。お二人とも」
「ご苦労様、よくやったな」
最初に声をかけてきたのは、私達の後輩である、小梅(こうめ)エリ。二年前に配属されて、まだ新人だ。彼女の情報収集能力は一係にとって大いに貢献している。
次が一係をまとめる御堂(みどう)マリヤ係長。治安維持課の係長で唯一の女性捜査官。部下のことをより考えている、理想的な上司だと私は思う。
「ありがとうございます」
「最近、前にも増して犯罪が多くなっている気がするよ」
アレンの言葉に小梅も頷く。自分も同じように思うと。
そんな二人の会話を聞き流し、私は今日の報告書を書き始める。
途中、小梅に声をかけられた。
「明日私も非番なんですけど、秋月先輩、どこか出かけませんか」
「ごめんなさい、明日は友達に会うの」
彼女が苦笑して謝罪するので、気にしていないことを伝える。
彼女には何回か誘われるが、あまりいい返事を返せていない。
書き上げた報告書を係長に送信し、帰宅する準備を終える。
「じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ」
アレンに見送られ、私は署の駐車場に停めてある自分の車に乗る。
キーを回して、エンジンをかける。
自動運転に切り換え、記録させてある家までのルートを選択する。
ひとりでに動く車の中で、私は一息つく。今日も疲れた。
明日の午前中は体を休めないと。
頭の中で犯人の上半身が吹き飛んだのを思い出す。早く忘れてしまおう。そう思い、車窓からの夜景を眺める。
煌びやかなイルミネーションを思わせるビル群の光が眩しい。
2
家は至って普通の住宅街の一軒家だ。中に入り、電気を点ける。
『お帰りなさいませ、リゼ様、本日もお疲れの様ですが、食事の方はどういたしましょうか』
壁の内部にあるスピーカーからの機械音声に、私は栄養価の高いものと大雑把に頼む。
『かしこまりました』
すると、キッチンの天井から機械のアームが何本か伸びてきて、器用に食材を切り、フライパンで炒め始めた。
リビングの天井から伸びてきたアームが、私がスーツの上着を脱ぐのを手伝い、クローゼットへと収納する。
これは、体の不自由な者や老人、仕事により帰宅時間が遅いなどの、様々な理由で使える『生活支援システム』だ。
私の場合は精神的に激務なものとされ、警視庁から支給されたものをこの家に組み込んである。
ソファに座った私は煙草に火を点け、煙を吐き出す。灰が落ちそうになると、灰皿を持ったアームが目の前で止まる。
手首の端末でニュースを確認する。今日も暗いものばかりだ。
「MOGがあった世界の方がきっと良かったんでしょうね」
誰に言うでもなく呟くと、食事の用意ができたと知らせが入るので、テーブルに置いてある料理を食べる。
野菜と肉、魚のバランスがきっちりと取れており、スタミナもつきそうなメニューだ。
自分で考えて、作る気力などない。
食事を終えた私は、浴室に入り、シャワーのボタンを押す。
染み付く血を洗い流すかのように、目を閉じて、全身で感じるように熱い湯を浴びる。
浴室から出た私は、部屋着に着替えてベッドに自分の身を投げ出す。
『もうお休みになられますか』
「ええ、消灯をお願い」
部屋の電気が自動で消える。
しばらくすると、私は眠ってしまっていた。
大勢の人がいる。隣には男性の姿が、そして、人々の中心には女性の姿があった。幼い頃に見た光景だ。
みんなが女性に拍手喝采を送っている。
だが、その女性の背後は血で真っ赤に染まった大地だった。
管理されることのなくなった新たな時代の幕開け。
それは本当の自由を手に入れた代価として、多数の犠牲を出したということ。
女性はその赤く染まる大地に向かって歩き出す。
私は泣きそうになりながらその後ろ姿を追う。
目を覚ますと、体中汗だくだった。
大きく深呼吸し、時計を見遣ると、いつも起きる時間と同じだった。
部屋着を洗濯機に入れ、シャワーを浴びる。
「嫌な夢だ」
誰に言うでもなく、浴室の壁に手を着いて独り言ちる。
朝食も生活支援システムに任せた。
テレビを点け、朝のニュースを見る。
殺人に関するニュースが二件。昨日私達が解決した事件と別のモノが一件。
「二〇区で起きた殺人事件か」
私は本庁にあるテミスシステムにその事件の資料を請求する。
私達が使うこの腕輪型端末は、MOGシステム稼働時から存在していた。それが、テミスシステムとリンクするようになっただけだが、私達警視庁の人間に支給されるのは一般のモノより機能が多い。事件の資料を要求すれば送られるのもその機能の一つだ。
送られてきた資料に目を通す。
被害者は女性。刃物で切りつけられた跡が数カ所。現場付近で怪しい男を目撃。当時の格好は濃紺のフード付きコートにジーンズを着用。
被害女性の身近な人物を取調中。
「捕まるのも時間の問題か」
私は朝食を済ませると、軽く部屋の片付けを行う。気分転換の一つだ。これだけは生活支援システムに頼らず、自分で行う。
整理し終わった後に、積んであった本を読み始める。今でも製本された紙の本は珍しい。人気の作品ならば、電子書籍を製本してくれる場合がある。
MOGシステムを破壊した彼女も本が好きだったと聞く。それなら煙草や酒と同時に本も生き返らせてくれれば良かったのにと思う。
新刊で出る物は電子書籍で読むが、昔のものはなるべく紙の本で読みたいのだ。
『リゼ様、本日のご予定はお決まりですか。本日、近くの公園でイルミネーションがライトアップされるショーを開催するそうです』
「悪いけど、興味ないわね。夕方からちゃんと用事はあるから、今はゆっくりしたいのよ」
『失礼しました。御用の際はいつでもお呼び下さいませ』
生活支援システムがスリープモードに入った。決して悪いシステムではないが、少しお節介な部分がある。
全てが管理された世界ではなくなったが、やはり人間はシステムの力をなしには生きていけないのだ。
3
夕方、五時を知らせるアラームが鳴る。
そろそろ準備をしなくては、そう思い、クローゼットを開け、中からいつもと違う黒いビジネススーツを取り出して着替える。
メイクは軽く施しておく程度。
「じゃあ、出かけるから、戸締まりよろしく」
『了解しました。行ってらっしゃいませ』
車に乗り込んでハンドルを握る。今日行く場所はまだマップに登録していないので、自分で運転するしかない。
私は端末で道を確かめながら進めていく。この時間は車が多い。信号に停められたので、走り出すまで、歩道を行く人々を眺める。
楽しそうに笑う家族、忙しそうに早足で歩く人などもいる。
これが本来のあるべき姿なのだろうか。だとしても、やはりシステムがあった方が良かったのではという思いもある。
信号が青になったので、車を発進させ、目的の店へと到着する。店の前にはもう一台、黒い車が停まっている。
私がその車の後ろに停めて出ると、私と同じように黒いスーツを着た、長身の中年男性が歩み寄ってきた。
「秋月様、お待ちしておりました」
「和久井(わくい)さん、久しぶり。あなたがいるということは、もうあの子も中にいるのね」
「はい、奥の席におられます」
彼に礼を言った私は扉を開けて店内に入る。
和久井キヨシ。今日私が会う人物に信頼されている一番の部下、秘書の役割を果たしている。
華美な装飾に正装をした男女達が、所々に座っている店内。
もう何回か似たような店には来ているが、フレンチレストランは初めてだ。
「お客様、ご予約はされていますでしょうか」
「友人に会いに来たの。もう奥にいるそうですけど」
声をかけてきたサービススタッフは失礼しました、と私を店の奥の席が見える場所まで案内する。
「あちらの席で、お間違いないでしょうか」
「ええ、合っています」
スタッフはお辞儀をしてからその場を立ち去った。
私はゆっくりとその席に歩いていく。
そこには私と違い、真っ白なワンピースの女性がいる。
本を読む彼女。
真っ白でショートボブの彼女。
私の親友である彼女。
「何を読んでいるの」
机の横に来た私の質問に彼女は顔を上げずに答える。
「『彩りは彼方へ』、私達が産まれる前の作家が書いたものよ」
顔を上げた彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶりね、リゼ」
「ええ、キルア」
彼女が私の親友だ。
神代(かみしろ)キルア、彼女と出会ったのは中学の時。
教室で一人、本を読む彼女を数人の生徒が冷やかしていた。
彼女は一切反応を見せなかったが、私は一応注意した。
そんなくだらないことやめな、って。私もよく一人でいることが多かったのだ。クラスの人間は皆考えが子ども過ぎて付いていけなかった。
いや、むしろ私が子どもの考え方をしていなかった方がおかしいのか。
冷やかしていた生徒達はブツブツと何か呟きながらどこかへ言ってしまった。
「止めなくても良かったのに」
私はその言葉に驚いた。
「なぜ」
「だって、おもしろいじゃない」
彼女が何を楽しんでいるのか理解できなかった。
「皆と違ったことをする人間を冷やかすしかできない、人間のような物を見ているのは」
私は不思議と彼女の言葉に心が踊った気がした。彼女は変わり者だ。
だが、私も彼女同様に変わり者なのかもしれない。
「私、秋月リゼっていうの」
「知っているわ、同じクラスだし」
「でも、私はあなたのこと知らない」
「あら、そう。神代キルア」
おかしそうに笑いながら名を名乗る彼女。その日から私と彼女は友達になった。
「いつもお勤めご苦労様ね」
「ありがとう、と言いたいけど、何だかあなたが言うと皮肉っぽいわね」
それは私と彼女の境遇が真反対、むしろ敵対しているからだろう。
「あら、私は本心から言っているのよ。リゼは特別だから」
素直に嬉しく思うことにした。
私は治安維持に努める警察。
彼女は一昔前に消滅したが、MOGがなくなると同時に復活した“マフィア”という組織の娘で、自分自身も、大本程ではないが、充分に大きな組織を持っている。
彼女と友達になり、しばらくしてから家に行ってみたいと言った。
「私は構わないけど、いいの」
「ダメかしら」
「いいえ、言ったでしょう。私は構わないって」
彼女はいつも送り迎えの車が来ていた。私を待たせて、運転手と話をしていたのを覚えている。
「お嬢様がお友達をお連れになるなんて初めてのことですので、きっとお父様も喜ばれますね」
彼女の家に向かう最中の車の中で運転していた男性が話したのを覚えている。それがさっきの和久井さんの今よりも若かりし頃だ。
家に着いた私は彼女が何度も確認した理由がようやく分かった。
彼女の家は豪邸だった。門の前には黒いスーツを着た男の人が立ち、内部も壁に整列する同じ格好の人達が私達に頭を下げていた。
いつもこうなのだろうか。
私が最初に連れてこられたのは彼女の父の部屋だった。
「初めまして、キルアの父です」
初老の、少し長い髭の男性。
神代ギンジと言えば、神代財閥で有名な名前だ。しかし、その実体はマフィアのボス。
裏社会の大物に出会った私は消されるのではないかと怯えたが、キルアがそんな私をおもしろがって腹を抱えて笑ったのを覚えている。今でもそれを話題に上げられると恥ずかしい。
「娘の友人に手などかけませんよ」
彼女の父も笑っていた。何とも似た親娘である。
運ばれてくる料理はどれも見た事のないもので、見た目も味も良い。
「お互い、境遇が真反対になったものね」
「でも、こうして今も合っている」
「確かにね」
彼女と仕事の話を始めた。これは情報交換にもなる。
「最近事件が多くて困るわ」
「ニュースで見た。昨日の事件、リゼが解決したのでしょう」
「まあ、人質がみんなセラピー送りだったけど」
彼女はいつもおかしそうに笑う。
「犯罪っていうのは、誰かに見つかってから、初めてそう呼ばれるの。だから、犠牲者あってこその言葉なのかもね」
その言葉に、あまりいい気持ちはしない。
「そっちはどう、と言っても、あんまり話せることはないでしょうけど」
仕事の話しと言ったが、私と違って彼女はあまり話さない。
当然、危ない橋を渡っているからだ。
「仕事ではないけど、この前家に強盗が入ったの」
それでどうしたのか問う私に、口元を拭いた彼女は笑顔で答える。
「返してあげたわ。少しお灸を据えてね」
詳しい内容は聞かないことにした。
彼女は華奢なようにも見えるが、日頃から鍛え上げていると言う。
それも構成員五〇〇〇人を纏める、彼女の威厳の一つなのだろう。
だが、やはり彼女に多くの人間がついてくるのは、独特の雰囲気と言うのだろうか。目には見えない何かを彼女が感じさせるからだ。
「まあ、仕事の方は順調ね。今度また外国に行かないとだから、会うのはしばらく先になりそう」
「今度はどこへ行くの」
「アメリカへ一ヶ月」
アメリカ、懐かしい国だ。私も産まれて直ぐアメリカに行き、三歳になるまで向こうで生活した。
「お土産を楽しみにしていて」
「そんなの、別に気にしなくていいわよ」
それからは仕事なんかの話は抜きにして、もっと楽しいことを話す。
「さっき読んでいた本はおもしろい」
私の問いに彼女は本を手に取る。
「そうね。もう三回目だけど、人物の心情が細かく書かれているし、文章としても読み易いからお勧めするわ」
彼女は私に『彩りは彼方へ』というその本を渡してきた。
「リゼも読んでみるといい。主人公はあなたと同じ仕事をしているから」
どういう話か問うと、読めばわかると返された。
タイトルからは想像も出来そうにないことを彼女が口にしたので、気になって仕方ない。
「ありがとう、読ませてもらうわ」
その本を側に置く。
私が本を読むのは彼女の影響が大きい。髪型も、色は違うが自然と彼女に合わせている。
話すようになってから、いつも彼女が持っていたそれについて質問したところ、それが“本”というものだと教えてくれた。私はそれまで電子書籍でしか文字の書かれたものを見た事がなかったので驚いた。
あまり人間関係の広い訳ではないが、彼女一人から色々なことを教わっている気がする。
食事を終えた私達は外に出た。
「送っていこうか」
私は自分の車があると言ったが、彼女が私の手を掴んだ。
これから最低でも一ヶ月は会えないとなると、もう少し一緒にいたいということなのだろう。
自分の車は家からここまでの道のりを記録させていたので、自動運転に切り換えると、ひとりでに走っていった。
私は彼女の車に乗った。
「この街の安全は、リゼ達が頑張ってくれるから、保たれているのよね」
ふと、キルアがそんなことを言い始めた。
「どうしたの、急に。それに安全な訳でもないわよ」
「なんとなく。海外に比べれば充分にマシよ」
「守っているのはあなたも同じでしょ」
神代財閥はこの都市の治安維持に協力している。また、マフィアと知らない近隣住民とも友好な関係を築いている。
警視庁の上層部は裏の顔に当然気付いているだろうが、この都市を守るために協力してくれる組織を、邪険にする意味はない。
「それもそうね。私達も犯罪は少ない方がいいから」
私は、走る車の窓から外を眺める。
何気ない風景だ。行く時と同じ。
だが、私の視界に飛び込んできたもので、それは一変する。
歩道の人ごみの中に濃紺のコートに、フードを被った人物がいた。
私の中で朝に見た捜査資料が浮かぶ。“現場付近で怪しい人物を目撃した情報。当時の格好は濃紺のフード付きコートにジーンズを着用。”
「車を停めて」
私は気がつくとそう叫んでいた。
和久井さんは一瞬戸惑いを見せたが、ただ事ではないと感じたキルアが和久井さんに車を停めるよう指示する
停車した車のドアを開け、すぐに来た道を走って戻る。
人ごみをかき分け、辿り着いた。
コートを着た人物の肩を掴む。
ゆっくりと振り返ったその顔は、驚きに満ちている青年の顔だった。
「な、なんですか」
怯えるように問う青年に息を切らして告げる。
「悪いけど、身分証明の出来るものあるかしら」
私は手首の端末から警察手帳を映して見せた。
「見せてもらえる」
これは単なる職務質問。怪しいところがなければ、彼に謝罪すれば済む話。
青年は、はいと言うと、コートの中に手を入れた。
だが、コートから手を出すと同時に私を突き飛ばす。
「動くな。動くとこいつを殺す」
抜き出した手にはナイフが握られており、近くにいた女性を人質に取ったことで、周囲が騒然とする。
しかし、まだ本当に事件が起こっていると認識している者は少ないようで、何かの撮影かなどと言っている者もいる。
確信した、こいつが昨日起こった殺人事件の犯人だ。
私が起き上がると同時にすぐ側の路地裏に逃げ込んだのが見えた。
「待て」
「リゼ、何があったの」
私は追いついたキルアに、殺人事件の犯人だということを伝え、逃げた犯人を追う。
人質を連れたままならそんなに早くは移動できないはず。
私は走りながら、端末に向かって半ば叫ぶかのように本部に連絡を取る。
「治安維持課一係の秋月リゼ、二〇区の女性殺人事件の犯人を発見、追跡中。応援を要請する」
通信を切り、男を探す。
端末を弄り、本庁にあるテミスシステムの補助を受ける。私の目が暗視ゴーグルを着けたのと同じ状態になる。これにより、暗闇でも見ることができる。
前方に女性を連れて走る男を見つけた。
だが、更に先の路地を抜けた通りにいたのは、
「キルア。なんで、そんなところに」
車を停め、降りてくるキルアの姿があった。
キルアに邪魔だと叫ぶ青年。
しかし、彼女はまったく動じることなく、そこに立っている。
「まだ若いのに馬鹿なことを」
キルアがそう呟くと男は女性を後ろに投げ捨てる。
「大丈夫ですか。キルア、逃げて」
私は跳んできた女性の転倒を防ぐように寸でのところで捉え、前方のキルアに叫んだ。
だが、彼女にその言葉は必要なかった。切り掛かってきた青年のナイフを、体を少しだけ逸らして避け、顔面に一発拳を撃ち込む。怯んだ青年の腹部にもう一発強烈なパンチを叩き込んだ。
青年はその場から少し跳び、地面に伸びる。
「大したことなかったわね」
彼女は澄ました顔でそう言った。
駆けつけた香澄にまた何か言われるかと思ったが、彼女は周りの野次馬の声を聞いて、何故か笑顔になった。
そして、乗ってきたパトカーのスピーカーをオンにした。
「ええ、皆さん。今日は撮影のエキストラのために協力ありがとうございます」
言い出した内容よりも、普段見ない軽快な彼女に驚いた。
「私達はリアルなドラマ撮影のために、付近の方々に撮影と明かさずに行っておりました。もちろん、私含め彼女達は役者としてやっております」
彼女はこの状況を完全に理解できていない目撃者達を含め、テレビの撮影であったことにしようとしているのだ。
「もちろん、撮影の許可は区長にちゃんと取ってありますので、ご安心ください。それでは、お騒がせしました」
スピーカーからの声が止むと、次第に付近の目撃者達は安心したようにその場からみんな去っていった。
「あの写真、撮ってもらっていいですか」
キルアは二人組の女子学生から写真を頼まれたが、事務所がOKを出さないからごめんなさいと、断る。
「何が事務所よ」
「まあ、いいじゃない」
私は彼女の手に血が付着しているのを見つける。内ポケットからハンカチを取り出して渡す。
彼女がそれ拭き取りながら言う。
「犯人の血だったようね。これ、洗って返すから」
と、和久井さんに渡した。
「別にいいけど」
「それぐらいはさせてちょうだいよ」
私とキルアが話していると、フラフラと足取りの不安定なアリサが寄って来た。
「まったく、昨日の被害者達のセラピーも終わってないのに、大声出したから死にそうだよ」
「お疲れさま」
「ま、今回は大声だすだけでセラピーの必要はないみたいだし。良しとしよう」
彼女はそれだけ言うと、パトカーに戻っていった。
「大変な仕事ね」
「まあね。あなたが強かったからいいけど、もう犯人逮捕の協力なんてしないでよ」
「状況によるわね」
私は事後処理を任せ、キルアの車に戻り、送ってもらった。
翌日、ニュースには二〇区の殺人犯は捕まったと報道された。
但し、私達が捕まえた場所とは別の区で。
「本当にドラマ撮影って事で終わらせるんだな」
アレンが休憩室のテレビを見る私にコーヒーを渡しながら言った。
礼を言った私は、その紙カップのコーヒーを眺める。
「ちゃんと、ミルクは入ってる」
私の問いに、一つ分入れたと彼は言う。
コーヒーは好きだが、ミルクがないと飲めない。キルアにはそんなに苦いものじゃないと言われるが、まだまだ私の舌は子どもだ。
「無理に知る必要なんてないのよ。彼ら彼女らが見たのは、テレビドラマのための演出だったと思えるなら、それで」
「そうか。知らぬが仏ってことだな」
飲み干したコーヒーの紙カップをゴミ箱に投げ入れ、一係の部屋に戻る。
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