第2話:二人
「あれがそうだね」
雪原を歩きながら、不意にロイがそう言った。
見ると、真っ白な雪の中に、灰色の何かが顔を出している。あれが、ロイの言っていたアパートらしい。
近くにはロイに会った場所の雪山よりもさらに大きな雪の山、ううん、もう壁って言っても良いくらいの量の雪が降り重なっていた。
私は、その光景にふと、まだ雪に覆われる前の街の記憶が蘇って来る。そうか、あれは…
「ここ、アムトラックのバークレー駅?」
「うん、そう」
私の言葉に、ロイはコクっと頷いた。
あの場所は、ユニバーシティ・アベニューとアメリカ全土を結ぶアムトラック鉄道の線路が立体交差している地点だ。
あの高架へ上がったら、その先はそのままバークレーマリーナへと続く。その途中でインターチェンジを“降り”れば、その先がハイウェイになっているはずだ。
ということは、もしかしたら…あの上に上がれば、ベイブリッジの姿が望めるかも知れない。
そう思った私は、無意識に手をギュッと握ってしまう。でもそんなときに、私の手を引いてくれていたロイが
「慌てずに、今日はあのアパートで休もう」
と声を掛けて来た。
私は、ハッとしてロイを見上げる。
「もう、足、ずいぶん冷たいでしょ」
ロイは、私には顔を向けず、定まらない視線で遠くを見ながらそう言い添えた。
ロイと出会ってから、もうどれくらい歩いただろうか…?
朝、大学の構内から出てからのことを考えると、もっとずっと時間が経っている。
曇っていて太陽がどれだけ傾いているかは分からないけど、ロイの言うように、爪先はもう殆ど感覚がない。それなのに、痛い、というのだけはなんとなく感じられる。慣れない雪道歩き続けて、脚もくたくたに疲れていた。
このまま歩いても、どこか中途半端なところで夜を迎えるのは危険だろう。寒さのこともあるし、何よりあの大きな猫のこともある。いったい何がどうしてあんな物がバークレーの街にいるのかは知らないけど、とにかく、無理はしない方が良い。
「分かった」
私は、先を急ぎたい気持ちを抑えてそう返事をする。するとロイは、チラッとだけ私を見やって
「焦らなくても、大丈夫」
とだけ口にして、再び私の手を引いて歩き始めた。
アパートまで辿り着いた私達は、その周囲をぐるりと回って様子を確かめる。アパートはすっぽり雪をかぶっていて、屋上からほんの少し下だけが、雪の中から覗いている。窓から入るとなると雪を掘り進めなきゃいけない。それもずいぶん深くまで掘ることになるだろう。
私はそんなことを考えてロイを見上げる。するとロイも同じことを考えたのか、
「ちょっと、ここに居て」
と言い残し、地面から飛び出た屋上に這い上がった。当然、屋上にも厚く雪が降り積もって居て、ロイが手を付き、脚を踏み入れるたびに、ギシギシと音がして雪が崩れ、ロイの体が沈んでいく。
そんな中でもロイは、一箇所だけ少し小高く雪が積み上がった辺りを必死になってかいている。
何をやっているんだろう、私がそう思ったのと同時にロイは静かに声をあげた。
「あった…」
見ると、ロイが掻き分けた雪の中から、ドアと思しき何かが姿を現していた。
屋上に、ドア…?そうか、屋上に出入りするのに使うための…
私がそのことに気が付いたとき、ロイがこっちを見て声を掛けてくる。
「手伝って」
「あ、う、うん!」
私は言われるがまま、ロイが登って行き雪が避けられた場所から屋上へ上がろうと手を伸ばす。背は届くけど、背中のリュックサックが重くて体が持ち上がらない。
と、すぐにロイが手を伸ばしてくれた。私がその手を握ると、ロイは私の体を軽々と屋上に引き上げてくれる。
そんななんでもないやり取りでも、何だかちょっと嬉しい。それだけ、私が他人との触れ合いに飢えていたということだろう。
それから私達は、ドアの前の雪を除けた。上の方は比較的柔らかで苦労はなかったけど、下になるほど固く重い雪になって、私の胸くらいの高さの雪を除けるのに、ロイが折り畳み式のシャベルを取り出したくらいだ。
雪を除けたドアには鍵が掛かっていたけど、ロイが拳銃で鍵の部分を撃ち抜くと、思いの外簡単にドアは開いた。
内開きのドアの向こうは薄暗くて、その先には階段が下へと続いている。
ロイがポーチからケミカルライトを取り出してポキっとへし折った。オレンジ色の優しい光が、辺りを照らす。
私は後ろのドアを閉め、ロイが踊り場にあったロッカーを倒して外で何かがあっても開かない様に固定するのを手伝う。
きちんとドアが閉じられたのを確かめた私達は、そっと階下へと脚を進める。ロイはショットガンを静かに構え、アンダーバレルに備え付けられたライトで進行方向を慎重に照らしている。私は、拳銃は胸のホルスターにしまって、代わりに階段の踊り場にあった“マスターキー”なんて呼ばれてる緊急用の斧を握ってロイのすぐ後ろにくっ着いていた。拳銃は当てられる気がしないけど、この斧なら、重いけど、それだけに振り回せばそれなりに相手をやっつけられるかも知れないからだ。
でも、階段を降りて行った先には、結局何かがいる様子はなかった。あの猫はもちろん、人の姿すらない。
ロイは515というプレートの掛かったドアのノブに手を掛けるけど、鍵が掛かっているようで、開かない。
515、って言えば、父さんと母さんが結婚したのがMay15thだったな、なんてどうでも良いことを思いながら、私は“マスターキー”をロイに差し出してみる。でもロイは
「大丈夫」
と言うなり、フッと息を吐いてドアの辺りを蹴りつけた。バキャッと音がして、ドアがヨロヨロと内側に開いた。
ロイって…銃を使えるだけじゃなくて、マーシャルアーツも出来るんだ…
私はそのことにに驚きながら、ゆっくりと開くドアの先をショットガンのライトで照らしながら進むロイに着いて行った。
その先は、普通のワンベッドルームの部屋の様だった。リビングがあって、右手にはベッドルーム、向かいにはカウンターキッチン、左手いはバスルームがある。部屋の中もごく普通。ソファーやテーブル、ベッドにテレビに、なんて感じだ。
でも、どうやら女性の部屋のようで、ベッドルームを覗くと、女性用の下着や服が、慌ててクローゼットを引っ掻き回したあとみたいに散らばっていた。
蹴り開けたドアも、屋上のドアと同じように固定して、私達はようやくどちらともなくふぅ、とため息を吐いた。
そんなだったから、お互いに顔を見合わせて笑ってしまう。
「そのリュックサック、下ろしたら。重いでしょ?」
ロイが私に声を掛けながら、自分もショットガンや腰のポーチを外してテーブルの上に並べて行く。
「うん」
そう返事をして、私はパンパンのリュックサックを下ろすために床にしゃがみ込む。肩からやっと痛みが消えて、体がスッと軽くなった。
それなのに。
私は、どうしてか立ち上がれなかった。膝が、その膝、膝に…力が入らない。手を付いてなんとか立ち上がろうとするけど、膝から下の脚がまるで自分のものじゃないみたいに言うことを聞いてくれない。
どうしたの、なんて思う暇もなく、私はフワッと体が宙に浮いた感覚に、思わず悲鳴をあげていた。見れば、ロイの顔がすぐ近くに見える。どうやらロイが抱きかかえてくれているらしい。
ロイはそのまま私を優しくソファーの上に運ぶと、手早く私の履いていたブーツの紐を緩めて、そこから足を引っこ抜いてくれた。
ロイは着けていた手袋を外して私の足を両手で包んでくれる。でも、ロイに触られている感覚はない。鈍いジンジンとする痛みだけが伝わって来る。
「ずいぶん頑張ったからね…脚が立たないのは疲れたのと、少し気が緩んだからだよ」
ロイは静かな声でそう言いながら、感覚のない私の足の足に指を這わせている。
感覚はないはずなのに、ロイの優しい手付きが寒さと疲労で凍りついた私の足を解きほぐしてくれているのが分かった。暖かさなんてこれっぽっちも感じないのに、どうしてか胸の中がぼんやりと暖かくなって…ボロボロっと、突然涙が零れ出た。
私は自分のことながら驚いたのに、ロイは、さして同様することなく身を起こし、着ていたベストを脱ぎ、さらにはその下のウェットスーツのジッパーを降ろした。
「ロ、ロイ…?」
あまりのことにそう声をあげてしまった私に構わず、ロイはジッパーをお腹の辺りまで下げ切った。下には…ちゃんと、別の黒っぽい肌着のようなものを着ていた。
ロイは私を抱き上げると、そのまま自分がソファーに座り、その上に私を座らせた。肌着越しに、ロイの暖かい体温が伝わって来る。
それだけでも暖かいのに、ロイはウェットスーツから上半身を脱皮させ、それを太ももの辺から捻って、彼女の腰にまたがる様にして座っている私に被せてくれる。
思わずギュッとロイの体を抱きしめると、ロイも私に優しく腕を回し、中断していた足のマッサージを再開してくれる。
涙が、気持ちが、止まらなかった。こみ上げる感情が胸をギュッと締め付ける。とっても苦しくて苦しくて、だけど、まるで氷が溶けるみたいに解き放たれた私の心は、留まらなかった。
寂しかった。怖かった。三ヶ月もずっと一人で、ただひたすら母さんと父さんの帰りを待っていたんだ。いつ戻ってくるかも分からない。本当にまた会えるかも分からない。そんな不安に押しつぶされてしまいそうだった。
いつしか、私はそんな寂しさや恐怖や不安を感じないように、心に蓋をして、氷に閉ざしていたんだ。
それが、こうして“誰か”に会って、そしてまるで私の気持ちを全部分かってくれているみたいに優しく、言葉は少ないけど暖かに接してもらって、一気に溢れ出ている様だった。
私はいつしかしゃくりあげ、ロイの胸元に顔を埋めていた。母さんに甘える赤ん坊みたいに、私は、全身を包んでくれる温もりを感じていたかった。
「大丈夫…大丈夫だよ…もう、一人じゃない…」
ロイが静かにそう囁いてくれる。私はそれに頷くしか出来ない。それでもロイは、ギュッと私を抱きすくめ、
「怖かったよね…それに、寂しかったよね…」
と、伝え返してくれる。その言葉に、私はとうとう耐えられなくなって、ロイに一層強くしがみついて、泣き声を上げ始めてしまっていた。
どれくらい泣いたか、ふと、私は、相変わらずしゃくりあげながらも、妙なことに気が付いた。ロイの体は、確かに暖かい。でも、それ以上に、ロイの被せてくれたスーツに包まれた私の背中辺りの方が、より一層暖かくなっている。
そのおかげか私は胸の奥まですっかり暖まって、気持ちもどうにか落ち着いて、ロイからほんの少し、体を離した。
スンスンと鼻水をすすってから
「ロイ、この服、なぁに?」
と聞いてみる。するとロイは、微かに目尻涙を浮かべながら
「サーモスキン、って呼んでる。中に電熱線が通ってて、バッテリーに繋ぐと暖まるんだよ」
と、スーツの端っこを引っ張って、あの電源ケーブルのようなものを見せてくれる。どうやらそれは、腰の辺りから伸びているらしい。そっか、だからロイは寒くなかったんだね…
「ありがとう、ロイ」
「うん。足の感覚、もう戻った?」
ロイの問いかけに、私はいつの間にやらスーツの中に潜り込まされていて、ロイの指先の感覚も覚え始めていた爪先を動かしてみせる。
「大丈夫みたい」
「良かった。凍傷にもなってないみたい」
そう言うと、ロイは一度、ギュッと私を抱きしめてから、少ししてその力を緩めてくれた。
ロイは、あんまりおしゃべりは得意じゃないかも知れないけど、とっても鋭く気が付ける人で、私の気持ちを受け止めてくれた。それだけでも、彼女がすごく優しい人なんだ、ってのが伝わって来る。
それが、私をそこ抜けに安心させてくれた。
それに絆されたのか、急に私のお腹がグルルっと音を立てた。あんまりにも突然で、しかも大きな音だったものだから、私達は一瞬、顔を見合わせて、同時にプッ吹き出して笑ってしまった。
「お腹空いたんだね」
「朝からずっと歩続けてただけだからね…ディナーにしなきゃ」
私はそう言って、ロイの体に手を付いてそっと立ち上がる。ロイのマッサージのおかげか、膝はすっかり力を取り戻していて、私の体を支えてくれる。
「良かったら、食べ物分けてくれないかな?私、固形かジェルのレーションしか持ってないんだ」
ロイは、私がスーツから足を抜くのに、体を支えてくれながらそう聞いて来る。
「うん、母さん達の分も考えて持って来たから…暖かくして一緒に食べよう」
こんなに優しくしてくれるロイに食事を分けてあげられないほど私はイヤなやつじゃない。ロイほど優しいかって聞かれたらイヤなやつの方に寄ってるかも知れないけど、例え母さん達の心配をして準備した食糧でも、ロイのためなら私は喜んで分けてあげたい。
そう思って、私はリュックサックの口を開け、中からお鍋とガスボンベのバーナーを取り出す。
その下にたくさん入れてきたのが、コンビニエンスフードの数々だ。ヌードルにパスタにリゾットもある。お湯で煮るものと、電子レンジの変わりにお鍋で温めれば完成するのと、いろんな種類を持って来ていた。
「ロイ、いっぱい食べそうだから…半分くらい交換でいいかな?」
私はそうロイに提案してみる。するとロイは、一瞬、キョトンとした表情を見せた。そんなロイの様子に私も思わず首を傾げてしまう。も、もしかして半分じゃ足りない、とか…?う、ううん、優しいロイのことだ、半分も分けてあげるっていうのに驚いているに違いない。もしかしたら、今晩の分だけでも、なんて考えているのかも知れない。せっかく助けてもらって、こんなに優しくしてくれたのに、たったそれだけじゃ、私の気持ちが収まらない。
「ロイは命の恩人だから、半分あげる。本当は母さんと父さんの分なんだけど、きっと話せば分かってくれると思うから、気にしないで」
私は言い含める様にしてそうロイに伝える。でも、その言葉にハッとした様子のロイは、やおら笑顔を見せて私に言った。
「そうだった、言ってなかったね。私もね、レイチェル。あなたが行こうとしてる研究所に行く用事があるんだよ。だから、そこまでずっと一緒なんだ」
***
「あ、ロイ! そ、そんなことしたらダメだよっ!」
「大丈夫、大丈夫。この食べ方、以外と美味しいんだよ」
「あっ、あぁっ、あぁぁ………」
私が止めたのにロイは、先に温め終わったリゾットを、お湯で戻したヌードルの中に豪快にひっくり返した。哀れ、私が食べようと思ったリゾットは、ロイが選んだヌードルまみれになって、お湯の中を泳ぎ始める。
「こういうの、モッタイナイって言うんだよ」
「ジャパニーズね」
ロイはどうやら、本当に久しぶりに暖かい食事を口にするようで、出会ってから一番のハイテンションになっているのが分かる。言葉少ななのは相変わらずだけど、それでも、表情が緩んで、ニッコニコだ。
ロイはフォークでヌードルをぐるぐるとかき混ぜ、その先っぽで泳ぐヌードルを一本を釣り上げると、ツルっと端っこを口含んでしてご満悦の表情を浮かべる。
「ん、もう大丈夫そう」
嬉しそうにそう言うロイは、ヌードルまみれのリゾットを、部屋の食器棚から借りた私のボウルに山盛りにしてくれる。その表情や、優しいロイが私のリゾットを勝手にヌードル漬けにしてしまうのを見れば、どれだけ浮かれてしまっているかは一目瞭然だ。
でも、喜んでくれるのは嬉しいし、それに、私も久しぶりに一人じゃないディナータイムなんだ。リゾットのことなんかでプリプリ怒ってなんて居られない。
私は、嬉しそうに
「食べて」
なんて言うロイに促されて、フォークで一口、ヌードルリゾットを頬ばった。
暖かくてちょうど良い具合いにとろみのあるリゾットとヌードルかが絡み合い、リゾットのスパイシーな風味とヌードルのスープの優しい味わいが重なり合う。
あまりの衝撃に私は思わずロイを見やっていた。ロイはなんだか得意な笑顔を浮かべて
「美味しいでしょ?」
と聞いて来る。私は何度も頷いて、続けざまに二口目、三口目を頬張って、舌のうえで繰り広げられるパーティーを味わう。
ロイもそんな私に満足したのか、自分もニッコニコの笑顔でヌードルリゾットをお鍋から直接掻き込み始めた。
私達は、せっかくの二人の食事だというのに、お互いにほどんど喋らずに、ただただこのアメイジングなディナーに夢中になっていた。
でも、それもほんの僅かな時間。
あんまりにも美味しかったから、ついつい次から次へと口に運んでいた私達は、スープを一滴残らず飲み干すのにも、ほとんど時間を使わなかった。
私達は、ディナーの満足感と、体の中から暖まってくる安心感とで、二人並んでソファーに身を預けた。
「初めてのフレーバーだったけど、美味しかったよ」
私はロイにそう感想を述べる。するとロイはクスっと笑って
「二人じゃないと出来ない食べ方だしね」
なんて言う。
確かに考えてみれば、このディナーは二食分の材料が必要だ。私一人では食べ切れない量で、残しておいたらせっかく暖かいのが冷えてしまって、次に食べるのに温め直しても、今度は美味しくなくなってしまうだろう。
まさにロイの言うとおり、二人いるから美味しく食べられる方法だった。
「そうだね! ねえ、他の組み合わせで美味しいのはある?」
私が聞くとロイは宙に視線を投げて
「そうだなぁ、パスタとリゾットはあんまり美味しくなかったよ。今の組み合わせが一番。二番目は、チャイニーズリゾットとパエリアかな」
と、思い出すようにして教えてくれる。
それを聞いて、私はまた嬉しさを感じた。明日からは、ロイと一緒に研究所を目指すことになる。二人で食べれば味も心もお腹も暖かくて、安心できて、それで嬉しい。
そんなことを思って、私はふと、さっきロイが話したことを思い出す。ロイが始めたリゾットとヌードルのフュージョンと、それが生み出した美味しいディナーに気を取られて
「話しは、お腹いっぱいになってからにしよう」
と提案してくれたのをすっかり忘れていた。
「ね、ロイ。さっきの話だけど…」
私がそう話題を戻すと、ロイも
「あ」
と小さな声をあげて
「そうだったね、忘れてたよ」
なんて言って苦笑いを見せた。
それからロイは、ほんの少しだけ姿勢を正した。私もきちんと話を聞く態度を作って、ロイの言葉に耳を傾ける。
「…私もね、科学者なんだ」
ロイは、静かな声でそう話し始めた。
「ほら、さっき見たでっかい猫がいたでしょ?あれは元々、カリフォルニアのどこにでもいた野良猫なんだよ」
せっかく話が始まったところなのに、私はいきなり驚いてしまった。あれが、普通の猫だったの…?だって、あれは…ほとんどトラとおんなじだった。もしそれが本当なら…いったい、何が起こったって言うんだろう…?
そんな私の疑問を、ロイはすぐに感じ取ってくれたのかどうか、さらに話を進めていく。
「ロシアに落ちた隕石せいなんだよ。いや、あれに付着していた一種のバイルスのせい、かな」
「バイルス…?ってことは、病気なの?」
「正確に言うと、バイルスと細菌の中間みたいな構造してるみたいなんだけど…とにかく、具合いが悪くなるだけなら良いんだけどね…あのバイルスは脳下垂体に感染して、成長ホルモンの分泌を過剰に促進させるんだ。その結果、あんな大きな姿になるんだよ」
「…あの猫みたいに…?」
「うん、最初は鳥類だけだった。でも、それが変異を起こして、ネコ科動物にも移るようになった。さっきの猫だったからまだ良かったけど、同じネコ科でも、最悪なのがピューマ。猫がトラサイズになるんだから、あれにピューマが感染したら…」
「もっと大きくなっちゃう…?」
「見た中で一番大きかったのは、ウマくらいのサイズだった」
「ウマ!?」
「うん。でもね、それだけじゃない。もう、猫から犬への感染始まってるんだ。ピットブルにでも感染ったら、恐ろしいことになる…もうそうなったらゾウだね…」
ロイの言葉に私は、息を飲んだ。
ピットブルって言ったら、世界で一番狂暴なイヌだ。私のいたバークレーの中でさえ、一年に何人かは大ケガをしたり噛まれて死んじゃったりするなんて話を聞くことがあって、私も出掛けるときはペッパースプレーを持たされていたくらいだ。
ちゃんとしつけをされている子は平気だって母さんは言っていたけど、とにかく、それくらい狂暴なイヌが、ゾウみたいな大きさになっていたら、もう恐竜みたいなものだ。
そんなことを思って身を震わせた私は、ふと、もっと恐ろしいことに気が付いてしまった。ピットブルがゾウになるんだ…もし…もし、あのとき襲って来たネコと同じ種族のライオンやトラに感染したら…
「ど、動物園ライオンとトラだったら…?」
私は恐る恐るそう聞いてみる。するとロイは、難しそうな表情を浮かべながら、それでもあっさり答えた。
「それは確かめて見たけど、ダメだったみたい」
「ダメ…?」
「うん、元々体が大きい生物はそれ以上成長しても体が耐えられないみたいでね。自重で歩けなくなったり、内蔵に変調が出て、長く生きていられないらしいんだ。確かめられてはいないけど、もしゾウやバッファローに感染したらとしても、恐竜みたいなサイズに成長する前に、体の重さに耐えられなくなる…」
そこまで言うと、ロイはふぅ、とため息を吐いて、相変わらずの静かな声で、少しだけ重そうな口調になって続けた。
「…厄介なのは、このバイルスが人間に感染するまで変異したら、身体的な構造上、生きてはいられないってこと。二足歩行の人間は、四足の哺乳類とは負荷の掛かり方が違うからね。だから、そうなる前に、治療薬を開発しなきゃいけない。この寒冷期が収束を迎えたら、動物達の動きが活発になる。そうなったらもう時間の問題なんだ」
私は、それを聞いてロイが難しい表情をしたり、重い口調になった理由を理解した。あのネコや他の動物が本当の意味では脅威なわけじゃない。私達人間にとって…ううん、もしかしたら、この地球の生態系そのものが壊れてしまいかねない状況なんだ。でも、たぶんそれを他の生物が解決出来る見込みはない。だから、私達人間がどうにかして対処しなきゃいけないことなんだ。隕石が落ちた混乱の中で、ロイはそれに気が付いて、こんな状況でもそれを解決しようとしているんだ。
「…それで、父さんの研究所に行きたいんだ?」
「うん、そういうこと。体が大きくなるから、本来は鳥類は飛べなくなるはずなんだ。実際、ほとんどの鳥はそうなった。だけど、カラスは飛んでいたでしょ? 他にも渡り鳥に、他の動物ほど大きくならないで、飛べる能力を維持できている種類を幾つか確認出来た。その鳥達がバイルスを広めちゃったみたいなんだけど、言い換えればその種の鳥はバイルスに対する抗体を作り出せた、ってことになる。カラスを追ってこんな格好で移動してたら、偶然あなたの足跡を見かけて、慌てて追いかけたんだ」
ロイはそう言うと、やおら優しく私の頭を撫でてくれる。そして、優しい笑顔を見せて
「無事でいてくれて、良かった」
と言ってくれた。
私は思わず
「私も、ロイに会えて良かったよ」
なんて、話を脱線させてしまう。でも、ロイはそんなことは気にせずに
「ありがと」
とお礼を返してくれた。
とにかく、あのネコのことや、ロイが研究所に行きたい理由は分かった。
私は、母さんと父さん探すために。ロイは、バイルスのワクチンを作るために。目的は違うけど、でも、目指している場所は同じだ。
泣いてしまったときに、ロイは言ってくれた。
「大丈夫だよ。もう、一人じゃない」
って。本当に、その言葉通りだ。これから先は、研究所に着くまでロイと一緒だ。それは、私にとって、やっぱり嬉しくて頼もしくて、何より安心できることだった。
「じゃあ、明日のディナーはリゾットとパエリアの組み合わせだね」
私は、難しくて込み入った話の雰囲気を変えようと、さっきの話を蒸し返してみる。するとロイは、思った通りの嬉しそうな笑顔を浮かべて
「うん、そうしよう」
なんて、静かな声で、言葉少なに賛成してくれた。
それから私達は、明かりを落としてベッドルームへとこもった。
疲れた体で這い上がったふかふかのベッドマットが、私の体を柔らかく受け止めてくれる。こんなにちゃんとしたベッドで眠るのは久しぶりだ。
母さんに連れて行かれたシェルターには、病院に診察台にブランケットを貼り付けた程度の固くて狭い簡易のベッドしかなくって、そこに寝袋に包まって眠る生活をしていた。
だから、こうして両手足をピンと伸ばして気持ち良く体を休ませられたことはない。
それだけだって十分嬉しいのに、今晩は、ううん、今日からは、一人じゃない。ロイが一緒のベッドに入って、小さな頃、眠れない夜に母さんにしてもらったように、寄り添って横になってくれている。
一緒に一枚のブランケットを被っているだけで、いつもより一層暖かく感じる。
窓の外は雪に覆われているのに、外からはごうごうとと吹き荒れる風の音が聞こえている。夜になって、急に気温も下がった。昼間は雪も止んでいたけど、日が落ちれば気温は下がるし、気候もまだ不安定で吹雪になったりしてしまうようだ。
ロイに言われた通り、ここで休むことにして正解だった。そうでもしなかったらもしかしたら、私は、バークレーの街中で遭難してしまっていただろう。
「ねえ、ロイ?」
「ん、なに?」
目を瞑りながら声を掛けたら、ロイの静かな相槌が聞こえた。
疲れているし、眠たい。でも私は、ロイおしゃべりがしたい気持ちだった。だって、こういうのも…すごく久しぶりだったから。
「私達の他にも、生きている街の人はいるかな?」
それは、このアパートに入ったときに、頭のどこかで思っていたことだ。アパートの中には、人の気配はなかった。でも、少なくともこの部屋には、例えば凍えたり飢えて死んじゃったりしている姿はどこにも見当たらない。
そんな私の言葉に、ロイの返事はごく単純だった。
「いないよ」
ロイの腕が伸びてきて、私はギュッと抱きしめられた。
「こうなる前に、避難勧告が出てたからね。ほとんどの人は南部に避難したんだよ。残った人がいたとしても、シェルターみたいに安全な場所にいなかったら、今頃はもう助かってはない」
やっぱり、そうなんだね…。薄々は、感じていた。避難勧告がでなくったって、こんな異常気象が始まったら誰だって逃げ出すに決まっている。私だって、母さん達と一緒だったらすぐにでも逃げ出しただろう。
だけど、だからと言って母さん達が無事じゃないなんて考えはしなかった。父さんの研究所はとても大きいし、設備も最新だ。シェルターだってきっとあるし、そこに隠れているに違いない。
私はそんなことを思って、ふと、それが自分への言い訳だっていうことに気が付いていた。不安なんだ。もしかしたら、二人はもう、どこかで死んでいるかも知れない、って考えてしまったら。
思わず、ロイの着ていたアンダーウェアをギュッと握ってしまった私の背を、ロイは優しく撫でてくれる。
「ロイは…家族は?」
私は、胸をジワジワと締め付ける不安を忘れたくて、ロイにそう聞いてみた。するとロイはまた、私の体に回した腕にギュッと力を込めて
「死んじゃったんだ…ずっと昔にね」
と、落ち着いた声で言う。しまった、と思ったけれど、同時にロイが私の背をトントン、と叩き始めて
「気にしないで。本当にずっと昔のことだから」
と囁いた。
でも、私は自分のことも相まって、ギュッと胸が苦しくなってしまう。もしかしたら、ロイもずっと寂しかったのかも知れない。ロイも私と同じ気持ちを知っているから、こうして私に優しくしてくれるのかも知れない。そう思ったら、私は、無意識にロイにしがみついていた。
私なんかがロイを安心させてあげらるかは分からない。もしかしたら自分が安心したいからそうしているのかも知れない。でも、とにかく私は、ロイに助けてもらっている分、ロイに寂しい思いをさせないようにしよう、って、そんなことを思っていた。
ポンポンと、ロイの手が私の背を優しく叩く。私は、きっとあるに違いないって感じた、ロイの心に開いた穴を自分で塞ごうとするように、ロイに身を寄せ、そのままいつの間にか眠りに落ちていた。
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