第16話 白色の決断
家に帰り、風呂に入ったあと、今まで黙っていたセレナが『マスター』と呼びかけた。
『大丈夫ですか、マスター』
ましろはベッドの上で、天井を眺めていた。窓の外からは、雨音が聞こえてくる。鏡で見た自分の顔を思い出す。舞子たちが驚くほど、瞼が腫れていた。まるで自分の顔じゃないかのような、酷い顔だった。
「――死ぬのって嫌だね」
『そうですね。「死」は終わりですから、誰だって終わりたいと思いませんよ。終わって欲しいとは思いません』
「そう……なのかな」
『そうだったんです。私のいた世界では。しかし、この世界は平和すぎるが故に、そういった感覚が麻痺してしまっているようです。簡単に誰かの死を望む。それがどんなに罪深いことかを知らないで』
「どうして違ってるのかな」
『死に触れることが少ないからですよ。特に自分の死については』
「自分の死に触れる……」
『そうです。自分が死ぬことなんてない。自分は天寿を全うできる。そう勝手に思い込んでいるんです。人間の命は、脆い。簡単に失われる。だからこそ尊いというのに、それに気付いてすらいない』
壮絶な世界を見てきたからこそ、放つことのできる言葉。そしてそれを知っているからこそ、その身に染み渡らせるようにセレナの言葉を信じることができる。
『死を恐れて生きてこそ、命は輝くものですよ』
唯一無二のもの。替えは効かない。余分に持つこともできない。その生はただ一度だけのものだ。始まりも一度、終わりも一度。二度目はない。そのことを噛み締めなければならない。しかし人間がそれに気付かされるのは、思い出すのは、いつだって誰かの死に触れたときだ。普段は、そのことを忘れてしまっている。
なぜ忘れてしまうのだろうか。
「美雪さんが死んじゃったのって運命だったのかな」
『運命とは誰か一人がいて成り立つものではありません。複数人の様々な思惑、行動があって初めて運命は決定されます。芹沢美雪が命を落としたのは、酷い言い方になってしまいますが、それこそ彼女自身が悪かったのです』
「そんなの――」
そんな言い方をされると、くやしくて仕方がなかった。それでは、あの日、ましろが美雪に会ったことでさえ、彼女の死に繋がってしまったと言っているようなものだ。こんな後悔の念が生まれるのなら、いっそのこと決定されたことと断言された方がマシだった。ましろは目元に溜まった涙を零れさせないように堪え、歯を噛み締めた。
今、みずきはなにをしているだろうか。どこにいるだろうか。温かい親族に誘われて、数人と過ごしているのか。それともあの家で一人なのだろうか。
額に手の甲を当てた。ひどく熱くなっている。
頭に浮かび上がってくる言葉。ましろは精一杯それを振り払おうとした。たしかにそれで、みずきを絶望から解放させることができるかもしれない。そもそもこんなことにならなかったようになるかもしれない。こんなに悩まなくても、苦しまなくてもよかった「今」を手に入れられるかもしれない。だけど、それは禁忌なのだ。超えてはならない領域に足を踏み入れてしまう。
できてしまうのだろうか?
救い出せるのだろうか?
できてしまっていいのか。
救い出すことがいいことなのか。
長らく黙り込んでいたましろは口を開く。
「あのさ、セレナ」
『はい』
「私、美雪さんを生き返らせたい」
否定して欲しかった。一言、「できない」と言われれば、このふざけた葛藤とも縁を切ることができる。苦しんでいるみずきに駆け寄ることができるかもしれない。彼女の心を救うことができる可能性もある。
しかし、ましろにはその勇気がなかった。彼女の心にできてしまった深く、そして暗い絶望の穴を、自分が埋めることができるのだろうか、美雪と同等の存在になりえるのだろうか、と心配で、不安だった。
頭の中がめちゃくちゃだった。誰かに荒らされた部屋のように、記憶が、思いが、考えが床に散らばっている。思考錯誤した結果だった。みずきを助けたいと思い、その方法を探し、見つけたかった。
自分になにができるのか。なにもできない。
自分が代わりになれるのだろうか。代わりになれない。
自問自答を重ね、見つけてはいけない答えを見つける。そこからさらに苦悩する。
いけないとわかっていた。
だけど、
それでも、
もう一度でいいから、美雪の笑顔が見たかった。
セレナはしばらく間を開けた。
『――それがマスターの願いというのなら』
不安定な気持ちを落ち着けるために、ましろは水を飲もうとリビングに向かった。夜も深まり、静けさが家の中に広まっていた。
リビングへ続く扉は少し開いており、その隙間から光が漏れていた。詩郎と舞子の話し声が微かだが聞こえてくる。
「眠れないのかい?」
詩郎がいつもの優しい声色で訊ねてきた。ましろは頷く。
「なにか用意しよう」
キッチンへと向かった詩郎の背中を少し追い、それから両親と対面するいつもの椅子に腰かけた。
テーブルの上には外国語のラベルが貼られた酒瓶と琥珀色の液体が入った二つのグラスがあった。舞子はいつも詩郎の作った肴を食べながら大好きな酒を飲むのに、今夜はそうしていない。
「ましろ……大丈夫?」
「私は大丈夫」
みずきに比べれば、自分の傷心など些細なことだ。ましろはそんなふうに思いながら、詩郎が戻ってくるのを待った。
その間、会話はなかった。ましろは詩郎を待っていたし、舞子はそんなましろの心中を察して口を開かなかったのだろう。
やがて詩郎がホットミルクを持って戻ってきたのを皮切りに、ましろは胸に秘めていた言葉を吐き出そうとした。しかしそれは別の感情、別の意思によって妨げられ、ほんの一部分のところで飲み込まれる。
「どうしたんだい、ましろ」
詩郎も舞子もましろの言葉を待っている。
ホットミルクを飲み、一息つく。少しだけ身体が軽くなったような気がした。
「もしさ……、なんでも願いが叶えられるとして……、私が死んじゃったら、お父さんとお母さんはどうする?」
湯気の立つホットミルクに向けていた視線を二人に向けた。二人とも少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの表情に戻る。
「どうしてそんな質問を?」
そう投げかけられると思った。しかし二人はすぐには返答をしなかった。
リビングには家族全員が揃っているのに、聞こえてくるのは時計の秒針が等間隔に刻む音だけだ。普段気にも留めない音が重い。本当に生活に溶け込んでいる音なのかを疑ってしまうほどだ。
最初に口を開いたのは舞子だった。グラスを傾けたあと、静かに答えた。
「私はましろを生き返らせようとはしないよ。たぶん、詩郎さんも同じ答えだと思う。たとえどんな願いを叶えられるとしても、それだけは絶対にやらない。それが詩郎さんだったとしても」
ましろは詩郎の顔を窺う。優しい顔がそこにはあった。
「僕も舞子さんと同じ答えだよ。舞子さんが不幸な目に遭って、それが納得のいかないことだったとしても、生き返らせようなんて思わない」
「どうして?」
「世界の理に、そして僕たちの意思に反することだからだよ」
「私たちの意思」
「なんでも願いが叶えられるからといって、誰も犠牲にならないとはかぎらないと僕は思う。そんな都合のいいことがあるとは思えない。百歩譲っても、必ずなにか条件がないと釣り合うはずがないよ」
まるでなにもかもを見通しているかの発言に、ましろの身体は強張った。これから自分がする行動を咎められているような気さえする。だが、魔法使いは使命さえ果たせば、願いを叶える権利を得られる。
世界中に散らばっている精霊の欠片さえ倒せばいいだけだ。
犠牲があるとすれば、それはましろが心を浪費してしまうことくらいである。
「だから、そんな犠牲を僕は許せない。僕が生き返るために誰かが犠牲になるのなら、生き返らなくてもいい。綺麗ごとかもしれないけど、僕は心の底からそう思ってる」
「お母さんも?」
「そうよ。ましろは違うの?」
違わない。
もし自分が助かるために誰かが犠牲になったのなら、もしそれをわかっていて両親が願ったのなら、きっと喜びよりもまず申し訳ない気持ちと罪悪感で満たされ、どう生きていいのかわからなくなるだろう。
たぶん芹沢美雪も同じはずだ。誰かを犠牲にすることを許容しない。
誰も犠牲にはならない。
いつも以上に頑張ればいいだけだ。
より思いは強く。
決心は固くなる。
『人を生き返らせるということは、ありふれた願いで、しかし最も叶うことのない願いです。それを叶えようとするのなら、その対価は壮絶なものになるでしょう』
「できるのならやる」ましろはぎゅっと魔法杖を握りしめた。
『ミッションが開始されれば終了まで帰還することができません。いくら向こうでの時間とは切り離されているとはいえ、マスターの心的疲労は蓄積されます。構いませんか?』
ましろは強く頷いた。
向こうの時間で、午前三時ちょうど。ましろは結界の中に足を踏み入れていた。色褪せた空間で、雨は降っていない。いつもと変わらない。そう、ましろにとってこの空間は「いつも」を比較できる場所であり、もう「日常」の一部として浸食しているのだ。
人を生き返らせるという願いの重みはわかっていた。どれだけの間、ここで精霊を倒し続けなければいかないのかは想像することができないが、もしかすれば無限に近い数を倒さなければならないかもしれない。世界のために戦い、みずきのために願いを叶える。
決断していた。
それが禁忌だとしても、そのためだけにましろは戦う。
尽くせる力を尽くし、明日を迎える。
ここでの数時間は、向こうでは一瞬にも満たない。一日ですら一秒に満たないかもしれない。体感では数年ほどここで過ごすことになるだろう。内面だけが、大人になってしまうかもしれない。次に現実に戻ったとき、ましろは「今までの自分」じゃなくなっているかもしれない。
その変化に、みんな驚くだろう。もしかしたら心配してくれるかもしれない。
みんなの中に、美雪がいて欲しい――。
ましろはそう思った。
『では、始めます』
「お願い」
ミッションは、セレナが世界に「願い」を送り、その対価分の内容が空間に表示される。空間に現れる画面のようなものにも慣れた。何度か試したことがあった。叶えたい願いがある場合は、無作為に精霊を倒すよりもずっと効率的である。
空間に「ミッション」の文字が表示される。続いてその内容も現れた。
「え……?」
思わず声を漏らしたましろの前に現れた文字列。それにはセレナも『まさか』と驚きを表していた。
提示されたミッション。その内容は、
《魔法使いの討伐》
そしてさらに続き、
《対象:芹沢みずき》
※
鍵を差し込み回してみると、施錠がされていなかった。ああ、そうか、と思い出す。もうなにもないから鍵を閉めるのをやめたのだ。
空っぽの家。
もうなにもない。
帰宅した際に言っていた「ただいま」ももう言う必要がなくなってしまった。だいたいは返答がないのだが、たまにある「おかえり」が楽しみで、いつも欠かさなかった。
家の中は真っ暗だった。暑い雲が空を覆い、雨も本格的に降っているため、月明かりもない。ただただ暗い。黒い。
湿った靴をどうにか脱ぎ捨て、框を上がる。べちゃり、と音が鳴った。
どうでもよかった。
家が濡れることも。
身体が水浸しであることも。
寒いのかどうかもわからないことも。
どうでもよかった。
テーブル席に着く。
力なく。
まるで人形が乱暴に置かれるように。
そこがみずきの定位置だった。美雪がその正面だ。
顔を上げ、水の滴る前髪の間から正面を見た。
誰もいない。
当たり前だ。
美雪はもういないのだから。
事故死した。
みずきは困惑した。
どうして美雪がもういないと思ってしまったのか。
どうして事故死だと思ったのか。
そんなことありえるわけがない。
美雪はまだ帰ってきていないだけだ。そのうちひょっこりと玄関の扉を開けて帰ってきてくれるはずだ。疲れを感じさせない「ただいま」の一言を聞かせてくれるはずだ。
「どうしたの、明かりも点けないで」
「床も濡れてるじゃない」
「すぐに着替えないと風邪ひくわよ」
「お風呂で温まってきなさい」
「私はあとでいいから」
「大丈夫だよ。それよりも母さんが先に行きなよ」
しかし返ってくるのは、窓や地面を叩く雨音だけだった。また少し強くなったようだ。
みずきは渇き切った笑い声を上げた。
全部妄想だ。美雪が返ってくることも、そんなふうに声をかけてくれることもない、正面の椅子に座り、みずきの作った夕飯を食べて笑顔を見せることもない。
みずきは思い出す。
家に入る前、ここにはなにもないと思った。
ついさっき美雪が事故死したことを再認識した。
否定したところで、この現実は変わりようがない。そういう世界だ。人が死んで生き返ることは決してない。誰もが望み、誰もなしえなかった。不可侵入の領域。それこそ髪でもなければ不可能だ。
しかし。
しかしもしできるのだとしたら。
ただの人間にはできなくとも。
願いを叶える権利を持つ魔法使いになら――。
「ねえ、クロノス……」
『わかってる』
「母さんとまた暮らせるかな……」
『不可能じゃない』
ただ、と精霊であるクロノスは続ける。ほんの数日前に出会ったばかりの得体の知れない存在だが、その力は本物だ。
それに、今となっては信用などどうでもよかった。たとえクロノスの存在が嘘であったとしても、願いを叶える力が本物である事実さえ否定されなければ、あとのことは気にもならない。
『相当な対価がいる』
「いいよ」
なんでもやる。
母さんとまた暮らせるのなら。
やがて暗闇の中にA4サイズほどの画面が映し出され、文字が浮かび上がる。最初こそ驚いたものの、もう慣れてしまっていた。
《魔法使いの討伐》
《対象:香坂ましろ》
「まし、ろ……」
親友の名前がなぜだかそこにあった。その前には「魔法使い」とはっきり記載されている。彼女もまた自分と同じように、精霊と契約をした魔法使いだった。
いったいなにを願ったというのか。
なにを思い、魔法使いになったのか。
そんなことは考えるまでもない。
きっと誰かを助けるためになったのだろう。
「優し過ぎるよ、ほんとに」
嫌になるくらい。
気持ち悪いくらい。
反吐が出るくらい。
だったら。
そこまで誰かを思うというのなら。
「私のことも助けてよね」
すべては美雪のために。
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