第8話 白色の日常
息も絶え絶えになんとか教室に辿り着いたましろは、出席確認でまだ名前を呼ばれていないという担任教師の計らいで遅刻にならずに済んだ。担任教師に感謝しながら、ましろは席につき、その後、時間割の午前の部をなんの問題もなく消化していった。
もちろん、ただ授業を受けていただけではない。昨日のこと――つまり、セレナが言っていた魔力を制御する練習をした。この世界ではイメージトレーニングしかできないため、ましろはシャープペンシルを杖に見立てた。
魔力を集め、ある程度の大きさで留める。
昨日の出来事を思い出し、重ねながら、イメージし続けた。
それは思ったよりも神経を使うということに、ましろは気付いた。周りから魔力を集めることは容易だったが、その集めた魔力を留めておくことは難しかった。留めているイメージが途中でぼやけてしまうのだ。表面から周りへ散っていったり、形が崩れてしまったりした。
それに、油断をしていると無意識の内に魔力を集めるイメージが湧いてくる。歪んだ形を補強しようとしているからだと、ましろはその注意をノートの端に書いた。こうして少しでも気付いたことがあれば、書き記していく。そしてあとでセレナに相談しようと思った。
だいたい五分間ほど練習して、休憩がてら授業を聞いた。授業によっては練習する暇がないため、できるときに精一杯やった。学生としての本分を蔑ろにしてしまっているが、今日だけは魔法使い側を優先した。
「まっしろー! 弁当食おうぜ」
昼休みに入り、ましろが頭の中で魔力制御について整理していると声をかけられた。それは朝に聞くことができず、授業の合間にある休み時間にもいろいろあって聞けなかった声だ。
机の上には、大きな弁当箱が置かれている。その量は、ましろのものよりも数倍以上あった。とても女子が食べる量には思えない。
「相変わらず大きなお弁当だね、みずきちゃん」
「そうだろー。ましろも食べないと大きくなれないぞ、いろんな部位が」
「こ、これからだもん!」
芹沢みずきは、中学校で最初にできた友達だった。新しい環境に馴染めずにいたましろに、みずきが声をかけたことがキッカケである。人当たりもよく、ハキハキとした性格はましろとは正反対のものだ。
髪は肩に届かない程度で、後ろ髪は小さなポニーテールに結ってある。猫のような瞳が特徴的だ。ましろの慧眼では、おそらく学年で一番のスタイルを所持している。ましろが自分の身体を気にしてしまうのは、この友人の影響も大きい。
「まあまあ」と言いながら、みずきはましろの前の席に座る。そこは男子の席だが、今はどこかへ出かけているようだ。
「それにしても、ましろが遅刻しかけるなんて思わなかったよ」
「あ……、ごめんね。待たせちゃったでしょ?」
「うんにゃ、あれくらいならなんともないさ。私としては、ましろになにかあったんじゃないかって、そっちを心配したよ」
机いっぱいに広げられたみずきの弁当箱は、三段の重箱だ。上の段は野菜や果物、中の段には肉類、そして下の段は白米が敷き詰められている。ましろが一日で食べられるかわからない量を、みずきは難なく平らげてしまうのだ。それでいて、体は引き締まっているのだから、ましろとしては、その体の構造がどうなっているのか謎だった。
対照的に、ましろの弁当箱は小さなものだった。ごく普通の、女子が使うサイズのものだ。彩り豊かなその中身は、ましろの空腹を満たすのに充分な量である。
「可愛いお弁当だねぇ」みずきがましろの弁当を見て言った。「そんなんでお腹が膨れるとは思えないよ」
「これが普通だよ。みずきちゃんが凄いんだよ」
「かっかっかっ! 存分に褒めるがいい――なんてね。ま、全部特売品なんだけど」
「でも、みずきちゃんの手作りでしょ? それだけで凄いよ」
みずきの家は母子家庭である。父親がいない理由をましろは知らない。それを訊いてしまうと、今の関係に亀裂が発生するような気がしていた。もちろん、みずきはそれを億尾にも出さないだろう。そもそもそんなことを気にしないのかもしれない。けれど、やはり一度も触れられていない話題というのは、そのまま触れずにいた方がいいと思えた。
「そういうましろのお弁当は、詩郎さんだよね。舞子さんが作るとは思えないし」
「お母さんに言ったら怒られるよ?」
「『私だって作れるわよ!』って感じかな」みずきは舞子の声を真似た。
「無駄に上手いよ!」
「でも、舞子さんは幸せ者だよね。詩郎さんみたいな旦那さんがいて、ましろみたいな娘がいるなんて、憧れちゃうよ」
「そうかなぁ」ましろは自分の家族が褒められたことに照れた。
「というわけで、私は詩郎さんと結婚する」
「え?」
「そして、香坂家の一員となるのだ」
「だ、ダメだよ! お母さんがもっとなにもしなくなっちゃうよ!」
「仕事してるじゃん。美人じゃん」
「そうだけど……、そうじゃないんだよ」
困惑するましろを見て、みずきは吹き出した。
「まったく、ましろは可愛いなぁ。とってもからかいがいのある子だよ」
「もう……」
みずきと話している間だけは、ましろの頭の中に「魔法使い」という単語は浮かび上がってこなかった。普段通りの日常生活がここにあり、逸脱したものはここにはない。いわば、日常と非日常の境目ができてきているのだ。
忘れたいわけではない。「魔法使い」になったのは、ましろの意思である。忘れるわけにはいかない。想い留めておかなければならない。選択したのは、ましろ自身なのだから。
それでも、この一時くらいは、どこか思考の端へと置いておきたかった。
ましろとみずきが弁当を食べ終えたのは同時だった。お互いに相手の話を聞いている間に少しずつ食べていたはずなのだが、どうやら食べる量にかなりの差があったようだ。そのことに、ましろはいつも疑問を感じていた。一口が大きいわけでも、かき込んでいるわけでもないことは、ずっと見ていたことからわかる。よく食べるとは思っていたが、だからと言って大口を開けるわけでもない。でも、食べ終えるのは同時。
はっきり言って、目の前でなにが起きているのかわからなかった。本当に食べているのかとさえ思えてくる。
「ねえ、みずきちゃん」ましろは、重箱を片付けているみずきに訊ねる。「ちょっとお願いがあるんだ」
「なに?」
「あのね、お腹を触らせて欲しいなって」
「私、妊娠してないよ? 触っても面白くないと思うけど」
「ダメかな?」
「いや、別にいいけど」
みずきは立ち上がり、ましろの横に立った。
「え?」ましろは思わず声を出した。
みずきが、ましろの目の前で自らのシャツをめくりあげた。男子も教室にいるというのに、恥ずかしさを見せることなく、「はい」と言って、腹部を露わにした。綺麗な肌だな、とましろは思った。
「じゃなくて!」ましろはみずきのシャツの裾を下ろした。
「うん?」
「周りの目を気にしてよ。男子だっているんだよ?」
「別にお腹を見られたからって、どうにかなるわけでもないし。いいんじゃない?」
「ダメだよ、ダメ!」
「見せろって言ったのはましろじゃん」
「そうだけど、そうじゃないんだよ」
「で、どうだった? 私のお腹」
「綺麗だった。あんなに食べてるのに、すらーっとしてた」
「そっか。ありがと」みずきは席に戻り、笑顔を見せた。
「こっちこそ、ありがと」
ましろはまだ小学生の面影を残しているが、みずきは完全に中学生の容姿をしていた。ワンランク上の、どこか小学生とは違う雰囲気だって持ち合わせている。みずきを見ていると、自分の幼さが情けなくなった。
みずきのスタイルに憧れて真似しようにも、彼女と同じ生活をすることはまず不可能だ。基盤である食生活がすでに絶望的である。
だからましろは、ある意味で天に身を委ねていた。
祈っていた。
どうか目の前の親友のような身体になれますように、と。
「結局、それを確かめたかったわけ?」
「うん」ましろは頷いた。「みずきちゃんのお腹ってどうなってるのかなーって、一杯食べたあとは膨らんでるのかなーって」
「あれくらいじゃあ、わかんないんじゃない? もう少しくらい食べないと変化は出ないと思うけど。あ、私に限らずね」
「そうかなぁ」ましろは自分の腹部をさすってみた。もし自分がみずきと同程度の食事をした場合、かなり変化が見られるような気がした。できるとは思わないが。
「どれどれ」みずきが体を乗り出して、ましろの腹部に触れる。「制服の上からだとよくわからんな。ので、ちょっと失礼して……」
「失礼させないよ!」
「えー。いいじゃん、触るくらい」
「ダメったら、ダメ!」
「ケチんぼさんだなぁ」
まあいいけど、とみずきは体をひっこめた。
みずきは今どきの女子中学生らしく、スカートを短くしていた。かといって短すぎるわけではない。きちんと考えられた寸法であると、以前にみずきが言っていた。
先ほどまでのみずきの体制はスカートの中が露わになってしまってもおかしくない。あのような体勢でも大丈夫な計算をされているのだろうか。ましろには到底理解できる領域じゃなかった。
ましろもそれなりに服装に気を使っている。ミニスカートだって好きである。けれど、履いた上であのような体勢をとれるとは思えなかった。恥ずかしさのあまり帰宅してしまいたくなる。
無防備過ぎる友人を見て、小さな溜息をした。
「今はいいよ、中学生だし。でも大人になったときに、このままじゃダメだからね。あんな格好してたら、変態だって言われちゃうよ」
「さっきのこと? 別に見せようとしているわけじゃないし、どちらかと言えば見ようとした奴が変態でしょ。不可抗力で見えてしまった男子はおめでとう。ラッキーだったね」なぜか格好つけるみずき。
「みずきちゃんは、なんていうか元気すぎるんだよ。そこが長所で、短所だよね。もったいないよ。短所は減らしていかないと」
「あれ? 私、面接の練習でもしてたっけ?」
「私、みずきちゃんが心配だよ」
「あれ? なんか将来の心配されてる?」
「みずきちゃんは可愛いし、料理できるし、裁縫だってできちゃうんだから、もてないはずがないよ。それに優しいから……。変な人に騙されないようにね」
「あ、はい」みずきは素気なく返事した。
「どうしよう。みずきちゃんが変な人に騙されて、暴走族になったら……」
「あ、ましろの中では騙されるとみんながみんな、暴走族になるんだ」
「え? 違うの?」
真顔でそう訊いたましろを見て、みずきは笑い始めた。
ましろとしては、どうして笑われているのかわからなかった。
「私は、ましろが心配だ。でもそのままのましろでいてね」みずきはましろの頭に手を乗っけた。
「なんで私が心配されて、頭を撫でられてるのかわからないんだけど……」
「私のことは大丈夫。親身に心配してくれる可愛い友達がいるし、それに母さんもいる。私が間違ったら、正してくれる人はいるんだよ」
「お母さん元気?」
「おうよ。今日も元気に仕事に行ったよ。なんで?」
「最近、会ってないなーって」
「そうだっけ? この間、会わなかった?」
「会ってないよ。最後に会ったのは、いつだったかなぁ……」
少し考えてみたが、答えは出なかった。それはつまり、それほど顔を合わせていないということだ。
「んじゃあ、今度の日曜にうちにきなよ」
「せっかくの休みを邪魔するのは気が引けちゃうよ」
「大丈夫だって。母さんもましろに会いたいと思ってるよ。それに無理そうだったら、こっちから連絡するし」
「うーん……」
「まったく、なにをそんなに考えてるんだよ。まさか、私のうちがぼろいから来たくないってか。それは落ち込む……」
「そうじゃなくって!」ましろは観念した。「……それじゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
「それがいい」
「そうだっ! おみやげ。おみやげなにがいい? さすがに手ぶらじゃ悪いもんね。なにか欲しいものある?」
それは無意識の発言だった。魔法使いのことはこのときましろの頭の中にはない。だから自分の発言に気付くのが少し遅れた。欲しいものを訊く必要はどこにもなかった。
「そうさね……」
みずきは少し考えたあと、
「一家に一人、ましろが欲しいかな」
と、真剣に言った。
この日の昼休みはそんな話をしていて、あっという間に終わってしまった。
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