霹靂

 ターロウは息せき切って走っていた。


 右を見ても左を見ても飲み屋ばかり、振り返る通行人などいまはどうでもいい、これはと思う近くの酒場の扉に手をかけた。


 開かない。


 押しても引いても埒が明かず去ろうとしたところ重い扉がすっと開き、闇の中から大きな大きな手が差し出された。


 銀貨一枚を置き、二枚、三枚置いてやっと人ひとりがなんとか通れるだけの隙間を開けると、ターロウは半身になって闇の中に滑りこんだ。


 入れ替わるようにして派手な耳飾りを揺らして赤毛のレベッカが現れた。


 顎をしゃくって合図をすると、手下の男達は四方に散りレベッカも続いた。


 ここは王都北西部、冒険者や迷宮探索者の集まる店や宿が集中する界隈で、市場と異なり日が沈んでから活気が湧く特殊な場所だった。


 様々な物品と情報が絶えず売り買いされ、人も例外ではなかった。





 外を歩けば赤毛のレベッカ一味に襲われた。


 寝場所はいつも変えているし家というものを持たない一匹狼が仇となり、待ちぶせと密告に苦しめられた。


 けちな盗人が盗賊団の女頭領を懲らしめたという噂が瞬く間に広がると、彼女らのしょぼいプライドがそれを許すわけもなく、日々ターロウを追い回した。


 逃げ足だけは自信があったもののヴィヴィの気まぐれでなんとか窮地を脱したことも二度や三度ではなく、さてこの煩わしい逃亡生活をどうしようと思っていたところ、レベッカ本人にばったり出くわし、入り口で金をとられるような酒場に入ってしまうはめとなった。


 酒場の中はやたらと暗く、ざわめきと食器がぶつかり合う音がよく聞こえた。


 店の奥に妙な段差があり、なにかと思えばそこはステージとなっていた。


 潮騒のようなざわつきがピタリ止むと、男ふたりと女ひとりが現れた。


 どこかの貴族のような顔立ちの長髪の美男子が弦楽器をかき鳴らし、それに合わせて樽のような体格の毛むくじゃら男が股にはさんだ太鼓を打ち鳴らした。


 二人の間で慇懃に頭を垂れる女が面を上げると、他の客同様、ターロウも息を呑んだ。


 その女は十代前半にも二十代後半とも見える、あどけなさと艶を持ち合わせた目が覚めるような絶世の美女だった。


 絹のような光沢と柔らかさをもったドレスをまとい、腰までもある長い髪は灯りの加減によって流れる河の煌めきにも束ねた月明かりにも見えた。


 見た目の美しさはさることながら、歌は骨にやすりをかけるが如く客達を震えさせ、ときに湯のぬくもりが如く肌の下にじんわりと広がっていった。


 あっという間の時間だった。


 どの客も拍手をする前に、どっと疲れた息を吐いた。


 割れんばかりの拍手喝采の轟雷の中、ヴィヴィは言った。


「ゴワゴワはドワーフ、イケメンは人間。おねーちゃんはエルフで見かけどおりの年じゃないから年齢は聞いちゃだめだよ。じゃないと口から臓物飛び出すぞ」


「ん? 人間に化けてるってこと?」


「ババアだもん、しょーがいないよ。オッパイで固結びができる年だね」


「なんでもいいけどこの兜の呪いを解く方法知ってるかも」


 注文を取りに来た店員の横をすり抜け、店の裏口で吟遊詩人達が出てくるのを待った。





「いま協力できることはありません」


 さんざっぱら待って金を掴ませた挙句がこのつれない一言だった。


 二の句を言わせずさっさと背を向けて歩き出したのを引き留めようとターロウが手を伸ばすと、二人の男たちが立ちはだかってそれを阻止した。


 射るような視線にこれはマズイと思って愛想悪いもそこそこに踵を返した。


「ヘタレは駄目だね」


「戦略的撤退である」


「それでどんな輝かしいヴィジョンがあるの?」


「そこを突っ込まれるとひじょーにイタイんだが――ん? 『いま』ってことは……」


 振り返ったときにはもう吟遊詩人たちの姿はなかった。


「見つけたぞゴミ野郎!」


 さらにもう一度振り返ると、腰の剣を抜き放ち額に青筋立てる赤毛のレベッカとその仲間たちがゆっくりと近づいてきた。


 ターロウは慌てて反対側へ向き直ると、そこにも一味が待ち構えていた。


「囲まれちゃったね」


「コイツの屁には気をつけろ! やたら目にしみるぞ!」


 手口がわかってしまってはどうしようもなかったが、策はまだあった。


 ターロウは遠巻きに様子をうかがう前方の集団にポケットの小石をばらまいた。


 たかが小石と高をくくっていた野蛮な男たちは、たちまち腹痛に膝を折って唸り始めた。


 蜂蜜を切らして以後、ヴィヴィはあの不思議な念動力を貸してくれなかった。


 そうなることを予想して『投げて当たったら腹痛をおこす石』を用意していたのであるが、拾ったそばから腹が痛くなるのはもうこりごりだったからだ。


「あー、あれまだ持ってたんだ。なんかおごってよ」


「明日の朝日を拝めたらな」


 ターロウは悲哀に満ちる湿った屁を聞きながら腹を抱える男達の間を縫って進んだ。


 怒りに満ち満ちた男にズボンの裾を掴まれたが、腹を蹴ると女の子のような悲鳴を上げて脱糞すると、そこかしこで連鎖した。


「早く逃げないと足の踏み場がなくなるよ」


 高笑いするターロウにヴィヴィはウキウキしながら言った。


 確かにその通りとなって残る一味をその場に釘付けした。


 しかし女頭領・赤毛のレベッカは手下どもの背中を踏み踏み糞の池を乗り越え追った。





 店も賑わいもまばらになり貧民街近くまで来ると、ターロウは走るのを止めて路地裏に入り、物陰に隠れて一休みすることにした。


 具合が良ければここで一晩明かすつもりだった。


「まったくしつこいにも程がある。どーしたらいいものやら。なんか知恵ない?」


「なくはないけど何食べさせてくれんの?」


「そうだなぁ……思わぬ大出費があったから当分は我慢してもらわんと」


「やだっ! そんなのやだ! お金ないなら市場に行こう」


「ダメだ。やるなら金持ちのところだ。スリまがいのことはなしだ」


「でも服盗んでたじゃん」


「あっ、あれはだなぁ――」


「見つけたぞゴミ野郎!」


 剣を振り上げ迫るレベッカに対しターロウは壁を背に地べたに座ったまま。


 ピンチ以外のなにものでもなかった。


 ヴィヴィがなにも言わなかったのはこの曲面を楽しむためか、それとも他に意図が――


 思考はそこまで、唸る銀光に断ち切られた。


 とっさに腰の短剣を抜いて運良くどうにか剣を受け止めたものの両手で握る剣に全体重がかかると白刃がじりじりターロウの首筋に迫った。


 歯をむき出しにしたレベッカは凶悪な笑みに歪んでいた。


 ターロウが短剣に添えていた左手を腰に回すと、白刃に赤が流れた。


 獣面に喜悦がありありと浮かび、さらに剣に力を込めたその時だった。


 ブビッ!


 レベッカはかっと目を見開き自らの耳を疑った。


 空ではなく身体の内から鳴り響く豪雷と連続する放屁に顔面蒼白となった。


 カラカラという音にさっと目を向けると小石が落ちていた。


 白い尻から漏れるガスとともに戦意も抜けレベッカは剣を落としその場にうずくまった。


 なんたる早業、捨て身の投石に形勢逆転となった。


 ターロウは確信した。


 盗賊団の女頭領の心をへし折るにはこれしかない、と。


「赤毛さんはどんなものを食べてるのかな?」


 ヴィヴィがクスクスと笑う声はこれまで聞いた中で一番楽しそうだった。





 ターロウはレベッカを見下ろしニンマリと笑って小石をひとつまたひとつと投げた。


「――ッぐううぅぅぅぅううう……こ、殺してやるッ……ぅうん」


 大量の脂汗、八の字眉、ゆっくりと吸っては吐く息。


 優越に浸るターロウの眼下には白い双房の谷間、赤毛の美人の苦悶する姿に自然と股間が膨らんでいった。


 レベッカは歯をむき出しにするもそれは憎悪を見せつけるためでなく、必死に脱糞を我慢していることの意思表示としてしか機能していなかった。


 落とした剣に手を伸ばすと、


 ブビッ!


 またしても白い尻から湿った悲鳴が漏れた。


「ははははは、よきかなよきかな。月明かりよ、ありがとう」


「く、くそう……」


 いままさに花開かんと蕾が動き出すが、そうはさせまいと力を込めたとと同時に、下腹部に激痛が轟くのであった。


 レベッカはブルブルと震えながらターロウを睨め上げた。


「そろそろフィナーレにしようよ♪」


 ヴィヴィは可愛らしく、しかしとてつもなく残酷に言い放った。


「よしファンファーレをお頼み申し上げようか――あ、ああああああああああ?!」


「やったね!」


 ターロウがポケットの中の小石を取り出したところ真っ青になって膝を折った。


 その叫びに危うくぶちまけるところだったレベッカはからくりに気付いた。


 そして自分の周りに落ちている小石を拾い、慎重に息を整えてから投げた。


「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 さてここからは脱糞をこらえる二人の、小石を拾っては投げる拾っては放屁する、ささやかながらも想像を絶する死闘が繰り広げられた。


 レベッカはもう限界だとばかりにズボンを一息で下ろし、月明かりに油に濡れたような艶の赤毛をさらして長い脚をM字に折り曲げぎゅっと目を閉じた。


 苦悶に顔を歪め、皺のよった額から玉となった汗がこめかみを通り顎まで滑り落ちていった。

 

 しかし盗賊団の女頭領というプライドが最後の一線を踏みとどまった。


 対するターロウは銀兜によりその間抜け面をお見せできないのが幸いというもの。


 策士策に溺れるというよりも、ヴィヴィのいたずらにまんまとひっかかり、花の妖精を呪うとともにこの時ばかりは神に祈った。


 しかし信心不足と物理限界もあって祈りは天に通じず、勝者を称えるファンファーレが暗い貧民街の路地にこだました。


「アハハハハハハ、両者ドロー! ……なんだ僅差で女の底力の勝ちか。ちぇっ」


 盗賊団の女頭領・赤毛のレベッカがほっこりと微笑むその笑顔は子供のようにあどけなく、勝利の開放感に酔いしれていた。

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