働かざる者食うべからず
街に張り巡らされた水路の橋の下、ターロウは正午近くの傾いた太陽に目が覚めた。
もぞもぞとボロ布をかぶって陽の光を遮るのだが、もぞもぞと動いて顔を出し、短い両刃の短剣を取り出した。
刀身は金色に輝いていた。
すこし傾けると鏡のような光沢の兜をかぶった自分の姿が映った。
じっと眺めていると吸い込まれてしまいそうな感覚に襲われる。
目をそらすように下方を見ると、刀身根本部分には深紅の宝石が埋め込まれていた。
まれに見ることができる不吉な月のような、血を固めたような、鳥肌が立つほどの禍々しい赤だった。
「おはよう社会の底辺殿! 我輩ハチミツを舐めたいのだが」
この短剣に封印されてしまったという花の妖精ヴィヴィが元気よく言った。
「金がない」
自称義賊のけちな盗人ターロウはボロ布を頭からかぶった。
「舐めたい舐めたい舐めたい舐めたい舐めたい舐めたい舐めたい舐めたい舐めたい」
股間にピクリともこないワガママ妖精の声というよりも、道端で駄々をこねる女児の如きそのわがままっぷりにターロウはうんざりしていた。
ひとつわかったことがある――ヴィヴィの声は誰にも聞こえない。
そのためにいつでもどこでも笑い声や奇声を上げ、このように願望をひたすら垂れ流す。
ひとつわかったことがある――飲食は封じられてしまった。
上を向いても下を向いても横を向いても兜に継ぎ目なく頭をすっぽり覆って脱ぐことができず、どういうわけか呼吸ができるのは幸いにしても、これでは餓死を待つほかなかった。
せっかく運がめぐってきたのにと打ちひしがれていたところ、戯れに干し肉を兜に押しつけると、布地の隙間に吸い込まれる雨粒のように、それは手から消え空腹はわずかに満たされた。
それは水も同様で、そこらの雑草や泥にまみれたパンを試してみると次々兜に吸い込まれ、泥は表面を汚すだけでしっかりと腹が膨れた。
なんと食糧問題とは無縁となったのだ!
なんとも言い表せぬ万能感に喜ぶのも束の間、『味』というものから完全に隔離され、甘いも辛いも関係なくなり食の歓びから切り離されてしまった。
空腹とは別の飢餓感は三大欲求のひとつ『性欲』と合体して膨れ上がり、股間のマラ同様激しく屹立した。
しかし満たされることはなかった。
ラッキースケベに巡り会えないものかと街をうろつくと、石が飛んできたり衛兵が飛んできたりと悪いことばかりだった。
「解せぬ――俺はモテモテになったんじゃないのか?」
「でも食うに困らないよ。よかったね」
「確かにそうなんだが冷静に考えるとだ、四六時中兜をかぶった奴を相手にするような好き者はどこ探したっていないぞ」
「そんなことないよ。お尻の穴に入れた豆で的を狙うゲームを楽しむ紳士だっているんだから大丈夫。好き者はいつの時代・どの国にもいるもんだよ」
きゃっきゃとはしゃぐおっさん達の姿が目に浮かぶ。
「おっさん達の方が健全で幸せのような気がする」
「前向きにいこうよ」
ターロウが視線を落とすと、お天道さまの方を向く上昇志向のマラ殿と目が合った。
「気持ちは後ろ向きだけどチンポコは上向きの前向き、元気なのはこいつだけか……」
風の向くまま気の向くまま、膨らむ股間が感じる風に流されるようにして歩く。
けだるい風吹く貧民街を抜け、活気豊かな市場を通り、高い高い城壁をくぐる。
畑を横切り、街道をまたぎ、うっそうとした森へ。
蜂蜜をとりに来たわけではない。
馬のいななきや馬車の列を探し、街での荷降ろし作業にありつこうとしていた。
チャンスがあれば、積み荷をちょっと借りようかとも思う。
ただしあまり奥へ行ってしまうと強盗団や化物に襲われてしまうから注意が必要だ。
森を避けるようにして続く街道を歩いていると、馬のため息が聞こえたような気がした。
音のした方へ進んでいくと、男女が罵り合う声がはっきり聞こえてきた。
商人の旦那と若奥さん――年の不釣合いな夫婦――が口喧嘩をしていた。
見れば幌馬車の前輪が窪みにはまって立往生していた。
「やあやあお手伝いしましょうか?」
「これはこれはありがたい――なんだ怪しい奴め!」
フードを目深にかぶった身なりのよくない者が現れれば、強盗団の斥候か積み荷をくすねる泥棒と疑うのは当然のこと、だからターロウはちゃんと台詞を用意していた。
「盗賊なんかではありません。お慈悲を、兜の呪いが解けないかと日々善行を積む者です。じき日が暮れます。精一杯うしろから押させて下さい」
「これはありがたい。私がやれば良いのだが妻は馬を操れず困っていたのです。後ろから押すと主張するのですが、妻にそんなことをさせたくない。ありがたいありがたい。のちほどお礼させていただきます」
「いえいえお気持ちだけで十分です」
「まあそう言わずに」
「いえいえ」
「いやいや」
さてさてここまで謙遜に譲歩を重ねれば心変わりはするまい。
御礼の品がなんであっても今晩はひもじい思いをしなくても済みそうだ。
さっそく旦那は御者台に乗り込んだ。
しかし若奥さんは積み荷を盗まれないようにと言いながらも荷台の後ろでナイフ片手に干し肉をしゃぶり、奇妙な風体の若者を楽しそうに見つめていた。
「よいさ、ほらさ」
ヴィヴィの掛け声もむなしく、あと少しというところで前輪は窪みに落っこちてしまった。
旦那は言った。
「馬をけしかけてみよう。そーれ」
掛け声とともに鞭が鳴った。
ターロウがくぐもった声をだすたびに幌馬車がギシギシと鳴った。
ぐらつく幌馬車に旦那は驚きの声を上げた。
「みかけは痩せっぽちかと思ったら大した力もちだ。がんばれ、ふんばれ」
ターロウが押すタイミングに合わせ、旦那は手綱をふって鞭打った。
それでも幌馬車はズッポリと穴ぽこにはまったままだった。
「どうした少し休むかね?」
「ちょいと小便をしてきます」
ターロウは旦那に報告を終えると少し離れた場所で木の股めがけて小便鉄砲を放った。
傾く陽をバックにきれいな放物線を描き、小便の軌跡がきらきらと輝いた。
その煌めきに若奥さんは干し肉しゃぶりをやめた。
拳を握りしめる兵士の前腕のようなマラを、ターロウの股間に認めたからだった。
「どうしたというのかね?」
幌馬車を押すのとは異なる音に、旦那は御者台の端によって後ろを覗き見た。
積み荷で後方が見えないからだ。
「一働きします。押すぐらいなら私にもできますから」
「しかしだね……うーむ日が暮れてきたしやむを得ん。愛しい妻よ、若者よ頼んだぞ」
「お任せください」
「それじゃあ、せーのでいくぞ」
旦那は音頭をとった。
「せーの!」
すると、とつぜん妻がロバのような甲高い声をあげた。
「妻よ、一体どうしたんだい?」
旦那はあわてて後ろを振り返った。
「いえね、押したはずみにトゲが刺さったんです。あまりの大きさについ声が……」
「慣れないことをするからだ。こっちへおいで」
「いいえまだまだ。もっと続けましょう」
若奥さんはそう言うと、幌馬車に両手をついて踏ん張った。
ギシギシギシ、ギシギシギシ。
「おいおい二人とも、そんな小刻みじゃあいつまでたっても抜けないよ。もっと力強く」
「ですって」
「ふう、頑張ります」
ギシッ、ギシッ、ギシッ。
力強さが幌馬車をつうじて御者台に座る旦那の尻にとどいた。
「そうだその調子だ。馬も頑張れ。ハイシドウドウ、ハイドウドウ!」
旦那は手綱をふって鞭を打ち、馬を奮い立たせ音頭をとって二人を励ました。
ハイシドウドウ、ハイシドウ、ハイシドウドウ、ハイドウドウ。
幌馬車は音頭にのって大きく揺れ、
「うっ、うっ、うっ」
若奥さんの苦しそうな声が漏れ、
「ふう、ふう、ふう」
というターロウの荒い息づかいが、樽の向こうの旦那の耳に届いた。
ギッシギシギシ、ギシギシギシ。
ハイシドウドウ、ハイドウドウ。
「うぅうううううううーん」
若奥さんが、最後の一滴を無理やり絞りだすような、獣じみた唸り声をあげた。
「ほうれ頑張れ頑張れ! いけいけ、それそれ、ハイシドウ!」
幌馬車がグググッと上に持ち上がったのを感じて旦那は興奮した声を上げた。
ハイシドウドウ、ハイドウドウ。
若奥さんがロバのような一際甲高い声をあげると、ターロウはたまらず下腹部にあらん限りの力を込め、放出した。
するとどうだろう、若奥さんは元気百倍、脱力して荷台に寄りかかっていたのがしゃんと背を伸ばし、ひと押しで幌馬車は楽々穴から抜けだした。
「やった、やった、二人ともやったぞ!」
旦那は大喜びをして振り返ると、折り重なって寝そべる妻とターロウの姿を認めた。
「やれやれ。勢いあまってすっころんだか。やむをえまい」
旦那は馬を止め、二人がくるのをのんびりと待った。
「喉が渇いたなら積み荷の果物を食べなさい」
「ひゃっほう」
ターロウがそっと果物に短剣を刺すと、みるみるうちにしぼんでカラカラになった。
「美しい我が妻よ、前に来るかね――っとまた干し肉しゃぶりか。好きじゃのう」
クチャクチャという音に旦那はうんざりという顔をした。
「若者一人のせただけこの軋みよう、そろそろこのボロ馬車も買い替え時か。ワハハハ」
おしゃぶりに飽きた若奥さんは、若い男にまたがりひと仕事始めた。
歳の離れた妻を持つべからず。
「おにくー!」
若奥さんが尻を揺らして没頭する隙に、ターロウは干し肉に短剣を突き刺した。
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