第9話 決断

彼らの倍以上はあろうかという巨躯に丸太のような四肢。


爛々と輝く、赤く鋭い目。


岩と見間違えたその生物の名を少年たちは知っていたが、


目の前に現れたのは彼らの知るそれとは


全く異なるもののように思えた。


「…熊か、これ…!?」


ようやく、デスゾルカは声を絞り出した。


口はからからに渇き、背中を冷や汗が伝うのを感じた。


残る二人も、同じであったろう。


「…熊だな…けど、ただの熊じゃない…!」


低く、キリクは言った。


確かに、前に立つ生き物の姿形は熊である。


だが、あの光る赤い目と全身にまとう禍々しさは


自然界の住人が持つものではない。


「魔物か…!」


魔王が現れてよりしばらくのち、


エルトフィア大陸でも魔物の出現は増え始めた。


しかし多いのはやはりジュネート大陸に近い西側であり、


その地方においても


街にごく近いエリアには現れたことはなかった。


数時間歩いては来たが悪路を子供の足でのこと、


それほどアルトリアの街からは離れていないはずである。


これまで、この林での目撃例もなかった。


だが、現れた。


少年らが目の当たりにしている異様さは、それしか考えられない。


「…どうすんだ、勇者様?家伝の剣で立ち向かうか」


極限状態で無意識に笑みを浮かべ、キリクが問うた。


デスゾルカは、剣の柄から手を離している。


ラァズはといえば、二人の背中にしがみつくようにして震えていた。


その振動を感じながら、デスゾルカは口を開く。


「無理!」





瞳は魔熊からそらしていない。


経緯はどうあれ、彼にとって初めての戦いである。


そして、対抗する力も手段も持っていない以上


勝ちの目はほぼ無い。


ただの熊ならまだしも、魔物だとすれば


比較にならぬほどの力を持っているはずだ。


この死地に身を置いてみて、


デスゾルカは自分でも意外な心境になっていた。


父から剣を譲り受け強くなったような気でいた彼は、


強大な敵が現れたとしても、勇敢に立ち向かう気でいた。


そういう自分を想像していた。


逃げるなどということは、冒険を求める者がすべき行動ではない。


そう思っていたはずである。


だが、神童でもなく修行も積んでいない己が


勝てる可能性がどれだけあるのだろうか。


今、英雄を気取って命を落とせば、


未来を捨てたことになりはしないか。


自分はまだ、夢を叶えるための道を歩み始めてすらいない。


これが言い訳か臆病者の言うことか、それはわからない。


しかし、デスゾルカは答えを出した。


「いつかは勝てる!…かもしれない。


 それまで生きてなきゃいけないから、逃げる」


それを聞いて、キリクはくっ、と笑った。


「前向きなんだか後ろ向きなんだかわかりゃしねえな」


「バーライン・ナイトいわく!


 『戦うためには勇敢でなければならない。


 死なぬためには臆病でなければならない!』」


「あのオッサンの逃げ口上なんじゃないか、そのセリフ」


とは言いつつも、デスゾルカの判断は正しいと思う。


おそらく野生の熊を上回る腕力と耐久力を


有するであろう魔熊を倒すのは現実的ではないし、


剣を抜いて挑んだとしても


他の者が逃げるだけの時間を稼げるはずもない。


相手を刺激して興奮させる前に、この場を脱するべきだ。





「おい、キリク、肉出せ肉」


魔熊を見据えたまま、デスゾルカはささやく。


「何だよ肉って」


「焼肉だよ焼肉!放り投げてアイツの気をそらすんだ。


 うまそうな匂いのする肉ならおれたちよりそっちに行くだろ」


「さっき弁当食ったじゃねえか。残ってねえ」


「何~、この食いしん坊!」


「お前はどうなんだ」


「…うちの母さんが料理うまいの知ってるだろ。


 熊なんかにやるおかずはない」


「…」


「ラァズ、お前は!何かないの」


「二人と同じだって、もう保存食の硬いパンしかないって」


「いい!もうこの際それでいい。


 アイツは食べたことないだろうし


 意外と気に入るかもしれない」


「わ、わかった」


うなずいてラァズが荷物の中に手を入れようとした時、


魔熊が一歩前に出た。


その距離、およそ7メートル。


「ま、待て!話せばわかる」


「わかるか!ラァズ、後ろへ下がれ、


 お前が動かなきゃおれらも下がれねえ。目はヤツから離すな」


「パ、パンは?」


「出せよ、もしヤツが追って来たらただ走っても逃げきれねえぞ」


「う、うん」


キリクにうなずいてラァズが下がろうとした時、


また魔熊が一歩前に出た。


その距離、およそ6メートル。


「く、来るか!?最悪剣を投げつけてひるませるしかない!」


「いいのかよ?


 伝説の剣なんだろ、それ」


「伝説なんかクソくらえだ!


 これは自分やお前たちを守るために持って来たんだ、


 剣を守るためにおれがいるんじゃないんだよ!


 おれがやられて剣だけ残ったら死んでも死にきれないよ、


 意味わかんないよ!


 とにかく下がれ下がれ!」


さらに接近しようとする魔熊の動きを見てデスゾルカが言った時。


日光が遮られて薄暗い林の中で、きらりと何かが煌いた。


同時に魔熊が低く太いうめき声をあげ、


その巨体を前のめりに大地に沈めた。

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