第五章 ロータスマート

神奈川県郊外。

 コンビニエンスストア ロータスマート。

 コンビニの朝は早い。

 まだ夜が明ける前。時間を置いて次々と来るトラックが一日の始まりを告げる。

 まず新聞の朝刊と雑誌。続いて日配の弁当や惣菜。そしてパンが届く頃に空が明るくなり始める。

 続々と届く商品の検品と陳列は比較的ヒマの多い深夜勤のコンビニ店員にとって面倒な仕事だが、その後に続く朝の混雑を前にした重要な下準備。

 このコンビニでも淡黄色のエプロンを着けた二人の男女が菓子パンの詰まったパレットを広げていた。

 コンビニトラックが走り去った店内で、二人はお喋りをしながら働いている。

「パンはわたしが品出しまでやりますから店長は発注の続きをしててください」

 店長と呼ばれた青年と中年の中間くらいの年恰好の男は女性店員に片手拝みをすると背を向け、菓子パンコーナー向かいの冷蔵庫の前に立った。

 エプロンの胸にピンで留めたプラスチックのネームタグには店長という表記の下に氷室という名前が記されている。

 パレットに並べられたパンを指で数え伝票をめくる、若いようなそうでもないような女性の胸には布袋と書かれたネームタグ。上には副店長とある。

 氷室と布袋は互い違いの背中合わせのまま会話を続けていた。

「鳥かごが稼動したという情報。先ほど確認しました」

「トリカゴって何だっけ?」

 副店長の布袋はパンの検品をしながら話し続ける。

「あのエックス・テクノロジー工業製品ですよ。車の形をした」

「あぁオーキッドのことね」

 店長の氷室は喋りながらだと作業がお留守になるらしく、在庫と発注の管理をするPDAを持った手は止まっている。

「ちゃんと暗唱で呼んでくださいな。せっかくあたしが決めたのに」

「オジサンは物覚えが悪いの!」

 音量を落とした有線BGMが邦楽ポップのインストゥルメンタルを流す店内。

 外から聞こえた明け方の静寂を破る音に二人は同時に反応した。

 日配のトラックと似ているけど違う。コンビニ店員をやってるとイヤでも敏感になる。来客を告げる音。

 近づいてくるエンジン音に続き雑誌コーナー前の大窓をヘッドライトの光が移動する中、氷室と布袋は視線だけ店外に置きながらも会話を続ける。

 駐車場に車が停止し、ドアが開く音が聞こえてきた。

 自動ドアの開閉に同調したチャイムが鳴ると同時に、氷室と布袋は会話を一時中断する。

 お喋りしながら仕事をしていた少々不真面目な深夜店員二人が、客が来ると同時に黙ったように見える。事実その通りだった。

 作業服を着た数人の男性が揃って雑誌コーナーの前に歩いてくる。始発の電車が動く少し前。ワンボックス車で現場に行く建築系作業員の集団。

 氷室と布袋は作業を止め、レジ前に歩いていった。

 きっと彼らは多くのコンビニ客がそうするように、雑誌コーナーから飲料の冷蔵庫と弁当、惣菜のコーナー。時にカップラーメンやスナックの棚。あるいはトイレを経由してレジに来るコースを辿るんだろう。

 コンビニの店員になると店内での買い物に時間をかける長い客と、必要な物を買ってすぐ店を出る短い客を見分けられるようになる。

 後者の短い客は気も短い。入店した人数によっては二人でレジに立ち、手早く会計を済ませなくてはならない。

 レジで長々と待たされて癇癪を起こす人間はそうそう居ないが、対応の遅い店を見限った客は次から他所のコンビニに行く。

 店員二人の見立て通り、現場に急ぐ数人の作業員は早々に買い物を終わらせ店を去った。

 品物にバーコードリーダーを当てたり弁当を温めたりと忙しく働いた二人は、彼らを乗せたワンボックス車が走り去るのを確認した後、またお喋りを再開した。

 始発が動き、コンビニにとって稼ぎ種となる朝の客がやってくる前のほんの短い時間に交わされる会話。

 深夜勤務に慣れた二人は細切れの密談にも慣れていた。

「それでオーキッドは」

「鳥カゴです」

 エックス・テクノロジーという科学の範疇外にある力と、それによって動く自動車型機械の話をしながらコンビニの一日が始まった。

 

 数時間後。

 駅近いコンビニの朝の混雑が一段落し、店から客が居なくなった頃合。

 朝から断続的に繰り返されている店長と副店長のお喋りは続いていた。

 副店長の布袋はレジを開け、釣銭の百円玉が五十枚包まれたロールを叩き解しながら話す。

「これからは事業拡大で顧客獲得を競う企画や営業の戦いだと思ってましたよ。いまさら直接の衝突なんて」

 ながら会話の苦手な店長の氷室はレジ前の保温機に唐揚げを並べる手を止めながら答えた。

「そんなことしたくないな。させたくもない」

 不意に保温機に指を触れさせてしまい軽い火傷をした彼は、少し赤くなった指をエプロンで擦りながら呟く。

「でも、誰かがやらなきゃいけないなら、それは僕らがやらなきゃ」

 氷室は赤くなった指を片手で覆いながら隣に居る布袋の手を盗み見た。コンビニ仕事とそれ以外の仕事での酷使で少し荒れた手に目を細める。

 布袋はレジに小銭を補充する作業を休めることなく、蘭の乗ったオーキッドとそのご主人様についての情報交換を行う。

「小鳥の面倒を見る人間は今のところ何人出せるのかな?」

「現在は二名ですがもう二人何とかなりそうです。他のバイトと掛け持ちしてる子がお盆休みで暇になるから」

「問題はその四人の置き場所だな」

 自動ドアが開き、チャイムが鳴った。

 昼休みの客が来るには早い時間だが、近所の独居老人がふらりとやってきて、惣菜を物色している。

 朝の客とは対照的に店内で品物を吟味しながら長居する客。レジに回るのは一人でいい。

「レジはわたしがやりますので店長はドリンクの補充をお願いします」

「おれ腰痛持ちなんだけどな」

 神奈川県中西部を縦断する単線電車の駅近くにある一軒のコンビニ。

 元々は地元の酒屋だったが、二十年ほど前に地方独自の屋号を持つ半フランチャイズのコンビニエンスストアになった。

 商品の仕入れや管理は母体となる大手全国区コンビニエンス・チェーンに依存し、代償としてフランチャイズ料という名の上納金を支払う。

 大手コンビニに比べれば店の規模も弁当の品揃えも、各季節のキャンペーンも小規模だったが、駅にほど近く周囲に競合店が無いおかげで朝夕の通勤、通学時間にはそれなりの繁盛をしていた。

 相模川が作る広い河川段丘の中でも川寄りの風光明媚な地域にある小さな駅。

 こんな駅前もベッドタウンとしての開発は進み、十数年前まで木造平屋の酒屋だった店は今は七階建てマンションの一階に入居するコンビニとなっている。

 近隣の住民はここから数kmほどの私鉄駅と駅前商店街に消費と娯楽を依存していて、このコンビニがある小さな駅前に他にある店舗は居酒屋を兼ねた定食屋と三日に二日は閉まってる電器屋のみ。

 このどこにでもありそうな地方コンビニにはもうひとつの顔があった。

 独身入居者向けのワンルームマンション。その一階を占めるコンビニ。二階に数部屋あるテナントのうちの一つはコンビニの事務所であり、もうひとつの団体の本部でもあった。

 民間エックス・テクノロジー研究互助法人ロータスマート。


 科学の範囲外にある技術エックス・テクノロジー。

 エックス・アクティヴィティと言われる放射線と、それを発する放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープを保有する現代の魔法使い。エックスと呼ばれる人間。

 前大戦直後に各国で決め交わされた非公式の同意に従い、エックス・テクノロジーを秘匿し全てのエックスは国家の管理下に置くという日本国政府の決定。

 それに反し密かに設立された民間のエックス・テクノロジー組織。  

 組織の長であり、コンビニ店長としての顔も併せ持った四十ちょっと前の男はエックスだった。

 彼は幼少の頃、国家内に存在するエックス・テクノロジー調査機関によってエックス・アイソトープと呼ばれる放射性同位体遺伝子を発見され、日本国政府内にあるエックス開発部署で十代を過ごした。

 小学校低学年でオタフク風邪をひいた時に受診した国立病院の小児科で「後天的な感染症を発見された」という名目で親から引き離されて以来、国家のためエックスの能力を使う生活が始まった。

 当時も今も文部省、厚生労働省に侵食しているエックス・テクノロジー関係者によって放射性同位体遺伝子の保有者は随時調べられている。

 国家組織の中でも非公式な存在な上に予算、立場共に貧弱なエックス・テクノロジー関連部署には、健康診断の結果や検体を盗み見る犯罪者まがいの調査しか出来ず、蘭のようなエックスの取りこぼしも多かったが、発見されたエックスはありとあらゆる方法で囲い込まれていた。

 ほんの十数年前まで欧州の幾つかの国では国家の主導によって少数民族の子供が半ば合法的に親元から誘拐、隔離されていたことがある。

 その本当の目的はエックスの獲得だと噂されたこともあったが、真相はどうあれ手口は変わらない。

 親から引き離され学校をやめさせられたエックスの子供たちは、自衛隊の遊休施設内に設立されたエックス専門の全寮制教育機関に押し込まれた。

 子供たちはエックス・テクノロジーについて学ばされ、技術開発実験に協力させられた。当然、普通の授業を受けたり友達と遊んだりする時間は圧縮される。

 時に彼らは武器を持たされ、エックス・テクノロジーを悪事に用いる犯罪者エックスと戦った。

 エックスを倒せるのはエックスだけ。それはエックスなんて馬鹿げたニッチ連中を相手にしてくれるのはエックスだけだから。

 国庫の裏会計を工面して出される予算の多くを守秘に費やしている関係上、エックスの絡んだ犯罪を取り締まる時には一般の警察には頼れない状況が多く、治安専門の部署や人材を常雇するカネも無い。

 ゆえにエックスの起こした犯罪や、国家利益や利権に照らし犯罪と決め付けられた行為が起きると、その都度、場当たり的に人集めされたエックス関係者が派遣され、制圧したりされたりしていた。

 エックス・テクノロジーといわれる魔法による戦いは国民に知られることなく、国民が知る現代科学の範疇での紛争や犯罪がメジャーリーグなら草野球レベルの小規模な世界で行われていた。

 エックスの子供の一人だった氷室は国家のため、エックス・テクノロジーの発展と守秘のため、何より警察や自衛隊を出す予算を節約するために戦った。

 子供を前に出して戦わせ、大人がその犠牲の後ろでのうのうと過ごす。

 ベトナム戦争時、アメリカ海兵隊における戦死者の平均年齢を唄った「19」という歌曲が流行したことからも知られる通り、平和の長い国では忘れられがちだが戦時には当たり前の事。

 東欧や中東の戦争、内乱で死んだ「革命戦士」の慰霊碑には十代の若者の名前が延々と並んでいる。

 大人より子供のほうが命の値段が安いという国家の必然は六十数年前に戦争をやめ、現在は時々の戦争協力しかしてない日本においては世間の大半の人間にとって縁遠いことだった。

 世界を守るため、大人そっちのけで子供が戦う架空物語が最も盛んに作られているのが日本だというのは、世を鏡のように映すと言われるフィクションの皮肉な必然。

 一般社会から疎外された人間で構成されたエックス・テクノロジーの世界は現実でありながら安物フィクション、あるいは戦時下の国に似た論理と価値観が存在し、エックス・アイソトープ保有者の一人である氷室が青春を過ごしたエックス専門の教育機関もまた、子供は大人より簡単に使い捨てられていた。

 魔法を描いた夢物語の中では喜んで世界の悪と戦っている少年少女達。氷室は自分自身がどうだったのかは思い出せない。

 ただエックスとして過ごした十代の間、二十数人居た氷室のクラスメイトのうち四人が「事故」で死に、二人が自殺している。

 氷室が無事生き延びて成人を迎え、国家内でエックスとしての能力を活かした仕事につくための選択肢が与えられる頃、国家内におけるエックス計画に変化が訪れた。

 それまでいくつかの官庁や公益法人の中にX(バツ)研と呼ばれる内局として分散していたエックステクノロジー関連部署の一元化。

 既に諸外国のほとんどでは守秘や運用の容易な軍の管理下に統一したエックス・テクノロジー組織が置かれていた。

 蘭が乗ることになった高度情報介入ステーション。オーキッドに搭載されたバイオコンピューターが米軍の入札に落ちたように、エックス・テクノロジーの軍事利用が目覚しい成果を挙げた例はほぼ皆無だが、白を黒と言い張ってでも予算の欲しいエックス・テクノロジー関係者が政府上層部相手に行うプレゼンでは、現代兵器を魔法で一蹴するという根拠に乏しい宣伝文句が今も昔も盛んに飛び交っている。

 うさんくさい文言を吐く人間やその尻馬に乗ろうとする奴が絶えないのは国家プロジェクトも詐欺の世界も変わらない。

 国家機密の中で運用される超科学技術エックス・テクノロジーは、かつて政府関係者を含め多くの人間を騙した巨額隠匿金詐欺と同じく、一匙の真実と特盛りの誇張で出来ていた。

 諸々の理由から軍隊で一纏めに囲うほうが都合のいいエックス・テクノロジー。日本はというと終戦によって解体された軍の警察予備隊としての再編に始まり、近年の防衛庁から防衛省への昇格まで自衛隊が現在の形式となるまでに二転三転したこともあり、一元化では他国に遅れを取っていた。

 統一した組織を作りたくとも複雑な利権の絡み合った各省庁のエックス・テクノロジー部署を解体し一極集中させるハコを作るカネなんてどこにもない。

 類似した理由で未だ日本が統一した組織を持たないものとしては情報機関が挙げられるが、あっちはエックスと違ってオツムと給料がよく、国家への貢献も認められた連中。出そうと思えば出す金がある奴らの贅沢な悩みとは同列に論じられない。

 そんなエックス・テクノロジー関係者に訪れた好機は十年ほど前の省庁改変と防衛省設立。

 ドサクサに乗じエックス・テクノロジーを研究、運用する非公式組織の設立と予算交付という決定が内々に委員会を通された。

 それまで複数の官庁と旧財閥系企業による半官半民に近い形態を保つことで、組織というより小集団の共同体に近い体裁の運営をしていた日本国政府のエックス・テクノロジー部署にいくばくかの予算と権限が許され、防衛省の管轄下にエックス・テクノロジー組織が作られた。

 それから少しの時間が経ち、事態が実際に動き始めると組織の一元化という当初の予定や公約は、国家の常で七割がた実現した時点でよしとされた。

 結局、エックス・テクノロジーの運用と指揮統制を行う組織は自衛隊内部に設けられ、エックス・テクノロジー研究とエックスの育成を行う飼い小屋は防衛省とは表向き関係の無い公益法人によって作られる。

 エックス・テクノロジー部署の組織編制は一見したところ不合理だが、責任逃れや予算の水増しには有利な二つの組織を軸とする体勢に落ち着いた。

 分散していた組織が二つに纏められ規模は大きくなったが、実際に現場でエックス・テクノロジーを運用するエックス自身はその恩恵に預かることが出来なかった。

 エックス・アクティヴィティを発する放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープを保有したエックスよりも、それを補佐する非エックスのスタッフに重点が置かれる組織改変。

 国家のエックス・テクノロジー部署にはアンチ・エックスや安定遺伝子保有者と言われるエックスでは無い子供もある程度取り込まれている。

 彼らは将来現場で働くエックスを使役管理する。エックスを使う側の人間となる。

 予算獲得の段階で行われた幾つかの虚偽、粉飾報告がバレる前にハコを作る必要が生じたこともあり、人員の再配置は性急に行われた。

 余剰となったエックスは多額とはいえない退職金を盾にエックス・テクノロジーに関する情報を守秘する契約を交わされた後、国家内のエックス・テクノロジー組織から解雇された。

 

 この頃、国家エックス組織の一員にして学生だった氷室はエックス・テクノロジー組織内教育施設の大学部に籍を置いていた。

 卒業後は国家によって設立されたエックス・テクノロジー研究施設に就職することが内定し、エックスという名の公務員として生きていく未来が見えてきた矢先に起きた組織改変。

 エックス・テクノロジーに関連した部署にエックスを雇用する際に国家から給付される補助金はカットされ、結果として新卒エックスに対する内定取り消しが相次いだ。

 氷室という一人のエックスもまた就職内定の約束を反故にされ、あっさり国に捨てられた。

 彼が守秘義務のあるエックスでなかったなら学生時代からの研究協力で得たスキルを生かし、他の部署に就職するチャンスもあった。

 エックス・テクノロジー組織内の教育施設が文部省の認可を得ていれば大卒相当の学歴も付いた。

 国は首を切ったエックスにどちらも与えなかった。

 中卒の資格しか得られぬまま放り出された氷室に残されたのは、公務員としては小額な退職金と実家の酒屋。

 幼少時に親から引き離された氷室が実家に戻ってくるのを待ちかねたように母は死に、自宅を兼ねた酒屋の敷地は半分がた相続税で持っていかれた。

 氷室が土地を相続した途端擦り寄ってきて、駅前の広い土地を買い取った不動産業者によって建てられたマンションの一階、二階を等価交換で相続した氷室は国家エックスとして働き続けた貯えをはたき、銀行からの借金で出店料とフランチャイズ料を支払い、コンビニを開店した。

 マンションの敷地だけでなく裏手にある土地も建売住宅用の分譲地として売り払ったことで、地方とはいえ駅前マンション二フロア分の不動産を得た二十二歳の氷室。そのまま家賃収入で生活費を賄いながら気長に就職先を探すという選択肢もあった。

 私財を投げ打ってリスクの多いコンビニ経営を始めた理由は、国家エックス・テクノロジー組織を解雇された後に知ったいくつかの事実。

 国家エックス・テクノロジー組織からはエックス・エックスと呼ばれる、国から捨てられたエックスの現状。

 ある者は組織の規模や予算に対するエックスの人員過剰のため今後の生活設計も無いままリストラされ、ある者は出世も高給も望めない国家エックスという立場に見切りをつけて自主退職した。

 一方的な事情で解雇されたエックス・エックスに年金や失業手当はなかった。与えられたのは生活保護の口利きくらい。

 氷室は捨てられたエックスの一人として、同じ境遇にあるエックス・エックスを取り込み、ひとつの集団を作ろうと決めた。

 エックス・エックスを組織化する目的は国家に対する返礼や反駁でなく、ただ自分たちがエックスであるゆえ失った人間らしい生活を、自らの持つ放射性同位体遺伝子エックス・アイソトープによって取り戻すこと。

 守秘厳しいエックス関連の資料の中で、捨てられ者にふさわしく管理の甘かった人員整理対象者名簿のデータを盗み出した氷室はエックス・エックスに対する勧誘を始めた。

 電話やメールならうさんくさい詐欺としか思われなかった組織勧誘は、氷室が地道に足で稼いだ対面での勧誘が功を奏し、組織への参加を希望するエックス・エックスが氷室の元に集まる。

 自分達を捨てた国に対し腹に一物あったのは誰しも同じだが、何より多くのエックス・エックスは学歴も職業訓練も無いまま放り出され、目先の金に困っていた。

 氷室は困窮した彼ら彼女らをコンビニの店員として雇い、コンビニの入居するワンルームマンションの二階を寮として与えた。

 神奈川郊外の小さな駅前に開店した、店員すべてがエックスのコンビニ。

 店の売り上げから何とか店員の給料は出せたが、利益と店長給与の大半は借金返済で飛ぶ。

 氷室が編み出したのは国から捨てられた自らのエックス、そして店員達のエックスを生かす方策。

 エックスビジネス。

 現在、エックス・テクノロジーの民間提供は国家によって秘密裏に行われている。

 提供する企業を決定する経緯は常に不透明で、エックスの存在を知らされながら国家への貢献が薄いとかいう理由でエックス・テクノロジーの供与にあぶれた企業は数多く存在する。

 それらの人々に自分たちが保有するエックス・テクノロジーを有償で譲渡する。

 神奈川郊外にある小さな駅前コンビニ。ロータスマートの二階に、民間エックス・テクノロジー互助研究法人ロータスマートが発足した。

 同じくエックスを国家によって運用している諸外国にも類似の組織は存在し、それは反国家エックス・テクノロジー集団エックス・テロリストと呼ばれている。

 世に数多くあるテロ組織の中で、戦闘や武器操作、そして最近のテロリスト組織では最も重要となる経済介入の能力に比べれば小規模で実用性の薄いエックス・テクノロジーを用いたテロリストは零細な隙間産業の一つとしての地位を得ていた。

 氷室のコンビニが彼らエックス・テロリストと異なるのは、思想に拠らず、顧客を選ばず、国家とも敵対ではなく同業他社としての両立共存と相互協力関係の構築を目標とすること。

 氷室とその部下たち。国から放り出されたエックス・エックスが始めたテロリスト・ビジネス。

 彼らの業務形態は民間の調査会社やデータバンクに近い形だが、それらの業種ほど利潤が上げられるわけでもなく、利権のパイは歪な形をしている。

 コンビニの事務所と在庫倉庫。そして店長の氷室が寝泊りする住居を兼ねた一室が組織の本部。

 二四時間営業の隙間を縫って交わされる作戦会議によって組織の活動方針は決定される。

 彼らはその事業の一環として、国の保護下にあった強力なエックスの身柄確保に成功した。

 企業に対するエックス・テクノロジー情報の売り渡しを主とした小銭稼ぎで何とか赤字と黒字の波を往復する収益を上げていた組織にとって久しぶりの高利潤ビジネス。

 表向きは国家エックスの海外エックス組織への移籍のマネジメント。実際のところは勝手知ったる未成年エックスの保護施設に侵入して子供を誘拐し、他国に売り飛ばす計画。

 元々はロータスマートと相互連絡していた海外のエックス組織から提案、依頼された企画。

 氷室は現地雇いの下請けに近い立場ながらそれなりの報酬を約束されていた。

 商品であるエックスの奪取に成功し、国家の目をくらまし奪還を防ぐ国外輸送手段を海外組織と折衝する段階に達した計画。

 順調に思われたビジネスには一つの妨害要素が発生した。

 彼らが奪い取ったエックスが関与していた、エックス・テクノロジーによる高機動情報介入ステーション計画と、その技術実証のために作られたエックス・テクノロジー工業製品。

 組織が入手していた情報では既に解体、売却されたとあったオーキッドが再び動き出した。

 彼は組織の構成員に対し非定例会議の招集を発令した。

 従業員寮であるコンビニ二階ワンルームマンションの各部屋に声をかけて回り、コンビニの勤務シフトから外れ、まだ起きている人間が同じフロアの事務所に集められる。

 コンビニ二階の組織本部に並べられたパイプ椅子に座る部屋着やパジャマ姿の構成員を前に、コンビニの黄色いエプロンをつけたままの氷室は反政府エックス組織のトップとしての指令を下す。

「ごめんねごめんねちょっとお茶でも飲んで待っててね。布袋くんがもうすぐ来るから。いつもそうだけど僕じゃうまく説明できないから」


 深夜の埠頭。

 黒く迫る夜の海。

 場所をパーキングエリアから埠頭に変え、鼻先を海に向けたオーキッドの操縦席に座る蘭は、オーキッドから反国家エックス組織ロータスマートの説明を受けた。

 走りながら話すことを好む蘭にしては珍しく、オーキッドが反政府エックス組織ロータスマートの話を始めてからずっと埠頭に停めている。

 オーキッドの口頭のみで済ませるには複雑すぎる情報の説明。

 蘭にとってあまり得意でない文字と図表の読み物になることを見越した行動だったが、やっぱり走っていないとどうにも落ち着かない。

 オーキッドの説明は主に普段は一輪の花を表示しているダッシュボード中央のディスプレイで行われた。

 ノートパソコンのディスプレイモニターに近い大きさを持つ画面にに表示されるファイルや画像はディスプレイパネルに手を触れてめくったり拡大、縮小させられる。

 蘭が実家で持たされた携帯電話や陸上部の部室にあったトレーニングメニュー管理用のスマートパッドとほぼ同じ操作方法なので、さほど戸惑うことなく資料を読み進めることが出来た。

 どちらも必要がある時に使うだけで持ち歩くなどまっぴらごめんだったが。

 説明が一段落ついたところで蘭が口を挟む。

「それが悪の組織って奴?」

 オーキッドが説明した反国家エックス・テクノロジー組織ロータスマートの情報は詳細だった。

 設立の経緯から構成員、現在の活動までもを国は把握していて、それらの情報は高機動情報介入ステーションであるオーキッドにもダウンロード可能だった。

 その情報に欠けているものがあるとすれば、組織のボスである氷室の心の中ぐらい。

 蘭が聞く限り彼らは悪しき奴とも言えないし、そのご主人様とかいうエックスを奪還する意義もオーキッド自身の愛着以外理解できなかった。

 オーキッドの全ての機能はそのご主人様のエックス・アクティヴィティに適応しているというが、今こうして蘭の操縦で動いている。

「忘れちゃったほうがいいんじゃない?  今のあんたはわたしがご主人様なんだし」

『へぇ、ランおめぇはそういう人間か』

 どちらかというと蘭をからかうような口調。

 その言葉に篭められたオーキッドの感情に蘭は気づいた。

 この人語と感情を有する機械を傷つけてしまった。

 子への親の愛は、その子に弟や妹が生まれようと変わらない。

 上の子はもういらないと言う親は居ないし、子の側が親の愛情を独り占めしたくて兄姉や弟妹を居ないほうがいいと言ったなら、その子には平手のひとつも飛ぶ。

 蘭がこの喋る車と出会い、言葉を交わすようになって数日。

 蘭は人懐っこい性格とはほど遠く、クラスの友達からはどちらかというと気難しく打ち解けるのに時間がかかる奴と言われていた。

 積極的に他人と係わることのない蘭には陸上部の仲間だけが知る例外がある。

 一緒に走った人間とはすぐ友達になることが出来る。

 交わした言葉は少なくとも、オーキッドと走った時間は互いを知るには充分。

 蘭はこの車の心を感じ取った。

「ごめん、オーキッド」

『俺こそ済まねぇ。頼む筋でもない相手に無理を頼んで。ご主人様が居なくて心細かったんだ。俺ぁどうかしてた』

 資料の表示が終わり、再び一輪の花を映したモニターに蘭はそっと指を触れた。

『……ラン……』

 震える花を繰り返し撫でる指に反応したオーキッドが掠れるような声を出す。

 何も映してなくとも、このモニターは機能してるらしい。

「大丈夫……大丈夫だから……あんたとわたしが居れば大丈夫……」

 蘭は目の前の黒い海を見ながら呟いた。

「安心しなさい、あんたのご主人様はわたしが必ずかっぱらってやるから」

 オーキッドは取り乱したことを恥じるように口調を変えた。

『ラン、ご主人様を取り返すことはおめぇにも利益のあることだ』

 蘭の眉が少し上がる。

『オレは未完成品なんだ。ご主人様が在るべき場に座る日まで完成はしねぇ』

オーキッドは蘭に意外な提案をした。

『ちょっとオレをぶつけてみな』

 破壊音。

 言い終わる前に蘭はアクセルを踏み、オーキッドを分厚いコンクリートの防波堤に突っ込ませた。

 無人の岸壁に音が響く。

 車を持つ者なら誰もが耳を塞ぎたくなるような音。部品の破片がコンクリートの地面に落ちる空しい音が続く。

 フロントバンパーが大きくへこみ、傷はフロントグリルからライトレンズ、ボンネットの先端にまで達する。普通の車なら軽く五十万~百万円コースの損傷。

『そ……そこまでぶつけるこたねぇだろ……いてぇ……ご主人様……痛ぇです』

 モニターに表示された花は花弁を散らし、残った花芯が枯れて垂れ下がる。

 痛んだのはオーキッドだけではなかった。

 蘭もまた衝突の衝撃を体に受け、胸を押さえて突っ伏した。

「つっ! ……これは結構痛いわね……あんたが傷つくとわたしも痛むように出来てるの?」

『そんな観念的なもんじゃねぇ。ボディは衝撃を受けても修復されるけど、衝突の衝撃波は室内のドライバーを襲う』

 オーキッドの声は理路整然としていながらも、胸を押さえ突っ伏す蘭の耳には小声ながら『ザマアミロ』という声が確かに聞こえた。

 早くも胸の痛みから立ち直った蘭は八つ当たり気分でモニターの枯れ花を拳で一撃したが、表情はどこか和らいでいるように見える。

 この不可思議な車に対する無数の疑問がひとつ晴れた蘭。

 すでに去りつつある胸の痛みは蘭にとってオーキッドとの対等な関係を示すもの。

 蘭は陸上部だった時から痛みには強く、傷の治りも早かった。

 初めて蘭と会った時に満身創痍の状態から修復されて以来、蘭の手荒いドライヴィングで日々刻まれる擦り傷やタイヤの磨耗、跳ね石によるボディのへこみが翌日乗る頃には完全に直っていることには気づいていた。

 走る性能はもちろん、その理解不能な性質についても言葉による説明でなく実際に試すことで知り、把握したくなるのは蘭の性分。

 それに加えて自分では意識しないままに蘭の神経は昂ぶっていたのかもしれない。

 暗い海を前に静止した車内という空間もまた、走りながら喋ることに慣れていた蘭を微妙に不安定にさせていた。

『待ってろ、今直すから』

 埠頭の灯りに照らされ、激突によって潰れたフロント部が少しずつアイロンをかけられるように回復していく姿が見える。

 モニターの中では枯れた花が再び蕾を出し、新しい花を咲かせようとしていた。

「ん……? んぅっ!」

 蘭の体に、初めてオーキッドに乗った時に似た刺激が走る。

『痛ぇか? 蘭』

「別に、少しムズムズするだけよ」

 あの時は未知の感覚への恐怖から苦痛を感じたが、今の蘭が知覚しているのは陸上部のトレーニングで体を酷使した時に似た痛み。

 筋肉の存在を感じる類いの物で、不快を覚えるものではなかった。

『見てみな。これくらいの損傷なら元通り走れるくらいまでの機能的修復に三十分。ツヤッツヤの完全修復には一晩かかる』

「修理屋が失業しそうな技術ね。これがエックス・テクノロジーって奴?」

『自己修復は整備コストをケチってんじゃねぇ。オレの運用に不可欠なもんだ。システムが完成すりゃあこれっくらい数秒で直るぜ』

 オーキッドがある一人のエックスを保護するために作られたと称している由縁。

 有機素材とナノテクノロジーによる自己修復システム。

 機械は壊れることで欠点を示し、そして改良される。

 壊れても勝手に直る機械は改良の道を自ら閉ざし、機械の進化を否定する物。

 オーキッドはただ一人のエックスを守るため、機械への宗教じみた信仰をなりふり構わず無視、冒涜した技術実証機。

 機械でありながら機械に反する物体。

『理論的には対戦車ミサイルを食らっても修復できる。でも中のひとは痛ぇぜ』

「そのほうがいいわ」

 蘭は自らがつけた傷の修復という貰い物を何の代償も無く受け取るのは気に入らなかった。

 転べば痛い。

 そんな簡単なことを忘れたくはない。正当な対価はこの肉体に刻まれる。

 蘭が自分の足で走っていた頃と何も変わることの無い約束事。

 自己修復に同調した痛みはすぐ何事もなかったかのように消え去る。その頃にはぶつけたフロント部もほぼ元の形状を取り戻していた。

 岸壁の灯りに照らされ、ボディに残った微かなシワや歪みが少しずつ修正されて表面の艶を取り戻していく様が見える。

 満開の花はいつも通りの色艶を取り戻し、黒いディスプレイ内のどこかにある太陽に向けて咲いていた。

『オレは元々高度情報介入ステーションとして製作されたんだ。情報介入能力を持ったエックスを守るため自己修復能力が追加され、高い機動力と隠匿性を得るため車のカタチになった』

「いい年してオモチャで遊びたい奴の言い訳にしか聞こえないわよ」

 オーキッドがご主人様と呼ぶエックスが放射するエックス・アクティヴィティは有機半導体によって作られたバイオ・コンピューターを稼動させるもの。

 エックス・テクノロジーによって実用化したバイオコンピューターの特徴のひとつは完成後にも外部操作によって自らの構造を変化させられること。

 既存のコンピューターがネットワークからのダウンロードでソフトウェアを進化させるようにハードそのものを追加、増殖させることが出来る。

 バイオコンピューター稼動能力を持ったエックスの発するアクティヴィティによって生物のように基盤やメモリ領域を増やし、設計図の中にしか存在しないハードウェアを実装することを可能とする。

 副産物として得たのは、バイオナノテクノロジーと呼ばれる有機素材による自己修復機能。

 形状記憶性の合金や樹脂によって凹みや歪みを自己修復する素材は既に研究と部分的な実用化が進んでいるが、オーキッドはそこから更に進化し、獣が傷を癒すように欠損した部位を再構築する。

 車が半分無くなっても修復できるような機能は無かったが、少々の欠落なら車内のタンクにプールされた人間のIPS万能細胞に似た有機素材を使ったり、他の部品から融通したりして帳尻を合わせられる。

 エックス・アクティヴィティによってバイオコンピューターは生物の脳に限りなく近づき、自己修復が可能な有機素材は生物の肉体を模した体を得た。

 破壊されても自ら修復するエックス・テクノロジー由来の素材は当初軍用車両の装甲として開発され、事実売り込みも行われた。

 結果、実際に装甲車両を運用する現場の「壊れたら取り替えたほうが早い」というもっとも過ぎる事実の前にあっさり入札を弾かれる。

 当初はそれなりに奮発した予算と人員が軍事利用の失敗で大幅に絞られた中でやっとこさ作られたオーキッドが事実上初めての完成品だった。

 恒久的なハードウェアを必要に応じて組む既存のシリコン半導体コンピューターに対するバイオコンピューターの優位性はそう多くなかったが、いくつかの機能において基盤の一部を欠損させておくという確実にして解除不能な安全装置を装備することが出来る。

 欠損基盤の再構成を含めたバイオコンピューターの機能を安定稼動させることが可能な数少ないエックスが存在し、その技術実証のために作られた自動車型高度情報介入ステーションがオーキッド。

 そして、計画自体の流産とその後に起きた反国家エックス組織ロータスマートによるバイオコンピューター稼動能力を持ったエックスの略取。

 核となるエックスを失い、他のエックス・アイソトープ保有者による起動実験にも失敗したことで稼動不能となったオーキッドは隠匿された。

 制御能力を失ったオーキッドが再び動き出したのは、国家にも存在を確認されてなかったエックスである蘭との偶然の出会い。

 オーキッドがご主人様と称するエックスほどではないが、他の実験対象者をはるかに上回る適応を見せる蘭のエックス・アクティヴィティによってオーキッドは破損部分に即席の補修を行い、動き出した。

『前にも言ったろ? オレは未完成品なんだ、大容量のリソースが必要な機能の多くはおめぇのエックス・アクティヴィティじゃ動かせねぇ…第一オレがこうして走ったり喋ったり、自己修復が何とか働いてるのだってオレには理解できねぇ』

 バイオコンピューターがエックス・アクティヴィティによって稼動する理由は未だによくわかっていない。

 飛行機がなぜ飛ぶかが近年まで理論的に解明できなかったように、しばしば役立たずテクノロジーと言われるエックス・テクノロジーの実用化をすべく実験を繰り返している内に偶然見つかった特性。

 それによってバイオコンピューターの研究は見切り発車気味に進んだが、その稼動能力を理論化させるのに必須である再現確率や安定性には欠け、バイオコンピューターの研究も頓挫しかけてた。

 それを変えたのは一人のエックス。

 動いたり止まったりするバイオコンピューターを常に安定して稼動させ、理論的には可能だが実現したことのないバイオコンピューターのハードウェア形成、増殖能力も確認された。

 バイオコンピューターは初めて、専門家や技術者が想定していた生きているコンピューターとなった。

 功を焦ったバイオコンピューター研究部署は技術実証機の製作計画を経理部署にネジこみ、そのプロジェクトにはバイオコンピューターのみならず他の多くのエックステクノロジー由来技術が相乗りした。

 自己修復能力を持った有機素材、エックス・アクティヴィティを動力源とする内燃機関、そしてバイオコンピューターが稼動したと聞き計画に割り込んできた高度情報介入ステーション計画。

 エックス・アクティヴィティによってタダで動く車を作ろうという企画自体は二十年以上前から存在していて、さほどの実績を挙げられなかった計画と設計図が再利用された。

 複雑な経緯を経て完成したオーキッドは天文学的な確率の出会いを引き当て、現在は国家の管理からはみだした蘭の操縦によって動いている。

 オーキッドは現在自分の操縦席に座る、自らにとってご主人様が見つかるまでの一時雇いの運転手にひとつの情報を告げる。

 走ることで互いを知った蘭とオーキッド、友達ともいえるかもしれない相手の気持ちを動かす言葉くらいわかる。

『オレの走るほうの能力もご主人さまのエックスで開封すれば、底無しのパワーとスピードになるぜ』

 制御を失った機械がSFの宇宙船や特撮のロボットみたいに暴走することは少ない。

 まともな頭の人間が設計した機械は制御システムがエラーを起こした時点で各所の機械的な安全装置を作動させる。

 例えばパソコンのOSには全ての動作がイヤになるくらい時間がかかるセーフモードがあり、車は制御に必要な入力情報をひとつカットしただけで安全余地を充分に取った鈍くて遅い基本マップに切り替わる。

 高度な制御によってのみ機械はその限界領域に達することが出来る。

 現在のオーキッドはその本来のスペックを知る者にとっては遅すぎる仕様となっていた。

 その中核となる制御システムが、バイオコンピューターに適応したエックスの能力でパスワードとも言える幾つかの未完成デバイスを完成させれば、オーキッドは本当の能力を出せる。

「面白いじゃない……」

『今のコイツの動力性能は外観のモデルになったクルマの数値とほぼ同一だ。そのほうが扱いやすいけどな』

 蘭の瞳は迫り来る事態を前に鋭く輝いていた。

 オーキッドがご主人様と称する人間の奪還、予想される反国家エックス組織との衝突。

 国家エックス・テクノロジー組織からは何一つ保護が得られない。

 さっきまで未知の経験に恐怖を抱いていた蘭の心は、既に決まっていた。

「あんたを今より速く走らせるためなら、そのご主人さまを奪うなり殺すなり何でもしてあげるわよ」

『おめぇ……車に狂って人生しくじる奴の顔してるぜ』

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