第四章 エックス・テクノロジー


 一人の少女が一台の車と出会った夜から数日。

 八月が始まってからの蘭はオーキッドの操縦技術習得に集中していた。

 部活を引退し、受験勉強や進路の決定に忙しい高校三年生になってだいぶ宿題の減った蘭にとって、何もやることのない夏休み。

 蘭はこの喋る車に出会って以来、一日と欠かすことなく走り回っている。

 同じクラスや陸上部の友達からの遊びの誘いにも応じず日暮れまで寮で寝ている蘭。

 夜が更ける頃に寮の門前で入念なストレッチをした後、走り出す。

 身に着けるのは陸上用ランニングシャツに赤いショートパンツとクロスカントリー用のランニングシューズ、ストップウォッチのついたアスリート用デジタル腕時計、ランニングポーチ。

 ボトルホルダーと小物入れを腰にベルトで固定するランニングポーチにはさほど現金の入ってないオイルレザーのガマ口と、寮のウォーターサーバーから汲んだ水を満たしたペットボトルが突っ込まれてる。

 寮を出た蘭が向かうのは造成、舗装されて間もなく建物も車の通行も無いため、地元民が勝手に駐車スペースとして使っている市民公園沿いの道路。

 最短距離を走れば五分とかからぬ場所まで、蘭はいつもあちこち遠回りしてから着く。

 蘭は通常のロードワークよりかなり早い中距離走のペースで、最低でも三十分は走ってからオーキッドに乗ることにしていた。

 心臓が日常生活に必要な血液を送るだけの緩慢な動きから、走るため酸素を求める筋肉に血を吐くべく胸郭全体を脈動させる力強い鼓動に変わるまで三十分。

 全身がほどよく汗で濡れ脚と体が充分に暖まった頃。蘭が近づくとロック解除されるオーキッドのドアを開け、革バケットシートに滑りこむ。

 キーはいらない。蘭がシートに座っただけで車内の各種イルミネーションが点灯し、シートバックから自動的に伸びてくるシートベルトが体を締め付けてくる。

 ランニングポーチを助手席に引っ掛けた蘭はセンターコンソール上。シフトレバーの下にある赤いプッシュ・スイッチを押す。

 甲高く短いエンジン始動音の後。耳と背中に伝わってくる重く低い音。音量はさして大きくないが凄味のある排気音が蘭の聴覚を快く刺激する。蘭を誰よりも速く走らせる魔法の音。

 花が咲く。

 ダッシュボード中央。普通の車ならエアコンやオーディオの操作パネルがある場所には大きなディスプレイが嵌っていて、エンジン始動と同時に一輪の花が表示される。

 赤紫の花が咲くと同時にこの車の特異な部分である会話という機能もまた起動する。

『おめぇいっつも汗臭ぇぞ』

「体を暖めないと走れないわよ」

 あらゆる機能が付与された魔法の車と称するオーキッドには嗅覚を数値化するセンサーも装備されていたが、オーキッドの言ったことは半分出まかせ。

 蘭は夏のランニングで多量に汗をかいてもほとんど体臭が出ない体質をしていた。

 それでも微かに感じ取れる汗と体内分泌物の香りは、人間の平均的な感性や嗜好を入力されたオーキッドにとって悪臭とはいえないもの。

 蘭は全身の汗が乾くのを待たずオーキッドのシフトレバーをDの位置に滑り込ませ、ステアリングを握りながらアクセルを踏み込む。

 オーキッドに暖気運転は不要だった。

 シート、ステアリング、シフトレバー、アクセルとブレーキの位置と操作した時の反応。全てが自分にとって最適な状態に調整されていることを確かめる数秒の時間があれば充分。

 蘭は陸上部に居た頃よく寮から普通の陸上部員がバスを使う距離にある競技場まで走って行き、そのまま現地で最小限のウォーミングアップだけで試合に出場していた。

 ランニングで肉体は充分に暖気されている。蘭はオーキッドのステアリングを握り、アクセルを踏んで走り出した。


 蘭はいつも夜の早い時間にオーキッドで走り出し、帰るのは明け方近く。

 なんとなくこの車に乗るのは、人目を忍ぶことが出来て都下の渋滞も一段落している夜の時間と決めていた。

 走るためには充分な睡眠と食事を取ったほうがいいという陸上部時代の経験に従い、夜が明ける頃には帰路につくが、また夜が来て走り出すまでの時間が待ちきれず、あちこち寄り道をする。

 結局、オーキッドを駐車場替わりにしている公園沿いの道路に戻るのは夏の大陽が昇りきった頃になることが多い。

 夜遅くなってからと決めていた走り出す時間はだんだん早くなり、夜が明けたらと決めていた帰宅時間は少しずつ遅くなり、一日の走行時間が二十時間を越えることもしばしば。

 時々ペットボトルの水を口にするだけで何も食べず、走っている時にほとんど休憩を取らない蘭の走行距離はどんどん長くなる。

 陸上部時代の練習よりも熱心な様子で毎晩どこかに出かけては朝帰りし、昼は寮の部屋で寝ている蘭は、夏休み中も学生寮に残る友達から「男が出来た」と噂された。

 聞かれても適当にはぐらかす様子と、それでも自然と頬が緩む表情からそれはさらに信憑性の高い情報となったが、蘭は特に否定も肯定もしなかった。

 興味を持った友達が毎晩出かける蘭の後を尾けようとしても蘭が寮を出て走り出す方角は毎日違う。陸上部をやめた今となっても中距離で蘭に追いつける人間は居ない。

 蘭が寮の近くに路上駐車しているオーキッドに乗り込む様も目撃され「赤い車に乗った彼とデートに行った」との噂も立ったが、それを目撃した本人である陸上部の友達は否定した。

「短パンにランニングでスニーカー。とても男と会う格好じゃなかったし、だいいち蘭は走る時の顔をしていた」

 陸上部をやめてから何に対しても消極的だった蘭に訪れた突然の変化。

 友人の間では「別の高校からスカウトされた」「陸上部復帰のためにどこかで極秘の特訓をしている」「トライアスロン選手に転向すべくプールに通っている」「ある有名陸上選手のトレーナーをしている」等の憶測が流れた。

 結局、蘭自身が与り知らぬまま情報が錯綜した蘭の深夜外出の謎は「よくわからない」という結論に達し、来週の登校日でも本人に聞いてみようということで友人達の意見は一致した。

 噂を余所に今夜もオーキッドで走り出した蘭は住宅街の道路を何度か曲がりながら、これからどこに行くかを決める。

 散歩に行く犬や縄張りを巡回する猪が自分でコースを決めるように、オーキッドのエンジン音を感じ、走るべき道路を目の前にした時に蘭は自らの望む先が自然に決まってくる。

 幹線道路に面した交差点で一旦停止した蘭はウインカーレバーに指を当てながら、行き先をオーキッドに告げた。

「山にでも行こうかな」

 国道に出た蘭はオーキッドを西へと走らせる。

 都心から蘭の暮らす東京都下を経由して中京までを結び、夜間はトラックやタクシーの動脈となっている国道。蘭は二車線の道路で他車を左右から抜きながらスピードを上げていく。

 時に蘭の目前に被さるように車線変更し、遅い車と並行して蘭の走路を塞ぐ意地悪なトラックも居たが、蘭は苛立ちひとつ見せず、むしろゲームを楽しむかのようにトラックの後部をキープする。

 国道や高速道路には時々ある、広い路側帯や導入路で二車線の車道が事実上の三車線になる区間。

 トラックのミラーやバックビューカメラの死角で待ち続け、短いチャンスを逃すことなく急加速で一気に抜き去る。

 体をシートに押し付ける加速感。背中を通して伝わってくるエンジン音。サスペンションとタイヤが路面を掴む感触。

 電車やバス、あるいはファミリーカー。飼いならされた羊に乗っている時には緩慢に周囲を流れるだけの風景は、この車に乗っていると形の無い奔流となって蘭の左右の頬を掠め、後方へと飛び去っていく。

 神奈川西部と静岡に跨る山脈とその奥にある富士山がだんだん近づいてくる中、蘭の額にはランニングをしていた時とは別の汗が滲んでいた。

 蘭は走っていた。


 短い夏の短い夜を惜しむように、蘭はオーキッドでどこまでも走った。

 学園寮のある東京郊外から国道を走って中部や北陸まで行ったり、都心に出て新宿や六本木を流したり、箱根や伊豆、秩父のワインディングロードを攻めた。

 高速に乗る金など無いのに間違ってゲートに入ってしまったこともあったが、車内にあった料金自動支払機のETCが作動し、料金所のゲートが開いた。

 クレジットカードは一応、上京するときに親に持たされたが残高は大して無い。

 言葉を話す不可思議な車であるオーキッドが『いいから通っちまえ』と言うので、蘭はそれを信じることにした。

 高速道路を自由に使えるようになって蘭の行動範囲は更に広まる。

 一度、東北自動車道の走りやすさを気に入った蘭は実家のある青森まで一晩で往復したこともあった。

 特に実家に用があったわけでもないので家の近くを通りながら寄ることも無かったが、実家に居た頃に時々買ってもらった自販機のツナサンドが久しぶりに食べたくなった。

 蘭は夜中の自販機で高価い割りにあまり美味いとはいえないツナサンドと地元でしか売ってない瓶入りの炭酸水を味わい、夜が明ける前に都下まで戻ってきた。

 高速だろうと一般道だろうとアクセルは踏めるだけ踏む蘭は速度取締り機のカメラを赤く光らせたことも何度かあったが、その時は特に気にしなかった。

 どんなに走ってもこの車のガソリンは尽きず、どれほど酷使してもタイヤやブレーキが擦り切れる事はない。ボイス機能の減らず口もまた同様だった。

 今夜の蘭が選んだのは首都高速道路。

 蘭の操縦で夜の都心を循環するオーキッドは、蘭自身あまり興味の無さそうな魔法の話を一方的に語って聞かせた。

 魔法と言えば通りがいいという現代科学の範囲外にある技術には、エックス・テクノロジーという何ともうさんくさい名前がついているという。

 この車が蘭の求める限りどこまでも走り、そして感情を宿すエネルギーの根源だというエックス・テクノロジーについて、車は話し始めた。

『……最初はレントゲン博士によるX線の発見だ。そしてアンリ・ベクレルとキュリー夫人による放射能の研究…コレ実は未だに科学の範疇じゃ全て説明できない力なんだぜ』

 蘭は操縦に集中しつつもオーキッドの話す言葉を聞き逃してはいなかった。それだけにあまり重要でない内容であることはわかった。

 専門的な知識を学ぶ必要があって解説書をめくる時に冒頭で読まされる概論部分。

 基本概念や用語を頭に入れるなら最初の説明は斜めに読み飛ばし、その単語が具体的に使われている中盤以降を読むほうがわかりやすい。

『自然界に存在する放射性物質に含まれた放射能が崩壊の過程で放射線を発生させる、人間に出来るのはその測定と遮断くらいだ、なぜ発生するかについても一応教科書や専門書には書いてあるが、ありゃあ憶測やデタラメが結構混じってる』

 理系文系のどっちにも縁の無い体育会系思考の蘭はオーキッドが得意げに喋るに任せた。

『だからよ、病院や原発に居るX線や放射線の技師は公式に認知されてる数少ない魔法使いなんだぜ』

 蘭の通っているのは私立大学付属学園の高等部

 十数年前まで体育大学だった学園と敷地を共有する専門学校には放射線技師の専課があり、校内には放射線施設のステッカーを張られた施設もある。それが魔法だなんて今さら言われても理解できない。

「わたしだってレントゲン検査したことくらいあるけど、魔法使いの格好した奴なんてどこにも見かけなかったわよ」

 一番近い記憶は足の靭帯を切った時の接合手術。

 自分の身と脚を病院のわけわからない医者や技術者、そして機械に委ねたあまり思い出したくない出来事。

 蘭の複雑な気持ちを知ってか知らずか、少なくとも蘭が会話の内容を理解している事を確かめつつ、オーキッドは話し続ける。

『放射能を持つウラニウムやコバルト等の物質を"俺ら"はエックス・アイソトープと呼んでる。そして発生する放射線はエックス・アクティヴィティ。それによって発現する様々な事象はエックス・エミッション』

 化学や物理の時間には寝てることの多かった蘭は、続けざまに出てくる初耳の単語に頭を掻く。

「単語カードでも作らなきゃダメなのかな?そのエックス何とかっての」

『せいぜい覚えなきゃならない用語は五~六個だ。アホウでないなら覚えな』

 アクティヴィティは放射、エミッションは効果

 蘭は自分の英語力に感謝したが、それにエックス線のエックスを付け加えたところで、今この車が動き、喋ってるという事実にはどうにも結びつかない。

 アイソトープの訳である同位体について蘭は化学の授業で聞いたことがあるという事ぐらいしかわからなかった。

 とりあえず蘭にとって重要なのはこの車によってもたらされるスピード、それに直接関連しそうな内容以外は適当に聞き流すことにした。

『X線と放射能から始まったエックス・テクノロジーから核兵器なんてブツまで作りやがった先進国の連中は、大戦の戦後処理に集まったついでに以降のエックス・テクノロジーに機密の蓋をしやがった』

「そんなうさんくさいモノに手をつけるのはよっぽど詰んだ倒産寸前の国か金の余った国でしょうね」

『エックス・テクノロジーはそんなインチキ臭ぇ儲け話じゃねぇ。純粋なる技術だ。エックス・アクティヴィティは特有の現象エックス・エミッションを発生させる』

 蘭はオーキッドの説明に生返事で応えながらオーキッドを操縦していた。夜の早い時間でまだ混雑の残る首都高速を制限速度を大幅に超えたスピードで走っている。

 視線は絶えず路面状況と前車の位置関係を把握すべく左右に動き、両手はステアリングを握りながらも指も見えぬほどの素早さでシフトパドルを操作している。

 オーキッドはこういう時の蘭は操縦以外のことにも集中力が働き、聞いてないように見える話をしっかりと聞いていることがわかってきた。

 少なくとも、オーキッドが小声で言った悪口には即座にパンチが返ってくる。

『エックス・エミッションの特徴は何もないところから火を吹いたり水を出したり、質量保存やエネルギーの法則に当てはまらない現象を起こすことだ』

 蘭は瞬時に飛び去っていく首都高速の案内板に目を走らせ、現在走っている環状線が進行方向の先で渋滞している事を確認した。脳で考える前に体が動き、次の瞬間にはオーキッドを分岐路へと進める。

 大きく湾曲した橋への導入路手前で一度ガツンとブレーキを踏み、他車の位置や路面状態の関係で複雑な加速線を描く微妙な操縦操作をしながら言葉を継いだ。

「ライターや水鉄砲の替わりが出来たからって何の役に立つの?」

 その問いはエックス・テクノロジーの根幹に多少なりとも触れたものだった。

『何も役に立たねぇ、だから役に立つX線や核エネルギーは日の目を見て、その他大勢のろくでもないエックス・テクノロジーは隠されたんだ』

「あんたみたいなお喋り車もそれってわけね、そりゃ隠すわよ」

 自分はダメだと自嘲する奴ほど、人からダメだと言われるとムキになって否定する。

 オーキッドもまた自らの性能が軽視されることへの危惧を抱き……なんていう殊勝なものでなく、単に腹が立ったから自慢のひとつもしてやろうという気になった。

『オレの基幹を構成しているのはエックス・アクティヴィティによって稼動する有機半導体のバイオコンピューターだ。これでもアメリカ国防総省に売り込んでいい線いったんだぜ』

「昔はあれこれだったなんて自慢話をする奴にロクなのは居ないわ」

 蘭が居た陸上部の顧問である高等部の教頭はその典型で、喋りながら走るのが好きな教頭がトレーニングの伴走中に言った事をすべて信じるなら、その教師はかつて湘南最大の族で旗持ちをやっていてスペインのプロサッカーリーグの練習生をしていてニューヨークで有名作家のゴーストライターだったという。

 蘭は教頭の陸上トレーナーとしての腕以外は信じてなかったし、このオーキッドと名乗る車に関しても話す言葉よりアクセルを踏んだ瞬間の反応を信じている。

 速いことはそれだけで信頼に値する。それは人も車も一緒。

『けっきょく非公開入札で負けたけどよ。軍隊とか御国は信頼性とかいう宗教の信者だから、ハードもソフトも古臭ぇ枯れた物しか使いやがらねぇ。エックス・テクノロジーを軍事利用するのはあと五十年は先だってよ』

 当然それは建前で、時にそうならないこともある。

 便利さに負けて当時の民間最新OSを使った米ミサイル巡洋艦がフリーズし、丸一日近く制御不能なまま漂流した事件は記憶に新しい。

『値段は既存のスパコンの十五倍。維持や操作はやたら面倒なくせにスペックアップにバラつきのあるエックスコンピューターを使おうって馬鹿はいやしねぇよ……オチコボレ連中が好んで読むマンガ本みてぇな小説じゃ魔法使いはエリートだけどよ、現実のエックス・テクノロジーは出てきた時から今の今まで負け組よ』

「この車にオマケで積んでるお喋りパソコンのおっきさ勝負なんて興味ないわ。スピードで負けなければいい」

 ベイサイドのビル群に落ちていくように橋を渡った蘭は本線に合流し、広い湾岸線でアクセルを踏み加速した。

 蘭が走るコースにペースの遅い一般車が居たら、車線変更で充分な距離を取りつつ抜き去る。陸上の練習でフィールドトラックを走ってた時とさほど変わらない。違うのはその十倍以上の速度を出しているということぐらい。

『そう言うなって。俺ぁ便利だぜ、機動力と偽装性のため車のカタチにされちまったが、俺は高機動情報介入ステーションとして作られたんだ。世界中のネットワークからあらゆるデータが取り出せて、動画もゲームも泥棒ダウンロードし放題だ』

「いらないわよ」

 言葉に反し、蘭はこの車の持つ性能に惹かれつつあった。

 速く走ることを誰よりも望む蘭を、信じられないほどの速さでどこへでも連れてってくれる車。

 アクセルを踏みつけた時に体中で感じる加速感、ブレーキを踏んだ時に両肩に食い込むシートベルト。

 自分の足で走っていた時とは違う。機械頼りのスピードは蘭にとって偽物のようなもの。しかし足で走る何倍もの速度と力は確かにそこにある。

 それがニセモノだろうとカッパライ物であろうと、蘭の目前にあるスピードは間違いなく快楽と陶酔をもたらしてくれる。

 蘭にとって水や空気のように当たり前にあって然るべきもの。

 生きていくために必要としていた、そして一度失ったものを再び得ることができる車。

 蘭は喋る車が語る現代の魔法、エックス・テクノロジーについても耳を貸していいと思い始めていた。だからこそ、それに比例して高まる疑問を今のうちに解決しておくことにした。

 人語を操る車オーキッドが喋る、自身の根源であるというエックス・テクノロジーについての説明。

 それまで気の無い合いの手を入れるだけだった蘭は、喋るに任せていたオーキッドの講釈を遮って口を開いた。

「そろそろ話しなさい、あんたがわたしを乗せた理由を」


『何のことだ? お前が空き地に捨てられてた俺に乗ってくれた。お前には稀な適性があった。だから俺は車検証や登録データ、ETCの引き落とし口座まで作ってお前が走れるように……』

 この車に対してはオーキッドの主観ではとても怒りっぽい蘭のいつもの口調とは違う。

 静かなトーンながら沸々と溢れ出る苛立ちに気づかないほどオーキッドの電子頭脳は鈍くなかった。

「とぼけるんじゃないわよ。あんたはランニング中にあんたを拾ったわたしが走るために色々と小細工をしてる」

 ガソリン代もいらず、高速料金もどこかの誰かが建て替えてくれる。

 都合いい状態が続くにつれ増して行く蘭の疑念は、確実に捕まる速度で高速道路を走っていていた時。後ろにつけていた高速隊のパトカーが唐突に追尾をやめたのを見て確信に変わった。

「わたしは何だってタダで貰えるとは思ってないわ」

『それも現代魔法エックス・テクノロジーの話だ……まだおめぇに話してないことがある』

 この車によると、エックス・テクノロジーと言わる科学を超越した技術。それを使用可能な適性を持った現代の魔法使いは簡潔明瞭にエックスと呼ばれているという。

『オレは制御システムだけでなく全ての稼動物がエックス・アクテヴィティによって動いてるんだ。だからガソリンもいらねぇし、動力源になってるエックス・アイソトープさえあれば動き続ける』

「エックス・アイソトープ? 場所を教えなさい。今すぐ抜きとって余計なお喋りをしない普通のクルマにしてあげるから」

 蘭も化学の授業やニュースで聞いたことがある。ウラニウムやコバルト等の放射性同位体物質を表す単語であるラジオ・アイソトープ。

 それはオーキッドが言うにはエックス・アイソトープの一部で、国家による秘匿というオチコボレ扱いを受けることなく表舞台に出た数少ないエックス・テクノロジーだという。

『できねぇな、そのエックス・アイソトープってのは……お前だ』

「へぇ」

『特定の原子配列を持った物質が放射線を発するエックス・テクノロジー。それが隠された最大の理由はエックス・アクティヴィティを発する人間の存在、放射性同位体遺伝子配列エックス・アイソトープが発見されたことだ』

「つまりあんたはわたしの血を吸い肉を食らって動いてるわけ?」

 オレンジ色の光で照らされた首都高湾岸線。真横にある石油コンビナートの煙突が炎を吐き出している。

『人聞きの悪ぃコト言うなよ。おめぇが生きてる限り自然に放射されているエックス・アクテヴィティを取り込んでるだけだ。特におめぇはオレ好みのエックスを吹いてやがる』

「なんかタチの悪いバイキンみたいね」

 蘭は自分の体から未知のエネルギーが出ていると聞かされても納得できない様子。とりあえず自分の腕を鼻に近づけ、クンクンと匂いを嗅いで見た。

「それ、体に何か影響とか無いの?」

『鉱石由来のエックス・アクティヴィティの中には危ないブツが色々あるけどよ。生体遺伝子のエックス・アイソトープには確認されている害は無い。むしろエックス・アイソトープ保有者の平均寿命は一般人よりちょっと長ぇよ』

「健康にいいってわけ?」

『いや……エックス・テクノロジーは昔っから国家の重要な仕事には縁遠いってことだ。特に期待もされずダラダラ生きてっからバカみてぇに長生きしやがる』

 エックス・テクノロジーが発見された当初は秘密にするというコンセンサスは無く、日本では論文が書かれたこともある。

 世界中誰にでも読めるよう書かれたエスペラント語の論文は世界中の誰にも読めず、書いた教授が後に性犯罪で捕まったことで論文は封印された。

 その後、鉱物由来エックスである放射能の研究が進み、それが国家事業に足るものであることが知られると共に、放射性同位体遺伝子とエックス・テクノロジーは放射能研究の品位を損なうものとして禁句扱いになった。

 話が横道に逸れたと思ったオーキッドは慌てて軌道修正する。

 蘭は脇道など目もくれぬ勢いでオーキッドを走らせているが、これ以上話を逸らせばオーキッドは湾岸線の高架下に広がる港湾に叩き落されそうだと思った。

『聞いてくれ。国の管理下にあるエックスがいればそうでない奴も居る』

「民間業者?」

『そんな真っ当なタマじゃねぇ。エックス・テクノロジーは国家によって秘匿管理されている未知の力。それを国に拠らず使用するテロリスト連中だ』

「そいつらをどうしろって? 轢き殺したいならさっさとわたしの前に並べなさい」

 蘭は苛立っていた。

 このオーキッドと名乗る喋る車の話はまだ核心に触れてない。心を宿す車は本当の気持ちを見せてない。

『おめぇにしてほしいことがある……ひとつだけ……お願いだ……俺ぁ諦めてたんだよ……ランみたいな高適性の人間に拾われるまでよ……』

 蘭は無言だった。

 ただオーキッドの運転操作をしながら、車窓の外を緩慢に流れるコンビナートの照明を眺めていた。

 夜中の高速道路。蘭は蘭自身の決めた安全速度でオーキッドを流している。 

 最も効率的に集中力が働き、お喋りや考え事に最適なスピードは制限速度を大幅に上回る。

 前車のテールランプはこちらに向かって突っ込んできては横を流れ、あっという間に白いヘッドライトとなって後方へと消える。

 蘭は陸上部時代、部活のトレーニングメニュー決定等の考え事はいつも走りながら済ませていた。

 全身の筋肉が動き、血と汗が滞りなく循環すると脳の働きもよくなり、考えがよく纏まる。

 革のシートに座り、ただステアリングとパドル、アクセルとブレーキを操作してるだけなのにランニング中と同じ状態になるのは不思議だったが、スピードと共に全身の血液と筋肉が稼動するのを確かに感じる。

 レースドライバーは競技車の運転に肉体を酷使し、アスリートと変わらぬトレーニングをした体はレースシーズン中にどんどん痩せていくという。

 それは力によるハンドリングとシフトチェンジが必須だった時代から、レーシングカーにもパワーアシストが普及した現代におけるまで変わらない。

 蘭は美少女というには少々目つきが鋭く涼しげな顔とランニング一枚で剥きだしの両腕にうっすらと汗をかきながら、直線の道路でアクセルを踏みつけた。

 オーキッドは蘭の走りが少し変わったのに気づいた。

 蘭は既に他のファミリーカーやトラックを不要に妨害したり驚かしたりせず滑らかに抜く術を身につけていた。

 静かに背後につき静かに横に並び、相手が追い抜かれたことに気づくより速く抜き去る走りは陸上部時代、体に叩き込んだ。

 オーキッドのドライブレコーダーは車線変更における旋回角度や加減速で使用する回転域がそれまでの平均値を若干上回っていることを示していた。

 蘭の走りが荒れている。

 この高度なインターフェース能力を備えた電子装置の感情知覚機能は、自身を動かす類い稀なエックス・アイソトープと先天的な運転技量を併せ持った少女から、言葉より確かなものを検知した。

 蘭の心は、剥き出しになっている。

 人は他人の強さを見せられた時より弱さを晒された時に信頼や親愛を覚えることが多い。

 オーキッドは蘭が言葉ではなく走りで不安定な心を見せ、自分をさらけ出そうとしていることに気づいた。

 今の蘭なら、全てを話せると思った。

『おめぇに……ランに……俺のご主人様を探してもらいてぇ』

 オーキッドの巡航速度が少し下がった。蘭は操縦操作を行いながら口を開く。

「あんたのご主人様はわたしだと思ってたけど? 少なくともわたし以外の人間の命令を聞くならブッ壊すつもりよ」

『俺はただ一人のご主人様を守るために作られたんだ。ご主人様の持つエックス・アイソトープが発するアクティヴィティに対応し、ご主人様が必要とする保護と助力を得られるように作られた……それが何でおめぇみたいなアホウに適応してるのか俺にはわからねぇ」

 オーキッドの挑発的な言葉にも蘭は動じない。

 どちらかというと、この車が自分のものになるための正当な条件を提示しようとしていることに好感を覚えた。

「そのご主人様とかいうのの名前と住所と顔写真を出しなさい。顧問の知り合いに警視庁の警視正が居るから、問い合わせてあげる」

『そんな方法で見つかるならお前ぇを頼らねぇ。ご主人さまはエックス・テクノロジーを使うためにお生まれなさった。戸籍も出生記録も無ぇんだよ』

「じゃ、無理」

『ご主人様は悪の組織に奪われたんだ』

 蘭は無言のまま、湾岸線を走らせていたオーキッドの速度を落とし、本線右の導入路に滑り込ませた。

 パーキングエリアに入ったオーキッドを走行中とはうって変わって慎重でゆっくりとした動きで駐車スペースに停める。

 蘭の運転技術は目覚しい進化を見せながらも、この国産車の中では少し大きめな車の駐車はまだ少々苦手。

 オーキッドを停止させ、シフトレバーをパーキングの位置に動かした蘭。

 乗車時にいつも自動的に背後から伸びてきて着装されるシートベルトのヘソが当たる位置にあるバックルに触れた。

 両肩を固定するフルハーネスの四点シートベルトはバックルから外れ、シートバックへと収納される。

 車を停め、シートベルトを外し、ドアを開けようとする蘭にオーキッドは話しかけた。

『どうする積もりだ?』

 蘭はドアを開け、ランニングシューズを履いた足をパーキングエリアの地面につける。

「うるさい」

 立ち上がって車外に出た蘭にオーキッドは話しかける。

『おい待てよ』

 蘭は右ドアを開け放したままのオーキッド背を向け、歩き出した。パーキングの売店横から一般道に出る従業員用の通用口に向かう。

 今まで蘭の前では起動させたことのない自動操縦装置でオーキッドは自ら動き出し、蘭の後を追った。

「来るな」

 蘭は関係者以外立ち入り禁止の札が提げられているが鍵のかかってないゲートを開け、外の一般道に通じる階段に足を踏み出す。

 高速道路外との出入りが自由なぶらっとパークのシステムが採用されているPAが都内にも幾つかあるが、その対象外ながら事実上出入り自由なPA、SAは多い。

 オーキッドは開け放したドアを閉めることさえ忘れたまま這い動き、何とか蘭に追いつこうとする。

『俺とご主人様を見捨てるのか? おまえ』

 階段の手前で蘭の足が止まった。背を向けたまま話し始める。

「……あんたと走るのは楽しかったわ。そのご主人様ってのが困ってて、あんたがそれを望むなら人助けの真似事くらいしてもいいと思った。でも悪の組織なんてものが出てきた時点でおしまいよ、あんたの妄想に付き合うのもお終い。誰か他の運転手を雇いなさい。じゃあね」

『何でだよ! お前しか居ねぇんだ! 今こうしてる間にも囚われのご主人様は悪い奴らにひどい目に遭ってるかもしれないんだぞ!』

 振り返った蘭はオーキッドの所まで歩いて戻り、フロントバンパーを蹴った。

 バンパーは蘭の蹴りにも傷ひとつつかなかったが、それよりもずっと奥にあるものを壊されたようにオーキッドは車体を停止させる。

 車と少女の口ゲンカ。

 傍目にはドライブ中のカップルが痴話ゲンカでもして、車を降りた女を男が追っかけてるようにも見える。

「わたしは悪の組織なんて見たこともないわ。でもどんな奴が悪どいのかぐらいわかる。何も知らない人間に誰かのことを『悪の組織』と吹き込むインチキ野郎よ!」

 オーキッドからの返事はない。ただ身を翻しもう一度ゲートに向かう蘭がボディに映っていた。

 鉄の門に手をかけた蘭は振り返り、黙っているオーキッドに向けて吐き捨てた。

「安っぽい子供漫画みたいに正義と悪のゴッコ遊びするならわたしじゃなくて小学生でも探しなさい。きっとまともな大人と違って耳を貸してくれるわ」

 ヒトの感情を模して作られたオーキッドの電子集積回路には蘭の突然の癇癪が理解できなかった。

 国家によって秘匿された魔法エックステクノロジー。ごく普通の高校生にとっては無縁な何か。人間が未知のものに対して抱く本能的な拒否反応。

 蘭の怒りは未知を恐れ、変化を拒む自分自身への怒り。

 自分が走るためのお膳立てを整え、そして矢面に立てて使い捨てようという誰かの意図をも感じ取っていた。

『待ってくれ。頼むよ。何の説明もせず悪の組織なんて言ったのは謝るよ。お願いだ……』

 この車の人工発声装置は喉を詰まらせ、悲痛な声を上げる。エンジン音さえもが今にも止まりそうに咳き込む。

 オーキッドは泣いた。

『オレを……オレをご主人様と会わせてくれ!』

 マンガに出てくる擬人化した車のようにヘッドライトからオイルを流してるわけでもない。しかし車体を震わせ、声を殺し、この車は確かに泣いていた。

『オレ……ご主人様に会いてぇ……オレはご主人様のために生まれたんだ…一度でいい。一度でいいからご主人様に会えるなら……全て破壊されてもかまわない……』

 この車の電子頭脳はネット上で交わされる膨大なコミュニケーションを蓄積することによって擬似的に人間に準じた情緒を得ていた。

 人間の基本的感情であり行動論理にも深く関わっている肉親への思慕が無いわけがない。

 オーキッドにとってご主人様と称する人物は親であり我が子でもあり、同じ顔を持つ双子でもある。

 だからこそオーキッドが自ら選び、通じ合った蘭は理解してくれると信じていた。

 今のオーキッドにとって蘭はただの操縦者ではない。友達と呼べるかもしれない感情が芽生え始めた相手だった。

 パーキングの外階段を降りかけた蘭はもう一度オーキッドを振り返った。

 足音。

 オーキッドのボディに再び蘭の姿が映る。

 ドアが開き、閉まった。

「方法は?」

 蘭はドライバーズシートに再び座っていた。

『何だよ』

 蘭はコンソールパネルを拳でコンコン叩きながら言葉を続ける。

 なぜかモニターを殴られながらも、さっきまで子供の泣き顔のように真っ赤だった花弁の赤味は薄くなっていく。

「ベソベソ泣いてないで探す方法を説明しなさい。わたしを指名したからには何か当てがあるんでしょ? それからその『悪の組織』の情報を全て出しなさい」

 感情に同調して姿の変わる花は赤から白、桃色から乳白色色へとめまぐるしく変わる。

 好き嫌いをして残したご飯を母親に取り上げられた子供が泣き疲れた頃に母親からそっと温かいご飯を差し出された時、よくこんな顔になる。

『ありがとう……ありがとうよラン……おめぇでよかったよ……本当によかったよ』

 こらえきれず泣き出すオーキッド。蘭は一度軽く息を吐くとドアを開け、外に出た。

 さっきまで酷薄な顔をしていた蘭の頬が少しだけ緩んだように見える。

『おいどこに行くんだ……俺を置いてかないでくれ……』

 捨てられた子犬のような声。花の色は真っ青。蘭は肩を竦め、オーキッドに背中を向けながら口元だけで微笑んだ。

「自販機で水を買ってくるわ。戻るまでに全ての資料を揃えときなさい」

『お….おう! 任せとけ!』

 蘭とオーキッド。

 人と人工知能。肉体と車。そして何よりも違う二人のパーソナル。

 出会って間もない二つの感情はまだ相互理解にはほど遠いながら、時間の短さや互いのカタチの違いを補いうる信頼が生まれつつあった。

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