第三章 魔法


 夜と夜中の境目に近くなる頃。

 蘭が暮らす東京都下を通り、近郊を広く繋ぐ環状国道を一台の国産グラン・ツーリスモが駆け抜けていた。

 その車種の純正色には無い、紫と真紅を等量に混ぜたボディカラー。

 夜間の幹線国道を走る車の多くを占めるトラックとタクシーが制限速度を何kmか超えたスピードで作る流れ。

 赤紫色の車は光の群れが流れる河の水面を滑り泳ぐ海蛇のように他車の間をすり抜けていた。

 蘭は空き地の廃車だった車に乗り込んでからほんの数時間で、この高性能車を乗りこなしつつあった。

 車内ではこの車にいくつか備わった普通の車とは異なる部分の一つ。会話という機能が作動している。


『かつて魔法といわれた超科学テクノロジーの研究が現在行われていることは知っているか?』

「聞いたこともないわよ」

 車が蘭の聴覚に直接流しこむように語りかけてくる声。

 そうでもしないと蘭はこの車の言うことよりも体をシートに押し付けるスピードのほうに夢中になってしまう。

『そりゃそうだろう。あいつら揃ってバカばかりだが機密だけはガッチリ保持してやがる。バカでケチだ』

「少なくともわたしの知ってる限り本気で魔法とか言いだす奴はよっぽどおめでたい頭した連中よ」

 もう魔法少女のテレビ番組を見なくなった蘭にとって、小説やマンガ、アニメにさんざん出ている魔法は実力や努力で何かを得られなかった人間の願望が産む妄想に過ぎなかった。

 テレビの中の魔法使いは人の上に立つエリートで異性にモテモテ。フィクションの魔法を望む人種の対極にある姿を逆さ鏡のように映している。魔法に限らず物語というものは昔からそんなもの。

 自らの力で誰よりも速く走っていた蘭には物語世界への逃避など不要だった。つい数ヶ月前までは。

 今より少し前。蘭は靭帯が一度切れた足があの時テレビで見た顔も服装もあやふやな魔法少女の杖の一振りで元通りになる夢を見た。

 夢の中とはいえそんなことを望んだ自分がイヤになったことが、夜のランニングを始めた理由のひとつだった。

 自分自身がほんの少し抱いた都合いい願望を見透かした魔法という言葉に対して、妙に反発的で偽悪を窺わせる蘭の態度。

 魔法によって作り出されたという車はその視点に関しては蘭に近かった。

 この車にとって魔法とは自分を生み出した物であり、廃車にして捨てた物でもあった。

『間違ってねぇ。科学のマトモな道にあぶれた連中が科学の埒外にあるものの研究なんてクソ仕事に回され、クソをいくつもヒネリだした』

「それがあんたみたいな喋る車ってこと? だいいちあんたはどこでわたしを見ていて、誰が話してるの?」

 言葉に反し、蘭はいつのまにかこの声がどこかの誰かが発信している遠隔通信ではなく、この車自体が喋っているということを受け入れつつあった。

 ランニングに出た先で偶然触れた車が自ら傷を癒して動き出し、そして蘭の思うとおりに走っている。

 一夜のうちにあまりにも多くの出来事を入力された脳は、普段なら受け入れがたいことをあっさり鵜呑みにする状態になっていたのかもしれない。

『今時は電子レンジやHDDレコーダーだって喋るぜ。人間みてぇアホと優れた機械の理想的で合理性の高いインターフェースを目指した技術進歩の結果だ』

 どちらかというと蘭は都会で暮らしているとあちこちで出会い、利用させられるお喋り機械が嫌いだった。

「アナウンスに従って操作ください」というのは遅くてイライラするし、自販機もATMも音声ガイダンスを最後まで聞くことなく案内板を読みながら勝手に操作してしまう。

 遅いお喋り機械が嫌いな蘭が乗ることとなった、言葉を喋る車。

 蘭はこの人語を操る車の走行以外を司る部分が速いか遅いかを慎重に見極めていた。

 もし反応や頭の回転が遅い奴ならダッシュボードから引っぺがして窓から捨てればいい。

『原理はずっと昔からあったさ。おめぇだってプレイヤーがキャラとお喋りするゲームくらいやったことあんだろ?その処理速度とメモリ容量を向上させ、相応のデータを入力しただけだ』

 蘭はゲームの類をやったことは数えるほどしかない。青森の実家を出て都下の学校に通い始めた時、親に持たされた携帯電話は制服のポケットに入れっぱなし。

 蘭の友達は遊びの約束やお喋りを電話やメールで済ませることを蘭が嫌ってることを知っていて、用がある時は直接来る。

『俺はそのテクノロジーが産んだ最上級の製品だ。開発者が頭のイカレた奴だったせいで車っていうブツの形にさせられた』

「その開発者は車が好きだったの?」

『あぁ。だから自分の安月給じゃ買えねぇ車を土を捏ねて作ったんだ』

 旧くは人形に命を宿す物語から始まる人類普遍の願望。人工知能。

 それをハード面で可能にしたのは、非公式に実用化された有機半導体によって容量と演算能力の大幅な向上を可能としたバイオコンピューター。

 電子的な集積回路に生命と感情を宿すソフトの完成に役立ったのは、世界中のネットワークに存在するソーシャルネットワークサービスと掲示板群。

 人と人によってネットの中で交わされる膨大な会話を採取し、各々のコミュニティ特有の隠語や偏向をフィルタリングした後、メモリ領域に入力する。

 その作業を百五十億から二百億回ほど繰り返した頃、電子頭脳は人間に準じる柔軟性、多様性を実装した。

『へへへっ今ちょっと笑ったろ? 見たぞ? お前今ぜってープッと笑った! キカイに笑わせられやがってレベル低いなおい!』

 喋る車の笑い声に同調してモニターの花が揺れる。ちょっとイラっときた蘭はとりあえずパンチをブチこんだ。

「全っ然面白くないわよ」

 無理して男っぽい口調で喋るが、少女的な声を隠せない車。

 蘭がこの車と出会ってからの数時間で交わした会話の中で少々の興味を惹いたのはその内容より、笑い声が案外可愛らしいということ。

 車の発する声に釣られて頬を緩めた蘭は、先ほどまでパンチングバッグのように扱っていたディスプレイを指先でつつき、車に話しかけた。

「ねぇ、あんたがわたしの言うことに従うつもりならまず名前で呼びなさい」

『んだとテメー……』 

 蘭が拳を振り上げると、車は『ひぃっ!』と悲鳴を上げた。紅潮した花はまたしても一瞬で青ざめる。

「蘭」

 ディスプレイに表示された赤い花が揺れる。

「蘭よ。蘭の花のラン。さっきあんたが出した車検証に書いてた通りの名前」

 この車はまた憎まれ口のひとつも叩くと思ったら、またしても花房を左右にシェイクさせながら笑い始めた。

『さっきは免許証の透過スキャンと車検証の印刷、陸運局のデータ介入で忙しくてよ、気づかなかったけど……こいつぁいい! どうやらオレとあんたは思ったより結びつきが強ぇみてぇだぜ』

 蘭は笑い続ける車のモニターに拳をぐりぐりと当てるが、さっきほど刺のある表情はしていない。かといって笑ってもいない。

「さ、わたしが名乗ったんだから、叩き割られたくなかったらあんたの名も言いなさい」

 モニター画面の中に咲く花が一度花弁を閉じて開く。喋る車から息を吸う音が聞こえる。人間よりも人間らしい。

 この車に装備されたインターフェースシステムは人間の脳を真似て作られ、人の言葉を集積し育てられた。

 ゆえに人間の多様な思考と判断の必須の感情というものも当然組み込まれている。

 データベースがどれだけ進化しようと人の口に勝る情報源は無く、人と人との関係構築は言葉が持つ情報ではなく感情によって成される。

 人間誰しも嫌いな奴と進んで喋ったり、何かを教えようとは思わない。

『オーキッド……だ』

「オーキッド?」

 蘭は鸚鵡返しに聞き返す。

 知らないフリをしているが、よく知っている単語。

『お前がランで、俺がオーキッド。偶然にしちゃよく出来てら。お前、人間ならユングくらい読んだことあるだろ? 同一性とかいう与太をちょっとは信じる気になったか?』

 微妙に間違った喩え。電子頭脳がユーザーに正しい情報を開示することは既に数十年前に可能となっている。必ずしも正しくない思考はこの機械が感情と個性を宿すまで出来なかったこと。

「オーキッド……ね……」

 花の名前を意味する英語は蘭にとって特別のものだった。

 蘭が生まれた時に自分の名前として与えられた花。あらゆる気候や環境にも負けず咲く、世界で最も美しく多様性に富んだ花。

「何してんの? わたしの名前を呼びなさい」

『……ラン……』

「わたしを馬鹿にしたような呼び方ね。もっと敬意をこめてもう一度」

『ラン』

「もう一度」 

『ラン!』

「もう一回」 

『ラン! ラン! ラン!』

 蘭は一度息を吐くと、モニターの花に向かって語りかけた。

 喋る車との会話をしながらも蘭の運転動作にはひとかけらの集中力欠如も見られない。周囲の車が作る流れを乱すことなく次々と抜き去っていた。

「ねぇオーキッドとかいうの。あんたが自主的に蘭様と呼ぶのを待ってたけど、もう諦めたわ。馬鹿に期待したわたしが馬鹿だった」

『俺はお前がorchidの正しい発音を言うのを待ってたんだけどな』

 蘭は少し赤味がかったモニターの花に今夜数十発目のパンチをブチこんだ。

 一応、蘭は小学生のうちの数年間を海外で過ごしていて英語は問題なく喋れる。だからこそ日本語訛りとカタカナ発音を自分なりに大切に思っていた。

 蘭に英語を教えてくれた父はネイティヴ英語のモノマネに執心し母国の発音を忘れてしまった人間が祖国無き根無し草と唾棄される事を教えてくれたし、蘭も己の出自を証明する日本人特有の英語発音を失う気は無かった。

 蘭の英語には英国南部の訛りが微かに残っていて、それを他人に指摘されるのが嫌いだった。

 蘭のパンチに応え、モニターに咲く花がサっと赤味を帯びる。

『痛ぇぞラン!』

「黙れオーキッド」

「走るわよ、どこまでも」

 蘭の言葉、表情、そして拳。あらゆるコミュニケーションに対して素早く反応する。

 この車の感情を司る部分は蘭を苛立たたせない程度には遅くないことを知った。

 名前はオーキッド。

 花の名を与えられた車。

 速く走れなくなった少女を誰よりも速く走らせる魔法の獣。

 この車のディスプレイに表示され、感情を現す花は英語圏ではオーキッド。東洋では蘭と呼ばれる花だった。

 一輪の花が示す天文学的な確率の符合と巡り合わせは、これから咲き始める幾つもの花の最初の一輪。

 少なくとも蘭の目の前にある魔法の車は零時を過ぎてもカボチャにはならない。

『だからって殴ること無いじゃねぇかぁ!』

 奇妙な符合に何かの意味があるのか、蘭は特に考えなかった。

 この車の少年のような少女のような笑い声は可愛い。そして泣き声はもっと可愛いと思った。

 人間と言葉を話す機械の奇妙な関係。

 蘭が抱いた感情は相互理解の最初の一歩なのかもしれない。


 時計の針が頂点を過ぎ、普段は早寝の蘭には縁の無い深夜の時間が始まった。

 昨日までなら今頃はもうランニングを終えて寮に帰り、シャワーを浴びてベッドに入っていた。

 今夜の蘭はオーキッドと名乗る車と出会い、それを運転することとなった。

 オーキッドは幹線国道を隣県の方向へと走り、蘭の住む街から遠ざかりつつある。

「おいどーするんだよこれから。そろそろお子さまはおねむの時間だぜ」

 今夜の蘭は眠れる気がしない。

 昔、ずっと昔にこんな思いをしたことがあるような気がする。幼稚園に入るか入らないかの頃。

 それまで女の子っぽいキャラがプリントされた子供靴を履いていた蘭がある日、親に新しい靴を買い与えられた。

 走るとすぐに脱げる子供靴を嫌い、しょちゅう靴を脱ぎ裸足で走っていた蘭を見かねた父が買ってきたランニングシューズ。

 夜に帰ってきた父親にシューズの箱を渡された蘭は即座に包装を破って足に履き、母親に靴紐をしっかりと結んでもらった。

 そのまま明日の朝が来るのを待ちきれず外に飛び出し、パジャマ姿で夜の道を走り始めた。

 犬よりもすばしっこい蘭を両親がやっと捕まえた時も、蘭は空中で足を掻き動かし走り続けていたのを覚えている。

「もっとはしる! もっとはしる!」

 郊外に入り道路幅が広くなった幹線国道からは人工光の密度と他車の数が徐々に減っていく。

 人家や建築物に替わって現われたのは、夜になると黒い塊となって周囲から迫ってくる山林と農地の緑。

 自分の足で走っていた頃から蘭は周囲の走者や路面ばかり見ていて、風景を楽しむことなど無縁だった。

 蘭にとって景色は見て楽しむためではない。走る自分の後ろへと思い切り投げ飛ばすためにある。

 走るオーキッドの周囲を流れる景色が次第に今まで行ったことのない郊外風景に変わっていくのを確かめながら、蘭は物心つく前から抱いている自分の望みを言葉にした。

「もっと走る」

 蘭を乗せたオーキッドは国道を外れ、交差する川沿いの道路を少し走った先にある工業団地へ車首を向ける。

 特にどこに行きたいという意思があったわけでもないが、あらゆる場所を走りたいという蘭の欲求が単調な直線から道を外れさせた。

 深夜で人気の無い工業団地。

 広く平坦な舗装と碁盤の目に近い建物配置。道は直線と直角のカーブ。そして行き止まり。

 蘭は道幅が広く流れは速いが常に他車が近くに居る国道とは違う。思いのまま車を操るには最適な場所を勘で探し当てた。

 かつては近隣の幹線道路を走るトラックが昼夜を問わず出入りしていた工業団地。

 今は生産拠点の海外流出で工場の半分が在庫倉庫か売り出し物件。あるいは解体待ちの廃工場となっている。

 深夜の工場街には人の気配も通行車も無く、白い街灯で照らされた街は静寂に包まれていた。

 少し前までは街のあちこちで街灯を補助するように道を明るく照らしていた自販機は既に商品の補充も販売も停止している。

 光を失いながら道端に立ち続ける鉄箱はこの街が死につつあることを示していた。

 死にかけた工業団地のメインストリートに乗り入れた途端、蘭はオーキッドをドラッグレースのように急加速させた。

 高い速度を維持させたまま、夜間で黄色点滅中の交差点に差し掛かかる。

 蘭は三速に入っていたシフトをパドル操作でリズミカルに二速、一速と落とし、アクセルを深く踏みながら交差点を左折する。

 オーキッドは交差点の白線で四輪を軽く滑らせながら直角の道路をコーナリングした。

 電子制御されたスロットルが変速と同時に行う自動的なエンジン回転数コントロールと、蘭の蹴飛ばすようなアクセルワーク。

 跳ね上がったタコメーターの針はさらに高い数値を目指して右傾する。

 コーナーの頂点を通過した直後にシフトアップのパドルを引くと回転は一瞬下がり、再び上がる。

 ついさっきまで頂点に近い位置で回転上昇にストップをかけられていたタコメーターの針は、今や高回転域であるメーターの右半分で上下していた。

『公道でローまで使うとはな。お前ヒルクライムかジムカーナでもやってたのか?』

 蘭は勘に任せてオーキッドをブン回し操っているが、車には全然詳しくない。

 オーキッドが発するわからない単語について聞き返したり考えたりするより、蘭は自らの体で感じるこの機械の変化について返答した。

「あんたやっとまともに走れるようになったじゃない。さっきはわたしが足で走るより遅かったのに」

『リミッターの設定を変えたから一速で百二十kmは出る。あと、この車にはオートマチックモードがあって、起動すれば自動でシフトチェンジできるぞ』

「…」

『…』

「早く言いなさい!」

 自らを魔法の車と称するオーキッド。

 外観のみならず機能や内部構造までも、ある国産最高級グラン・ツーリスモを模し、ボディカラーと内装の細部以外はモデルとなった車と外見をほぼ共有している。

 その車に備わっているデュアルクラッチ式六速ミッションはパドルスイッチを操作すればゼロコンマ五秒以下での変速操作が可能なセミオートマチックで、自動変速のオートマチックモードに切り替えることも出来る。

 オートマチックモードをロックして一速だけで走っても、都内の国道程度なら充分流れについていけるだけの性能を備えていたが、オーキッドは当初レブリミッターを低めの回転に設定していた。

 男と始めて出会った女が会話と相互理解を重ねるに従って少しずつ男に対する警戒を解いていき、自分の姿を見せていくように、このオーキッドと名乗る車の感情を司る装置は自らを操る蘭の能力を窺い、探っていた。それは蘭も同じ。

 蘭は一刻も早くこの車の素性を知り運転操作に慣れるべく、公道では無謀に近い速度でのドライヴィングを繰り返していた。

 陸上選手だった頃。気候やコース状況の異なる場所に遠征した時。いつもと違う環境で自らの肉体と脚がどんなコンディションかをいち早く知る方法を蘭は心得ていた。

 限界まで走る、それに勝る方法は無い。

『そんなに焦んなって。オレの操作は複雑で繊細だ。少しづつ覚えようぜ』

「何言ってんの? 今すぐあんたを丸裸にしてやるわ」

 モニターに咲いた花がまたしても赤っぽくなる。

『おめぇ……もし男なら最低だな』

 オーキッドは自らの機能のひとつであるドライバーの操作に拠らぬ自動操縦について蘭に教えるのはもう少し後にしようと思った。

 少しでも多くの操縦操作を行い、この車の動きを自らの腕や足や肉体、そして脳に刻みつけようとしている蘭にとって邪魔になるだけ。、それに今そんな機能があることを教えたら蘭は迷わずその装置を叩き壊すだろう。

 少なくとも車の操縦という複雑な操作の必須でありながら理論的思考の範囲では再現困難な無茶や無法な動作に関しては、まだ機械より人間に分がある。

 機械は非論理的な行動をしない。獣は論理で動かない。どちらも生き延びるための必然。

 その中でも機械寄りのオーキッドと、オーキッドの主観では獣が野を駆ける如き運転をする蘭。

 二人は出会った最初の夜のうちに奇妙なバランスの取れた関係を構築しつつあった。


 無謀にも見える蘭の操縦によって夜中の道路を走り回るオーキッドの前方。唐突に行き止まりが現われる。

 広いが接続の無いブツ切りの道路の多い工業団地。二車線の道路はある工場の正門で終点になっていた。

 蘭は周囲を素早く見回すとステアリングを持ち替えることなく左に切り、続いて鋭く右に切った。

 左足で一瞬強く踏んだブレーキから力を抜きながら、アクセルは戻すことなく逆に全開まで踏みつける。

 道路を塞ぐ工場のコンクリート壁の目前で四輪を滑らせ、百八十度の方向転換をしたオーキッドは、来た道を急加速で走り去った。

 衝突寸前のスピンターンをした後も蘭の暴走は続く。

 直線道路で急加速。直角のコーナーでグリップ、ドリフト両方のコーナリング。そして別の行き止まりでアクセルターン。

 トラック転回用の広いスペースでオーキッドをバックさせながらのターンを試してみたりもした。うまくいくと今度は車の前後長ギリギリの狭い道路で同じ事を繰り返す。

 蘭は深夜の工業団地を縦横に駆け回り、この車のあらゆる機動を試みた。

 オーキッドのエンジンが発する排気音と、タイヤが発する激しいスキール音が深夜の工場街に反響する。

 かつて陸上部に居た時。練習の時間が始まっても走るイメージがいまいち掴めない時。蘭はいつも筋トレや柔軟体操、スタートダッシュを繰り返し、時に空手部から移籍してきた部員に習った正拳や蹴り、部室のテレビに偶然映っていたので皆で遊び半分に真似したダンスなどで体を動かした。

 他の陸上選手が自分のフォームを調整する時に見る、走る姿を撮影したビデオや走法が書かれた本は滅多に見ない。

 やみくもに見える運動で体を動かし、汗を流しながら少しずつ走る自分のイメージを組み立て、そして実際に走ることでイメージを完成させる。

 自らの肉体を鍛えるように工業団地内を走り回った蘭は、数時間の走行でこの車の加速、減速性能とコーナリング特性の一端を知った。

 そして、自分自身の操縦技術の限界も。

 それは蘭にとって暫定的な段階に過ぎない。もっと速く走れる。走れば走るほど速くなる。今よりずっと速く走れる。

 蘭は生まれて初めて自分の足で走った瞬間のことを覚えていないが、脳が忘れてる記憶は体に刻まれている。

 車の運転は初めてじゃない蘭は、今夜初めて車で走るということを知った気がした。

 自分の足で走るほうが楽しいし速い。頭ではそう思っていても体はこのオーキッドという車の操縦を渇くように求めていた。

 

 工場の守衛室。

 退屈な深夜勤務をしていた警備員は、突然目前に現れうるさい音を撒き散らしながら派手なスピンターンで路面を汚し、走り去ろうとする赤い車を眺めていた。

 最近、深夜になると工業団地外周の直線道路でドラッグレースをする走り屋連中が時々現われることは知っている。

 警備員はひとつ溜め息をつくと業務日誌を取り出し、暴走車の車種と色、ナンバープレートの数字を記録する。

 自分自身も車で通勤し、日々安全運転に努めていた彼はここ最近、娘が小学校に通い始めたこともあって暴走車の類いには過敏になっていた。

 ああいった連中は車を運転する人間の中でも害悪でしかない、と舌打ちをしながらボールペンの色を赤に切り替え、通報と書き加えた。

 一台の暴走車の通報は多忙な警視庁では取り上げられなかったが、車種とナンバーの情報は司法とは別系統の国家組織が張っていた網に引っかかった。

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