第二章 赤い車


「おっそい!この車遅すぎ!」

 東京都下の空き地で不思議な放置車に出会い、走ることを選んだ少女、蘭。

 突然の不可解な現象によって傷を癒し、走れるようになった車。

 運転席の蘭はさっきから文句を繰り返していた。

 この車が遺棄されていた住宅街と農地の境目にある更地から舗装道路へと走り出したはいいが、アクセルを踏んでも威勢いいのは音ばかり。前へ進むスピードは蘭の主観では自転車か実家の近所で飼ってた犬より遅い。

 蘭が現在乗っている二ドアクーペは教習で使った車と同じくらいのサイズ。シートや各操作部の蘭の体や手足との相性は教習車とは比べ物にならないほどいい。

 通学の時に履かされたローファーと今履いているクロスカントリーランニングシューズや陸上用スパイクとの違いに似ていると思った。

 ローファーは走ると踵が浮く。シフトやステアリングを操作するたび上体が動く軽トラは移動はできても速くは走れない。

 この車は足に合ったランニングシューズを紐をしっかりと結んで履いた時のようにどこまででも走れる気がする。

 乗るというより着るような気持ちで走れる。それもこの遅ささえ何とかなれば、の話。

 蘭にとって速く走ることこそが重要、走って遅いものは他にどんな美点があろうと最低の評価しか存在しない。

 空き地から舗装路へと車を進めた蘭はさほど戸惑うことなく走り出した。

 小径で必要とされる操作ストロークが最小なため肩から先のアクションだけで回せるステアリングを操作し、右足でアクセル、左足でブレーキを踏みながら夜の住宅街をしばらく運転した。

 自動車学校で初めて教習車に乗った時も、免許を取ってから実家の軽トラを一人で運転した時も、蘭は運転操作の飲み込みは早かった。

 どちらに乗った時も自動車というものを自分の足で走る感覚に比し、その遅さと鈍さに苛立った蘭は車の運転が楽しいなどとは微塵も思わなかった。

 夜が更け、車のほとんど通らぬ住宅地の道路を走り回って勝手がわかってきた蘭。寮や学園のある生活道路を十分ほど走り、流れの速い三車線の国道に乗り入れた。

 どうやらこの車はオートマらしく、三つの切り替え位置を持つシフトレバーをDの位置に入れていれば信号で停止した状態からもアクセルを踏んだだけで進むが、そこからは他の車に追いつくので精一杯。

 アクセルを底まで踏んでもエンジンがうるさい音をたてるだけで、スピードメーターの針は六十kmぐらいまでしか回らない。

 蘭が存在だけ知っているが何を表示しているのかはわからないタコメーターは頂点近くまで針を跳ね上げ、それ以上の上昇を拒む。

 これなら実家で乗った軽トラのほうがずっと速いだろう。

 普通の車ならエアコンやオーディオの操作部があるダッシュボード中央には花が咲いている。

 エンジン始動以来ずっと馬鹿のひとつ覚えのように一輪の花の絵を映しているディスプレイにも腹が立った。

「おそい! やっぱダメ! もうこの車捨てる!」

 ランニングや陸上のトレーニングをしている時には、規則的な呼吸の障害になるためあまり独り言を口にしなかった蘭。

 この車に乗って以来ずっと話し続けている。

 口から出てくる言葉のほとんどは文句と悪罵と言いがかり。

 蘭は何百回目かの「遅い!」という単語を口にした時、自分の耳がおかしくなったのかと思った。

『遅くねぇ』


 どこかから声が聞こえた。

 機械音や他車が発する車外からの音とは違う。人間の声。

 この車に乗ってから立て続けに起きる不可解な現象。頭のどこかで現実感を喪失した蘭は、聞こえてくる声に返答した。

「遅いわよ! ほらトラックに抜かれちゃったじゃないの! こんなんじゃ降りて走ったほうが速いわ!」

 声ははっきりと聞こえてくる。

 音量はさほど大きくないのに、騒がしいエンジン音で満たされた車内で確実に蘭の聴覚に飛び込んでくる。

『遅くねーよ、このクソガキ、サル、醜くて不完全な生物』

 独り言の勢いでつい無意識に、反射的に返事をしてしまった蘭。

 何気なく目を走らせた車のコンソールパネルを二度見する。

 ダッシュボード中央部のディスプレイ・モニターは紙に書いて貼ったように花の絵を映し続けていた。

 その上にある一回り小さなディスプレイは始動した時から絶えず変動する幾つかの数値を表示している。

 車内の灯りは蘭には理解できないデータを表示する小型ディスプレイ。蘭の目前にあるスピードメーターとタコメーターの文字を照らすメーターイルミネーション。そして一輪の花。

 フロントウィンドウを見る蘭の視界の下端で花が動いたような気がした。視線が花のほうへと向く。

『何キョロキョロしてんだ前見ろ前!』

 カーオーディオのスピーカーとは違う。目の前の友達と話しているのとも違う。

 耳の中にある鼓膜ではなく、脳と繋がった聴覚神経にオーディオケーブルを繋いで電気信号を流されたような感覚。

 自分の周囲ではなく体の中から話してるような声への違和感も、蘭にとってみればこの車の遅さに対する苛立ちに比べれば大したことではなかった。

 蘭はアクセルを八分目くらいまで踏みしめ、エンジンを高回転まで回してやっと他車の流れに乗りながら「声」に対して返答した。

「このクルマをブッ潰す前にひとつ聞いとくわ、あんた、どこで喋ってるの?」

 話しながらも蘭の頭は混乱していた。

 聞こえてくる明瞭な声は教習所で簡単な操作を教わったカーナビのお喋り機能にしては話す内容がおかしい。それ以上に人を馬鹿にした口調がおかしい。

 話し方は男性的で蘭が最も嫌悪する類の口調だが、声のトーンは少年の高音より少し高い。男っぽい声を出そうと無理してる少女のような声。

 男性と女性の声帯がまだ分化していない性徴期前の少年にも聞こえる。

 蘭はこの車の持ち主がスピーカーに繋がった携帯電話か何かを車内に置き、車泥棒を驚かせる仕掛けでもしているんだろうかと思った。

 それ以上の複雑な思考をしようにも、この遅い車の操作が忙しくてそれどころではない。

『うるせーよ、いいからパドルを操作して二速にシフトアップしろ』

「パドルって何よ?」

 蘭にはわからない単語。

 車の免許は持っているが、教習所の学科で習ったことの多くは卒検が終わった端から忘れた。

 実家にあった二台の軽トラが両方ともオートマだったこともあって、マニュアルミッション車はもちろんパドル式セミオートマチックミッションの操作法や特性などわからない。

 前方の道路を見ながら内装のあちこちへと落ち着きなく動く蘭の視界で光が点滅していた。

 前を見ている蘭には見えない天井のルームランプから細い光線が照射されている。

 特定波長の光に対して強い反射性を持つ素材が肉眼では見えぬ収束光を受け、蘭の目に飛び込んでくるような光を反射している。

 車内の操作部を光の明滅で指示する機能を見た蘭は、最近の車にはそういう装置もあるのかと思った。何だか煩わしくて邪魔くさい。

 光っていたのは目の前のステアリング前方。ウィンカーレバーの手前にある広く平たいプラスティック板。

 ステアリングを握りながら操作するのにちょうどいい位置にあるプレートに蘭は指を這わせた。光は消える。 

『さっさとそのパドルを引いて二速にシフトアップするんだ、そのパドルでアップ、反対側のパドルでダウンの六速だ、こんなことから説明しなきゃなんねぇのかよ』

 車のどこかから声が聞こえるいう珍事。

 それが物凄く腹の立つ内容であることについて考えるのは後回しにして、蘭はパドルを指で引いた。カチリという小気味いい感触が指と掌に伝わる。

 スピードメーター下部。距離計の上でさっきから1を表示していたパネルの数字が2に変わった。

 蘭が何も操作しないままエンジン回転を表示するタコメーターの針がスっと落ち、続いて車が加速する感触が背中を通して伝わってくる。

 

 車の走りが変わった。

 さっきまで蘭がアクセルを踏みしめ、限界まで絞り出したスピードで追いかけていた前方の車にあっさり追いついた。

『やっと気づきやがったか。どうやらサルよりはいくらかマシみてぇだな……賢いサルほどじゃねぇが』

 蘭は車から聞こえてくる声には返答しないままステアリングを切った。ウィンカーを点滅させながら車を隣の車線に移動させる。

 幸いウィンカーレバーは実家の軽トラと同じ位置にあるが、ステアリングとアクセルではなく直接手足を動かして移動しているような操縦感覚は蘭が今まで乗った何台かの車とは根本的に異なる。

 教習では少し苦手だった車線変更が、まるで陸上のフィールドトラックを走りながら最適のレーンを選ぶようにごく自然に出来る。

 前方に車の無い車線でもう一度右のパドルを引いた。メーターパネル下部の数字が3になると共に車の速度領域は更に上がる。

 足裏に軽く重みをかけるだけでさっきアクセルを底まで踏んづけてやっと搾り出していた速度に達する。

 深夜に近い時間で空いている幹線道路。スピードを上げすぎたらしく前の車が近づいてくる。

 蘭はふたつあるペダルの左側、ブレーキペダルを左足で踏んだ。

 車はスムーズに速度を減衰させ、落としすぎたスピードからアクセルを踏み込むと再び車体を加速させる。

 蘭はパドルを操作し、シフトアップした車で夜の国道を走った。

 車の群れと共に走る幹線道路で、蘭はステアリングの根元にある右のパドルを何度も引くと走れる速度が上がること。それと引き換えに低速ではアクセルを踏んだ時の加速が重く鈍くなることに気づいた。

 高い速度を出したい時には高いギア。低い速度からの加速力を出したい時は低いギア。

 教習所ではシフトレバーでギアを切り替えながら走るマニュアル車の免許を取ったが、教官に言われた通りの操作をするだけでその特性にまで気づかなかった。

 蘭が思い出したのは自動車教習ではなく自分の足で走った時のこと。

「……ヒトの筋肉は赤くて白い。今はどっち?……」

 陸上部に居た経験から、人には瞬発力に強い短距離型の人間と長距離走に向いた持久力型の人間の二種類が居ることを知っている。

 このパドルと、それによって変わるスピードメーター内の数値は、瞬発力と持久力で種類も色も違うとされる人間の筋肉に似たものかと思った。

 かつて陸上部で短距離と長距離の両方を走っていた蘭は、自らの筋肉に意識を集中する瞬間を思い出した。

 長距離走のゴール近く。最後のスパートをかける時。長距離の筋肉から短距離の筋肉に切り替えるべく両足に自らの意思を通わせる。

 蘭のイメージでは靭性に優れ持久力の高い遅筋は白く冷たく、瞬発力を持つ速筋は赤く熱い。

 蘭の脳は自分の足で走っていた頃と何ら変わることなく赤と白の筋肉をスイッチする指示を肉体に送る。

 神経経路を走駆する電気信号は精緻なアクセル操作を行っている蘭の脚ではなく指と掌の筋肉に電流を走らせ、脳からの指令はパドルスイッチからシフターへと伝達した。

「もっと赤く!」

 蘭はステアリング・シャフトを挟んで逆側のパドルを引いた。

 4を表示していたパネルが3になる。

 もういちど引いて表示される数字を2にしてからアクセルを踏み込むと4の時よりも鋭く加速する。

 シフトチェンジ時のクラッチ操作やアクセル吹かしの不要な電子制御パドルシフト。

 蘭はシフトのアップダウンを繰り返しながら、この奇妙な車の操縦を楽しみ始めた。

 都下を通る幹線国道は市街地を離れ、隣県に入ってから自動車専用のバイパスとなった深夜の国道からは車の数が減ってきた。

 蘭は上機嫌でパドルを操作し、ギアをアップ、ダウンしながらアクセルを踏み込んだ。左右の車線に車体を滑り込ませながら他車を次々と抜き去る。

 実家の軽トラに乗った時はこんな走りなんてしたこともなかったし、青森の実家近くにはこんなに車の多い道路は無かった。

 蘭が自分の足で走っていた時。遅いランナーが前を塞いでいる時にどうするかは決まっている。

 蘭は限られた走路に選手が固まるダンゴ状態から持ち前の脚力と最低限の走路移動で脱するのは誰よりも得意だった。

 いたずらにペースを上げるより走者のグループ内に留まって先行する機会を待ったほうが有利だと顧問の先生には教えられたが、タイムや順位に執着しない蘭にとっては無意味。

 どんなに長距離のランニングだろうと、蘭にとって走るという行為は常に瞬間的な速さの繰り返し。

 蘭は自分でも気づかない内にこの車を自分の足で走っている時と同じような感覚で操縦していた。

 地を蹴って駆けるようにアクセルを踏んで加速し、体を捻り走路変更するようにステアリングを切って車線を跨ぎ、踵を効かせてスピードを殺すようにブレーキで減速する。

 そして赤と白の筋肉を使いこなすようにシフトチェンジする。

「あはっ……これ……何これ……走るわ……走るじゃない……これ……速い……」

 この足は速い。

 速く走れる。

 わたしは速く走っている。

 

 奇妙な車の操縦に夢中になっている蘭の耳にまた声が聞こえた。

『ヘッタクソだなぁ、お前まさかダッセェAT免許か?』

 この車が自分の思い通り動くようになったことに機嫌をよくした蘭。車が発した男のような女のような声の内容に耳を傾ける余裕もでてきた。

 言葉よりもスムーズで、かつ今の発言に対する返答としてふさわしいコミュニケーションを試みることにする。

 蘭は右手で運転操作をしながら左手を握り、ディスプレイ・モニターに咲く花にパンチをブチこんだ。

 モニターは蘭の拳を受けて一瞬、放電の白光を写しながら少し凹んだが、窪みはすぐに元に戻り再び花を表示させた。画面に映った花はさっきより萎れているように見える。

『お、おい待て! そこは結構デリケートなんだ! やめてぇ!』

 相変わらず体全体に染み入るように響いてくる声は悲鳴を上げた。蘭は少し赤くなった左手を振りながらちょっといい気分になる。

「ねぇ……わけわかんないボイス機能があるならひとつ聞くわ。この車は一体、何?」

 この声が今、勝手にエンジンがかかり傷を治した車をかっぱらった自分をどこかで監視している人間が発してるのか、それともそれ以外なのかは蘭にとってどうでもよかった。

 アクセルを踏むたびに体全体で感じる速さ。それは理屈やモラルを忘れさせるほどの魅力がある。

『おいノロマのヘタクソ、魔法って信じるか?』

 右手と共にステアリングを握っていた左手が目にも止まらぬほどの速さで動く。

 ディスプレイに二度目のパンチ。車は『いでぇ!』と悲鳴を上げた。ディスプレイの花はさらにうな垂れ、今にも花びらを落としそうな様子。

『ひどい……ひどいぞ……これでも順序立てて説明している積もりなんだぜ……』

 上ずり、焦った声で蘭に語りかける車。

 その声はさっきより幾分柔らかく、どこか犬が飼い主に見せる媚びた様を思わせる。

 蘭は強ぶって男言葉で話す女のコを脅して泣かせてしまったような罪悪感をほんの少し覚えたが、どちらかというと奇妙な快感に近い。

 今走ってる国道バイパスの制限速度を大幅に上回るスピードでの運転操作に集中しながら、激しい操縦に反して冷静な声で答えた。

「今度わたしをナメた物言いをしたらこのテレビをブチ割ってペットボトル入れにするわよ? あと質問に質問で返すのもダメ」

 蘭はまわりくどい言い回しで時間を無駄にする「話の遅い奴」を好まなかった。

『TVじゃなくて新世代の視覚、触覚型インターフェースデバイスで……わかった……手っ取り早くに説明するよ。つまりコイツは車であって車でない。科学技術の範囲外にあるテクノロジーに深く関わったモノなんだ。魔法といえば馬鹿には一番通りがいい』

「マホウ、ね」

 蘭は車の声を鸚鵡返しした後、サイドウィンド越しに道路の左右を見ている。

『おい聞いてるのか?』

「いいから黙ってなさい。あんたを叩き落すのにちょうどいい場所を探してるところだから」

 片側三車線の国道バイパスを走る車は鉄道線路を跨ぐ橋にさしかかった。

 蘭は笑みを浮かべながらステアリングを切り、右寄りの車線を走ってた車で中央車線と左車線を斜めに走り抜けた。

 左端の車線からさらに左へ移動し、粗い舗装の路肩を走行し始める。

 陸橋のコンクリート壁が車体から握り拳一個分ほどの間隔を開けてグラインダーのように流れている。

 蘭は掌にほんの少しの力を加えた。

 紫がかった赤のボディと同色のドアミラーがチッ、チャッ、と音をたててコンクリートの側壁に接触する。蘭は口が薄く裂けたような笑顔のまま。

 元より小さく黒目がちで他人に冷たい印象を与える瞳は更に細められ、十八歳の少女に似合わぬ怜悧な眼光を放つ。

「それとも大根おろしにしてあげよっか?」

『や…やめてくれ!いいから話聞け! てめぇ聞けよォ! ……き……聞いてください……お願いします……』

 側壁との距離〇mmから二mmの範囲を走る蘭。分厚いコンクリートの壁に擦り削られる寸前の車。

 萎れていた花が栄養剤を打たれて無理に咲かされたように花茎を伸ばし、萎れた花弁を広げようと震えている。

 蘭は何もしていない時よりも走っている時。特に限界に近い走りをしている時のほうが自分自身や周囲の物々に対する感覚が鋭敏になる。

 いつも誰もが前へ走ることだけを考えている陸上競技中。競り合う相手の走路や動きを常に先読み出来た。競技後にそれを顧問や後輩に理論的に説明するのはあまり上手くなかった。

 蘭はそれまで掌にかける圧力だけで操作していたステアリングをしっかりと握り、九十度近い角度で切る。

 同時にアクセルを蹴り踏みながら車線をふたつ跨ぎ、道路の左端にある路肩から右寄りの車線に飛び込ませた。

 急角度の回頭。

 白線や道路の起伏を越える負荷に四つのタイヤを順繰りに鳴らした後、軽く車体を振りながら加速を始める。

 後輪駆動車なら道路の真ん中でスピンしているであろう機動を、四輪駆動の特性を存分に活かして行う。 

 免許を取って半月。4WDハイスペック・カーに乗ってからまだ一時間足らず。

 後に有名なレーサーや航空機パイロットになる人間のうちの何人かがそうであるように、生まれて初めて運転した瞬間からこういった芸当をこなしてしまう奴は稀に居る。

 蘭は幼い頃、自分の足で歩けるようになった次の瞬間にはもう走ることを覚えた。

 微かに微笑む蘭。怪訝さよりも好奇心を窺わせる目線がフロントガラス越しに広がる道路へと移る。

 蘭が運転操作に集中し始めたのを見計らって車は言葉を続けた。

『魔法少女のアニメは見たことあるな? エロい見た目の少女がある日、魔法に目覚め、魔法の杖を振って、スッポンポンになって魔法少女に変身だぁ』

「見たような気もするわ」

 半分本当で半分は嘘。

 幼い頃から外でかけっこばかりしていた蘭は、日が暮れて夕食の時間になり家に帰った後、ご飯を食べながら魔法少女のアニメを見るのが好きだった。

 杖を振って出す魔法やフリフリの衣装には興味なかったが、蘭が見ていた魔法少女は使い魔である獣の背に乗り、誰よりも速く移動していた。

 アニメと晩飯の時間が終わるとまた走りたくなって夜の屋外に飛び出そうとして親に止められ、しょうがなく布団に入って眠ったことを覚えている。

 夢の中で蘭は何かの背に乗り、速く速く天を地を駆けていたような気がする。

『アレはアレで現実に数多くの国家が確認している科学法則の範囲外にあるテクノロジーを部分的に説明してるんだぜ』

「魔法少女がホントに居る……ね……?……車が話す珍しい妄想としてあと少しだけ聞いてあげるわ」

 蘭は車のアクセルを緩め、さっきまで次々と抜き去っていた他車に同調するくらいまでにスピードを落とした。

 蘭は中学、高校と同じ陸上部に丸五年間居た。後輩をコーチするために自分のペースを押さえ、他のランナーと並んだり先導して走ることはよくあった。

 ほぼ我流で部内のトップクラス選手になった蘭は指導力についてはあまり優秀ではなかったようで、後輩に教えるといっても走る自分の背中を必死で追いかけさせるぐらいしかできなかったが。

 喋る車は蘭が他車の流れに乗った大人しい走行を始めたのを確かめるように間を開けた後、言葉を続ける。

『バk……事情を知らない者にわかりやすく説明するとだな、俺は魔法少女に力を与える魔法の杖ってわけだ』

「つまり、わたしはこの汚くて遅い廃車をかっぱらったおかげで、魔法少女って奴になっちゃったわけ?」

 蘭は右手でステアリングを握りながら、左の指先でコンソールの黒い板を優しく撫でた。

『あ……うーん……それはだな……』

「ハッキリ言いなさい。わたしは喋る車なんて信じないけど、嘘偽りが無く話の早い奴なら人でも車でも宇宙人や化物の言うことだって聞くわ」

 ディスプレイに咲く花が少し赤味を帯びた。

 ほんの少し前とはうって変わって従順な運転をする蘭。猫をあやすようにモニターの花を撫でる指先。言葉を話す車はまんまと騙されて本音を喋る。

『魔法少女ってのは……もうちょっと小さくて可愛らしい女のコのことで、それでいて主役っぽくて……』

 拳。

 モニターに飛んだパンチの威力はさっきより何割か増していた。

 蘭は女子としての可愛らしさをいささか損なう百六十六cmの身長をさほど気にしていなかったが、十八歳の年齢より若干幼く見られる顔立ちと体型にはほんの少しの不満があった。

 花は萎れて垂れ下がる。

 喋る車はしばらくしくしくと泣いていたが、半分涙声のまま声を張りあげた。

『おめぇみてぇな情報弱者がそのテクノロジーについてどれほどの知識を持っているのか知らねぇが、俺の能力の一つである自己修復については目の前で見たろ? それは幻じゃねぇし、魔法も絵空事じゃねぇ』

「……わかったわ……」

 自動車専用のバイパスから国道になった道路。

 蘭は流れの速い中央寄りの車線からスムーズにふたつ隣の車線にレーンチェンジし、巡航速度を少し落としながら前方を見ている。

「この車をさっきの場所に戻し、わたしは明日からランニングのコースを変える。短い付き合いだったけど楽しめたわ」

『ちょ……ちょっと待てよ! オレはもうずっと待ってたんだぜ? オレをもう一度走らせてくれる奴を』

 モニターの花は一度垂れた花房を持ち上げ、オモチャ屋で売っている踊る造花のように花房を揺らす。

「だってあんたの言うこと全然信じられない。礼儀正しく丁寧な奴よりはいくらかマシな喋り方だけど、信じられないわ」

 この車の理解不能なお喋り機能が絶句する様に少し溜飲が下がり、Uターンに適した場所を探し始めた蘭の目に、赤い光が映る。

 蘭の運転する車の背後にはいつのまにか赤灯を回したパトカーが接近していた。室内を断続的に照らす赤い灯り。

 後ろから聞こえてくるスピーカー音声が停止を指示しているのは間違いなくこの車。蘭は高揚していた意識が冷めていくのを感じた。

 怯えや落胆というよりも、自分の走りに水を差されたことにうんざりしたような声。

「わたしはこれでも模範的な高校生だったのよ」

 つい数ヶ月前までは先生方への覚えもいい陸上部の中距離エース。

 走る以外に娯楽を求めなかったせいで学業の成績は並ながら生活態度も良好だと思われていた。

「それが夜遊びの末に車ドロボウとは……ね……」

 ステアリングに額をつけて突っ伏した蘭。

 実家に戻されて高校中退のリンゴ農家になる自分の未来を思い、溜息のひとつも吐きたい気分になった。


 蘭は指示に従い車を路肩に停めた。

 後ろに赤灯を回した白黒のパトカーが停車する。運転席側のドアから警察官が一人出てきて蘭の乗る車に歩み寄ってきた。

 後ろを振り向くとパトカーの助手席にはもう一人の警官が居るのが見える。 

 制服の警官が蘭の乗る車の横まで来ると、蘭が何も操作しないまま運転席側のパワーウィンドが降りた。 

 窓が開き始める直前、さっきまで聞こえていた車の声がヒソヒソ話のトーンになる。

「オレが何とかしてやるから、おめえは大人しく言うこと聞いとけ」

 免許を取って一ヶ月に満たない蘭が乗る車の後部トランクフードには、いつのまにか運転初心者に表示が義務付けられている若葉マークがついていた。

 青い制服にヘルメット姿の交通警官は片手を腰にかけたまま屈むようにして車内の蘭の顔を覗き込むと、馬鹿丁寧な口調で話し始めた。

 「こんばんは、免許証を拝見します」

 蘭は黙って助手席に放り出したランニング・ポーチの小さなポケットから革のガマ口を取り出した。 

 ランニング中に自販機で飲み物を買うことはあるし、買い物を一緒に済ませることがあるから財布は持っている。

 親の仕送りで暮らす高校生。万札なんてめったに見ない暮らしでは現金もカードもガマ口ひとつで足りる。

 上京前に父から貰ったオイルレザーのガマ口を開け、中のカードポケットから先月取ったばかりの自動車免許証を出した。

 警察官は車と学校名の入った陸上競技ウェア姿の少女を交互に見ながら免許証を受け取り、蘭が手を伸ばしても免許証を奪い返されない距離まで持っていって眺めながら訊く。

「この車はあなたの車ですか?」

 蘭は言葉に詰まる。

 空き地から盗んだ車だということはともかく、乗ったら直ったなんてことはどうやって説明するか。

 咄嗟にさっきまで喋っていた車の意思を示すかのように姿の変わるディスプレイの花に目をやったが、何事も無かったかのように咲く一輪の花が表示されるだけ。

 人間が平静を装いツンと澄ましている時の佇まいはよく花にたとえられるが、要するにこんな姿なんだろう。

 モニターに視線を落とした蘭。

 黙って頷いたと判断したらしき警察官は、免許証には十八歳とあるがそうには見えない少女と、それに似合わぬ高級グラン・ツーリスモカーへの疑惑を滲ませた口調で再び尋いた。

「車検証を見せてもらえますか?」

 速く走る方法もわかったんだし走って逃げようかな、と思いながら、蘭の目線は車内のあちこちに泳ぐ。

 落ち着きの無い視界の中で、助手席前のグローブボックスが一瞬、光った。さっきシフトパドルが光って位置を知らせた時と同じ光。

 警官が来る直前に聞こえたこの車の言葉を思い出し、蘭はボックスの蓋を開ける。

 中には黒く薄いファイルケースがある。透明な片面を見て、ケースの中身は実家の車にも入っていた車検証らしいことがわかった。

 車検証を見せれば盗難車であることがバレる。蘭の手が止まった。

「拝見します」

 有無を言わさぬ口調に釣られて蘭は書類ケースを差し出す。

 警官が書類ケースの中身を確かめている間、蘭はどのタイミングで逃げようかと考えていた。

 免許証は返されるだろうか?その瞬間にアクセルを踏んづけて走れば、あのパトカーになど負ける気はしない。

 蘭がルームミラーを見るとすぐ後ろにつけたパトカーの中で、モニターの照り返しで顔を青白く光らせた警察官が何かを操作している。

 車のナンバーでも調べてるんだろうかと思った。そもそも蘭の記憶では、この車にナンバーはついてなかったように思う。

 警官の顔より免許と車検証を持ったままの手を見ながら、ひったくって取り返すタイミングを計っていた蘭に警察官が話しかける。

 「車両の名義人と使用人は坂本蘭さん。間違いないですね?」

 自分の名前になっている。

 蘭は知らなかったが、パトカー車内のモニターに映ったナンバープレートの照会情報も同じ名義人を表示していた。

 それまでどうやって逃げるかを考えていた蘭の頭が別方向への回転を始める。

「……こないだ免許取ってパパに買ってもらって、嬉しくて嬉しくてつい夜中のドライブに出ちゃったんです。お願いします、パパとママには知らせないで」

 蘭は自分に出来る最大限に甘いトーンの声を上げながら両手を祈り合わせ、潤んだ瞳で警官の顔を見上げた。

 若い頃は暴走族だったと称する陸上部顧問の教頭はこういう時、自分にとって一番どうでもいいことを一番気にしているように装うのが最善と教えてくれた。

 警察官はしばらく蘭と車を交互に見ていたが、パトカーで待機する警官に何か合図をした後、蘭に免許証と車検証を差し出した。

「いい車に乗って飛ばしたくなる気持ちはわかりますが、くれぐれも安全運転を。十km未満の超過なので今回は注意だけに留めますが、女の子がこんな時間に出歩かないように」

 パトカーの追尾が始まったのが蘭とこの車が魔法なるものについて会話していて、巡航速度を落としていた時だったのが幸いした。

 夏休みの半ば。高校生といっても十八歳の少女がまだ深夜とはいえない時間に出歩いていてもいちいち補導してたらキリが無い時期だったことも幸運だった。

 それより少し前の蘭は法定制限速度の二倍くらいのスピードで国道をスラロームし、他車を抜き去っていた。

 蘭は赤灯を消して走り去るパトカーより、返された車検証を眺めていた。

『どうだ? 魔法を信じたか?』

 耳じゃなく頭に聞こえてきた声が蘭を現実に引き戻す。

 アニメで見た光線を放ったりする魔法ではなく、公文書の偽造という魔法。

 現実からはなれた非現実という現実。妙に自身たっぷりな口調で喋る車。蘭は黙っていた。

 ディスプレイに映る花は艶やかに咲いている。

 花弁の色といい花芯への花粉の付き具合といい、さっき蘭にパンチを食らった時より陽気というか調子に乗ったような色をしている。

『もう夜遊びはしません~ 受験勉強を頑張ります~』

 喋る車が花を揺らしながらおっぱじめた似てないモノマネ。

 蘭は片手で車検証を見ながらディスプレイの画面でスイングする花にパンチで返答した。

 名義どころか住所までが蘭の住民票がある学生寮のものになっている。

 蘭は車検証の収まったファイルケースをグローブボックスに放りこんだ。

 不意打ちの鉄拳に悲鳴を上げ、しばらく呻いていた車は体裁を取り繕うようにひとつ息を吸い、それから蘭に問うた。

『で……どうよ? 』

 蘭はシートに座り、停止した車のウィンドゥ越しに外の風景と流れる車を眺めていたが、ディスプレイの花に目線を落としながら呟く。

「夜は始まったばかり。わたしは走り出したばかり……そう思ってたけどね?」

『そうこなきゃ、な』

 蘭はパトカーの姿がもう無いのを確認すると豪快に車をUターンさせ、四つのタイヤを鳴らして加速した。

「その魔法とかいうの、詳しく聞かせなさい」

『聞いてくれるのか! い、いや、しょうがねぇな~どうしてもって言うんなら教えてやっても……』

 蘭はもうディスプレイを見なかった。

 ただ左手をステアリングから離し、拳を握り締めて軽く振った。

 赤と紫の花弁を満開にしていた花は一瞬で花弁を閉じ、色までが青みがかった様子で花房を震えさせる。

 『すんません調子乗ってました! ただいま説明しますんでどうか聴いてください!』

 蘭はこのモニターに映る画像でありながら生き物のように動く花はこの車の感情に同調していることに気づいた。

 ビビった声に合わせて萎れた花を見て思わず口元を緩める。

「知ってることを全て話しなさい。わたしは聞く」

 夜はこれから始まる。

 蘭は今から走り出す。

 

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