RUN!

トネ コーケン

第一章 少女

 カ マテ カ マテ

 カ オラ カ オラ

 テネイ テ タンガタ プッフル=フル ナア ネ イ ティキ

 マイ ファカ=フィティ テ ラ

 ア ウパネ ア フパネ

 ア ウパネ! カ=ウパネ

 フィティ テ ラ

 ヒ


  (訳)

 私は死ぬ! 私は死ぬ!

 私は生きる! 私は生きる!

 見よ、この勇気ある者を。

 ここにいる者が再び太陽を輝かせる!

 一歩はしごを上へ! さらに一歩上へ!

 一歩はしごを上へ! そして最後の一歩!

 そして外へ一歩!

 太陽の光の中へ!


 マオリの民族舞踊"ハカ"より


 第一章 少女


 少女は走っていた。

 夜と夜中の間。日没から数時間経った東京都下。気温が二五度以下には下がりそうもない夏の盛り。

 家々の灯りが消えるにはまだ早いが、道路を走る車は疎らになり空気が清冽な香りを帯び始める時間。

 湿気が肌に貼りつく蒸し暑さの中、赤いランニングシャツに同色のショートパンツ姿の少女が土と砂利の道路を走っていた。

 背中にはドリンクホルダーにウェストベルトがついた黒いランニングポーチを肩からたすきがけにしている。

 身長は女の子にしてはやや高め。控えめな胸と引き締まったヒップ。短い黒髪と微かに日焼けした肌。体型も髪型もどこか少年のような面影を残す十代の少女。

 これでも先月、十八歳の誕生日を迎えた。

 街行く人が振り返るほどの美少女と言うには少し目が小さく涼しげで、初対面の人間には可愛らしさより取っ付きにくい印象を与えてしまう。

 宅地化が進んだ多摩丘陵にまだ残る未舗装路に、ジョギングにしてはかなり速いペースの規則的な足音が響く。

 少女は走ると足首と膝に負担がかかるアスファルトの道路を避け、農地と住宅地の境目を通る用水路沿いの道をランニングしていた。


 走ることが好きな子供だった。

 少女の記憶では物心ついた時から何かにつけ走っていた。

 本気か冗談か少女が親から聞いた話では、母親の腹から生まれてきた時すでに右手と左足を掻くように動かし、今にも走り出しそうな格好をしていたという。

 ハイハイがどの乳児より速く、起きている間はひとつの場所に留まることを知らない赤子だった。

 掴まり立ちが出来るようになるのは平均より少し遅かったが、自分の足で歩けるようになってすぐに、つんのめりあっちこっちにぶつかりながらも走り始めて親を驚かせた。

 普通は歩けるようになって間もない子供はよく親に抱っこをせがむが、少女は親が抱き上げるたびに足をバタバタさせてイヤがった。

 地に足がついてないとすぐにぐずる少女は地面に下ろした途端にはしゃぎだし、父母の周りを犬のように走り回った。

 少女が近所の女の子と遊ぶ時はいつも駆けっこ。

 他の女の子がお人形さん遊びやままごとを始めると遊びの輪から離れ、男の子に駆けっこを挑んだり、近所を散歩していた犬を追いかけたりした。

 飼い主は必死で逃げるシェパードや柴犬を走って追い抜いてしまう子供を見るのは初めてだったという。

 幼稚園に入る頃には同い年の友達に走る相手が居なくなり、よく年長の子供や保育士の先生と駆けっこをしていた。

 転んでもすぐに起き上がり、また走り出す。

 走り疲れたらもっと疲れるまで走る。

 勝っても負けても楽しそうに走っていた。

 少女は成長し、故郷の青森にある公立の小学校で陸上部に入った。

 走る競技に顕し始めた熱意と適性を親に認められ、中学からは実家から遠く離れた東京都下、スポーツの強豪校として名高い私立大学の付属学園に入学した。

 望み通り陸上部に入った少女。部内の記録測定ではやや短距離寄りながら瞬発力、持久力の双方に偏りない適性を認められ、四百m、八百m、二千mを走る中距離の選手になった。

 それからは授業が終わってから最終下校時刻まで、陸上部でのトレーニングに没頭する日々。

 走る以外の陸上競技である高飛びやハードルについては適性もそこそこで熱意もさほど持てず、部内での記録はレギュラー選手に一歩届かぬ中堅レベルのまま。

 中学時代は中距離を中心に短距離数回、長距離一回で陸上部の選手として大会に出て、一度は八百mで都の記録を持つまでになった。

 学力に関しては陸上部での活躍に比べ並程度だったが、何とか学園の高等部に進学し、そこでも陸上競技に熱中する日々は続く。

 結局、陸上競技での形に残る成果は中学時代の都大会記録がピークで、以後は市大会での優勝が数回。都大会では早々に敗退することが多くインターハイや全国大会には縁が無かった。

 学園の陸上部では一応、中距離のトップと短距離の上位選手を兼任し、長距離でもレギュラー選手の故障時には代打をこなす位置に居たが、少女が居た時期は名門陸上部を擁する学園の外れ年だったらしく、少女の属していた陸上部には学園に横断幕がかかるような全国大会優勝の機会はなかった。

 陸上部の顧問を勤めていた教頭先生はその辺に寛容で「大会のメダルより友達と一緒に全力で汗を流して得る記憶のメダルを残そう」とか白々しいことを言っていた。

 当時の学園では水泳部とブラスバンド部が都の強豪になりつつあり、大会遠征や備品の予算をそっちに割り振る必要もあったらしい。

 少女はどちらかというと観客に囲まれてフィールドトラックを走り、市内都内での順位や千分の一秒で測定されデジタル表示される記録を競う大会よりも、毎日の部活で練習を繰り返す日々のほうが充実していた。

 少女がいつも眠そうな目で受ける授業が終わり部活の時間が始まると、小さく切れ長な瞳は途端に輝きを増す。

 走って走り続ける中で日が暮れ、部活の時間が終わると仲間との遊びもそこそこに寮に帰り、風呂に入り夕飯を食べて寝る。 

 少女は陸上部の仲間とお喋りをしたり、部内で定期的に行うタイム測定の数字やレギュラー選抜の結果に一喜一憂するより、ただ何も考えず走ることが好きだった。

 大会出場競技である中距離だけでなく自主的に短距離、長距離の練習までしては顧問の先生にオーバーワークを窘められ、部活の時間が終わると自転車や送迎バスにも乗らず走って寮に帰る少女。

 同じ陸上部の友達は少女のことをランナーズハイの脳内麻薬中毒者とからかったが、少女は長距離走や短距離ダッシュの繰り返しで肉体が疲労しても、明晰な思考力は保てるほうだった。

 少女が走ってる時に考えてることはひとつ。

 幼い頃から変わらない。

 ただひとつだけ。

 もっと速く。もっと速く。


 走ることに明け暮れた陸上部時代の記憶が、深夜の農道を走る少女の左足に微かな痛みをもたらした。

 日々走ることだけを考え、他の陸上部員よりもずっと多い練習をこなし、レギュラー入りや記録達成にはさほど執着せず走ること自体を楽しんでいた少女はある日、常に人間の平穏や安寧を望まず意地悪をしたがる神に足を引っ張られた。

 左足の靭帯断裂。

 子供の頃から風邪や大病と縁遠く、陸上部に入ってからも故障知らずだった少女は高校三年への進学を間近に控えたある日、寮からコンビニに行く一kmにも満たないランニングで足を壊した。

 断裂した靭帯は手術で繋がり、数週間をテーピングで固められた左足は少女が生来持っていた高い回復力でほぼ元通りになった。

 歩行や日常的なランニング程度には全く問題はなく、中距離ではレギュラーの位置にまだ入れるくらいの脚力は取り戻したが、一度切れて繋ぎ直し、右足より少し短くなった左足の靭帯は少女が日々繰り返していたような練習と酷使に悲鳴を上げるようになった。

 もっと走ろう、もっと速く走ろうとすると左足が痛みだし、続いて左足を襲う痙攣は走ることを拒んだ。 

 かつての速さを失った少女は夏の大会を区切りに引退する他の三年生部員より数ヶ月早く陸上部を辞めた。

 多くの部員を抱える陸上部。受験や他部移籍で三年になってすぐ引退する部員も何人か居て、少女もまたその一人に過ぎなかったが、少女にとってそれは全てを失い、生きる意味そのものを奪われることだった。

 中距離選手としては充分な走力を持つまでに回復した少女に顧問教師は夏の大会に出て高校生活の結果を残しては、と慰留したが、少女にとって大切なものは大会の表彰台や数字の記録はなく、走り、走り、速く走る日々。

 かつての自分のように速く走れなくなったことを思い知らされる陸上部での日々は少女にとって苦痛だった。

 速い走者がいくらでも居る陸上の世界。走る速さが他の誰かより遅くなることはさほど苦にならない。

 しかし自らの記憶にある過去の自分自身より速く走ることはもうできない。

 他人の背を見ることに感情を抱かぬ少女は、自分の背中を見せられることに耐えられなかった。

 少女は陸上部をやめ、走ることだけで埋まっていた放課後は何も無い時間となった。

 退部時の言い訳通り受験勉強に専念しようにも、走らなくなっただけで生活の気力が奪われた。

 担任教師には今の学力ならこれからの努力と出席率次第で大学部にも進めそうだと言われた。

 十数年前までは体育大学だったスポーツの名門大学。各種陸上競技や駅伝、トライアスロンの出場者を多く輩出している陸上部がある。

 もう一度フィールドに戻る勇気が持てず、教室の窓から陸上部員の練習風景を眺めている自分自身を想像した少女は進路希望用紙に何も書けなかった。


 無気力なまま迎えた高校三年の夏休み。

 寮の自室の窓から遠くに陸上部の外周ランニングコースが見える。

 少女がかつて走っていた場所で練習する陸上部員の姿がイヤでも目につく。 

 もう走れない少女の視界に入ってくる走る姿から逃げるような帰省。故郷の青森まで帰った少女は実家のリンゴ農家を継ぐことに決めた。

 少女にとって速く走れない今の学園生活は、走って走り続けた日々の後につく空白の時間。

 六月に十八歳の誕生日を迎えて間もない少女は卒業して家業を継ぐため、地元の教習所に集中して通い自動車免許を取得した。

 居心地のよさが居たたまれない実家への滞在を早々に終わらせ、八月が来る前に東京都下の学生寮へと戻る。

 九月の授業開始まで丸一ヶ月以上残った夏休み。

 他の生徒の帰省で人が疎らになった寮に戻った少女は、同じ陸上部だった仲間からの遊びの誘いにも応じず、部屋に篭った。

 点けっ放しで垂れ流しているテレビは内容すら頭に入らない。ただ静かな寮で給食センターから届けられる食事を自室で食べて寝るだけの日々。

 何もない、何をしたらいいのかわからない、何をしたいのかは知っている、それはもう出来ない。

 それでも、走りたい。

 少女はある夜、洗濯して衣装ボックスの奥に仕舞っていた陸上部時代のウェアを出し、シューズの靴紐を結んだ。

 もう走れない。あの時のように速く走れないならもう走りたくないと思っていたが、頭で考えるより深く足と肉体に染み込んだ欲求はどうにも抑えられない。

 七月の終盤にさしかかった暑い夜。

 少女は寮から抜け出し、陸上部時代に自主練習でよく走った土敷きの農道を走り始めた。

 長距離走ペースのロードワークくらいでは靭帯は痛みを訴えないが、以前の練習のようにそのままスピードを上げると左脚が熱を持ち始め、歩行すら困難になる鈍痛と痙攣がやってくる。

 あの足全体に鉄の芯を撃ち込まれるような苦しみを味わうならもう走りたくないと思っていたが、寮の部屋で窓の外ばかり見ているとまた走りたくなる。

 熱い太陽が無い夜の時間。

 陸上部時代は心地よかった空とフィールドの照り返しの両方から襲ってくる真夏の熱気。

 今の少女にとって昼間の高い気温は筋肉の過熱を招き、靭帯の限界を早める。

 少女は陽が落ちてから数時間が経ち、気温が下がり始める夜更けになってから寮を抜け出して土の道を走った。

 幸い学園寮は学園から走って十分ほどのアパートを一軒借り上げただけのもので、給食センターが宅配する賄いはつくが寮母も居なく寮長は帰省中。門限はあってもそれを取り締まる者は居ない。

 少女は再び走り出した。

 なにもない少女の八月が始まろうとしていた。

 

 ランニングシャツとショートパンツを汗に濡らしながら夜の道を走る少女。

 遠くに目印が見えてきた。

 用水路沿いの未舗装路に沿って延々と田畑が続く先にある、少女が何となく折り返し地点と決めていた場所。

 廃車。

 汚れ、傷つき、あちこちが錆びて朽ちた自動車が一台。寮から数kmの距離にある農道脇の草地に放置されていた。

 この廃車がいつからここにあるのかわからない。少女は数日前にランニングを始めてからその存在に気づいた。

 車というのは処分するにも金がかかるもので、ランニングコースから外れた山道では不法投棄された廃車を時々見かける。

 廃車が置かれていたのは、この宅地と農地が混じりあった都下のあちこちで見かける空き地。

 土地の回転が早い新興住宅地。税金の安い農地にされたり、すぐに基礎工事を始められる更地となっている遊休地をあちこちで見かける。

 地主が山林や畑を整地して住宅地として売り出してからまだ買い手がつかなかったり、買われてもまだ上物を建てる当てが無かったり、諸々の事情で寝かせられている土地は多かった。

 廃車が置いてある空き地も分譲予定のまま地主が急逝し、遺族同士の係争でまだ相続が決まらぬまま放置されていた不動産のひとつ。

 雑草が伸び放題の土地。撤去費用が地主負担となる廃車も片付けられる様子は無い。

 少女は寮からの距離もルートもちょうどいい廃車の地点で休憩と給水をして、また寮までランニングで戻ることを夜の日課としていた。

 車の免許は持っているが車なんてランニングコースの邪魔者としか思ってない少女にとって、廃車はただの目印。

 夏に帰省して車の免許を取った後、実家の軽トラックに少し乗ったが、少女にとっては車は単なる農作物運びの道具で、こんな物をローンを組んでまで買い、生活を困窮させながら金かけて改造したりドレスアップする人間の気が知れなかった。

 車で速く走ることに生涯を費やす人間も居る。それは知っていたが少女とは別の世界の話。

 寮から廃車までの道を走ってきた少女は左手首に巻いているデジタルのアスリート用腕時計についたストップウォッチを押し、しばらく足踏みしながら呼吸を整えていた。

 全身から汗を滴らせた少女はひとつ深い息をついてから廃車に寄りかかり、ランニングポーチのドリンクホルダーから引き抜いたペットボトルの水を少しずつ飲む。

 寮にあるウォーターサーバーからペットボトルに詰めて持ってきた生ぬるい水は、自販機で買う冷たいミネラルウォーターよりも肉体への負担が少ないことは知っている。

 ランニングのペースが少し速かったらしく、一度切れて縫い繋げた左足の靭帯が微かな熱と痛みを伝えてきた。

 手術で切開した腿の傷は筋肉のラインに隠れてほとんどわからないが、少女の傷と痛みは皮膚表面にごく薄く残る傷痕よりずっと奥にある。

 少女は二口ほど飲んで一度キャップを閉めようとしたペットボトルの水を一筋、露出した左の腿に垂らした。

 陸上部に居たころは真夏の太陽の下で今よりも速く走り、足はそれに応えてくれた。

 少し休憩して筋肉を冷やさないと、帰りのランニングでまたあの泣きたくなるような疼痛と痙攣に襲われるだろう。

 自分にとって苦々しい痛みから意識を逸らそうと、少女は寄りかかっていた廃車を振り返った。

 少女が走っていた土の道路とは空き地を隔てて反対側にある舗装路の脇で街灯が青白い光を放っている。

 微かな灯りに照らされている廃車は、車に興味の無い少女には二ドアの中型車ということしかわからない。

 くすんだ赤っぽい色のボディは分厚い土埃とカビ、コケ、鳥の糞に覆われ、鉄板はあちこちがへこみ、錆びていた。

 フロントの飛散防止ガラスは無数のひび割れで白く濁り、真ん中に大穴が開いている。

 サイドガラスとリアガラスは全て割られ僅かな破片が窓枠に残るのみで、粒状となったガラス片が車の内外に無数に散らばっている。

 素通しになった窓から窺える室内も傷つき、汚れきっていた。

 放置車荒しに真っ先に狙われる四つのタイヤとホイール。そして内装電子機器は破壊され、盗む気すら起きないような有様。

 走るために作られた工業製品。人や荷物を乗せて移動するために作られた道具。

 少女にとって自らの足で走る楽しさは何ものにも替えがたいけど、この車というもので走ることに同じ気持ちを託す人間も居るらしいということは知っていた。

 この車は捨てられ、全身に傷を負い、誰からも顧みられず、もう動くことも出来ない。

 少女は廃車のフェンダーに寄りかかっていた体を起こし、振り返ってボディに指を触れた。

 人の気配の無い夜中の空き地。左足の痛み。見えない自分の未来。つい独り言が口をついて出る。

「……あんたも走れなくなったのね……」

 ライトユニットごとどこかに紛失し、縦長の暗い穴を残すヘッドライト部分をそっと撫でた少女は、廃車のフロントフェンダーからサイドドア、リアフェンダーへと続く曲線的なラインに従い、手が汚れるのも構わず掌を滑らせる。

 自動車の車種に疎い少女はこの廃車が数年前に発売されて以来、現在に至るまで日本で最も高い性能と屈指の高価格で知られている自動車であることを知らない。

 損傷の具合と生前に些細なことで通報や嫌がらせを繰り返していた地主の悪評によって奇跡的に盗難を免れていた放置車。

 再生中古車の素材や部品として車体だけでも欲しいという業者や、ユニッククレーンとキャリアカーを備えたプロの窃盗団は「あの車に手を出すと体が痛くなる」と噂し、この獲物を避けた。


 何かが聞こえた。

 物音といえば遠くの道路から微かに聞こえる車の音と虫の声しか聞こえないこの場所で、確かに異質の音が聞こえる。

 人が咳き込むような、鍋が吹きこぼれるような、不規則で不安定な空気の振動。

 少女には何の音だかわからない。

 ランニングの疲労からくる耳鳴りが聞こえるほどは走ってはいないが、あの疲労の淵で聞こえる音と似ている。

 聞いたことがないけど、知っている音。

 少女が走っている時に聞こえていた、自分自身の肉体が発する音。

 疲労が限界に達し、もう走れなくなった時、もう一歩、あと一歩と体を前に進めようする時に聞こえる。走る力を体から搾り出すような荒い呼吸と血流の音に似ている。

 音は止まない。

 耳を澄ませば聞こえる程度だった音量は次第に増していき、耳鳴りでも幻聴でもなく確実にそこにある音として聞こえてくる。

 音はか細く途切れかちで、停止したかと思ったらまた音をたて、高くなったり低くなったり、消えそうになったり、断続的な周波振動を少女の耳に伝えてくる。

 ランニング合間の休憩で思考が億劫な精神状態だった少女は、突然聞こえてきた音に警戒するより先に耳を澄ませた。

 耳ではなく体全体が鼓膜となって振動しているかのような音。

 低く重く、少女の体に響く。

 音は廃車から響いていた。音と共に伝わってくる車体の振動。我に返った少女は寄りかかっていた廃車から飛び退いた。

「な……何?」

 車には詳しくない少女。何かヘンなところを触った拍子に、この廃車のエンジンがかかってしまったんだろうかと考えた。

 今にも止まりそうに咳き込み、断続的で不安定な音を少女に伝えていた廃車はやがてエンジン音とは異質の高く不快な音を発し始める。

 気体が流動する音に混じり重なる、金属が傷つけられゴムが擦られプラスティックが割れる破壊音。

 燃料の爆発によって回転の運動エネルギーを得る自動車エンジン。

 稼動を伝達する各部品のうちのいくつかが放置による劣化と破損で動くことを拒みながら動かされる音。

 それもまた少女の知っている音。

 一度断裂した靭帯がランニングの負担で痙攣を起こす直前に聞こえる。

 物理的に音を発しない足の筋肉が、少女の感覚と神経に音として知覚させる肉体の悲鳴。

 車が、少女と同じ声を上げている。

 低いエンジン音と高い機械ノイズを発しながら、停止と振動の狭間を不安定に往来する廃車。

 少女は振動するボディをもう一度撫で、掌から伝わる音を感じ取った。

 驚き、哀しみ、痛み、そしてほんの少しの好奇心、それらの感情を収束させた小さく黒目がちな瞳は涼やかに細められている。

「……そんなに頑張っても……もう走れないのよ……」

 目の前の廃車が車体を振動させながら搾り出している途切れ途切れの音。

 少女は自分にとってイヤな記憶を思い起こさせる音を止めてやりたくなった。

 車内の何かをいじれば止まるかもしれない。

 教習所での学習と実家でのごく短い運転経験で車はキーをひねればエンジンはかかり、逆にひねれば止まることぐらい知っている。

「これ……どうやって開けるのよ?」

 少女は誰にぶつけるでもない独り言を発しながら車のドアノブを探したが、ドアの鉄板は平坦で取っ手らしき出っ張りが見当たらない。

 その車は空気抵抗の軽減を重視した突起の無い格納式ドアノブを備えていたが、全体的に汚れたドアは街灯の影になり、ドアノブをポップアップさせるボタンは手探りでも見つけられない。

「開きなさい……って」

 少女の独り言に苛立ちが混じる。

 探すのも面倒臭くなった少女は窓が無くなった右ドアが少し開いていることに気づき、ドア上部に手をかけて引っ張った。

 何度レールを掃除しても陸上部の女子二人ががりでないと開かない体育倉庫の鉄扉を少女が一人で開けた時に似た、硬く軋む感触と共にドアが開き始める。

 少女は普段の自分なら全く興味を持たないであろう一台の廃車になぜこんなことをしているのか自分でもよくわからなかった。

 走れなくなった少女。

 自分の望む姿で走れないことを諦めきれず未練がましく走り続けてる少女には、車というただの道具が走ろうとしている様が無性に憎たらしかったのかもしれない。

 少女が両手をかけ、腰を突き出して体重を乗せ、背筋の力で思い切り引くとドアはひどい軋み音と共にやっと人が入れるくらいの開度まで動いた。

「うわ、汚っ!」

 車内は車の外見と同じくひどい状態。

 窓ガラスの無い室内には風雨と落ち葉が吹き込んでいる。

 前のシートは運転席、助手席共に黒い表皮が無数の切り裂きで傷つけられ、中からフォームラバーと鉄のフレームが露出していた。

 車内前部のダッシュボードはボディ同様に自然界の堆積物で汚れ放題。カーナビらしきディスプレイの画面は叩き割られていた。

 ステアリングは中央のカバーが外されて内部の金属製プレートとボルトが露出している。

 オーディオやエアコンの操作部らしきダッシュボード中央のパネルも無くなり、中には電子装置の部品が見える。

 リアシートの背当ては剥がされて鉄板が剥きだしになり、外れたシートはフロントシート後ろの床に突っ込まれていた。

 ドアを開けてみたものの中に座るのがためらわれるような不衛生な室内。

 少女は覚悟を決めて廃車の内部にもぐりこみ、汚れ傷ついたシートに尻を落とした。

 汗で湿った陸上用ショートパンツにシートの汚れがつく不快な感触を無視するよう努めながら、この車のエンジンを止めるキーを探した。

 遠くの街灯が照らす微かな明かりを頼りに、免許を取った時の教習車や実家の車での記憶を頼りにハンドルの付け根あたりに手を突っ込む。

 それらしき物は見当たらない。

 少女は薄暗い車内でハンドルの根元をよく見ようと体を傾けた。

 教習所で乗った車や実家の軽トラックよりも、この車のシートは座る面が低く背当てが高く左右が大きく盛り上がっている。

 少女の知らないスポーツタイプのセミバケットシートの上で体をもぞもぞ動かしてる拍子に、上半身のバランスが崩れた。

 咄嗟に目の前にある物に両手で掴まる。

 ステアリング。

 少女は廃車のシートに座り、風雨に晒された革のステアリング・ハンドルを両手で握り締めた。

 

 変化が起きた。

 熱い痺れ。

 シートに接する背中からランニング・シャツ一枚を通して、少女は強い刺激に襲われる。

 感電とも火傷とも似ていて違う。それらを合わせたような感覚が背中の表面ではなく、背を通して体内に深く入り込み少女を襲う。

 少女は飛び上がって車の外に逃げようとしたが、体はシートに貼りついたように動かず、両手はステアリングを握った形のまま動かない。

 助けを呼ぼうにも宅地化が始まって間もない住宅地の狭間で、少女の視界には人家も通行人も見えない。

 背中から苦痛を伴って襲ってくる刺激はステアリングに張り付いた両手から、両足を踏ん張っている床のペダルからも伝わってきた。

 体中を襲う未知の刺激と恐怖。少女の口は悲鳴を上げる形になる。

 車が、光を発した。

 少女が乗りこんだ廃車は少女の神経電流に刺激を与えながら、目も開けられぬほどの強い光に包まれる。

 熱と痛みはまだ引かないが、その感覚は少女が靭帯接合の手術で経験した神経伝達麻酔に似たものだということに気づき、少し落ち着く。

 元より苦痛には強く、大の大人が悲鳴を上げる筋肉注射でも軽く顔をしかめるだけだった少女。

 多少なりとも痛みの正体がわかれば動揺を制することもできる。

 この不可解な事態を脱するために必要なのは、金切り声の悲鳴よりも現状への認識。

 少女はまず自分の五感を取り戻すべく集中した。

 さっきまで驚きのあまり呼吸が止まっていた少女はやっと息を吸い、相変わらずの痛みに歯を噛み締めながらも目前で起きている事態を確認する。

 痛みと悲鳴を飲み込んで閉じた少女の口が開き、苦痛を忘れたかのような驚愕の声が発せられた。

「……何よ……これ……」

 目の前で信じられないことが起きている。

 少女の視界前方にあるガラス窓。

 無数のひび割れで白濁したフロントガラスが眩い光と共に透明度を増し、中央部に開いた大穴が塞がっていく。

 下枠部分に破片を僅かに残してほぼ無くなっていた左右ドアの窓も、ブロックを積み上げて壁を作るようにガラスを再び構築している。

 驚きのあまり意味を成さぬ声を漏らしたまま口をポカンと開ける少女の前でダッシュボード中央のパネルについた傷がどんどん小さく収束していき、やがて消える。

 たった今磨いたばかりのように輝くフロントガラス越しに、ボンネットのへこみが裏から叩いたように元に戻っていく姿が見える。

 背後でシートがモゾモゾと動く感触に少女は振り向く。

 切り裂かれていたシートは傷ひとつ無いしっとりとした艶のある表皮を取り戻し、真新しい革の匂いすら漂ってくる。

 床に吹き込んでいた濡れた落ち葉も、ダッシュボード上のカビと土埃もいつのまにか消えていて、傷も汚れも無い樹脂は濃灰色の肌を見せている。

 光が消えた。

 少女の体を襲っていた刺激が去る。

 傷だらけの廃車は、少女の体に痛みを与えながら発した眩い光と共に自ら傷を癒した。

「……音……」

 少女はあまりにも現実と乖離した目前の変化より、この車が発している音の変化に気づく。

 さっきまで今にも止まりそうな不協和音を発していたエンジンが、切れ切れの糸が一本に繋がったような規則的な低周波音と振動を少女に伝えてくる。

 目の前で起きた信じられない出来事、少女の開けられた口は横に伸び、見開かれた瞳は少し細まる。

 まるでこの廃車に起きた視覚的な変異の理由を、耳と体で感じる変化が教えてくれているような音と振動。

 瀕死から正常へと戻っていくエンジンの呼吸そのものを少女は全身で感じていた。

 少女は、笑った。

「あんた……走れるの?」

 傷ひとつない姿となった車が発する重く響く音はだんだん高くなり、ひときわ澄んだ音が少女の全身を震わせた。

 さっきの不規則で不快な刺激とは異なるくすぐったいような振動と共に、少女の目前で橙色に輝くメーターパネルの中で針が跳ね上がる。

「……見てくれだけ綺麗にして、音ばかり威勢良く出して、いらなくなって捨てられた車がまた走れるっていうの?」

 車は少女の声に応えるかのように幾重にも音の波を奏で、静まり返った夜の空き地に反響させる。

 花が咲いた。

 車内のダッシュボード中央にある、さっきまで壊れていたディスプレイ・モニターに花の画像が表示された。

 赤と紫を等量に混ぜた色の花弁と黄色い花芯を持つ一輪の花。

 花を映すディスプレイのすぐ上にある一回り小さなモニターは少女には理解できない幾つか数字と棒グラフ、円グラフを表示している。

 幾つもの光で満たされた車内、少女は瞳に正面で輝くアナログのスピードメーターとタコメーターを映す。

 オレンジ色の光の中で、車の内部で発生している鼓動を直接見せるかのように針が小刻みに震えた。

 車が少女の体にもたらした熱い痺れは去り、替わって少女自身の体内から熱を伴った鼓動が沸き立って来る。

 試合や練習で陸上のスタートラインに立ち、走るべきフィールドと遠く見えないゴールを見つめながら地を蹴る前の長くて短い時間。

 全身の筋肉に熱く濃い血液が流れる時に感じるもの。

 車という少女にとって無縁な機械がそれをもたらしていることについては深く考えなかった。

 今、目の前にある感覚、それは確かに存在する。

 少女にはそれで充分。

 熱い刺激と目の前で起きた事態のせいで少し速くなっていた鼓動は、ゆっくりとしていながら力強いものに変わる。

 さっきまで聞こえていた不協和音は足を傷つけ走る力を失った少女が聞かされた音だった。

 今、この車が発し少女の体中を震わす音はそれよりもずっと前。少女が走っていた時に慣れ親しんだ音。

 陸上競技で肉体を最大限に燃焼させる瞬間、自らの体を構成する物全てが走るために動き、流れる音。

 少女がもう届かないものだと思っていた音。

 車は少女の鼓動に同調するようにエンジンの音を響かせる。

 この車から、少女の生命と同じ音がする。

 空っぽだった少女が何かに満たされていく。

 「走れるなら……あんたが走れるなら……わたしを走らせることが出来るなら……」

 少女は手に張り付いて離れなかったステアリングを自らの意思でしっかりと握った。

 「走る!」

 少女の独り言に呼応するように車は自らエンジンを回転させ、高く澄んだ音を発した。

 少女は足を伸ばし、天然ゴム底のクロスカントリー用ランニング・シュ-ズを履いた足をアクセルに触れさせる。

 「ちょっと、前に出なきゃ」

 黒い革が薄手のショートパンツとランニングシャツから露出した腕と脚に触れる。

 シートは感触も座り心地も上々だが、女としては長身ながら男子の基準では中背程度の少女には手足と操作部が少し遠い。

 教習所で習った通りにシートをスライドさせ、前後位置を調整しようと思った。

 少女がシート下部にあるはずの調整レバーを手で探るより先に、シートがひとりでに動き出した。

 両足が無理なくアクセルとブレーキを踏めて、両腕が肘を充分に曲げた状態でステアリングの全周を握れる位置までシートは前進する。

 背もたれの部分が少し起き上がり、背に当たる部分が膨れ、萎みながら形状を変え、座面が上昇する。

 走ろうとする少女を迎え入れるかのような動き。少女は上機嫌になった。

 右足で踏み込む最適の位置にあるアクセルの金属板にランニングシューズを履いた足を触れさせる。

「……あと三センチ前に、二センチ低く」

 少女を乗せたシートはその声を聞き取ったように、位置を僅かに前にずらし、低くした。

「へぇ、今時の車ってこんなのがついてるんだ」

 最新の車とその装備についての知識なんて無い少女。

 この車にどんな音声反応装置がついてるのか想像はつかなかったが、他者である機械と自分の触れる距離を勝手に決められ、調整されるのは気に入らない。

 シートが少女の言葉通り動いた後、少女の座る席の背後から黒い帯状の物体が伸びてきた。

 蛇のように少女の両肩と腰を通った黒い帯は臍の辺りでカチリと音を発てて勝手にバックルに刺さり、体をシートに強く縛り付られた。

 少女はそれがテレビで見たことのある自動車競技用のシートベルトであることを知っていたが、体をがっちりと固定する四点式シートベルトに指を這わせたとき、自分でもよくわからない理由で拘束に対する嫌悪よりも高揚を覚え、軽く頷いた。

 少女は右手でステアリングを握りながら、左手で左右シートの間に生えているレバーに触れた。自然に手がレバーに吸い寄せられるように動く。

 少女は自分が握っているレバー頂点にあるアルファベットが刻印されたラベルを見つめながらしばし考える。

「オートマ……よね……?……」


 足元に目をやるとアクセルとブレーキの二つのペダルがあるだけで、教習ではあまり操作が得意でなかったクラッチペダルが見当たらない。

 教習で乗ったマニュアル車とは違う、オートマチック車と似てるけど違う、三段の階段のようなゲートから生えたシフトレバー。

 頂点の表示に従い、オートマ教習で習った通りブレーキを踏みながらレバーをDレンジへと動かした。

 車体が震える。

 さっきまでとは微妙に質感の違う振動が、この車が走る準備を終えて今にも飛び出さんとしている動きだということはわかる。

 少女はブレーキから足を離し、足とペダルの間に卵が挟まっているかのようにそっとアクセルを踏みしめる。

 どれくらいの時間そうしていたのか、全身傷つき動くことなく朽ちていた廃車が、空き地の土と雑草を踏みしめながらスルスルと動き出した。

 人間が歩く程度の速度だが、それでも前に進んでいる。

 長く動かされずに居た機械特有の張り付きやひっかかり、摺動部の異音は全く無く、車の各部が走るため何の抵抗もなく滑らかに動く。

 エンジンが心臓となってこの車に前進の意思が篭められた回転運動を与え、シャフトの筋肉とゴムタイヤの足で土を踏む感触が伝わってくる。

「これ、ヤバいかも」

 少女はふと、今自分がしてることは廃車とはいえ車の盗難だと思った。

 このまま車を元の場所に戻し、所有者を調べて連絡を取るなりして正式に譲渡、販売してもらったほうがいいんだろうか。

 それともこの不思議な機能が色々ついていながら、各々の操作部が少女の体にピッタリ合う廃車と同一の車種を探して買うべきか。

 農家をやっている親からは家業を継ぐなら免許取得のお祝いに新車を買ってやると言われている。

 打ち捨てられた廃車にいくらの値がつくかわからないが、国産車なら何でもいいという親からはこの車を買い、維持する程度の金も引っ張れるだろう。

「やっぱヤバいわね」

 今はこの空き地の中で人目につかぬよう、ゆるゆると走らせるのを楽しむ程度に留めておいたほうがいいんだろうか。

 少女は軽く足裏を当てていたアクセルを深く踏み込み、タイヤを鳴らしながら空き地から道路へと車を進めた。

「嬉しくなっちゃうくらい……ヤバいじゃない……」  

 後から、とりあえず、落ち着いて、誰かが、改めて、いつか。

 今の少女にはそんな言葉などなんの意味もなかった。

 陸上部の道を絶たれた時に一度止まった時間。オマケの時間に失うものは何もない。 

 この車が走りたいといっている、わたしが走りたいといっている。

 もっと速く もっと速く。

 少女の名前は 蘭。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る