第十二話 一歩
それが訪れたのは昼休みであった。
私は母親が作ってくれた弁当を持参してきたのだが、私以外の友人4人は、みんな校内にある生徒用の購買に昼食を買いに行くというのだ。
普段はレイカも買い出しに付き合っているようだが、今日は「少し用事があるからみんなで行ってきて」と付き添いを断り、上手い具合に一人になることに成功した。
京子はいつもと変わらず、自分の席から一歩も動かず、鞄から音楽プレイヤーと菓子パンを取り出し昼食に入っていた。
買い出しやお手洗いに行っている子も多く、教室内には数人しか生徒がいなかった。
これは絶好のチャンスだ。私は意を決して京子の元に向かった。
「橋本さん、あの……ちょっといいかなあ?」
目の前に立ち、そう尋ねる私に、京子は音楽プレイヤーを停止させ、耳にはめているイヤホンを外し、心底嫌そうな表情で応対する。
「また……何ですか?」
黒縁眼鏡の奥にある京子の目は、まるで汚らわしいモノでも見るかのようであった。黒く透き通った美しい瞳が、より一層強い嫌悪感を引き立たせている。
私はその目を見ただけで心が折れそうになってしまった。
「いや、あの……さっきのこと……」
私は息をスーッと吸い込み、しっかりと京子の目を見つめた。
「本当にごめんなさい!」
そして深々と頭を下げた。
30年も生きてきたのだから、こういう経験はそれ相応にしてきている。
謝罪というのは言葉だけではなく、ボディアクションが大切なのだ。
しっかりと背筋を伸ばし、両手を指の先までピンと張り、腰を45度に曲げて頭を下げる。そしてそのままの姿勢で完全に停止する。ここですぐに頭をあげるのはご法度だ。頭を下げてる時間が長ければ長いほど、自らの反省の度合いを表現できる。
「いや………あの………ちょっと」
本気で頭を下げる私に対し、京子が戸惑いの言葉を漏らした。
それを聞いたタイミングで私はゆっくり頭を上げた。
上げる途中で私の目に入ってきた京子の瞳は、先ほどとは違い少しだけ穏やかになっていた。
よしっ、と私は心の中でガッツポーズをする。
思った通りだ。私の経験上、この年頃の若い子は、基本的に自我が強いため、自分が悪いと分っていても、中々本気の謝罪は出来無いものなのだ。
だから本気で頭を下げた私の行為に、新鮮さを感じ、心を動かされたことだろう。
「私、本当に反省しているの……ごめんね。あんなつもりじゃなかったのに……」
畳み掛けるように私は、神妙な表情と、今にも泣きそうな震える声を使い、彼女の同情を誘う。
「いや……えっと」
「ごめんね、本当に怖かったよね……本当にごめん」
「いや……別に……私も突き飛ばしちゃったし。……私の方こそごめんなさい」
遂に京子は、自分からの謝りの言葉を発した。私はこの機会を逃さない。
「えっウソ!?許してくれるの?やったあ!」
そう言いながら私は、瞬時に京子の隣の席に腰掛ける。そしてイスを京子の近くにグッと寄せ、一気に距離を詰めた。
京子は一瞬戸惑いの表情を見せたが、私は間髪入れずに話し出す。
「私、ホントに橋本さんに嫌われたんじゃないかって、もう二度と話してくれないんじゃないかって、ずっと落ち込んでたんだ~。ホントだよ?それがショックすぎて1限目の授業出られなかったんだから!あ~でも許してもらえてよかった~、ヤバいちょっと泣きそう」
「嫌うっていうか、別に……」
「あっ、でもアレだよ、さっきも言ったけど、仲良くなりたいってのは本当だからね!私、橋本さんのことずーっと可愛いって思ってたんだから。本当に可愛いよね~、目が大きくて、肌も透き通ってて、髪も綺麗で、お人形さんみたい、本っ当に可愛い!」
「いや、そんなことは全然……」
京子は心なしか、少し顔を赤らめている。
良かった、この子もしっかりと女の子のようだ。
容姿を褒めたところで、まるで喜ばないロボットのような子だったら、これから距離を縮めるにも一苦労だが、これならば大丈夫だ。
私はまた少しだけ表情をキリッとさせる。
「ねえ、今朝は断られちゃったけど、もう一回だけお願いしていい?私、本当に橋本さんと仲良くなりたいの。もちろん変な意味じゃなくて、学校にいる時に普通にお話したり、もし出来たら放課後お茶しに行ったりとか、ただそれだけでいいの。」
さっきまでのテンションとは真逆に、真剣な面持ちで懇願し、そして一拍ためた後、改めて彼女に答えを求めた。
「――――駄目かなあ?」
「…………………」
京子は少し黙り、何かを考えている。
今朝は即答で断られてしまったが、今回はきちんと私の誠意が伝わったのあろう、無下に突き放すことに躊躇したようだ。
「……私と仲良くなっても、何も楽しいことなんてないですよ?」
「ううん、そんなことないよ。だって楽しいかどうか決めるのは私でしょ、私は大好きな橋本さんと仲良くなれたらそれだけで絶対に楽しいもん!」
私は満面の笑みでそう答える。
「私じゃあイヤ?」
「……別に、イヤとかではないですけど」
「ホントにっ?じゃあこれから私と仲良くしてくれる?」
京子は深く考え込む。そして申し訳なさそうな表情で私に尋ねた。
「……あの、失礼かもしれませんが、あなたってもしかして……」
「うん?なになに?」
「……レズビアンですか?」
「えっ!」
京子の質問に私は思わず声を上げてしまった。
そうか、今朝のことがあったから、そう思われてしまう可能性は勿論あったのだけど、まさか面と向かって尋ねられるとは思いもしなかった。
この手の質問は中々しづらいと思うのだけど、京子はこう見えて実は気が強いのだろうか。
「な、なんで?全然違うよ、そう見える?」
私は動揺しながらそう答える。
正確に言えば(全然違う)ことはない。
私の最終目標は京子と性的行為に及ぶことだ。心は男性だが、外見は女性なのではたから見れば立派なレズビアンである。
しかしながら、今、ここでレズビアンだとばれてしまうのは不味い。
そうなれば京子は私に心を閉ざすに違いない。彼女の尋ね方にはそんな意志が感じられた。
「……はい、見えます」
「ウソっ!?違う違う、全然違うから、私って、今はフリーだけど、彼氏とかもずっといたし。橋本さんの勘違いだよ」
「じゃあ……じゃあ、なんであの時、キスしようしてきたんですか?」
「ああ、あれね、あははっ、えっとねえ……あれは」
やはりというべきか、来てほしくない質問が来てしまった。
あの時の私は、完全に男としての性欲に支配されていた。
彼女にキスを迫った顔つきは、今自分で思い返してみても、完全に欲情した顔そのものだ。あの顔を見られては言い訳のしようがない。
京子の真っ直ぐな瞳に、私の脳みそは悲鳴を上げる。
どう誤魔化せばいいものか。
「あれはね、なんていうか……その……小ボケ?」
「小ボケ?」
「そう小ボケ、ウケるかなあと思って、一応突っ込み待ちだったんだけどね、いや何すんだよ!って、突っ込んでくれるかなあとか思ったんだけど、ボケが分かりにくくて本気にさせちゃったみたい、本当にごめん!」
私は悩んだ挙句、意味の分からない答えに達してしまった。
こんなセリフ橘レイカが発するとは思えない。女子高生がこんなこと言うものか、小ボケなんて完全に青年男性の発想だ。
これはまずい、京子の不信感を余計に募らせてしまったかもしれない。
しかしながら京子のリアクションは、私の心配をよそに、とても意外なものであった。
「ふふっ、小ボケって、くっ、何それ」
なんと彼女は笑ったのだ。
しかも愛想笑いとかではなく、肩を揺らしてはっきりと笑っている。
彼女を観察し続けていた頃、たった一度しか見れなかった笑顔が、まさかこんな状況で飛び出すなんて、私は予想外の出来事に唖然としてしまった。
先ほどの直球な質問と言い、この笑いといい、橋本京子という人間は私が勝手に思っていた、人見知りでおとなしい、クールな女の子というイメージとは、少し異なるようだ。
「――――いいですよ別に」
「えっ?」
「だから……別にかまいません」
「それって、私と仲良くしてくれるってこと?」
「……はい」
「やったー、ウソでしょ?本当に?うれしいっ」
遂に京子は首を縦に振った。
私はなんとか最初の一歩を踏み出すことに成功した。
歓喜余ってついつい京子に抱き付きそうになってしまったが、頭の中に今朝の出来事がよぎり、なんとか寸前で踏みとどまった。
もう失敗はできない。これからは一つ一つの行動を慎重に行わなければならない。
「じゃあさ、改めて自己紹介しない?まず私ね、私の名前は橘レイカ。友達にはレイカって呼ばれてるから橋本さんにもレイカって呼んで欲しいけど、焦る必要はないから、何でも好きなように呼んでね」
十日間しかないのだから、本当は急ぎたいのだけど、焦ってがっついたあげく、嫌われようものなら取り返しがつかない。私は慎重に言葉を選んだ。
「はい、じゃあ橋本さんの番だね」
「えーっと、……名前は橋本京子です」
「うん、京子ってすごくかわいい名前だよね、橋本さんにピッタリって感じ」
「いや、別にそんなことは……」
やはり褒められることに関しては、悪い気はしてないようだ。照れた表情で少し俯く京子の姿に、私はより一層トキめいた。
「もし嫌じゃなかったら、また次の休憩時間にお話しにきてもいいかなあ?」
「……はい」
心情としてはこのままの勢いで、昼食も一緒にとろうと誘いたかったところだが、焦りは禁物だ。
二人きりで昼食をとれるのなら別に構わないのだが、レイカは必ずグループの4人と共に昼食をとる手筈になっている。
京子をいきなりそこに放り込むのはとても心配だ。まずはユウ達に説明しなければならない。
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