第九話 登校


 その後、私は天使から細かな説明を受けた。


 私が橘レイカでいられるのは、今からちょうど10日後の7月12日の夜までで、日付が変わった瞬間に元に戻るということ。

 私が橘レイカでいる間、本来の私である坂本英樹の肉体は、『パーマン』の”コピーロボット”のような状態であるということ(天使が説明する例えで『パーマン』とか出すなよと思ったが、如何せん非常にわかりやすかった)

 期限が終わり、元に戻った後は、レイカやレイカに関わった人の記憶は全員いい感じに改善され、何事も無かったかのように、この『お願い』が始まる前の日常に逆戻りするということなどだ。


 そうこうしていると、いい加減しびれを切らし、怒り交じりで私を呼ぶ母親の声が聞こえてきたので、私は急いで階段を駆け下り食卓に向かった。

 食卓ではすでに弟らしき少年が朝食をとっていた。母親はキッチンで洗い物をしており、父親は見当たらなかったが、これ以上怪しまれるのを嫌い、詳しく尋ねるのはやめておいた。


 母親と少年の会話から、この少年が『トモヤ』という名で、中学生であることが分かった。

 私はその後もゆっくりと情報収集をしていたかったが、もうすでに、橘レイカが毎日家を出る時間ギリギリであったらしく、母親から急かされるように支度をし、すぐに家を飛び出した。


 幸運にも橘家は、私が暮らすアパートと同じで、桜葉高校から2駅離れた『松並市』に所在しており、住宅街を抜けるまでの道には少し迷ったが、大きな道に出てからは、私も普段見慣れた風景であったため、戸惑うことなく学校に向かうことが出来た。


 この町から学校までは電車を使わなければならないのだが、最寄りの駅にはレイカと同じ年くらいの高校生がたくさんいて、案の定、友人と思われる高校生に何人も話しかけれてしまった。

 無論、私は誰一人覚えのない人間なので、挨拶程度の関係性ならまだしも、しっかりと会話を交わしてこようとする相手には、かなり困ってしまった。


 ただ学校に行けば、これよりも大変な状況が待っている訳で、良い練習とばかりに、うまい具合に会話を成立させつつ、相手の情報を少しずつ得ていけるように努力した。

 共通の友人や、過去の思い出の話をされると、相槌を入れることぐらいしか出来ず、なかなか苦労したが、流行りのドラマやファッションの話には、『のぞき』をしていた時、彼女たちに近づきたくて勉強した”知識”が生き、自分から話を含ませることが出来た。


 その会話の途中で、「なぜ今日はノーメイクなのか?」と指摘をされ、私はそこで初めて、家を出る際にメイクをし忘れたことに気がついた。


 やはり姿は変われど、男である事実は変わらないもので、忘れ物には、細心の注意をし、家を出たはずなのに、日頃習慣のないメイクのことなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

 レイカは毎日ばっちりとメイクを決めて登校してくるので、このままではクラスの友人たちに不審がられてしまう。


 どうしたものかと考えながら、手持ちの鞄を探ってみると、中に簡易的なメイクセットが入っていたので、私は電車内でメイクを行うことにした。

 普段、電車内でメイクをしている若い女性を見るたびに「何てはしたない女だ、醜いから家でやってこい」などと思っていた私が、いざこの姿に成ってみると何の躊躇もなくメイクを始めてしまう。


 以前の私と同じように、メイクを始めた私のことを、蔑むような目で見てくる中年男性達の視線は、多少気にはなったが、「何がいけないのか、どこでメイクしようが私の勝手だろ」と言わんばかりにメイクを続けた。

 やはり立場というのは怖いものである。逆の立場に立ってみた途端、自分は何も間違っていないと思えてきてしまうのだ。

 ここでも女装時代の技術が生き、揺れる電車の中でも、難なくメイクを完成させた。


 レイカはやはり人気者なのだろう、その後も登校中、多くの高校生達が私の元に集まってきた。

 その都度、友人達の情報を頭の中で整理するのは大変だったが、普段若い女の子と話す機会の無かった私にとって、この状況は、まるで芸能人にでもなったかのような気がして、とても気分の良いものであった。


 ちなみに天使は登校中、なぜか消えずに常に私の真後ろをついてきた。

 さすがに話しかけてくることはなかったが、私が友人達との会話の中で、知らないことを振られ、あたふたする度に”ニヤニヤ”と何か言いたげに笑いかけてきた。

 非常に腹が立ったが、如何せん私にはあまり時間がない、天使のことなどいちいち気にしていては何もできない。こんな小太りの中年男性のことなど忘れて、レイカに成りきることにだけ専念した。


 高校に到着し、正門から校内に入る時はなんだか不思議な気持ちになった。


 10年間通っている勤務地だが、私は未だかつて正門から校内に入ったことはなく、いつもは敷地の裏手にある、小さな関係者用の出入り口を使用している。

 なので正門をくぐる時、感慨深くなり、一瞬立ち止まってしまった。


 途中から一緒に登校していた友人達に「どうしたの?」と尋ねられ、すぐに我に返ったが、今後もこのように、坂本英樹だったころの感情が、前に押し出てしまう瞬間が度々訪れてしまいそうだ。

 しっかりと気を引き締めて、自分がもう橘レイカであることを、ひと時も忘れてはならないと、心に誓った。

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