第五話 恋


 そう――――私は彼女に〈恋〉をしたのだ。


 いや正確に言えば、もうとっくにしていたのだろう。

 初めて見たときに私は生まれて初めて一目惚れというやつをしたのだ。


 そのため私はここ何日も、彼女から目を離すことが出来なかったのだろう。

 しかしながら30歳も過ぎると、なかなか初体験などというものが無くなってしまう。この歳になって、いざ初めて一目惚れなどというものを経験しても、それを理解するのに時間がかかってしまうのだ。


 しかし、彼女の笑顔を見た衝撃によりやっと頭が整理され理解した。


 私は彼女が好きなのだ。


 出会ってまだ5日、いや正確には出会ってすらいない、一方的に見つけただけだ。

 声も性格も知らなければ、彼女の名前すら知らない。年齢だって一回り以上離れている。それでも私は彼女を愛してしまったのだ。


 そう自覚した瞬間。私は急激に自分の姿に、羞恥の感情を持ってしまった。


 30歳にもなったというのに、私は一体何をしているのだろう。

 顔に化粧を施し女子高生の制服を着用している。

 なんと滑稽でなんとみっともない姿なのだろう。


 もし彼女にこの姿を見られようものならと考えるだけで、血の気が引いていった。

 私はすぐに制服を脱ぎ捨てた。脱ぐというよりは破いたと表現する方が近いだろう。ろくにボタンも外さず、力任せに引っ剥がした。


 そのまま洗面所に行き、メイクも急いで落とした。落とす寸前、鏡に映る自分の顔を見ただけで気持ちが悪くなった。

 メイクを落とし服を着替え、やっと私は目覚めることができた。


 危なかった。


 もう少しで引き返せなくなるところだった。


 彼女のおかげで踏みとどまることができたのだ。彼女がいなければ私は破滅の道へと進んでいたことだろう。


 それからの日々は、彼女のおかげで幸せだった。


 この歳になって、こんなに人を愛するだなんて思ってもみなかった。まるで中学生がする初恋のような気分だった。

 一日中、彼女を見て過ごした。彼女を見ていると自然と笑みがこぼれた。丸一日好きな人を見続けることができるなんて、私はなんて幸せ者なのだろう、と本気で思った。もっともっと彼女のことが知りたくなった。


 とにもかくにも、まずは彼女の名前を知る必要がある。


 ある日、私は意を決し、ついに禁断の扉に手をかけることにした。


 それは警備室の奥にある、夜間見回り用のキーボックスだ。その中にはこの学校に関する全てのカギが収納されている。

 これは夜勤担当の武田さんが、深夜に校舎内を見回る時に使用するもので、日中勤務である私は、今まで一度も使用してこなかったのだが、これを使えば、彼女が通う2年3組の教室にも侵入することが可能だ。


 生徒や教員がまだ校内に残っている時間に動くのはまずいので、皆が下校し、夜勤の武田さんが出勤してくるまでの間、夜7時20分~7時45分くらいを狙い実行する。


 それでも、教室内を物色しているところを、万が一誰かに発見されてしまっては一大事だ。なるべく教室に留まるのは数分にし、根気強く、毎日コツコツ通うことで、少しずつ情報を集めることにした。


 もし誰かに見つかってしまった場合の、あらゆる言い訳を準備しつつ、精神を極限にまで尖らせながら、これでもかというほど慎重に、2年3組に侵入する。


 初回は、教室に足を踏み入れた瞬間、喜びと興奮で瞬間的に我を忘れ、年甲斐もなくはしゃぎ、踊りだしそうになってしまったが、すぐに自分の頬を強烈に殴打し、自制心を取り戻した。


 後は自分の欲望との闘いだった。彼女のことをもっと知りたい。彼女が日々を過ごすこの教室にもっと留まりたい。そんな気持ちを、何とかねじ伏せ、数分間の滞在ですぐに立ち去った。


 そんな毎日を繰り返すことで、私は少しずつ情報を得ることが出来た。


 彼女の名前は「橋本京子」。


 成績はかなり良い方だと思われ、字も綺麗で、ノートも美しく、整理整頓もきちんとなされている。

 学校には必要最低限の物しか持ち込みはしておらず、他の生徒達に見受けられる、プリクラ帳や、雑誌等といった私物は、皆無である。


 ゆえに、趣味嗜好といったパーソナルな情報は、一つも得ることが出来なかった。


 ちなみにこの機を利用して、このクラスに通う他の生徒のことも少しだけ調べておいた。特に重点的に調べたのは、やはりクラスの中心人物で、ボス的存在である例の『彼女』のことだ。


 彼女の名前は「橘レイカ」。


 見た目にもぴったりな名前だ。

 京子と違い、彼女の机とロッカーには、様々な私物が残されており、なんの苦労も無く多くの情報を得ることがてきた。


 生年月日や血液型、趣味や好きなファッション、友人関係や今後の予定、最近彼氏と別れ現在はフリーであることなど、全てが筒抜けである。

 京子にもこれ程までとはいかなくとも、もう少し何か残して欲しいものである。


 しかしながら、とりあえず名前だけでも知ることが出来、一歩前進だ。私は満足した。

 その他の情報は、、これからゆっくりと知っていけばいい、時間はたっぷりある。

 私は元来、好きなものは後にとっておくタイプなので、今後の楽しみがたくさんあるこの状況は願ってもないものだ。


 それからの私の毎日は京子を中心に回り始めた。


 出勤するや否や、京子の行動を一秒たりとも逃すまいと双眼鏡に目を貼りつかせる。

 京子が下校すると、今度は教室に侵入する準備を始め、時間とともに素早く実行に移す。

 帰宅後は、本日得た京子の情報を頭の中でまとめながら、彼女を思い眠りにつく。そんな日々を過ごしながら今日に至った。



―――――――――――――――――――――――――――




 そして今日、7月2日。

 私がいつものように出勤し、いつものように京子を観察し、いつものようにそのままの体制で昼休みの迎えた頃。

 いつもとは違う、いや、というよりも日常では有り得ない。現実には起こりえない。信じがたいことが起こったのだ。

 

 何の音もなく、何の気配もなく、まるで、今まで当たり前のようにそこに存在していたかの如く、突如、警備室の真ん中、私の真後ろに、”中年男性”が現れたのだった。

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