浸食
つきのわ
第1話
秋になった。涙みたいな落ち葉が、はらはらと風に舞って夕暮れの地面に落ちる。堕ちた涙を踏みしめながら、私は透き通った空を見上げて呟く。
「お月様が綺麗だなぁ……」
空に揺れる燈火のように、下弦の月が静かに輝いている。
私の心に月色より更に薄く、うすく燈ったあの人への思い……。
「はっきりしちゃ駄目なの、こんな気持ち。バカを見るだけよ」
ふと胸をかすめた暖かな感情は、自分自身のことに思いを巡らした瞬間、私の心を芯まで冷たくした。氷漬けになったみたいに、私の指先はカチカチに固まってゆく。
温めてくれる手を探して、宙に差し伸べた私の手のひらに、ひとひらのイチョウの葉が、静かに横たわった。思わず口元に小さな笑みが浮かぶ。
鞄の中から読みかけの本を取り出すと、私はそっと小さなお客様をページの間に挟んだ。
「いいことがありますように……」
あの人に私の思いが永遠に伝わりませんように。
深い青に包まれてゆく辺りの光景を見つめながら、深海に沈んでゆく感覚すら覚える。真上で煌く小さな月が、私には水底から見るとてつもなく遠いものに思えた。
「お家に帰ろう」
ベージュのコートの前をかき抱くようにしてマフラーに顔をうずめると、私は強くなり始めた風の中を、夜の底に向けて歩き出した。
私には好きな人がいる。一体いつからこんなにも愚かな気持ちを胸に抱くようになったのか、解らない。
あの人の笑顔は私を暖かくする。お日様のようにいつも輝いて、自分じゃ輝けない私を、月のように静かに照らし出してくれる。あの人がいるから、私は少しだけど幸せを感じる。あの人がいるから、私は少しだけど微笑むこともできる。あの人がいるから……
私は公園の手すりに掛けた冷たい手の甲に、暖かな涙を感じた。
「……」
辛くて、悲しくて自分が嫌でたまらなくなる。
あの人に比べたら、私の外見は余りにもひどすぎる。あの人に私を見てもらいたくないのだ。
あの人は、クラスで誰よりも背が高く、細い。やや色白で、天然のうすい茶色の髪をしている。切れ長の二重はいつも冷めた目で辺りを眺め、友達と一緒にいる時だけ、無邪気な顔をして三日月のように目を細め、顔をくしゃくしゃにして笑うのだ。そのギャップがたまらなく好きだった。
それに比べて私は、無駄に腰骨まで届くカラスのような長い癖毛をぴっちりかためてまとめ髪にして、瓶底の眼鏡に素顔を沈めていつも沈黙の中にいる、道端の石ころみたいに誰からも関心を示されない、スクールカースト最下位の人間だ。
だから、あの人とすれ違うだけで、存在を認められるかもと思うだけで、私は自分が世界一のブスになったような、裸でのこのこ歩いているような恥ずかしさと愚かしさを感じるのだ。
そうなった原因の一端は解っている。
私は帰宅した後、今にも雪が毀れそうな重たい雲の色を小さな窓から眺めていたが、そっと扉を閉めた。
下から母のキンキン声が聞こえてくる。
「未夜!みよ!」
「はい……」
私はこれから起こることを考えて、溜め息混じり返事をした。とんとん、と階段を降りていく。
「なぁに、お母さん」
階段を降り終えて居間の扉を開けると、洗濯物を竿から外しながら、母は私に喚き散らした。
「あんた一人だけ何うだうだくつろいでるのよ!お母さん仕事で忙しいんだから、手伝おうとか優しい気持ちこれっぽっちないの?」
「ごめんなさい……」
居間に入り、洗濯物を畳もうと手を伸ばすと、瞬間に母の手が私の手をぴしゃりと叩いた。
「せっかく綺麗に洗ったのに、汚い手で触らないで!お母さんはあんたと違って綺麗好きなんだから!」
「はい……」
寒い洗面所まで爪先立ちで行き、氷のように冷たい水で手を洗う。静かで冷たい室内に、水音だけが響いた。その音を聞いているだけで寒々しい気分になる。
「何してるの?早くしなさい!」
少し離れたところから母の怒鳴り声が聞こえてくる。非難の声を全身に浴びながら、私はのろのろと母の声のする方向へ歩き出した。
母と私は二人暮らしだ。父は私が二歳のころ、母の他に好きな人を作り、その人との間に子供をもうけて出て行ってしまった。捨てられた母はプライドの高いタイプの美人で、私の顔とは似ても似つかない。十七歳になった私は、その出来事がどんなに彼女の心を傷つけたのか手に取るように解る。言葉の端々から察することができるからだ。
捨てられた自分の惨めさを埋めるように、母は私に他の子よりも優れたところを多く求めるようになった。もっと賢く、もっと逞しく、もっと美しく。誰よりも優秀に……
しかし私は、そんな母のどの願いも叶えてあげることは出来なかった。
成績は中の上、極度の運動音痴、人より貧弱で、美しさとも無縁の容姿である。母は私を、自分の美しさ有能さと同時に、見知らぬ父のもう一人の子供と何かにつけて比較した。
「あの女の子供は、あんたみたいに馬鹿じゃないはずだよ」
「せめて私に似てくれればもう少し将来に希望が持てた筈なのに」
「あの女の子供は、きっとお父さんに似て快活で明るいガキに育ってる筈だよ」
「お母さんはあんたと違って、運動音痴じゃないから」
「あんたは両方の劣性遺伝子だけを貰って生まれてきたんだ」
「それだけ出来が悪きゃあ誰だって逃げたくなるよ」
母は私を否定することで、お父さんから与えられた惨めさを軽減しようとしている。
でも……私は母の気が軽くなるならそれでも別にいいと思っている。確かに母の言うことは何一つ間違ってはいないのだし、わたしに原因がないかといえばそんな事はないのだ。母に反抗しても、私に有利なことなど何一つありはしない。そんなことは一昨年の喧嘩で、とっくに経験済みなのだから……
その日、私はテストを控えていて、部屋に籠って机に向かっていた。外は朝から静かに雪が降っていて、底冷えが暖房なしの部屋に、たまらなくこたえたのを覚えている。。
私にとってテストは、進学する志望校を決める最も大切なものの一つだった。私は英語を訳すのが好きなので、英文科に進み、将来は通訳や翻訳など、自分の手で文章を作り変え人のために役立てる、そんな仕事に就きたいと考えていた。
私の志望する大学の英文科は、私の行っている高校から望むなんてバカげてる程レベルが高い。私にとってこの学校に挑戦することは、人生初めての掛けだった。
もし、志望校に受かったら、少しは自分に自信を持てるようになるかもしれない。母は私を見直してくれるかもしれない。もしかしたら私を、誇りに思ってくれる日がくるかもしれない……。
受かることは人生の成功を意味し、滑ることは敗北を意味する。それほど私にとって、志望校への挑戦は大きな、大きな賭けだった。
部屋に閉じこもり勉強する私を尻目に、母はその日、朝からずっと機嫌が悪かった。前日職場の上司と喧嘩をしたらしい。私はその愚痴を、夜遅くまで母にたっぷり聞かされていた。
昨日の出来事も手伝って、私はその日、出来るだけ母と顔を合わせないようにしていた。
しかし、そんな私の頑なな態度が母の逆鱗に触れたらしい。少し呼んだくらいでは返事をしない私に業を煮やし、母は突然私の部屋に怒鳴り込んできた。
「ちょっとあんた!折角の休みだってのに一日中部屋に閉じこもって、そんなに私と顔を合わせたくないっていうの!」
「そんな訳じゃないよ。でも私、勉強しなくちゃ」
しどろもどろに答えると、母はフン、と鼻を鳴らして嗤った。
「勉強ねぇ。ご苦労なことで、さも自分の仕事みたいに勉強勉強って。勉強した成果が実るかどうかは親次第だってのにいいご身分ね」
「……」
私は口答えする代わりに、ぎゅっと爪を立てながら強く拳を握った。腹立だしくなると、自然にそうする癖がついた。うすい痣になって、爪痕はいつも私の手の平に残っている。
「あんたがいくら努力したって、お金がなくちゃ進学出来ないのよ。お母さんは毎日、あんたのために身を粉にして働いてあげてるの!球の仕事の休みの日くらい、お母さんをねぎらってあげようっていう優しい気持ちは湧いてこないわけ?」
余りに傲慢な物言いに、私は思わず声を荒げた。
「親切は強制されてするもんじゃないよ」
「黙りなさい!」
母はそばにあった教科書を私に向かって投げつけた。
「あんたがいるからね。お母さんはこんなに苦労して働かなきゃなんないのよ!お母さんだってたまには自分の好きなようにしたいわよ!ストレスばかり溜めさせて、クソの役にも立ちはしないんだから!」
「八つ当たりはやめてよ!」
「うるさい!食わせて貰ってる立場でしょ?この家にあんたのものなんて何一つ有りはしないくせに!あんたは黙って私の言うことをハイハイ聞いてればいいんだよ。八つ当たりされても口答えするな!」
最後のほうになると喉が張り裂けそうなほど怒鳴り散らして、母は半分涙目になって私の部屋から出て行った。
心の中がすうっと冷たくなり、虚無感が体の中から私を浸食する。深い空虚の中心に引きずり込まれていくような錯覚に陥った。
母の言葉の力は偉大だ。私は抜け殻や人形のように感情も痛みも抜かれ、手元のノートを見つめて静かに口元に笑みを浮かべた。
「バカみたい。私はバカだなぁ……。バカバカおまえなんて死んじゃえ、消えちまえいなくてもいいよ別に」
誰も認めようとしない人間なんて、私だって、いらない。
長い髪をまとめていたバレッタを荒々しく外すと、私はそれを自分の腕にがりがりと力づくでこすりつけた。生っ白い真皮が表れ、みるみるその中から真紅の粒が溢れ出し、傷口が真紅の液体で染まっていく。
自分の体を自ら傷つけたのはそれが生まれて初めてだった。自分のした事に何の痛みも感じなかったし、行為に対しても実感がなかった。
すごいことをしてしまったと思う気持ちと、他人から見たら理解されない、他人から見たら大した傷じゃない、そんな気持ちがごっちゃになって、私は傷口を空虚に晒しながら、血液が腕を伝って固まるまでぼさっとその場で宙を見つめていた。
「これ、見せなきゃ……」
お母さんのせいでこうなったんだよ、って言わなきゃ。
視点の定まらない目で虚ろに考えながら、私はフラフラと自分の部屋から冷たい廊下に歩き出した。
台所にある電話台の引き出しから絆創膏を出そうと思った。
ガサガサとこじきのように引き出しを漁っていると、コップを片手に持った母が、ちらっと私の腕を見ながら通り過ぎた。
「どうしたの、ソレ?」
これっぽっちも興味がなさそうな口調で、母はペットボトルから自分のお茶を注ぎながら私に訊いた。
「自分でやったの」
はっきりと私が言うと、母は顔を上げ傷口を見つめ、それから私の顔を見て口を開いた。
「何で自分の体を傷つけるようなバカな事をするわけ?どうせ雑誌かなんか読んで感化されたんでしょ。本物はそんなモンじゃないよ。自分に浸るためだか知らないけど、そんなバカな事しないでくれる?幼稚くさい」
母は吐き捨てるようにそれだけ言うと、お茶を飲みほして去って行った。
私の口元に笑みが燈る。自分を嗤うための笑みだ。
「バカみたい……」
口では自分のことを否定してバカにしているのに、私の手の甲にはぼたぼたと熱い雫が落ちてきた。
自分が嫌いなのに、死ねばいいと思っているのに、心が勝手に同情して、頭で考えるより先に、涙が出るような行動を起こしてしまう。
泣いてる自分に腹が立って、くやしくて、惨めで、不憫に思う心にまた怒りがこみあげてきて、私は自分自身と心の中で葛藤した。
今でもその葛藤に決着はついていない。辛い事があって葛藤が始まる時、私は何も感じていない心と、弱すぎて涙を零す心に板挟みになって、いつも訳が解らなくなる。私は異常だ。
母に言われた用事をつつがなくこなし、部屋に戻った私は、ドアに大きな熊のぬいぐるみを立て掛けた。母が新車を買ったとき、オマケに付いてきたものである。ぽこんと出たお腹に、つぶらな黒い瞳。胸元には大きな水色のリボンを結んでいる。
この子は私のボディガードだ。物心ついたときからずっと。小学生の子供の背丈くらいの大きさのあるこの子は、立て掛けるとドアノブまで楽にふさいでしまう。扉口にいてくれると、見張りをしてくれているみたいでとても安心する。仮に母が来てドアを開けたとしても、大きな熊が妨げになり、入り口で用を言うだけで中には滅多に踏み込んでこない。開けるとぬいぐるみがはさまり面倒なことになるので、最近ではドアを開けず、用件だけ言って姿を消す。その変化が私にはすごく有り難かった。
「私、昔から変わってたのかなぁ。相手にしてくれるのは君だけだもん」
ボディガードになった時から、彼は私の話し相手でもある。家であることは学校では誰にも打ち明けてはいないし、担任の先生は私のことを情緒不安定な変な子だと思っている。母もぬいぐるみとぼそぼそ話す私を変人扱いし、自然とくまちゃんは私の無二の親友となった。
「私、どうしたらいいんだろう。自分のことを考えるとね、頭の中に油の幕が掛かったみたいみたいに何もかも不鮮明で見えなくなってしまうの。色んな感情がごちゃごちゃになって、自分が何を感じてるのかも解らないんだ。油の幕がマーブル模様になって、色んな色が形を変えて私を押し潰すんだ。私はそれを目で見る必要があると思うのに、写し取る紙はどこにもないの。私がマーブル模様の水面なら、紙と同時に一人二役は出来ないのに……」
くまちゃんは漆黒の瞳で私を見つめる。
「自分で話しているだけじゃなんの解決にもならないんだ。ごめん。くまちゃんは私の話は聞いてくれるけれど、鏡みたいに私の心を映してくれたりは出来ないもんね」
私は彼の柔らかい茶色の毛並みにそっと手を伸ばした。
「でも、いつもありがとう」
平静と静寂に包まれていると、いつも考えてしまう愚かな思いがある。
「あの人は今、何をしているんだろう」
暗い室内では、雪の降る夜のように外の景色が仄白く浮かび上がる。私の心の中にも、消えそうだけど一筋の光のようにあの人への思いがぽつり、ぽつりと少しづつ、だけど力強く燈っている。
あの人は、真っ暗な夜の底を映す小さな街燈のように、私をかろうじて今の場所から迷わないようにしてくれる。
話し掛けたりしないから、私の脆い幻想が誰かによって叩き潰されることもない。この想いだけは、誰にも侵されたくない。だから、誰にも知られないままでいい。叶わない分、悲しい思いをする分、綺麗なまんまの心。小さな明かりをくれるあの人に、それ以上何も望んだりしない。この明かりが消えてしまうくらいなら、わたしは永遠にこの時を生きよう。
「未来はきっと、闇の中……」
自分に言い聞かせるようにぽつりと呟くと、私はベッドにもぐりこみ、深い眠りの底に堕ちていった。
どんなに深い眠りでも。生きている限り必ず終わりが来る。
いつもこの時が来ないのを祈りながら、私は日当たりの悪い部屋で目を覚ます。
「おはよう……」
くまちゃんに挨拶して重い頭を抱え、ベッドから起き上がる。
「……」
起きたらすぐに、部屋の外の物音に耳を澄ませてみる。もし母が出勤日だったら家の中は戸締りや、火の元を確認する音でバタバタと煩い。逆にトースターの鳴る音や、テレビの音声が聞こえてきたら、母が一日を家の中で過ごす事を表している。
幸い今日は出勤日のようだ。自分の為に働いてくれている母に申し訳ないと思いながらも、休日を悲しみ、出勤日は安堵する自分がいる。
恐る恐る部屋のドアを開けると、トイレから出てきた母に、嫌なことを考えてしまう後ろめたさから自ら声を掛けた。
「あの、いってらっしゃい……」
母はじろっと私を見ると、いきなりスッと私の額に手を当てた。
「やっぱりあんた顔色が悪いわ。しっかり朝ご飯食べて、無理そうなら学校休みなさいよ。ただでさえ体弱いんだから」
それだけ言うとパッと手を離し、車のキーを持って玄関まで走って行ってしまった。
「はい……」
自分を気遣ってくれた母の言葉を思い返しながら、私は複雑な気分になる。こんなところもある人だから、全部が全部嫌いになんてなれない。気分にすごくムラのある人なんだ、と私はいつも理由をつけて納得しようとしている。この言葉に絶対の信頼を寄せて、擦り寄っていけば痛い目を見る。長年一緒に過ごしてきて、そういう習慣だけは身についてしまった。悲しいことだ。
着崩れたパジャマのまま台所に行き、テーブルの上を見ると、私の席にはスクランブルエッグとハムトースト、サラダにジュースのパックが置かれていた。こういう優しさや親切も全部、私の心を乱し、動揺させる。
やっぱり私は母のすべてを嫌いになんてなれないのだ。
複雑な気分で母の用意してくれた朝食に手を伸ばすと、私は一口一口いつもより味わって時間をかけて食べた。不意に涙が零れそうになる。オレンジジュースが少し、しょっぱく感じた。
どんなに体調が悪くても、熱が出ない限り私は学校に行くようにしている。
あの人に会えるから。学校も嫌いにならず行く事が出来る。
朝食を終えて、汚れた食器を流しに片すと、手早く歯磨きと洗顔を済ませ、自分の部屋に戻った。
見慣れた制服をクローゼットから取り出すと、私は机の引き出しからコロンを取り出して、プリーツスカートの裾の裏側に三回ほどスプレーした。
冴えない私の小さな小さな身だしなみだ。スカートの裾がひらひら動く度に、さくらんぼとパッションフルーツの甘い匂いがする。誰も私がこんな馬鹿げたことをしているなんて知らない。私と解らないように少なくコロンをつけているから、これをつけて学校に行っても、せいぜい「今いい匂いしたよね?」とおしゃれに煩い女子がお互いを褒め合ったりするくらいだ。
お小遣いを何か月も貯めて買った少し高めのコロンは、臆病な私のせめてものあの人へのアピールだった。
私の姿を見て貰いたくはないけれど、存在を知ってほしい気持ちも限りなく無に近いけど、ほんの少しなら人並みの要求も、私の中には確かに備わっている。そんな事を意識する時だけ、少しの間フツウの女の子になれたような錯覚を起こすことが出来るのだ。
いい匂いのする制服に着替えて、鏡の前で真っ黒な髪をきっちり編んでバレリーナのようなシニヨンにしていく。どんなにいい香りのするコロンを付けたって、自分の顔を見る時だけ私の心は深く沈んでしまう。
眼鏡を外した顔は、自分でも目が悪すぎて見えない。ただ一つ言えるのは、私の顔は本当に眼鏡が似合わない。ずっと見ていると笑いさえこみあげてくるぐらいだ。
それに加えて長い髪に憧れて、手入れも出来ずに伸ばしっぱなしにしたまとまりの悪い汚い髪。誰にもほどいた姿を見られたくなくって、一人でいる時だって、いつも必ずきつく巻いてピンでまとめている。眼鏡を外して髪をほどいたらどんなだろう、と思ったこともあるけれど、私の見た限りでは今よりましになれるという保証は全くと言っていい程無かった。
使い込んでよれよれのバッグに教科書とノートを詰め込んで家を出る。電車の中であの人に会いたくて、乗る時間を合わせるように、少し速度を上げて自転車をこいだ。
駅のホームで見かけたあの人は、友達と一緒に朝から楽しそうに笑っていた。暗い気持ちで毎日を迎える私とはまるで正反対だ。どこかに接点があればいいのに、そう思うもどかしい気持ちと、自分の外見を考えて怖気のする感情が心の中でごっちゃになり、私は彼に近付けず、ずっと遠い所にいる。
学校に着くまでの短い道のりも、あの人に気付かれるのが恥ずかしくて、わざと違う道を選んで歩いてしまう。私は根っからの根性なしだ。
「おはよう」
教室に着くと、友達が声をかけてきた。
「おはよう、今日も寒いね」
私は友達の誰にも好きな人がいる事を言わない。
机の中に教科書を片付けながら、無邪気に喋る友達の声に耳を傾け相槌を打つ。
無意識に心があの人の姿を探してしまう。あの人は机に座って長い脚を投げ出すようにして友達の話を聞いていた。その姿に見とれていると、不意にぎゅっと耳を掴まれた。
「未夜、私の話聞いてる?」
「あ、うん」
私が体を友達の方に向き直して座ろうとすると、隣の席の女子が鞄をどさっと置いて、小バカにしたような目で私達を見た。友達も私も慌ててその目に背を向ける。
私達はクラスという名の組織の中ではいわゆる負け組だ。年頃の女の子にありがちな華やかさはもちろん、メイクもしなければ耳たぶに穴も開いていない。示し合わせたようにスカートの丈は膝下まで長いし、セーターの着方も髪の色も流行とは無縁だ。
私は人目を気にしすぎる性格なことと、母の影響か自意識だけは人並み以上にある。いつも変に思われてはいないか、おかしな格好はしていないか、気にしている。自分の顔はどうでもいい癖に、自分の格好がみっともないのは耐えられない。そんな恰好だけは「普通」を装っているので、負け組の中でも更に浮いている。だからといって中間層や勝ち組に入るには性格も容姿も全くそぐわない。私はクラスの中では常に、宙ぶらりんな存在だった。中間層や勝ち組には私の存在は疎ましい。下に、下に、負け組に成りきるよう、圧迫を受けることはしょっちゅうだった。
「木下さん」
そろそろと背を向けた私に、隣の席の女子が愛想のいい作り笑いで話し掛けてきた。
「木下さん頭いいでしょ?私今日のリーダーの宿題やってこなくて、今日当たるはずなのにすっごい困ってるんだ。もし良かったら宿題写させてくれない?」
決して良くはないけれど、断るわけにはいかない。私はもたもたと引き出しの中からやってきた宿題を取り出して手渡した。
「ありがと」
私のノートを持ったまま、彼女は自分の友達のところに走って行ってしまった。ずっと見ていると、彼女は友達と机を動かしてくっつけ合い、五、六人のかたまりになって私のノートを写し始めた。思わず身震いをする。
彼女達は力を持っているから、いつも好き勝手に振る舞うことしか知らない。身内にはとことん甘く、私みたいな虫けらにはとことん自己中心的に、強い態度で理不尽を強要する。私からノートを借りて写すのはまだいい。しかし、彼女たちはその答えが間違っていると私に文句を言い、貸すのを拒めば陰で悪口を言う。頼みごとをされたら最後、パーフェクトに出来ていない限り、何らかの形で嫌な思いをするのだ。
腑抜けた顔で彼女たちの醜悪な姿を見ていると、友達がポンポンと私の肩を叩いて溜め息混じりで呟いた。
「ご愁傷様だね」
三限は前々からの先先からの提案で席替えがあった。
私はずっと、この日を心待ちにしていた。少しでもあの人を見ていたいから。同じ列の後ろの席がいいな、そんな事を思いながらはやる気持ちを押し殺し、先生の話を聞いていた。
席順の決め方はくじ引き。決まった人は黒板に書いた机の配置の空欄に自分の名前を書き入れていきなさい、先生は黒板に席を書きながら手早く説明して、書き終えると同時に教壇を降りた。
小さな箱に入って回ってきたくじを、隣の席の女子の後に手を突っ込んで引く。恐る恐る開けると、赤字で大きく「十六」と書かれていた。
「木下さん何番?」
一緒にくじを引いた彼女は、黒板と引いたくじを交互に眺めながら私に訊いた。
「え……十六番」
「なんだぁ、じゃあまた私木下さんの近くだ。十五番だもん。今度は前みたいね」
全然嬉しくなさそうに言うと、彼女は席を立って黒板の方に行ってしまった。
「あ、私も……」
書きに行かなくちゃ。
立ち上がって歩き出した私に、トン、と誰かがぶつかってきた。
「あ、ごめん」
顔も見ずにおなざりに声を掛けると、あの人はすたすたと黒板の方に行ってしまった。余りに素っ気ない対応に、自分の置かれている立場をしみじみ思い知らされる。
あの人の後を追って黒板の前まで行くと、十五番の彼女があの人の肩を叩き、にっこりと笑いかけているのを見つけた。
「珠井くん、私たち隣になったみたいだしよろしくぅ」
少しおどけて見せる彼女に、あの人は笑顔を見せて何か答えていた。撃沈だ。
よろよろと人ごみから脱出すると、私はしょぼしょぼと友達のところまで行き、俯いて声を掛けた。
「私、人ごみのところに行ったらちょっと気分が悪くなった。お願いなんだけど自分の番号と一緒に私のも書いてきて貰っていい?」
「え?別にいいけど」
不思議そうな顔をした友達を席に残して、私は暗い気分で自分の席に戻った。
あの人後ろの席にしてくださいとは確かに頼んだ。けど、ここまで極端じゃなくてもいいのに。世の中どうして思い通りにならないことばかりなんだろう……。
思わず机の上にうつぶせて大きなため息をつく。上目づかいで黒板を確認すると、私の席は最も廊下側に面した列の後ろの方だった。ストーブの熱気なんか、とてもじゃないけどここまで届きそうもない。
「寒さと惨めさの二重苦かぁ……」
しょんぼりと呟くと、私は席を立って、のろのろと机を新しい場所に移動させるクラスの皆に混ざった。笑い声と机と床のこすれる音で、教室は一瞬騒音に包まれた。
新しい場所に移った私の席からは、あの人の姿がとてもよく見えた。もしかしたら私の顔や存在は解らなくても、名前くらいは覚えてくれるかもしれない。そんなバカげた思いを抱く私のすぐ前に、先ほどの女子が重たそうにズルズルと机を引きずってきた。
「おもーい!こんなの私の力じゃ持てないし!珠井くん力強いでしょ?少し手伝って!」
「重いって一体何入ってんだよ。米でも入ってんのか、その鞄とか」
あの人は笑いながら席を立つと、彼女の机を動かすのを手伝ってあげた。胸がきゅうっと苦しくなる。私の前で馴れ馴れしくしないで!
「あれ?なんかいい匂いしない?もしかして香水つけてる?」
そんな私の心情に構わず、あの人は彼女と話を続けた。
「あ、解る?どんな匂いがする?」
「えーと、さくらんぼとマンゴーみたいな甘い感じ……」
それを聞いた途端、私の胸はゴトリと音を立てた。しかし、同時に彼女がちら、と私の方を冷たく一瞥するのを見てしまった。背中に冷たい感覚が走る。
「よく解ったねぇ。コレ、私のお気に入りなんだよ」
彼女の明るい答えを聞きながら、私の心は氷漬けになった。
違う、その子じゃない。 コロンを付けてるのは私の方なんだよ……!
声にならない叫び声を胸に抱えて、私の心は張り裂けそうに痛んだ。もう二人の話し声
聞こえない……。
瞼の淵が熱くなって、私は俯いてぎゅっときつく目を閉じた。ほんの少しの時間差で、私の頬をぽろぽろと涙が伝う。
泣いている事を悟られたくなくって、私は寝たふりをするように机にうつぶせてうでと
腕の間に顔をうずめた。どうして私はこんなにバカで弱いんだろう。
この日を心待ちにして、淡い期待を寄せていた自分を今日ほど愚かだと感じたことは無かった。惨めさと気恥ずかしさで後から後から涙が溢れてくる。
席替えが終わって、先生が前に立って何か話し始めたようだ。うつぶせたまま涙を止めようとしている私の耳に、一瞬話の間が途切れて、私への怒号が飛んできた。
「オイ木下!おまえ何居眠りしてるんだ!」
もうダメだ。私は止めようとしていた涙腺の緩みが再び決壊するのを止められなかった。
クラスの皆の視線を全身に感じる。恥ずかしくて顔を上げることなど出来る筈もなかった。
「おい!オマエ人の話を聞いてるのか!」
さっきより一層語気を強めて、先生がクラスの中心に私を吊し上げる。
近づいてくる足音が聞こえてきたので、意を決して涙を零した顔を上げると、先生は私の顔を見て、びっくりした口調で言った。
「何も泣くことないじゃないか」
途端にクラスに控えめな笑い声が溢れる。もうこれ以上惨めな思いはしたくない!
私は勢いよく席を立つと、すすり泣きながら廊下に飛び出した。
「おいコラどこに行く!戻りなさい!」
制止する声を振り切るように階段を駆け下りると、流れる涙も拭かず靴箱のところに行き、震える手でスニーカーに履き替えた。
「もう、学校なんか来たくない!」
涙声でそう叫ぶと、私は校門を出て声を上げて泣きながら学校から走り去った。
うちに帰って誰もいない部屋で過ごすうち、私はいつの間にか眠ってしまったらしい。
居間のソファから制服姿で起き上がった私は、自分の体に毛布が掛けられているのに気が付いた。
「起きた?」
眼鏡を探す私の耳に、いつもと違う穏やかな口調の母の声が聞こえてきた。
「お母さん……帰ってたの?」
私が毛布を畳みながら言うと、母は台所に立ち、お茶を注いでそれを私に差し出した。
「ありがとう……」
恐る恐る受け取った私に、母は静かに話し掛けてきた。
「今日、大変だったみたいね」
「……」
「先生から電話が掛かってきてね、全部聞いたわよ。何も持たずに帰っちゃったんだって?友達があんたの荷物全部持って来てくれたわよ。後でお礼言っときなさいね」
「……うん」
母は暫くお茶を飲む私の姿を見つめていたが、少ししてからまた、私に声を掛けた。
「ねぇ、未夜」
母が私をこんな風に名前で呼ぶのは随分久しぶりだ。
「なぁに、お母さん」
「……お母さんね、あんたは一回病院に行って、専門の人に診て貰った方がいいと思うの」
私の中で何かが壊れた。
「どう……して?」
「今日もね、あんたが寝てる間に先生と電話でお話したんだけど、あんた学校でも少し変わってるみたいじゃない?今日だって先生があんたに一言注意しただけなのに、感情を爆発させて帰るなんて、って先生驚いてたのよ」
「うん……」
「それにあんたこういうの初めてじゃないじゃない?こんな風に感情を爆発させるの。ほら、ひどい喧嘩をした時も、あんた自分に傷をつけて私に見せに来たじゃないの。あれも、その、普通の子ならしない行為だと私は思うのよ。そういうことするのは別にあんたが悪いんじゃなくって、あんたの中に何か病気な部分があるんだと思うわけ。だから、その、専門の人に診て貰った方が……」
おしまいまで聞かないうちに、私はすっくとソファから立ち上がった。
「うん、解った。一回精神のお医者さんに見て貰った方がいいかもしれないね」
母の眼にかすかに浮かんだ怯えの表情を私は見逃さなかった。学校に行く度、先生やクラスメートから浴びる、異物を見る目とまるで同じだ。
「たくさん寝たらお腹すいちゃった。甘いものが食べたいな。近くのコンビニで何か買ってくるよ」
「未夜……」
「心配しないで。七時前には帰ってくるから」
零れそうな涙を見られたくなくって、私は小走りで玄関から外へ逃げ出した。
もう、誰も私の味方はいない。
「どうして生きてるの……」
自分自身で発した問いは、私の胸の奥に幾重にも響いて沢山の声になり私を責めた。どうして生きてるの……どうして……どうして!
流れ出る涙を止めることも出来ず、私は無理やり深く息を吸って夕暮れの中で静かに輝く月を眺めた。
この前より更に細くなっている。今にも消えそうな冷たい輝きを放つ月は、私の心に新たな変化をもたらした。
「私の恋、終わっちゃった」
かじかむ手を温めてくれる手は、永遠にこの世から消えてしまった。手を伸ばば届くかも、そう考える淡い希望も、今、この瞬間に永遠に消滅した。
私を庇護してくれた母の瞳も。もう、私の味方ではない。
私は永久に全てのものから見捨てられた。私は異常だ。
電車の通るトンネルの橋から、手摺に腰掛けて空を仰ぐ。コンビニに着くまでもう少しだ。ちょっと休憩。
「私って本当に異常なのかな」
周りが私を追い詰めた。そう考えるかすかな理性をぐっと押し殺し、私は口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「いいんだ、全部私だから悪いんだ。私のせいだからこんなに苦しいんだ。厄介ごとの原因は元から絶つのがみんなのためには一番いいんだよ」
私は座っていた手摺の上に力強く立ち上がり、満天の星空に両手を広げた。
「予定変更!」
空中に向かって空だけを見つめて思い切りジャンプする。頬に当たる風の感触が心地いい。
私が最後に覚えているのは、永遠に与えられる筈のなかった眩いばかりの光と、辺りを覆い尽くす大きな警笛の音だった。
浸食 つきのわ @marinna
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