2. 本棚

 読書がひと段落ついたところで、少女はふと顔を上げます。その視線の先では、女性が上体を起こしていました。


「おはようございます」

「もう朝なの?」


 微妙にかみ合わない返答で、女性はまだすこし寝ぼけているようでした。しかしすぐに意図を理解したようで、「ありがとう」とうやうやしくおじぎしました。


「お礼はいいです。それより……お名前は?」

「白雪姫、といいます」


 その名前は、森住まいの少女でさえ動物たちのうわさで聞いたことがあるぐらいに、有名なものでした。森の中の王国で、誰よりも美しいと評判のお姫さまです。


「あなたは?」

「小人さん、とでも呼んでください」


 不本意な名前ですが、少女にとってはそれが一番呼ばれ慣れています。「まあ、かわいらしい名前」という白雪姫の言葉に、少女はまゆをひそめました。


「それはさておき、なぜこんなところに来たのですか?」


 少女の問いかけに、今度は白雪姫がうつむく番でした。


「命を狙われているみたいなの」

「それはまた……。いったいなにをしたのですか?」

「わからないの」


 白雪姫は力なく答えました。

 権力争いか、あるいは嫉妬か。本当に物語のような世界があるのですね、と少女はいっそ感心さえしていました。そして目の前の白雪姫に対して、こんな性格では王宮の闘争には勝てまい、と思いました。


「とにかくメイドの一人に助けてもらって、なんとかお城を抜けて、森まで逃げて――」

「うちの前で行き倒れた、というわけですね」


 少女はあきれてため息をこぼしました。


「よくそんな恰好で逃げ切れましたね」

「どういうこと?」

「そんな目立つドレスでうちまでたどり着けたのは奇跡だ、と言っているのです」

「手持ちの中では一番シンプルな服のはずだけど?」


 少女は、文字通り開いた口がふさがらなくなりました。街で捕まってしまうでしょうとか、森で歩きづらいことこの上ないでしょうとか、そんなツッコミも全部吹き飛んでしまいました。


「どうしたの?」

「……いえ、もういいです」


 常識的な心配事など全部無視できるほどに運が良かったのでしょう。少女はむりやりに納得しました。


「とりあえずは服の用意ですかね」


 それほど高価なものは必要ないから、適当な食材と市場で交換……と少女はぶつぶつ思案し始めました。


「なんの話をしているの?」

「あなたの普段着をどうするかについてです。そんな恰好ではここで暮らしていけませんから」

「ここで、暮らす……?」

「ほかに行くあてでもあるのですか?」

「……いいの?」

「追い出すのも忍びないですし」


 もしかすると彼女をかくまうのは危険かもしれない、ということぐらいは少女も考えていました。とはいえ白雪姫が国に戻りさえしなければ、再び命を狙われることはないでしょう。それに万が一大がかりな動きがあったとしても、動物たちが知らせてくれるはずです。


「代わりに家事をやってもらいますからね」

「家事、というと?」

「料理とか掃除とか……たいしたことはないはずですよ」


 少女の言葉に、白雪姫は首を傾げて答えました。


「そんなのメイドに任せればいいんじゃないの?」


  ****************


 箱入り娘にはあまり難しい作業はできないだろうと予想して、少女は白雪姫に簡単な掃除を任せてみました。


「まずは本棚のホコリを落としてください」


 仕事を指示したのち、少女は椅子に腰かけて読書にいそしみます。日常の些事にとらわれることなく書物の世界を切り拓く、まさに少女の憧れていた生活です。


「きゃっ!?」


 突然の甲高い悲鳴、そしてなにかが崩れる音がして、少女の夢はあっけなく破られました。四段組みの本棚のうち、最上段の本がすべて床に飛び出してしまったのです。


「どうしてハタキをかけるだけでこうなるんですか……」


 少女は読みかけの本を置いて立ち上がります。


「この家で一番の財産なんですから、丁寧に丁寧に最上級に丁寧に扱ってくださいよ」

「す、すみません……」


 おろおろする白雪姫をよそに、「あーもう角が曲がっちゃってるじゃないですか……」とか「ページが外れちゃってる……」とか愚痴りながら、少女は散らばった本を拾い集めます。

 そして本をもとの場所に戻そうとして、少女はふと黙り込んで、白雪姫の方へ顔を向けました。


「椅子を取ってきてください」

「え?」

「……いいから、早く取ってきてください」


 どうして椅子がいるのか分からない白雪姫に、少女はふたたび命令します。しかし白雪姫は少女の意図に気づいたようで、ニコニコしながら少女の手から本を取り上げました。


「大丈夫よ、私なら届くから」


 その一言に、少女は頬を膨らませました。


「……その本は左端です」


 取り上げた本を棚の右端に置いた白雪姫に対して、少女はまくしたてます。


「文学は左端、その横に呪術関係のを置いて、真ん中に数学、物理学、生物学、あとは右端に料理本。さあはやく並べてください」


「え、えっと……これ何語で書いてあるか分からないんだけど」

「それは物理!」

「はいっ」


 白雪姫はおたおたと書物を並べなおします。


「それにしても……これ、全部読んだの?」

「一番上の段のは全部理解しました。その下の本にもひととおり目は通しましたけど、そっちはまだあまり読み込んではないです」


 白雪姫はぎょっとして少女の方へ振り向きました。しかし白雪姫の視線の先には、「小人さん」の名前がよく似合う女の子がいるだけです。


「あなた……何者なの?」

「さあ、何者でしょうかね」


 冗談めかしているようにも受け取れる言葉でしたが、少女の語調に笑いはありませんでした。


「ちょっと骨のある本じゃないと、ここでは暇つぶしにもなりませんから」


 まだ床に散らばっていた本を拾い上げて、ホコリを手で払いながら、少女はこともなげに答えます。


「人生って、長いんですよ」


 そうつぶやいて、少女は本棚を見上げました。しかしその瞳に映るのは本棚ではなく、並ぶ背表紙のさらに奥を見ているようでした。


「……そんなことないよ。あっという間よ」

「そうですか?」

「私はそう思うわ」

「あなたが単純だからでしょう」

「ひどくない!?」

「ひどくないです。それより早く片付けましょう」


 少女の言葉に、白雪姫はしぶしぶ作業に戻りました。異国の言葉で書かれた本があるせいで、料理本と文学を間違えるなどの失敗もありましたが、なんとか元通りに並べなおすことができました。


「とりあえず、今後は絶対に本棚に触らないでくださいね」

「……はい」


 お姫さまはメイドになれないのでしょうか、少女はため息をこぼすのでした。

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