第39話 Under Wonder/3

    †


 小さな寝室を出ると、やや冷たい空気がさぁ、と吹き抜けていく。

 見れば、そこは窓のたくさんある廊下で、窓が開け放たれていて、そこから風が入り込んでいるようだ。

 廊下は左にも右にも続いているが、なんとなく左に向かって歩いていく。

 窓の形は画一的で、縦に長い楕円形。中央を軸に回転して開く仕組みのようだ。

 窓の外に広がる景色を、ひとつひとつゆっくりと眺めていく。


 ひとつには、草原が広がっていて、色とりどりの蝶が舞う世界が。

 ひとつには、畦道が延びていて、蝉の鳴く声が響くのどかな田園風景が。

 ひとつには、雪の積もる庭があって、しんしんと降る雪景色が。

 ひとつには、瓦礫となった家々があって、地平線の彼方で燃える戦火が。


 ひとつとして同じ景色を写す窓はなく、それぞれの窓が様々な世界を切り取って見せている。


『不思議なところです……』


 開いている窓からは、その外に広がる世界の風や、音や匂いまでこちらに伝えてくる。全てのだ。


『…………?』


 小川のせせらぎが聞こえる窓の前で、何かが目に留まって足を止める。

 目を凝らすと、離れたところに朱色の欄干が見え、小川の先に小さなアーチが架かっているのが分かった。

 そしてその上に、誰かが居るような気配も。


『誰でしょう……』


 もっとよく見ようと、窓枠に手を触れようとしたとき、


「どうなさいましたか、お嬢さんレディ?」


『ふぁ!?』


 背後から音もなく突然声を掛けられて、びっくりして飛び上がりそうな勢いで振り返る。実際、心臓は飛び上がっていた。


『あ……あ、いえその、』


「嗚呼! 私としたことが、呼び鈴の説明をするのを忘れていました。申し訳ない」


『よ、呼び鈴……?』


「こちらです」


 そう言うと、彼はエプロンのポケットから――そう、彼は黒いエプロンをしていました――小さな銀色の鐘を取り出し、こちらへ差し出した。


『は、はぁ……これが?』


 両手で差し出されたものを受け取り、まじまじと見る。特に飾り気のない、質素なものだ。


「呼び鈴、で御座います。何か困ったことや、御用があるときなど、こちらを鳴らして頂ければ、私がすぐにお伺い致しますので」


『はぁ、そうですか』


 そしてまた、彼は一礼して去っていってしまう。

 両手に残された小さな鐘を、左手で摘み上げ、軽く振る。


チリ―――ン…………


 小さく、清らかな音が、長い廊下に響き渡る。と、


「お呼びでしょうか、お嬢さんレディ?」


『ふぁ!?』


 やはり背後から突然声を掛けられて、びっくりして飛び上がりそうな勢いで振り返る。実際、心臓は飛び上がっていたし、正直かなり心臓に悪いと思う。


『あ……あ、いやその、どんな音なのかな~って。あはは……』


「左様で御座いますか。……そうだ、ところでお嬢さんレディは食べ物で何か苦手なものなどは御座いませんか?」


『え、食べ物、ですか』


「はい。キノコがダメとか、辛いものは無理とか」


『えーっと……うーん、特に苦手なものはないですかねぇ』


 正直なところ、「食べたことがないもの」のほうが多いような気もするし、それらについては「苦手かどうか」もよく分からないのが本音だ。


『何か作ってるんですか? お料理』


「はい。お腹を空かせておいでだろうと思いましたので。簡単なものではありますが」


『わぁ、ありがとうございます! 私、何でも食べます!』


「そうですか。では用意が整うまでまだ少々御座いますが、お部屋でお休みになられますか?」


『あ、えっと、このお屋敷の中を見て回ってもいいですか?』


「ええ、勿論構いませんよお嬢さんレディ。ただ申し訳ないのですが、一部のには、お手を触れないようにお願い致します。ので」


『わ、分かりました気をつけます……』


「では、用意が整い次第、お迎えに上がりますので。ごゆっくりお寛ぎください」


 彼が一礼して、はっと気づいたときにはもう、その姿はどこにも見当たらなかった。


『…………よ、よし!』


 とりあえず、屋敷の中を見て回る許可が出たので、一度気合を入れ直して、再び廊下を歩いていく。

 窓の外の景色を眺めながら廊下を進んでいくと、不意に目の前に扉が現れた。


『あれ……さっきまで、何もなかったですよね……?』


 その扉を開けようと手を伸ばして、ふと気づく。


『……扉が施錠されてるかどうかって、見た目じゃ分からなくないですか……?』


 呟きながら、手は扉の取っ手に届いてしまう。

 カチャン、と音がして、扉が奥へと開いていく。


『――――』


 あ、とも、い、とも、う、とも聞き取れる、よく分からない音が声として自分の喉を震わせた。

 視覚の中にまず飛び込んできたのは、宝石のように輝く真っ赤な月。

 嗅覚の中にまず飛び込んできたのは、噎せ返るほどの

 聴覚の中にまず飛び込んできたのは、炎が爆ぜるパチパチという音、鳥の羽ばたき、悲鳴、怒号、木々が焼け落ち崩れ折れる音―――


『ッ……!?』


 息をすることも忘れ、扉の前で立ち尽くし、その先に見えるに目を奪われる。

 これはの中だ―――


『ぁ、ぐ…………』


 ひどい頭痛と耳鳴りがして、頭を抱えて蹲る。ぽたり、雫の落ちる音に手を口元にやると、真っ赤なものが指を濡らした。


『――――』


 急激に意識が薄らいでいくのを感じて、景色がゆっくりと横倒しになっていくのを茫と見つめながら、手の中にある小さな鐘を振った。


チリ―――ン…………



    †


『っ! ―――は』


 ガバッ!と身を起こして、周囲を見回すと、そこは元の小さな寝室で、私はベッドに再び寝かされていました。


『……はぁぁぁ~~~…………』


 長い長いため息が自然と出て、私はぐったりとベッドに身を預けます。


『夢……じゃない、よね……』


 思い出そうとするとまた頭が痛くなりそうだったので、なるべく思い出さないようにしよう、と思い直し、私はベッドサイドを見ます。

 そこには彼の姿はなく、代わりというように小さな鐘が置いてありました。それを手にとって、軽く振ると、


チリ―――ン…………


 という小さな鐘の音が響いた後、


「失礼します―――よかった、お目覚めになられましたか」


 執事服の上に黒いエプロンをした零さんが、ほっとした表情で来てくれました。


『ごめんなさい、私……扉を開けてしまって、それで……』


「嗚呼、いえ、はこちらの不徳の致すところで御座います故。お嬢さんレディが気に病まれることは何も御座いません」


『え……でも』


「ご安心ください、私は始終承知しております。あれは悪戯イタズラで御座います。留められなかったのはひとえに私の不徳。申し訳ありませんでした」


『あ、あっあの、私、大丈夫ですから! 大丈夫ですから……!』


 深々と頭を下げる彼に、私はわたわたと手と首を振り、ベッドから立ち上がって彼の前に立ちました。

 彼はやっと顔を上げてくれて、それから私の顔を見つめて、もう一度頭を下げてから、


「では、会食の用意が整いましたので、席へご案内いたします」


『は、はい!』


 頷き、彼に促がされて、後に続いて部屋を出ます。それから彼に付いてまた廊下を歩いていると、


「あぁ、目が覚めたんだね。よかった」


『あ…………あれ?』


 最初は死神さんかと思ったのですが、よくよく見ると――というか一目見ただけで――、という印象を受けました。

 何より、その人は全身真っ白しろで、ふわっとしたローブをゆるっと肩に掛けているだけで、裸足で、なんというか、全身から感じがしてました。


『――あ、えっと……?』


お嬢さんレディ、こちらは死神タナトス様のご兄弟で――」


「ヒュプノスだよ。よろしくね、《魔女》さん」


『あ、はい……』


 差し出された白い手を、そっと握り返します。ほっそりとしていて、きれいな手だな、と思っていました。



    †

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