第38話 Under Wonder/2

    †


 あの日、あの夜、あの場所で。

 長柄谷ながらや 智哉ともやは死んだ。死んだのだ。


「ハ……笑えねぇぜ。だったら、今の俺は一体誰なんだ……?」



    †


 自分が辿り着いたときには、全てが終わっていた。

 残されたものは何もなく、頼れるものも何もなくなった。

 元々人のいない廃墟には、本当に誰もいなくなって。

 無駄に広い部屋で身の丈に合ったこじんまりとした飾り気のない事務机にふんぞり返ることもなくただ座っていたこのガラクタの山の主は、果たしてその“目的”を完遂できたのか、否か。


「――そんな筈はねぇ。何故ならからだ」


 奴の“目的”の完遂には、自分の助力が必要不可欠な要素だったはずだ。

 だからこそ奴は、「一度殺して蘇らせる」なんていう回りくどいやり方で自分を手元に置いた。

 自分から、長柄谷 智哉から、「長柄谷 智哉」という人間の全てを抜き取り、『』という新しいものに作り変えてまで。


「ドクター……あんた何がしたかったんだ……?」


 この椅子に座って、奴と同じように事務机を眺めていれば、その答えが浮き出るかもしれない。

 そう考えて、自分は今この椅子に座り、灰色の事務机をぼうっと眺めている。


ってどういう意味だ……?」


 奴は自分をそう呼び、協力するよう要請した。


「なんでを食べちゃいけない……?」


 タナトスはそう言って、自分がカフェを飲むのを止めた。


から、何を見ようとした……?」


 奴は錬金術そのものを“踏み台”に使い、その高みに“昇り詰める”ことが目的だと語った。

 奴の語る錬金術とは、“完全な存在”を生み出すことが目的だと言っていた。つまり奴は、その“完全な存在”とやらになろうとしていたわけだ。


って……なんだ?」


 人間は錬金術を通して“完全な存在”に。つまり、人間自体は「不完全」な存在ということだ。

 錬金術師たちは、その“完全な存在”を求めて、石ころを金に変え、不老不死の霊薬を生み出し、死者の魂を現世に蘇らせ、土塊に新たな命を吹き込んできた。


「考えろ……考えるんだ……――」


 錬金術師たちが石ころを黄金に変えていたのは、それが「価値を生むもの」だったからに過ぎない。人間が人間社会の中で何か大きな事を起こそうとした場合、「潤沢な資金」はその足掛かりになる。


「つまり、「金を生み出すこと」自体は……――」


 それはあくまで下準備の更に前の段階。錬金術の真髄を理解しない馬鹿でも、黄金の持つ価値くらいは一目で判る。石ころを金に変える技術は、そういう馬鹿な連中を黙らせておくための方便に過ぎない。

 恐らくは不老不死の霊薬を生み出していたのもそのうちのひとつだろう。

 錬金術という技術テクニックが、「ただ石を金に変えるだけ」だと思われないために、別の方向から仕掛けを施しただけだ。


「……「不老不死になること」自体も……――」


 もちろん不老不死の存在になれば“完全な存在”とやらに一歩近づくことになるのだろう。だがそれは、「ただの人間のままでは時間的制約に抗えない」だけであって、たとえ「永遠に生き続ける」ことになっても、それは結局「ただの人間のまま」なのだ。“完全な存在”ではない。


「――「死者の魂を蘇らせる」……――」


 これこそ全く意味不明だ。を蘇らせて何になる? そいつは「人間」で、「人間」として死んだ。蘇ったところで、そいつは「ただの人間」だ。“完全な存在”とは言い難いし、程遠い。

 だが「不老不死」というものと関連付けると、それは違った側面を見せる。要は《死の克服》だ。或いは《生への回帰》。錬金術の提唱する“完全な存在”はなのだ。


「「死の克服」――「生への回帰」――……――」


 奴は「死者を蘇らせていた」。自分自身がその証明で、口振りからすると他にも大勢

 それとは別に、奴はタナトスを創った。あれもおそらくは「蘇らせた死者」のひとりだろう。だがは違う。

 奴は途中から気づいて、やり方を変えた。「蘇らせる」だけでは。もっと自分にに変えた。


「「」……――」


 奴は確かにそう呼んだ。そう自分を。奴にとって、自分は「ヒュプノス」と呼ばれる存在にならなくてはならなかった。

 それは一体なんだ?


「ヒュプノス……ヒュプノス……――」


 まったく聞いたことのない響き。発したことのない言葉。ということだけが薄らと分かる。

 聞き慣れないその名前を繰り返し呟きながら、ふと自分はあるものを視界に収める。いや、それはずっと自分の視界の中にあった。

 奴の机。灰色の、真っ白な部屋に似つかわしくない、平凡な

 事務机だからがある。


「――――」


 取っ手に手を掛け、引いていく。上から順に、勢いよく引き出し、「ヒュプノス」に関する何かが残されていないか、手当たり次第に目を走らせる。

 殆どの抽斗は空だった。一番最後の大きな抽斗には便箋が一枚入っていたが、それも白紙だった。

 何もない。


「クソッ! ――いや待て、待て待て結論を焦るな、あるはずだ。必ず、に……――」


 もう一度、上から順に、今度はゆっくりと引き出していく。

 一段目――……何もなし。

 二段目――……これも同じ。

 三段目――……何もない。

 そして四段目――……そこには真っ白な便箋が一枚入っている。

 そう。便だ。


「「ヒュプノスはを拒む」……――」


 便箋を取り出し、机の上にそっと置く。

 灰色の机に置かれた真っ白な便箋は、暫くの間何でもないようにそこに在った。

 手で触れてみても、特に変化はない。


「外れか……――」


 目を閉じて項垂れ、長くため息を吐く。奴は錬金術師だったんだから、何か《術的な解除》が必要なのかもしれない。あるいは、「ヒュプノス」に関するものははじめから此処にはなかったか、だ。


「…………――――」


 悪態のひとつでも吐こうかと口を開いて、目を開けたときに、視界の中に飛び込んできたものを見て、自分の正気を疑う羽目になった。


「なん、だ、こりゃぁ……」


 壁一面に文字がびっしりと書き込まれている。否、壁だけではない。床や天井、机やその上に置いてある便箋の隅から隅まで、あらゆる白の中に「黒」が詰め込まれていた。


「なんて書いてあるんだ……?」


 壁に書かれた文字や、便箋に書かれた文字を読もうと目を凝らす。だが。それが文字であるというのは分かるが、言葉として入ってこない。焦点が合わずにぼやけている感じだ。


「くっそ……! ――っあー! ダメじゃねぇか!」


 机を一叩きして、椅子の上で仰け反るようにして頭を抱え、ガチャンと音を立てて座りなおす。

 そうしてまた壁や床や天井の文字を見るが、やはり


「参った……完ッ全に手詰まりだ……」


 “れんきんじゅつ”のの字も知らない自分に、それに関する内容の書面が分かるはずがないのだ。それか、或いはやはりこれらには何か《術的な鍵》が掛けられていて、それを解かない限り読めない仕掛けになっているとかだ。


「ぅ……やばい、気持ち悪くなってきた……」


 どこを見ても読めない文字が部屋中に描かれていては、目の休まる場所がない。人間の脳はと分かっていても目に入ってくる「文字」をどうにか読もうとしてしまうのだ。


「くそ……どうすりゃ消えるんだ……? これか? こうすりゃいいのか……?」


 抽斗を出し入れしたり、便箋を動かしてみたり、抽斗の中に仕舞い直してみたが、文字列は消える気配さえない。


「ああ、もうクソったれが……!」


 転がっていた松葉杖を拾い上げ、早足に部屋の出口へと向かう。このまま此処にいては近いうち頭がおかしくなるのは明白だ。早く脱出しよう。


「――結局何も分からなかったじゃねぇか!」


 最後にひとつ毒づいて、最早帰ってくるもののいない部屋の扉を力いっぱい閉めつけた。

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