第40話 Under Wonder/4
†
数刻前。冥府、タナトスの私室。
ヒュプノスの寝台の上で、そのタナトスは眠っていた。
ヒュプノスはその横に座って、その寝顔を見つめている。
「ねぇタナトス―――タナトスは、もうしばらく帰ってこないみたいだ」
頬に触れ、髪を梳き、輪郭に沿って指を這わせる。
「僕は、これから行くところができてね。申し訳ないけど、君にはもう少しこのままでいてもらうよ」
その手に光り輝く葉を持つ一振りの枝を持ち、それをタナトスの頭上で振る。
かさかさと葉擦れの音を響かせて、光の粒子を降らせると、枝は消え、三つの光る球体が、ゆっくりと回転しながら降りてくる。
「君たち、彼女の相手を頼むよ。退屈させないようにね」
光の球体はそれぞれ独特のリズムで明滅を繰り返し、離れたり近づいたり、ゆらゆらと揺れながら、彼女の寝顔を淡く照らし出す。
「それじゃ、宵い夢を―――
そうして、私室を後にしながら、ヒュプノスはひとり語散る。
「うーん……二人とも
†
タナトスは闇の中にいた。
影を追っているのだから当然だ。
僕には鎌が戻ってきた。
影には爪が戻ってこない。
だから逃げている。僕から。死神から。
つまり、奴は
「奴はまだ生きている」
そうだ、奴はまだ生きている。生の中にいる。
何故?
死んでいる場合ではないから。
生きていなければ為せない何かが、奴には差し迫っている。
「奴は何と言った―――」
敵。
「敵」
奴は僕らを“敵”と呼んだ。
あのとき、あの塔の前で、僕らを視界に収めてそう言ったんだ。
「何もしていない」
したんだ。ずっと前に。或いはどこか別の場所で。
「…………」
そんなの関係ない? それこそ、奴には関係ない。
君はタナトスだ。
奴にとってタナトスは“敵”だ。
奴を追うんだ、タナトス。
そうでなければ、奴は君以外のタナトスを殺す。
「――――」
誰のことか、分かるだろ?
「チッ――」
影を追い、闇を駆ける。
抜けるのに、そう大した時間は掛からない。
†
ザン、という音が、後から付いてきた。
臣也が足を止めたのは、殆ど偶然と言えた。
それは彼の腕の中で、黒猫が目を覚まし身じろぎをしたせいだ。
様子を見るために足を止め、腕の中の黒猫を見ようとした矢先。
目の前にそれが降ってきた。
「動くなよ、そこを」
影の中から、闇が滲み出てきた。いや、違う、逆だ。
闇の中から、影が歩み出てきた。そう、これが正しい。
影は臣也の目の前に突き立ったそれに手を掛け、――白い、とても白い手だった――踏み越えるようにしてこちらに顔を突き出した。
表情のない、能面のような顔だ。漆黒の瞳が、生気なく沈んでいる。
『フゥゥゥ……グゥゥゥ……』
腕の中の黒猫が、こちらの胸と腕の間に顔を突き込んで唸っている。呻いている。
その体はブルブルと震え、全身の毛が逆立ち、こちらの身体に強く押し当ててくる。
黒猫は影を怖れている。
「―――動くなって言ったろ」
臣也が影から黒猫を隠すようにして身を引いたのを、影は言葉では咎めたがその手指や顔では咎めなかった。
そうして、影は身を引き、実に軽やかにそれを――銀色に輝く大きな半月、内と外の両側に刃を持つ彼の得物――白い手指で引っ掛けるように持ち上げ、振り上げ、放り投げた。
ヒュンヒュンヒュンヒュン、風を切り続ける音を発しながら、死神の大鎌はどこかへと消えた。
「さて。君の当面の問題は、僕じゃない」
影は白い両手をパンパンと打ち払い、黒いコートのポケットから黒い箱に入った黒い巻紙の煙草を一本取り出し、どこにでも売っている安っぽい市販のライターで火をつけ、紫煙を一条燻らせる。
「その腕の中に隠し立てているやつと、そいつを利用したやつと、それからそう、君を利用しようとしてるやつだ。―――やつら、だったかな」
指を一本ずつ立てながら数え、最後はひらひらと手を振り、もう一度紫煙を吐き出す。
「僕なら、そのうちの何人かに対処できるし、残りを君に近づけないようにできる。
まぁ、君ならそれは望みではないか。じゃあこうしよう。
君にやることがあるように、僕にもやることがある。もしそれが一致してたら、僕の同行を認めて欲しいんだ」
「お断りします」
返事は即答。考える素振りも見せない。その表情は警戒を浮かべているが、困惑はしていない。
「あー、そうか、分かった。じゃあこうしよう。僕は――」
「理由なんてどうでもいい」
彼は会話さえ遮って、頭ひとつ高い僕の顔を見上げ、その人差し指を胸に突きつけて言った。
「俺は、あんたを、認めない」
突きつけられた言葉に、影は首をかしげた。
「認めない? “認めない”って言ったのか? 許さないじゃなくて?」
影は指に手挟んだ煙草をもう一口吸い、それを頭上へと掲げた。
ヒュンヒュンヒュンヒュン、風を切り続ける音を発しながら、死神の大鎌は彼の掲げた煙草を断ち落として、彼と臣也の僅かな隙間に差し込まれ、ザン、という音を後から響かせた。
「……おめでとう。これで君もこちら側だ」
「いい加減にしてくれ、兄さん」
「あんたには聞きたいことが山のようにある。全部にまともに答える気になったらその口を開いてくれ」
「……………………」
男は口を閉じ、身振り手振りでコミュニケーションを取ろうと試みるが、臣也は突きつけた指を振り下ろし、憤りのぶつける先を見失う。
それから大きくため息を吐いて、改めて指を突きつけなおす。
「分かった、答える気がないなら聞かない。かわりに話せることを全部話してくれ。但し手短に」
「キヨなら無事だ」
「どうして分かる!」
「僕がそう手配した」
臣也が沈黙したのは、彼の言葉に納得したからではない。
聴こえたのだ。彼女の声が。
「うーん、この辺のはずなんだけど……猫ちゃぁ~ん、どこなの~?」
臣也は腕の中の黒猫を見る。猫は首輪をしていた。
白色LEDが点滅している。位置情報を発信する端末だ。
「いいか、よく聞け臣也。僕のことを彼女には喋るな」
「なんで―――」
「いいから黙って聞け! あまり時間がない。彼女を僕らの問題に付き合わせるわけにはいかない、君もその子もだ。説明が必要なら後でいくらでもしてやる、但し全部終わってからだ。
君にやることがあるように、僕にもやることがある。どうやらそれは一致していないようだから、別々に行動することにしよう。光の中を進め、弟よ。君はこちら側に来るべきじゃない」
彼は手を伸ばし、臣也の腕の中にいる黒猫に顔を寄せた。
『シャァー!!』
黒猫の爪が振るわれ、彼の顔に傷を付ける。臣也は驚き、黒猫を抱いて下がるが、彼は顔に手をやって傷を確認すると、黒猫に微笑み、
「ありがとう。これでいい。さぁ行った行った! 君らがいるべきは此処じゃない、あっちだ!」
臣也の肩を押して、背中を向けさせ、裏通りから表通りへと押し出す。
「また後でな」
臣也が躓きそうになりながら表通りへ押し出され、背後を振り返ったときには、もうその影は形を失っていた。
「兄さん……!」
呼びかけても、返事はなかった。
「あら、臣也くん? どうしたのこんなところで―――まぁまぁ猫ちゃん! 臣也くんが見つけてくれたのねぇ、よかったわぁ」
キヨがやってきて、臣也の腕の中から黒猫を抱き上げている間、臣也は闇を見つめ続けた。
「僕のことを彼女には喋るな」
影の言葉が、反響していた。
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