第37話 Under Wonder/1

    †


 夢の中は不思議だ。

 私が私じゃないときもあるし、知らない場所なのに知っている気分になる。

 ずっと昔のことを思い出したり、蓋をしていた嫌なことを思い出すこともある。

 今見ている夢がそうだ。


『――――』


 空に赤い月がある。宝石のような、綺麗な赤色だった。

 そんな真っ赤な月光が降り注ぐ下で、私はあのを両手に捧げ持っている。

 鼻を利かせるまでもなく、甘く芳醇な香りが突き抜けてきて、脳髄の奥の奥の方まで痺れさせてくる。

 そのを持ち上げ触れている手にとろりとした蜜が滴って、腕を伝って零れんばかりに溢れている。


『は―――』


 鼓動が高鳴りながら、しかしそのリズムを落としていく。胸の奥がきゅっと詰まって、喉の奥から熱い吐息がこみ上げてくる。

 多量にあふれ出る涎をごくりと音を鳴らして飲み下し、まずは零れ落ちる蜜を舐め取ろうと、舌を突き出してゆっくりとそのを引き寄せる。


『だめ……』


 意識の外、この光景を夢として見ている私が、小さく震える声で制止を呼びかけるが、夢の中の私はその行為を止めようとはしない。

 腕を伝って零れる雫が、舌先に触れた。掬い取るように舐め上げ、舌にたっぷりと含んで、ゆっくりと飲み下す。

 甘美で芳醇な香りが一層強く感じられて、鼻の奥が詰まったようになり、雫が通った舌や喉がびりびりと痺れる。

 もっとこの味を味わいたくて、を抱える自分の腕を何度も舐め上げた。


『ぅぅ……!』


 これはなんだ――そう思い込もうとしても、そのが齎す味がどうしようもなく自分の芯の部分を掻き毟る。

 手のひらに溜まった雫も全て余すことなく啜り取り、それでもなお飢える。喉が渇く。

 もっと欲しい。もっと、もっと……。


『いや……』


 に口付けをすると、唇に雫が着く。それも舐め取り、今度はもっと強く、ちゅ、と音がするほど吸い付く。

 口の中いっぱいに蜜が広がり、舌全体に絡まって、喉の中を次々に犯していく。

 ごくり、ごくり、と喉が鳴り、その度に鼻の奥から後頭部に向かってじんじんと痺れるような衝撃が突き抜ける。


『ぁぁ……』


 ぷは、と息をついてから口を離し、口の周りについた蜜を手で拭い、それもまた綺麗に舐め取って、一度深く呼吸する。

 今まで鼻から入ってきていた匂いが、今度は自分の中から感じられる。

 あれだけ蜜を吸い上げたのに、からはまだまだ雫となって滴っている。


『は―――』


 私は大きく口を開けて、いよいよそのに噛り付こうとしていた。

 歯が当たり、雫が歯を伝って口の中に入ってくる。私は桁外れの期待にとうとう目を閉じて、そのを一息に頬張った。



    †


 ガチンッ! と凄い音がして、私は自分の顎に走った衝撃とともにがばりを身を起こした。


『――あれはえ……?』


 見回すと、そこは小さな部屋で、私は寝台に寝かされていて、口の中にはつるりとした舌触りの何かが差し込まれていた。

 手に取って引き出してみると、それはスープを飲むときなどに使う、やや大振りな金属製のスプーンだった。


「気が付かれましたか」


 スプーンを見つめてぼけーっとしていると、横から白い手袋をした手が伸びてきて、私の手からスプーンを取り上げた。

 それを目で追うと、腕まくりをした白いシャツに黒いベストを着た男の人が、白いカップからスプーンで中身を掬い上げ、改めてこちらに差し出した。


「さ、どうぞ」


 差し出されたスプーンをやはりぼけーっと見ていると、それがゆっくりと持ち上がって、鼻先に突きつけられた。そこに乗っているのは何やら透き通ったピンク色のゼリーで、口を開けるとスプーンが差し込まれてそのピンク色のゼリーを流し込まれた。

 何のことはない、いちご味のゼリーだった。


『――――はっ!?』


 ぷるりとした食感が口の中で弾けると同時に、私の意識も一気に現実に戻ってくる。

 男の人のほうを見ると、その人と目が合ったので、私はごくり、と口の中のものを飲み下し、手元にあったシーツを勢い引き寄せて、壁に背中を預けて縮こまるようにして、引き寄せたシーツで顔を覆った。


「……? あの――」


『ごごごご、ごめんなさいっ! ああああの、あのちょ、ちょっと待ってくださいね……!』


 ひぇぇぇ、という情けない声が漏れそうになるのを、どうにか気合で押し留める。

 それから何度か深呼吸をして、意を決してそっとシーツから顔を出す。

 改めて男の人と目が合う。


「あの、大丈夫ですか……?」


 その人は心配そうに眉根を寄せて、こちらを窺うように訊ねてくる。

 じっとその顔を見ていると、少し前の記憶が段々と戻ってきた。


『あ……あなたは、あのときの……えぇと……?』


ゼロと申します、お嬢様レディ。よかった、記憶ははっきりしているようですね」


 軽く会釈されたので、こちらもこくりと肯いておく。

 白いカップとスプーンが改めてこちらに差し出されたので、両手を出して受け取る。中身はやはりいちご味のゼリーで、スプーンで掬って口へ運ぶと、ぷるりとした食感が口の中で弾け、優しい甘さが全体に広がった。

 で見たとは全然違う味だが、あの感覚を忘れるには丁度良い塩梅だ。


『ん……おいしいです……』


「それはよかった」


 私が何度かそうやっていちご味のゼリーを咀嚼するのを、その人はただ黙って見守ってくれた。

 そうして、空になったカップとスプーンを返すと、その人はそれを受け取って、丸い銀の盆に載せると、こちらに一度お辞儀をして、部屋を出て行ってしまう。


『…………』


 小さな部屋にひとり取り残されて、私は改めて部屋の中を見回す。

 部屋には扉がふたつあり、ひとつはあの人――零さんが出て行った扉で、もう一方は別の方へ向いている。装丁の違いから、おそらくそちらはクローゼットになっているのだろう。

 部屋の中には、今座っているベッドのほかに調度品の類はなく、日常を過ごす部屋というよりは、寝起きをするだけの部屋という印象を受ける。

 そっと足を伸ばしてベッドから降りる。ごわついた敷物の感触を足の裏に感じて、自分が裸足であることに気づく。

 履物の類を探すが、見えるところには見当たらない。クローゼットの扉を開けると、中にはシンプルな作りのワンピースが何着かと、大まかにサイズ別けされた下着類にソックス、靴やブーツなどが何点か、綺麗に整頓されて詰め込まれていた。

 それらを目で辿っていくと、一番端に私が履いていたブーツが置かれているのを見つけた。手に取ってみると、それは以前よりもぴかぴかで、丁寧に手入れをされた跡が見受けられた。

 サイズの合うソックスを一足取って、クローゼットを閉じる。ベッドに改めて腰掛けて、ソックスを履き、ブーツを履く。

 部屋の出入り口である扉のほうを見るが、零さんが帰ってくる気配はない。


『うーん……』


 勝手に出て行っていいものか、とても悩ましい。

 彼は此処にいろとも、自由にしていいとも言わなかったのだ。


『忙しい人なんでしょうか……?』


 格好や言動を見るに、執事バトラーというのは事実なのだろう。つまり、彼には仕えている主人がいるのだ。

 それはおそらく、このお屋敷の主でもあるだろう。


『……挨拶に行かないと』


 不慮の事態で、世話になったのは確かなのだ。あの人の主人なのだから、きっといい人に違いない――そう思いたいだけ――いやいや、いい人です、ぜったい。


『よし』


 私は意を決して、部屋から出る扉に手を掛けた。

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