虹兎が翔る空
ふじひな
空に狂い咲く華
序章
00 紅き華は散り、地に落ちる
一年前、真新しかったであろう墓石は光沢を失い、端々に苔が生えていた。
ただ、誰かしら訪れることは多いようで、周囲の草は綺麗に刈られている。
「……久しぶりだな」
右手に持つ酒瓶の栓を指先だけで抜き、その口を墓石へと傾けた。酒が勢いよく流れ落ちて墓石を濡らしていき、飛沫が足元にシミを作る。
空になった酒瓶を供え、その場に屈み込んだ。
「やっと落ち着いたぜ。俺の役目は終わりだ」
色々とあって、一周忌に訪れることは出来なかった。
元々、来るつもりはなかったが。
あれから、まだ一年しか経っていない。
その間に起きたことは、〝空〟で生きるようになってから最も狂気に満ちた――《
その身が業火に焼かれているような狂おしいほどの《血》の騒めきも、全てを破壊つくしたい衝動も、もう二度と来ないだろう。
狂気に身を任せることが《
「………これで、おたくの望みは叶ったよな?」
《血》に狂えなくなったのは、墓石の下で眠る故人の願いが叶ったと分かったからだ。
その願いを知ったのは十数年前――初めて、腹を割って話した時のことだった。
その時の
故人への
そっと息を吐き、懐から色の違う二枚のバンダナを取り出して酒瓶に結び付けた。
「じゃあ、行くぜ。…………もう、ココに来ることもないと思う」
ぽつり、と呟いたその時、ふと、人の気配を感じて腰を上げた。
墓石の向こう側は大きく開けており、果てしなく広がる空と深い森が一望できた。
感じた気配は背後の森から――山の麓に続く、山道からだ。
(……ずらかるのは、無理か)
急速に近づいて来る気配はよく知った人物のモノで、口元に苦笑が浮かぶ。
誰にも会わずに去るつもりだったが、仕方ない。逃げたとしても、この距離では追いつかれるのがおちだ。待つ方がいいだろう。
(……最後に会うのも、いいか)
観念してその場で来るのを待っていると、程なくして男が一人、森の中から姿を現した。
三十代ぐらいの男で赤い髪と瞳を持ち、急な山道を全力で走ってきたのか、肩を大きく上下に揺らしていた。
その服装は昔と変わらない濃紺のつなぎ姿で、左腕に黄色のバンダナを巻いていた。
赤い瞳が辺りを見渡して、目が合った瞬間、睨んで来た。
「――っ! お前っ」
名前を呼ばれたのは口の動きで分かったが、荒い息で消されて上手く聞き取れなかった。
「よぉ。久しぶりだな」
気にせずに片手を挙げて、軽い声を掛ける。
「駆け上がってきただけで息切れなんて、老いたか?」
「おまっ、お前! 今頃になって……っ!」
怒りで呂律が回らないのか、何度か言葉を詰まらせながらも口を開く男に小さく笑う。
「いいだろ? 来たんだからさ」
「………っ」
軽口を返すと大きく顔をしかめ、口を閉ざしてしまった。
その視線は墓に供えられた酒瓶に向けられ、無言のまま、何度か深呼吸をして荒い息を整えた。
「そうじゃない……」
小さく呟き、ぎろり、と強い眼光を宿らせた目を向けて来た。
「そうじゃないだろ! みんなっ、みんな、お前のことを探していたんだ! お前がした――」
「あぁ、そのことか。辞めてからやったから、問題ない」
言い募る言葉を遮れば、男は目を剥いて口を閉ざした。
ほら、と両手を軽く広げ、
「見ての通り、何のお咎めもないぜ。承諾されているんだよ」
「な、なんっ………本当に、辞めた……のか?」
愕然とした声に「ああ……」と頷き、
「もう、降りる――」
「何でっ、何で、そんなことをしたんだっ?!」
男は怒鳴り声を上げて詰め寄ろうと一歩踏み出すが、二歩目は続かなかった。
その身体が、地面に縫い付けられたかのように動かなくなったからだ。
いや、近づけないのだ。放たれる覇気に気圧されて――。
「そうだな――」
辞めた理由を言おうとしたが上手く説明が出来ず、言葉に詰まった。
自分でも、どうしてあれ程の狂気が消えてしまったのか――願いが叶えたと思っただけで消えたのか、分からないからだ。
説明のしようがないのだ。
「………狂えなくなった」
それでも何とかひねり出されたのは、その一言だった。
その言葉を口にしたら「ああ、それだけだな」と納得した。
それが《
「っ!」
男にとって思いがけない言葉だったのか、息を呑んで絶句された。
(……何で、だろうな)
その反応――自分も同じ気持ちだったので内心で苦笑し、男から視線を外して空に向けた。
十数メートルほど上空に浮かぶ黒い影は、愛船だ。ココを離れた時、〝
(……あれは、返すしかないか)
これからの自分にとっては不要のもので、むしろ、足枷にしかならない。
ただ、壊すのはもったいないので、造船技師に返すのが一番いいだろう。
「俺は〝下〟に降りるぜ。もし、敵として会ったら――」
言葉を失くしたままの男に視線を戻し、
「……まぁ、手加減ぐらいはしてやるよ」
墓石をもう一度だけ見てから、地を蹴った。
「あ――おい! 待ってくれ!」
我に返った男の声を無視して、空を駆け上がる。
「これからはお前が率いろ!」
「!」
追って来ようとする男に叫べば、金縛りにあったかのように動きを止めて、唖然とした表情で見上げてきた。
その隙に愛船に乗り込み、〝島〟を後にした。
――それから、二度とその〝島〟を訪れることはなかった。
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