ロボトミー・キリング

@nazuku

第1話 追憶

昔、どうしても忘れられない嫌なことがあった。小学校の頃、学校で飼っていた兎をこっそり檻から出して遊んでいたら、その兎は私の手を飛び出して校門のほうへ逃げ出していった。文字通り脱兎のごとく走って行った兎はそのまま道路まで出て行って、そして轢かれた。あの時の記憶が忘れられず、毎晩思い出していた当時の私は、記憶を無くす方法についてずっと調べていた。


「お願いします、長期コースで」

暗くぼんやりとした照明に照らされた薄緑の壁の部屋には無数の配線と機械、そして薬品が無造作においてある。埃が機械の熱に温められた、燻った匂いが立ち込める部屋には手術着のようなものを来た男性がいる。この光景にも見慣れたものだ。

「では、忘れたい記憶を最後にはっきりと思い出してください。どんなに嫌でも途中で止めないように」

何度目か、もう覚えてしまうほど聞いたその注意に耳を傾けながらゆっくりと目を瞑る。ぶぅん、と古いテレビを付けたような音が耳の奥で響き、目の奥からゆっくりと水の中へ沈まされる感覚がした。これで、辛くなくなる。


 「早くしろよ、本当に使えないやつだな」

じゃばじゃばと大きな音を立てる水道にも勝る大きな怒鳴り声が背中に刺さる。手は氷よりも冷たい水にさらされて感覚がなくなっていたが、それでも一生懸命に動かした。指の関節のひび割れに洗剤が滲みたが感覚の鈍った状態では痛みもあまり感じなかった。

「皿洗いもすぐにできないのか?そんなんじゃあ給料は天引きだな」

ガハハ、と下衆な笑い声が後頭部を殴りつけてくる。その声、息遣い、すべてが体をナイフで浅く切るようだった。ぐっと下唇を噛みしめて、目に溜まる涙を堪える。


 私がこんなところで働かされているのは母のせいだ。私には夢がある。いつか女優として大舞台に立つ。煌びやかな衣装を着て、美しい役を演じる。そこでは私は誰もが羨む魅力的な存在になって、人々の模範になれる。かの大女優、如月ナツメも言っていた、女優は女優でいるときだけ神になれる、と。

油臭い薄汚い店内には、眉間に皺を寄せた白髪まじりの男ばかりが所々に座っている。誰も新聞を読んだり、テレビを見たりして、一言も話はしない。唯一聞こえるのはテレビから聞こえる楽しそうな笑い声と私を叱責する店長の薄汚い豚のような声だけだ。

「洗剤がなくなりました」

手を止め、顔を上げる。振り返って店長を見ると、誰よりも眉間に皺を寄せた顔が醜く肥えた肉の上に乗っていた。その汚い顔は、よけいに不快な見た目へ変化し、半端に髭の生えた口を開く。

「あぁ?なら買ってこい」

「お金は」

「ああ、後で建て替えるから」

私は店長の小さな目が侮蔑を含んだ色で笑うのをただ見ていた。私はあの目を知っている。私を騙せたと思って軽蔑している目だ。本当には騙せていないのに、一人で驕っている、愚かな瞳だ。鈍い輝きが母のそれによく似ている。私はいつもその軽蔑する目を心の中で嘲っていた。きっと彼らは私のことを、愚かで簡単に支配できる馬鹿な女だと思っているのだろう。その馬鹿な女に全て見透かされて嘲笑われていることも知らず、本当に愚かなのは自分の方だということに気付かない。とても可哀そうな人たちだ。そしてとても幸せな人たち。周囲を不快にさせる天才でありながら、自分を美しいとか尊厳があるとか思い込んでいる。そういう奴らを表す言葉を私は知っている。

「ゴミ」

「は?何か言ったか?聞こえねぇぞ」

「ゴミも捨てておきます、ついでに」


エプロンを脱いで、形式的に頭を下げる。だがどうしても笑顔だけは作れなかった。顔の表情筋が動くことを全力で拒否していた。そのまま客にも一礼をして外に出る。店長が鍋をかき混ぜる不格好な姿が出入り口のガラスに映って滑稽な画になっていた。あれはネットにあげたらおもしろ画像として使えるだろう。いや、むしろ汚すぎるかもしれないか。


 夜は深く、闇が体に染み込んでくる。黒いコンクリートの地面と、暗い空間は区別がつかず、一歩進めば奈落に落ちてしまいそうな倒錯感を覚えた。私が夜を歩くのが好きだ。舞台に立って眩しいライトの下を歩くのに憧れるのと同じくらい、真っ暗な夜道を誰にも邪魔されずに歩くことは、自分が中心であることを感じさせてくれる。他人の息遣いを一つも感じさせない、自然と周りの無機物だけが囲んだ世界。遠くのマンションの明かりや街灯も私に罵声を浴びせたりはしない。

 コツコツ、と単調な足音だけが響く。コンビニまでは歩いて10分程度ある。そこまで行く道のりは人通りも少なく、他人に会うことは少ない。誰にも会わないことは私の密かな幸せだった。空を見上げると小さな星が点々として見える。その星の輝く音が聞こえるくらいに耳を澄ませて歩くと、都会の寂れた路地裏でも楽しい道のりに感じる。しかし、それは突然に妨げられる。

 どん、と何か大きなものにぶつかる。顔を空から下すと、そこには長身の男が驚いた顔でこちらを見つめていた。すみません、と反射的に謝る。いえ、と答える彼の顔は今まで見てきたどの瞳よりも、澄んでいた。コンビニの明かりに照らされ、きらりと光るその瞳は、決して侮蔑など含んでいない。


「大丈夫?」

優しく問いかける声は風の音よりも穏やかで。


これが私の消したい記憶だ。

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