第2話

「あ――」

 アークは、ひどく不思議そうな顔で、ジェイクの顔のあたりに視線を漂わせた。

「――やめろよ。怪我、するぞ」

 ジェイクは、アークの視線をしっかりととらえたことを確認してから、押し殺したように静かな声で言った。

「――怪我?」

「痕、ついちまうぞ。おまえ、色白いんだから。――あ」

 ジェイクは、ハッとしたように手の力を緩めた。

「ひとのこと言えねえや、俺。ごめん、アーク、痛かっただろ?」

「――いたい?」

 アークは、幼児のように言われた言葉を繰り返した。

「痛い、って――誰が?」

「誰が、って――おまえが」

「ぼくが?」

 アークは、床に視線を落とした。床より下に何かがあったら、きっとそこに視線を落としていただろう。

「ああ――いいんですよ、ぼくは」

「――よかねえだろ。それとも、痛いのが好きなのか?」

「え? いえ――別に、そういう趣味はありませんが――ないと、思いますが。でも、そういうんじゃなくて――」

 アークは、前歯の隙間からわずかに舌を出し、強く噛んだ。

「ぼくは、卑怯、ですね」

「――どうして? どこが?」

「本気で、自分で自分を傷つけたいなら、誰もいないところでやればいいんですよ。それを、わざわざジェイクの目の前でやるだなんて――とめてもらおう、かまってもらおう、っていう魂胆が、見え透いているじゃないですか。まったくあさましい。みっともない。見苦しい。情けない」

 アークは、甲高い声で笑い出した。

「ああ――ぼくは、ばかだ。ぼくは――」

「――なあ、アーク」

 ジェイクは、真っ直ぐにアークを見つめた。

「さっきのおまえに、そんなこと考えて、計算ずくで動く余裕なんて、絶対になかったと思うぞ、俺」

「――え? ああ――そうですか? そう――どうでしょうね?」

 アークは、もともと大きな孔雀青の瞳を、さらに大きく見開いた。

「思うんですが、ジェイクは、ぼくを、美化しすぎています。やめたほうがいいですよ。がっかりしますから」

「しないよ」

「しますよ」

「しない」

「します」

「絶対しない」

「絶対します」

「しない」

「どうしてそう言い切れるんです?」

「好きだから。惚れてるから。愛してるから」

 ジェイクは、絶対に聞き間違えようのないほどはっきりと言い切った。アークは、張り裂けんばかりに目を見開き、そして、ゆっくりとまぶたをおろした。

 涙が、一筋の流れをつくった。

「あ――」

 ジェイクの声が、初めて揺れた。

「おまえ――俺に、そういうふうに言われるの――いや、か?」

「え!? ち、違いますよ! 全然違います!」

 アークは、純粋な驚きとともに叫んだ。ジェイクは、胸をつかれたようにアークを見つめた。

「アーク――おまえ――」

「あ、あの、ごめんなさい、変な誤解をさせるようなことをしてしまって。違うんですよ。全然、そんなことないんですからね。ジェイクが悪いんじゃないんです。あの、だから――だから――」

「おまえ――優しいな――」

 ジェイクは、崇敬に近いものをこめて言った。アークは、怒ったように顔を赤らめた。

「優しく、ありません。優しくなんて、ないんです」

「だって、おまえ、もう泣いてない」

「――え?」

「俺が、泣かせたのに」

 ジェイクは、アークのほうに手を伸ばしかけ――おずおずとひっこめた。

「それなのに、おまえは、俺がちょっとシュンとしただけで泣きやんで――自分が泣きたいの、我慢して――」

「――もともと、泣くべきことでもないのに、自分の感情を制御しきれなかったのは、ぼくのほうですから」

 アークは、生真面目な顔で言った。ジェイクは、一瞬と、もう少しの間だけ、じっとアークを見つめた。

「でも、おまえ、泣きたかったんだろ?」

「泣きたかった――と、いうか――気がつくと、泣いてました。――あの」

 アークは、照れたような笑みを、極々小さく、控えめに浮かべた。

「ぼく――あの、ジェイクと一緒だと、安心する、というか、甘えてしまう、というか――いつもは、もう少しは、自分を抑えることができるんですけど。でも、ジェイクといると――なんだか――たがが、はずれてしまうみたいで。ごめんなさい」

「――うっ」

 ジェイクは、おどけたような仕草で、しかし、恐ろしいほど真剣な顔で、心臓の真上を押さえつけた。

「おまえ、それ、すっげえ殺し文句」

「え? そ――そうですか?」

 アークは、きょとんと目をしばたたいた。

「あ、あの、ぼく――」

「大丈夫。安心しろ。襲ったりしない」

 ジェイクは、胸を押さえたまま、片手でアークを制した。

「大丈夫。大丈夫だぞ。ちょっとやばいかもしれないけど、でも、大丈夫だ」

「優しいんですね」

 アークは、最前よりも、ほんのわずかに大きな笑みを浮かべた。ジェイクも微笑みを返した。

「おまえに、嫌われたく、ないから。だからさ」

 ジェイクは、ヒョイとウィンクした。

「俺も、結局、勝手なんだよ」

「でも――でも――」

 アークは、子供が教師を見上げるかのような目で、ジェイクを見つめた。

「ジェイクは、ぼくに、優しい。ぼくのことを、傷つけたり、しない――でしょう?」

「――絶対に、傷つけたくない、とは思うけど。人間に、絶対は、ないから」

 ジェイクは、真剣な瞳でアークを見つめた。

「もしかしたら――傷つけるかもしれない」

「でも、まだ、傷つけてない」

 アークは、弱々しくつぶやいた。

「ぼくはね、ぼくは――傷つけてしまいました」

「え?」

「――傷つけてしまいました」

 アークは、痛々しいほどに生真面目に断言した。

「……誰を?」

 ジェイクは、そっとささやいた。

 そして、待った。

「……ぼくは」

 アークは、唇をほとんど動かさずに言葉を続けた。

「好きなのに。……好きだったのに。……傷つけて、しまった」

「……」

「ぼくは――そんなつもりじゃ、なかった。まだ、大丈夫だと――まだ、時間はあると思って――でも――」

「……でも?」

「時間なんて……なかった。返事を、出さなければいけなかったのに――出そうと思っていたのに――でも――でも、出せなくて……だって……だって、そんな……突然言われたって……ぼくは……」

「アーク……」

「それじゃあ、ぼくは、いったいなんなんですか? ぼくは……出来損ないだと、不出来なコピーだと言われるのには、もう、慣れた。でも、ぼくは……違う。そうならいいと、何度も思った。だけど……まさか、本当にそうだったなんて……」

「……」

「ぼくは……」

 アークは、悲しみにのどをしめあげられたかのように声を詰まらせた。

「ぼくは……ぼくは……」

「……」

「ぼくは……コピーじゃない……」

 アークは、大きくしゃくりあげた。

「そんな……そんなこと、今更言われたって……ねえ、ジェイク」

「なんだ?」

「ぼくはね……ノアの、ノア・イェールの、クローンじゃないんですって。彼の、コピーじゃ、ないんです。ずっと、そうだと――ぼくは、彼のクローン、コピーだと思って――でも、あの人のようにはなれなくて……。なのに……違うんですって。ノアは、ノアの遺伝子に――ぼくの遺伝子に――混ぜ込んだんですよ。混ぜ込んだ。本当に――なんて無茶をするんだろう。もともと生殖能力がないくせに、無理やりにぼくを創って。それだけでは飽き足らずに、男同士の遺伝子を混ぜあわせて。ああ、でも――文句を言えた筋合いじゃ、ありませんね。だって、そうしなければ、ぼくはそもそも生まれてくることもできなかったんだし。それに――」

「それに?」

「ぼく、ライドさんのこと、好きですし。――間違えました」

 パタパタと、雫がこぼれた。

「ぼくは、ライドさんのことが、大好きだったのに。ノアのことも、好きなのに」

 アークは、唇を噛みしめてうつむいた。

「――大好きなのに」

「……うん」

 ジェイクは、深くうなずいた。

「大好き、なんだな」

「でも、ね」

 アークは、ひたとジェイクを見つめた。

「ぼく――返事、できなかったんですよ」

「返事?」

「ビ、ビデオ、レター」

 アークは、たどたどしく言葉を紡いだ。

「ビデオレター――ビデオレターで、言われて――ぼくは、クローンじゃない、って。それで、ぼくは、返事――返事、しようと、思って――」

 アークは、両手の中に顔を埋めた。

「――できなくて――」

「……」

 ジェイクは、無言でうなずいた。

「どう、言って、いいか、わ、わからなくて――口で言うんじゃなくて、メールにしようかとも、お、思ったんですけど、か、書け、書け、なくて――」

「だよなあ」

 ジェイクは、真摯な口調で言った。

「そりゃそうだよ。いきなり、おまえには親がもう一人いる、なんて言われたら、そりゃだれだってパニクるって、絶対。俺だって返事なんてできないよ」

「でも、しなくちゃいけなかったんです」

 アークは、悄然と言った。

「ぼくは――ライドさんの寿命が、もう、あまり残ってない、って、知ってたんだから。なのに――」

「しょうがないよ」

 ジェイクは、身を乗り出し、アークの肩に手を置いた。

「やんなきゃいけないと思ったって、できないものはできないんだから。な、しょうがないよ」

「できないこと――じゃ、ないですよ」

 アークは、小さくしゃくりあげた。

「できなかったんじゃなくて、しなかったんです。返事、するぐらい――それぐらい――」

「俺にはできねえなあ」

 ジェイクは、軽くアークの肩を叩いて言った。

「パニクって、頭ん中グチャグチャで――しかも、相手の寿命がもう残り少ないなんて言われちまったら、プレッシャーで、ぜってえなんにもできなくなるって」

「……」

 アークは、小さく、震えるようにかぶりをふり続けた。ジェイクは、そっとアークの顔をのぞきこんだ。

「――なあ」

「……はい」

「おまえが、そのつもりならさ、まだ、手遅れじゃねえよ。返事、できるぜ」

「……え?」

「ノア博士に」

「……」

 アークは、驚いたようにジェイクを見つめた。ジェイクは、小さく微笑んだ。

「な、それなら、やろうと思えば、できるぜ」

「……」

 アークの顔が、クシャクシャと歪んだ。ジェイクは、あわてて言葉を続けた。

「も、もちろん、無理そうなら、やんなくってもいいんだよ。な、無理することねえよ。おまえのしたいようにすればいいんだよ」

「……それは、違うでしょう」

 アークは、低くつぶやいた。

「大切なのは、ぼくが何をしたいか、じゃなくて、ぼくが何をすべきか、でしょう」

「えええーっ、違うって、そんなの!」

 ジェイクは、心底驚いたように叫んだ。

「そりゃさ、そりゃ、したくなくてもしなきゃいけないこととか、したくてもしちゃいけないこととかって、けっこうたくさんあるけどさ、でも、そんな無理してばっかじゃ、おかしくなっちゃうじゃん! ブッ壊れちまうよ!」

「……壊れるわけには、いきません」

 アークは、硬い声で言った。

「壊れたりしたら、それが、僕が出来損ないだったことの証明になってしまう。でも――ああ、でも、ね」

 アークは、ひび割れた笑みを浮かべた。

「狂った、と言われるほうが、サボった、と言われるより、ましなんです、ぼくにとっては」

「……」

 ジェイクは、立ちあがった。

 そして、そのまま、アークをソファーから引きずり出した。

「え……? ジェイ、ク? なに……」

 ジェイクは、アークを強く抱きしめた。

「……あ……」

 アークは、苦しげにあえいだ。ジェイクは、ハッと身をはなした。

「あ、ご、ごめん! 大丈夫か? 骨、平気か?」

「だ……大丈夫ですよ、ジェイク」

 アークは、わずかに苦笑した。

「確かに火星人は、地球人よりも大分華奢ですが、いくらなんでもこれくらいでどうにかなったりはしません。安心してください」

「そっか? でも、ごめんな。苦しかったろ? もっと加減すりゃよかった。あ――っていうか」

 ジェイクは、照れたように笑った。

「ごめんな、アーク。いきなり抱きついて」

「それは――別に、かまいませんけど」

 アークは、少し赤くなった。

「すみません、ぼく、変なことばかり言って。さっきも、なんか、もう、馬鹿なことばっかり――」

「――馬鹿なこととは、思わねえよ」

 ジェイクは、自分よりはるかに背の高いアークを見上げた。

「でも、おまえ、それじゃつらいだろ」

「それは仕方のないことです」

 アークは、静かな顔で言った。

「ぼくは――ぼくは、どうして、こうなんでしょうね。遺伝のせいじゃない。ぼくは、ノアには全然似ていない。――似ないように、自分で計算し、調整した、というところもありますがね。ライドさんにも――似ていない。――ノアに言わせれば、似ているそうですが。環境のせいでもない。と、いうか――そう言われるのだけは、絶対にいやです」

「――別に、誰のせいでも、なんのせいでもねえだろ」

 ジェイクは言った。アークはうなずいた。

「そうですね。原因は、ぼくにあるんですから」

「そういう意味じゃねえよ」

 ジェイクの顔が、一瞬しかめられた。アークは、少しだけ首をかしげた。

「――怒りましたか?」

「――怒ってはいないよ」

 ジェイクは、強く目をこすった。

「でも、おまえのせいでもない。絶対」

「……」

 アークは、小さく微笑み、強くかぶりをふった。

 ジェイクは、大きく目を見開き、きつくこぶしを握りしめた。

「――あの、さ」

「……はい?」

「俺、おまえのこと、好き」

「……ありがとうございます」

「あの、さ」

「はい?」

「しゃがんでくれるか?」

「え? ……いいですけど、床にですか? それとも、ソファーにですか?」

「えーと、あー、うん、どっちでもいい。とにかく」

 ジェイクは、照れたように笑った。

「俺がおまえに手が届くようにしてくれれば」

「は? はあ……」

 アークは、きょとんと首をかしげ、床の上にちょこなんと腰を下ろした。

「これで、いいんですか?」

「うん」

 ジェイクは、アークの両肩をつかんだ。

 そして。

 何も言わず、そのまま口づけた。

「!?」

「――今の、これ」

 ジェイクは、アークの両肩をつかんだまま言った。

「絶対、おまえのせいじゃない。全部、おれのせい。だから」

「え、あ、あの、え、あ、え――」

「怒っても、泣いても、俺のことぶん殴っても、訴えてもいい。今のは絶対におまえのせいじゃない。おまえはなんにも悪くない」

「あ――あの」

「うん、なに?」

「別に」

 アークは、激しく目をしばたたきながら言った。

「ジェイクも、なんにも悪くないですよ。――ぼく、あの……いやじゃ、ありませんでしたから」

「……」

 ジェイクは、大きく目を見開いた。

「本当?」

「……もう一回、しても、いいですよ」

 アークは、はにかんでうつむいた。

「もしいやじゃなければ」

「い――いやなわけないだろ」

 ジェイクは舌をもつれさせた。

「いいの? して、いいの? 俺、おまえに、キスしていいの?」

「いいですよ。あの……したいんですよね、ジェイクは?」

「俺はもちろん、ものっすっごくしたい」

 ジェイクは、きわめて率直に断言し、孔雀青の瞳をのぞきこんだ。

「でも、おまえは? おまえは、したいの? 無理して俺にあわせてんなら、やめろよな、そんなの」

「さあ――別に、無理をしている、とは思いませんが」

 アークは、少し考え込んだ。

「逃避、かもしれない――とは思います」

「とうひ?」

「ぼくは、ジェイクのことを、自分の逃げ場にしてるのかな、って」

「うわ、すっげえ」

 ジェイクは、大きく破顔した。

「ありがとな、アーク」

「は? え? あの――何が?」

「俺のとこに逃げてくる、ってことはさ」

 ジェイクは、大きく胸をはった。

「俺のこと、信頼してる、ってことだろ?」

「え――あ――ええ――はい――」

 アークは、戸惑いながらうなずいた。

「ええ――そうです。その通りです」

「やっりぃ!」

 ジェイクは、屈託なくVサインを出した。アークは、小さく笑い。

 ジェイクに、口づけた。

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