第三夜 橋/クモヒトデ


 昼下がりの林道を、生牡蠣色の髪をしたメイド、室賀ムロガ トウが歩いています。隣には大きなヒトデのオーメさんがいます。濃紺のロングワンピースと簡素な白いエプロンといういつもの出で立ちです。肩からナマコ革の鞄を袈裟懸けにし、耐爆仕様のスーツケースを引いています。木漏れ日が日傘に落ちています。

「園長先生とみんなは、元気かしらねぇ」

 スーツケースから雑音の混ざった声がします。柔和そうな女性の声です。錠前がある部位に発声装置があり、それを介して中で畳まれている第七世代型 棘皮鎧キョクヒヨロイ、シグさんの声が聞こえてきます。

「ええ。早く会いたいです」

 湯がスーツケースに目をやって答えます。

「急に連絡が来たから、驚いたわねぇ」

 孤児院「てづる園」の園長先生からガゼ算機の様子を見て欲しいと連絡があったのは、昨日の夕方でした。シグさんの部屋にはお屋敷を管理するためのガゼ算機があり、近くの村や町に回線が引いてあります。平貝村の村役場から園長先生が困っていると文面が送られて来たのです。湯たちは修理用の道具を揃え、今朝出発しました。平貝村は海岸線から離れた、地表の森の中にある村です。道のりの半分までは地下の涙洞を通ってゆけますが、そこから先は地表の林道を歩かなくてはいけません。湯は紫外線にあまり強くないので、日傘を用意して来ました。

 林道は舗装されておらず、赤茶色の泥がぬかるんでいます。ネズミ型の陸生ヒトデが道を横切りました。今は六月、雨季の真っ最中で頻繁に雨が降るためです。辺りの樹々や陸生ウミユリは成長と繁殖の好機を逃すまいと、瑞々しいのを通り越し少々暑苦しい密度で新芽や腕を吹いています。生き物の多い豊かな熱帯雨林ですが、まとわりついてくる羽虫やヒルの数も相当なものです。

 道から外れた森の中でバネが弾ける音がします。見ると、道を横切ったネズミヒトデが樹上生クモヒトデに捕獲されていました。ヘビの背骨の側面を棘だらけにした形の長い腕が、ネズミヒトデを樹の上に引きずり上げてゆきます。胴体は高みに隠れていて見えません。意識して周りを見ると他の枝からもクモヒトデの腕が垂れ下がっています。森の中はクモヒトデたちの縄張りと言えます。

 森が途切れ、明るくなっています。真水のにおいと、せせらぎの音。川があるのです。骨造のアーチ橋が対岸に架かり、その下を澄んだ水が流れています。流れは緩やかですが先日の雨のため水嵩は高く、川岸の植物が葉先まで水没しています。湯は橋の上で立ち止まり水面を覗き込みました。何か生き物を見つけたようです。

「シグさん、オーメさん。フシガゼがたくさんいます」

 湯が見つめる先には、淡水生の節足型クモヒトデがいました。スーツケースからシグさんが管足カンソクを伸ばし、水面を覗き込みます。扁平で長いクモヒトデが、櫂状の腕で泳いでいます。胴体は半円形の頭部と、後ろに向かうにつれて細くなる節状の腹で構成されています。頭部は海生クモヒトデの胴体に相当する部位で、腹は幅が広くなった腕です。縁には可動する棘が並んでいます。腹の脇の二本の腕は遊泳用の櫂、残りの二本の腕は泥から小動物を掬い上げる採餌器になっています。棘皮らしく目はありません。節足型棘皮は体節に近い構造を獲得しているのに加え、陸や陸水系への適応で左右相称になっているのも特徴です。樹が倒れて川を堰き止めた浅い淀みでは、三日月型の頭部を持つ平たいフシガゼが泥を食んでいます。湯はしばらくフシガゼを観察していましたが、シグさんに促され橋を渡りました。

 林道の傍、切り株に石造りの遺跡めいた表情で棘皮機械が根を下ろしています。切り株はかつて凝澪に多く生えていた堅木の名残です。棘皮機械は短い円柱型の台座と、その上に据えられた八角柱で構成されています。八角柱は森の彼方の海を向いています。苔や藍藻で全体が緑色がかって見えますが、基部にある半透明の表示盤は発光しており生きているのが分かります。地表の集落付近に設置されている、自動式の対空砲台です。八角柱は皮砲ヒホウと呼ばれる、棘皮の皮で出来た大型の飛び道具です。凝澪島は海に囲まれた高温多湿な島なので、銃器は簡単に故障してしまいます。皮砲や皮銃ヒジュウは故障を避けるために極限まで部品数を減らし、皮一枚で出来た袋状の構造をしています。棘皮の皮の表面でコンという、術や魔法と呼ばれるもののエネルギーを転換し、パルス弾として発射します。いつもお疲れ様です、と湯が砲台に声をかけました。ここまで来れば村までは後少しです。

 村を囲む石塀が見えてきました。多くの村と同じく、平貝村は方解石の石塀に囲まれています。石塀には皮銃が設置してありますが、平貝村のそれは使われたことはありません。ささやかな門をくぐると背の低い木造建築が建ち並んでいます。見知った村の人々に挨拶をし、湯たちは村の入り口のものよりさらにささやかな、てづる園の門の前で止まりました。ブザーを押すのより先に、庭で遊んでいた子供たちが気がつきました。

「ヒトデのお姉ちゃんだ」

「ヒトデのお姉さん!」

 七歳くらいの男の子と女の子が走って来ます。手を振る湯の後ろからオーメさんが現れたのを見ると、二人の顔色が変わりました。大急ぎで駆けつけて門を開き、オーメさんを奪い合います。

「オーメさん遊ぼう!」

「乗せて!」

 騒ぎを聞いて、園舎にいた四人の子供たちも集まって来ました。皆、一度立ち止まり湯に向けお辞儀をしますが、顔はオーメさんの方を向いています。揉みくちゃにされながらもオーメさんは尻尾腕で男の子を一人持ち上げ背中に乗せました。次は自分だと叫ぶ皆を引き連れ、悠然と庭の周回コースに入ります。枝分かれした長い長い触手のような腕に掴まって、園長先生も園舎から出てきました。長い腕は別の枝分かれした先で車椅子を押しています。車椅子に乗った女の子はナマコのぬいぐるみを抱いて、オーメさんの方を見ています。湯たちがてづる園を訪れると毎回見られる光景です。

 長い腕の持ち主は、てづる園の園舎の上で暮らしている大きな陸生テヅルモヅルです。五角形の胴体から何回も枝分かれした五本の腕が生えています。その腕は園全体を丸ごと傘のように覆うことが出来るほどの長さです。名前はトニーさんと言います。トニーさんはこの近くで育ったテヅルモヅルで、百年近く前の戦争ではたくさんの武器を背負い、拠点防衛兵器として戦いました。終戦後、海外の水族館や遊園地などを転々としました。故郷に戻ってみると人間の村が出来ていたので、そこで暮らすことにしました。やがてその村に孤児院が建つことになり、そこの従業員として働かないかと誘われました。誘ったのは、湯のご主人様です。孤児院にはご主人様の名字が取られる予定でしたが、トニーさんが育った場所だということと「手蔓」という言葉が人が手を繋ぐ様を連想させて縁起が良いことから、てづる園と命名されました。

 てづる園は湯のご主人様が建てた孤児院です。身寄りのない子供たちの中でも、高度な医療設備を必要とする子供たちのための設計が施されています。オーメさんと遊んでいる子供たちは、事故や病気で器官を人工物に置き換えて生きています。

 園長先生は薄茶色の眼鏡をかけた、腰の曲がったお婆さんです。湯は早速ガゼ算機のある部屋に通してもらい、点検に取り掛かりました。井戸のような形をした、WATERGATE社製の標準的な事務用ガゼ算機です。ガラス蓋がしてあります。円い水面の下で、ウニが棘と管足を振り計算をしています。湯は縁にある、矩形に区切られた操作盤に触れました。起動ボタンに反応しません。湯は操作盤の隅にある蓋を開き、ジンガサ接続用ジャックを確かめました。

「シグさん、よろしくお願いします」

「任せて頂戴」

 スーツケースからシグさんの管足が伸びてきました。操作盤の上を探り、ジャックに接続します。シグさんからの操作でガゼ算機が起動しました。水面にロゴが浮かび上がります。

 ジンガサ接続は棘皮鎧や棘皮機械を管足で繋ぐシステムです。化学物質や電気信号、渾をやり取りすることで通信を行います。棘皮鎧の開発中に発明され、発明者の名前を取りジンガサ接続と呼ばれています。

「ウィルスとかではないですか?」

 湯が心配そうに声をかけます。ガゼ算機はウニなので、情報的なウィルスと生物学的なウィルス両方に感染する恐れがあります。

「ウィルスではないわぁ。添付ファイルをうっかり開いてしまったようねぇ」

 シグさんは管足から操作を続けます。手伝えることはなさそうなので、湯は園舎の修理を始めました。トニーさんが日陰を作ってくれます。修理の後、湯は園長先生とお茶を飲みながら話をします。お屋敷をしばらく離れて、海鼠水工へゆくことを話しました。

「まあ、寂しくなってしまうわね」

 急に決めてしまったことについて、湯はお詫びを言いました。

「いいえ、いいのよ。室賀さん、ご主人様に逢えるといいわね」

 園長先生と湯のご主人様は昔からの友人です。

 ベッドにいる子へのお見舞いを済ませ、湯はオーメさんの援護にゆきました。オーメさんは子供たちを乗せて七巡ほど周回したので、疲れてお茶を飲んでいます。子供たちと遊び、トニーさんの背中の掃除を終えたときには、もう日が暮れていました。園長先生は晩ご飯を食べてゆかないかと言いましたが、湯は丁重にお断りして帰ることにします。村の石塀まで皆が見送りに来て、手を振ってくれました。



 湯は骨造の橋の上で一休みしていました。月は出ていますが、村を出た頃から曇ってきたので見えません。水際に開いた穴から細く長い腕が水底に展開しています。淡水棘皮を見ているうちに落ち着いた湯は、歩き出そうとしました。そのときです。

「こんばんは、お嬢さん」

 これから進もうとしていた道、お屋敷へ続く林道の暗がりから男性の声がします。抑揚を強めにつけた、感情の豊かな声です。

「その格好はメイドさんかい?本物?コスプレ?送っていくよ。家どこ?」

 湿った闇の中から声の主が現れました。裾が足元まで届く長い朽葉色のコートを着て、フードを目深に被っています。身長は高くもなく低くもなく、コート越しにひょろりとした体型なのが分かります。喋るのに合わせて身振り手振りを加え、いかにもユーモアが分かる紳士、という印象です。しかし、帽子に隠れ、暗がりから出てこないために顔は分かりません。

「結構です。お気持ちだけ、ありがたく頂戴させて頂きます」

 ナンパか、と思いましたが違和感を覚えました。この島、凝澪島コゴリミオトウではメイドはそれほど珍しい職業ではありません。星棘ホシトゲ荒錨アライカリといった大きな街で出歩けば、富裕層の家で雇われているメイドと何度もすれ違います。職業としてのメイドが途絶え、サブカルチャーの中だけの存在となった外国からの渡航者かと思いましたが、それも変です。メイドの多い荒錨には島内最大の港があり、ほとんどの渡航者が通ります。メイドを珍しがるということは、考えにくいことです。

「おや、そうかい?」

 彼は内ポケットから何かを取り出しました。金属光沢がある小さな箱。オイルライターのようです。煙草を取り出す訳でもなく、蓋を開閉しています。

「じゃあ、デートってことにしよう。大丈夫、絶対変なことしないからさ〜」

 やはりナンパでしたが、まだおかしなことがありました。相手はたもとの暗がりから出てこようとしません。湯が立っている骨橋はあまり幅が広くありません。ナンパする側からすれば、文字通り通せんぼしやすい環境です。道を塞いで粘り強く交渉を続ければ連絡先の交換くらい出来そうなものなのに、湯はいつの間にか自分がナンパする立場で考えていました。しかしデートといってもこんな田舎でどこで何をするのか、湯には見当がつきませんでした。

「しつこいですよ」

 強盗とか、或いはもっとたちの悪いものかもしれない、湯はオーメさんに隠れているよう囁きました。オーメさんは川岸の藪の中に後退します。

「橋の上で出会うって神秘的でさ、運命感じちゃうよね〜。どうしても無理かい?」

 相手はフードを被った頭をこちらへ傾けました。フードの奥がちらりと光ります。湯は眼鏡かなと思いました。

「デートに誘うというのにお顔も見せてくれない方には、ついていけません」

 あまり刺激しないように、でもはっきりと言いました。相手は笑っています。

「それもそうだったなあ、これは失礼」

 気取ってお辞儀をすると、コートの人物は影から歩み出ました。フードをずらすと、湯の表情が動きます。彼には顔はありませんでした。目も鼻も口もない、青緑色の滑らかな頭が襟の上に乗っています。弱い月明かりを反射して光る曲面には、驚きを隠せずにいる湯が映り込んでいます。眼鏡に光が反射したように見えたのは、彼の顔面でした。

「これは、複眼フクガン?昆虫系ヂムン人?ベースは何なのです……」

 湯が息を飲み、半歩後ずさりました。

 ヂムン人とは、この星、命球メイキュウで人類とは異なる系統で知性化を果たし、人類と敵対する生物のことです。命球に漂う非分類エネルギーのうち、ヂムン小片という敵対的な派閥を取り込み、霊的な進化を遂げています。ヂムン小片の働きにより元となった生物からかけ離れた姿のものも存在し、目の前にいる複眼頭もその一個体のようです。

「ついてきてくれないなら、つれていくことにしよう」

 複眼頭はライターをしまい、懐から黒いものを取り出しました。湯は拳銃が出てくるものと予想しましたが、複眼頭が手を振るとそれは伸びて筒状になりました。警棒です。炭素が含まれる材料で出来ていて黒いのか、闇に紛れるために黒いのかは分かりません。

「人攫い?」

 相手の狙いは金品や貞操ではなく身柄だと知り、湯は衝撃を受けました。またしても予想外の出来事です。

「大人しく僕についてきてくれるなら、危害は一切加えないよ。約束する」

 人攫いは警棒を左腕で弄んでいます。

「ま、依頼人に引き渡した後どうなるかは保証出来ないけど、ねっ!」

 湯の返事を待たずに、人攫いは長い脚で踏み込み警棒を振り下ろしました。湯はそれを鞄で受け止めます。鞄に当たった警棒から青白い光が飛び散りました。

「丈夫な鞄だなあ。どこで買ったの?」

 湯の鞄は把手の操作で硬質化し、簡易の盾として使える機能があります。特別な一点物です。湯は後ろへ、橋の中程まで跳び退り、スカートの中に吊っていた骨剣コッケンを抜き放ちました。

「おやおや、過剰防衛になりそうなくらい防犯意識が高いねえ。それに君、随分強い非分類エネルギーを持ってるじゃない。ひょっとして術士かい?」

 湯は冷や汗をかいていました。相手のヂムン人は渾を直接感じ取れるようです。湯が下がり人攫いが前進したため、スーツケースは人攫いの後ろにあります。渾が外から探知されないよう偽装する仕組みのあるスーツケースですが、この人攫いに調べられたらすぐに棘皮鎧が入ってるとバレてしまいます。シグさんを奪われる訳にはゆきません。湯が考えた通せんぼ作戦が現実になってしまいました。内心焦りながら半歩後退ると、踵が硬いものに触れました。

「こりゃ攫い甲斐があるってもんだ」

 よく喋る奴だと呆れながら感心します。声と動きには感情がこもっているのに顔面は硬質な球体であるため、印象にズレが生じます。この話術には相手の調子を狂わせる効果もあるのだろうと、湯は推測します。

「で、君彼氏とかいるの〜?」

 歩み寄ってくる人攫いの後ろで骨と骨がぶつかる物音がしました。人攫いが首を動かしました。スーツケースが揺れています。複眼が全周にあるとはいえ、注視出来る視野は限られているようです。シグさんが気を引いてくれたのです。湯は硬化した鞄を人攫いの頭に投げつけました。

「わっぷ?!」

 人攫いが両腕で鞄を受け止めたときには、湯は次に投げるものを見つけていました。偶然にも足元をアカチャウロコウニが這っていたのです。アカチャウロコウニは赤茶色の鱗型をした棘を持つ、陸生ウニです。直径は小さな鍋ほど。体の縁に太い棘があるので、湯はそこを掴み腰を捻って投げました。アカチャウロコウニは踏んだ家畜が怪我をするほど頑丈なので、投げても大丈夫です。人攫いの懐から、毛と光沢のある黒い二本の腕が飛び出ました。ウニを受け止めます。やっぱり昆虫だからもう一対腕があった、湯の予想した通りでした。昆虫の肢は六本です。鞄を持つのに二本、ウニを受け止めたのに二本、地面に立つ、つまり脚として使っているのが二本なので、全ての肢を使っていることになります。この隙にスーツケースを持って一旦逃げ出そうという考えでした。オーメさんはこのような場合、体の真下へ向けて穴を掘り、待機するよう約束してあります。後から迎えに来れば問題ありません。視界を塞がれ重いウニを持たされた人攫いに湯は突進します。棘皮鎧を着ているときほどの跳躍は無理ですが、跳んでウニを踏みつけます。鞄を思い切り踏もうとしたとき、足に抵抗を受けました。コートの襟から腕が出て湯の足首を掴んでいます。湯は目を疑いました。昆虫なのに、肢が七本あります。

「まだ夜は長いんだからさあ、もう少し付き合ってよ〜」

 鞄の下から湯を見上げる、人攫いの陽気な声。湯が構わず踏もうとした瞬間、コートの襟から二本、胸から一本の腕が伸び湯の脚を掴みました。湯は投げ飛ばされます。

「きゃああああ!」

 欄干を越え悲鳴とともに川に落ちます。直後にスーツケースがひとりでに傾き、水面に落ちました。

「うむ、白か」

 人攫いは八つのキチン質の掌を開いたり閉じたり、捻ったりしています。腕の殻や筋が痛んでいないのを確かめると、欄干に手をかけ獲物が浮いてくるのを待ちます。

「あ〜れ〜?水に落ちてショック死しちゃったのかな?嫌だな〜死んでたら意味ないのにな〜」

 三番目の左腕で後頭部を掻く人攫いの後ろで、水の跳ねる音と振動が響きます。振り向くと、棘皮鎧に身を包んだ湯が左手に骨剣を提げています。濃紺と白に塗り分けられた、ピナフォア・ドレスを思わせる装甲から水が滴り落ちていました。

「へえ、早着替えが得意なのか」

 人攫いはコートの中で左右順番に八つの肩を回しました。

「棘皮使いだったとはね。こりゃボーナス貰えちゃうな〜」

 腕を指のように使い、警棒でペン回しの動きをしています。湯は骨剣を振り水滴を払い落としました。

「湯ぉ、彼はトンボよぉ。翅もあるわぁ」

 湯の左胸、棘皮鎧の発声器からシグさんの声。スーツケースの中にいる間に分析していたようです。

「トンボ?十本肢のトンボなのですか」

 湯はクモみたいだと思いました。

「それと、まだ術を使っていないわぁ。気をつけて」

「分かりました」

 ヂムン人なら炎を出したり、凍らせたり、術で攻撃してくる恐れがあります。トンボの人攫いは体術しか見せていないので、何か隠し玉があると考えた方が自然です。

「ね〜、話終わった?棘皮使いさ〜ん?」

 人攫いは掌の上に警棒を立て、バランスを崩さずに立たせ続ける遊びをしています。

「棘皮使いって、人間と生きた鎧のワンセットで術士なんでしょ?実は僕会うの初めてでさ〜サインくれる?」

 バトンのように空中で回転させた警棒をキャッチして、人攫いが言いました。

「貴方、依頼人とかボーナスとか仰いましたね。誰に雇われているのですか?」

 人攫いと警棒を交互に見ながら湯が訊きます。

「はっはっはっ、そう簡単に依頼人のこと話す訳ないでしょ?捕まってくれたら会えるかもね〜?」

 湯が返事をするまで、やや間が空きました。

「そうですか。シグさん、情報収集の続きをお願いします」

 棘皮鎧を着た状態なら強引にここから離脱し、然るべき所に通報出来るはずです。しかし、この人攫いがてづる園の子供たちを標的にする可能性は否定出来ません。渾の強さは病歴や年齢とは関係ないからです。指を動かしシグさんに戦闘の意思を伝えます。棘皮鎧は装着者の指先まで覆っているため、指を曲げる回数や間隔で指示をすることが可能です。

「人攫いさん、標本箱に収まって貰います」

 そんな言葉が口をついて出ました。シグさんの管足が喉の皮膚を軽く叩きました。装着者が強い興奮状態にあることを知らせる警告信号です。それからごく僅かな間を空け、別の警告信号。相手の渾の量が一定以上のレベルであること、複数の金属製品を携帯していること、全身の皮膚で見るかのように情報が流れ込みます。シグさんが感覚器をフルに使い人攫いを走査したのです。

「湯ぉ、彼の話術に気をつけて。人攫いの上に占い師も兼業していて、それで盤外戦を仕掛けてくるわぁ。乗ってはダメ」

 シグさんは人攫いに聞こえないよう骨伝導で湯に話しかけます。なるほど、盤外戦の占い師か、確かに魔術的な見た目だし頭は水晶玉みたい、湯はくすりと笑いそうになりました。

「シグさん、いきましょう」

「ええ、この変質者に目に物見せてやりましょう」

 シグさんに右の親指で謝意を示します。膝を曲げ体を沈めてから、脹脛と足裏の推進器を稼働させます。生き物の体を焼かない、若葉色の渾の炎がスカートの下から吹き出しています。骨畳ホネダタミを急加速して滑走し、骨剣を振り下ろします。

「へえ!ホバークラフトみたいだ」

 人攫いは警棒で骨剣の先端を弾きました。甲高い音が鳴ります。昆虫の複眼は動体視力が抜群にいいのだったと、湯は図鑑の記述を思い出しました。ハチを捕らえているカマキリの写真が印象的でした。

「喋りながら戦っているわぁ。こいつ呼吸器官と発声器官が別なのねぇ。わたしもだけど」

 シグさんは観察を続けています。人攫いは別の腕で湯を掴もうとします。同じ手は食わない、湯は右腕の腕甲から縁石に向けて管足を射出します。吸盤を吸着させ姿勢を低くし、管足を縮めて人攫いの後ろへすり抜けました。スカートの内側で姿勢制御用の推進器が小さな炎を上げます。

「そんな動きも出来るのかあ〜。てっきりもっとトロいものかと思ってたよ」

 人攫いは顔を真上に向け、後頭部の複眼で湯を見ています。コートが揺れると、そのままの姿勢で鈍く光る灰色のものを三つ、飛ばしてきました。足元に刺さったそれは、鉄屑を研磨して刃をつけた即席のナイフです。

「やっぱり小道具を持っていたわぁ。そういうタイプよねぇ」

 シグさんの言葉に頷きます。何を持ち出してくるかわからないけど、小道具を使わざるを得なくなっている、これなら一太刀浴びせられるかも、湯は手応えを感じました。人攫いの背中に向けて横から打ち込みます。人攫いは下半身は前を向いたまま、上半身を後ろに半回転させ警棒で骨剣を受けました。生き物らしからぬ機械的な動きに、湯は違和感を覚えます。相手の体の造りが益々分からなくなりました。トンボの胴体は概ね箱のような形をしているものです。

「ねえ君、僕と組んで仕事しない?」

 人攫いは三本の腕を複雑に組み、湯を頭から爪先まで舐めるように見ています。

「は?」

 湯は一瞬動きを止めてしまいましたが、人攫いは攻撃してきません。

「君と組めば今よりデカい仕事が出来ると思うんだけどさあ、どう?」

 人攫いがおもむろに骨剣を掴もうとしてきたので、湯は慌てて後ろに下がります。またペースに乗せられてしまうところだった、耳に残る言葉を振り払い、腿の推進器にも点火します。三度目の加速です。

「むっ?」

 人攫いは下半身と上半身の向きを揃えます。湯は管足を地面に飛ばし、軌道を強引に変えました。円弧を描いて滑り、骨剣に渾を流し込んで一時的に硬度を高めます。橋の施工業者の皆さんや近隣住民の皆さんに悪いと思いつつ地面を叩くと、骨畳が砕け白い粉となって飛び散りました。煙の中、湯は欄干を蹴り、反射的に骨粉を振り払おうとする人攫いに骨剣を振ります。既に切れ味は無いも同然なので棒で叩くようなものですが、棘皮鎧の推力が上乗せされています。左手に多層の外骨格を打ち据えた手応えがあります。人攫いの脚は打撃に抗い切れず地面から離れ、背中から欄干に衝突します。

「今のは深く入ったと思います。どうですか、シグさん」

 屈んでいた湯が骨剣に体重をかけ立ち上がります。

「まあだ死んでないよ〜」

 酔っ払いのように欄干にもたれかかっている人攫いが含み笑いをします。

「これが答えかい?荒っぽいねえ」

 声は掠れていますが、口調は変わりません。湯は骨畳の隙間に刺さった骨剣を引き抜きます。

「そうだ、ぶっ飛ばされて思い出したよ。君、海鼠水工カイソスイコウの重役の家で働いてるでしょ?」

 背筋に寒気が走り、喉にシグさんからの相手にするなという警告。

「だったら何なのです。貴方には関係のないことです」

 湯は動揺を隠して骨剣を何度も握り直します。人攫いはオイルライターを取り出すと、自分の指先に赤紫色の火を灯しました。

「ああ、関係ない。ただ、その重役、篠田博士だっけ?その人の家がこの近くにあるのを思い出したからね。重役の家ならメイドさんがいてもおかしくない、そう思っただーけー」

 なんだ、状況証拠から推測しただけか、こんな奴がご主人様の名前を口にするのは腹立たしいけど、ご主人様のことを直接知っている訳ではないんだ、湯は僅かに落ち着きを取り戻しました。

「でーもー?」

 人攫いの声が不意に大きくなったので、湯はびくりと肩を震わせました。

「篠田博士は一年前から行方不明。なのに君はメイドの格好で篠田邸の周りをうろちょろ。これ、どーいうことかなあ?」

 冷や汗がこめかみから流れ落ちました。一刻も早く人攫いを叩き切るか逃げるかしないといけないのに、湯は動けません。

「まさか君、行方不明のご主人様を待ってずっと留守番してるの?」

 湯の胸に痛みが走りました。正面からそのことを指摘した人には、今まで会ったことがありません。

「だから、だったら何だと言うのですか」

 寒気が軽い吐き気に変わりました。思わず声が大きくなります。

「ま〜ま〜、怒んないでよ。僕も篠田博士のことには詳しくないんだから。でも気になるんだよね〜」

 欄干にもたれていた人攫いが急に上半身を起こし、身を乗り出してきます。

「君が篠田博士のこと、疑ってないかってさ」

 人攫いの問いかけに、湯は脱力してしまいます。そんなことはある訳がないと思ったのです。

「そんなことはある訳がないって?ホントに?」

 慌てて湯は気を張ります。読心能力があるのかと一瞬考えましたが、そんなものがあるならシグさんの走査で何か分かっているはずです。鎌をかけているだけだ、自分に言い聞かせます。

「考えてみたことないのかな〜?篠田博士が帰ってこない理由」

 口の中が乾いているのを感じつつ、湯は口を開きます。それはいつも考えていることです。

「ご主人様の研究を疎ましく思う勢力が、きっといるのです。そいつらに脅されて」

 湯の声は震えています。

「きっと?脅されて?君もよく知らないんだねえ。想像力も豊かなようだ。でも僕はもっと現実的なことを考えているよ」

 全身にシグさんからの警告。

「女性問題。スキャンダルだよ」

 寒気が嘘のように湯の体が熱くなります。視界が怒りで歪むのが見えました。

「湯ぉ!聞いても答えてもダメ!罠よ!」

 シグさんが声を上げます。

「は、ははは、それはご主人様に最もありえないことですよ?」

 乾いた笑いを上げ上ずった声で答えると、湯はゆらりと一歩進みました。

「ありえるかどうかじゃなく、君が考えてみたことはないのかと訊いているんだよ。なぜ言い切れる?君にも人には見せない一面はあるだろう。現に君に何も言わずに出ていったんだろう?」

 湯は眩暈を覚えふらつきました。シグさんが、棘皮鎧が脚の動きを補助し靴底を動かして、かろうじて立ち続けます。湯はご主人様が帰らない理由と同じ回数考えた、ご主人様が自分のことを忘れていない根拠をもう一度確認します。自分はご主人様の手で生み出された人造の人型ヒトデであり、ご主人様の至高の傑作であるということ。実の娘として愛されてきたこと。ご主人様と一緒に戦場にゆきたいとお願いし、技術実証用の試験体である自分にシグさんを与え許可を出してくれたのは信頼と愛情の証、他にも幾らでも挙げられる、湯は自分を落ち着かせようとしました。

 しかし、それは過去のことであり、かつ事実よりも願望に近いものだとは、湯も分かっていました。ご主人様が帰らなくなってから、不安な日々を送ってきました。自分より高性能の新しい人型ヒトデを作っているのでは、まさか自分は最初から性能不足、あるいは元々娘として思われてなんかいなかったのでは。その不安を振り払うため、湯は日々家事に励み廊下が崩落したお屋敷の中を毎朝長い時間をかけ玄関とご主人様の執務室に詣でるという、儀式的な行為を続けてきました。仮に自分の性能が足りていないとしてもご主人様は慈善事業にも取り組む高潔な人格の持ち主であり無責任なことはしない、そう信じ続けています。女性問題とはそのご主人様の高潔さを穢す最悪の考えであり、湯が真っ先に否定し極力考えるのを避け続けた可能性です。しかし、可能性を否定する上で思考の窓口に顔を出したのは事実であり、その下を覗き込めば湯の嫉妬心や劣等感といったやはり向き合うのを避けたいものに繋がっているのです。

「返事をしないねえ。大方、考えたことはあるけどそれを肯定する訳にはいかない、ってところかな」

 こんな華奢な虫、本気を出せば一撃で葬れる、湯の緑色の瞳の奥、暗い翡翠色の瞳孔が開きました。頬にいびつな笑みが浮かびます。

「海鼠水工が黙っているのもその証拠さ。軍需企業の重役がそんなことをしたら、政府からの受注がキャンセルされるかもしれない」

 人攫いは警棒についた傷を指でなぞっています。湯自身の中で不可分の、ご主人様を慕う気持ちと自尊心の両方が削られてゆきます。

「君はそれでいいのかな、と思ってさ。篠田博士が君を放ったらかしにして他の女の子と旅行を楽しんだりしてても、さ」

 湯が明るい笑顔を浮かべました。

「これは悪い夢です。貴方を殺して終わりにします」

 人攫いも高らかに笑いました。

「君の篠田博士像こそ夢だろう。相手はどんな子かな〜?君は胸が小さいから、おっぱいのデカい欲求不満の人妻かな?」

「静かにしてください」

「内定が欲しくてハニートラップを仕掛けたけど逆にゾッコンになった女子大生?」

「口を慎みなさい」

「女子高生かもな。ここの高校の制服ってセーラー?ブレザー?」

「黙れ」

「はっはっは、小学生の可能性もある。天才は変わり者が多いそうだからなあ!」

「お願い、やめて」

 湯は力の限り骨剣を振り下ろしました。意図してそうしたのでなく、細かい制御を加える気力がなかったのです。骨剣は欄干の手摺に深く食い込んでいます。湯は崩れ落ちるように膝をつきました。

「君と似た背格好のメイドかもしれない。君より少しブスなね」

 どこかから人攫いの声がします。姿は見えません。シグさんは人攫いの音声解析を急いでいました。

「シグさん、退路を指示してください」

 骨剣の柄を握ったまま動かなかった湯が、よろけながら立ち上がりました。

「大丈夫なの?」

「私とて、棘皮動物の端くれです。頑丈さなら自信があります」

 哄笑とともに湯の真後ろ、橋の下から飛び出してきた人攫いは、人の形をしていませんでした。開いたコートの内側で十本どころか数えきれないほどの肢が動いており、コートそのものの形に拡がった体で湯に覆い被さります。

「すごい打たれ強さだ!放ったらかしにされても耐えてるだけある。それだけに可哀想だね〜」

 湯は残った気力で骨剣を逆手に持ち直し、背中に纏わりつく人攫いを突こうとしました。しかし、人攫いの体が小魚の群れの動きで骨剣を避けます。

「湯ぉ、こいつは胸節がたくさんあるわぁ。枝分かれしたのを折り畳んでいる。サボテンみたい」

 ぼんやりした頭でそんなものが昆虫と呼べるのかと疑問を浮かべ、背後を見ます。コートの中で絡まり合う肢の奥に黄緑色のものが見えました。黒い筋の入った箱が連鎖し、連結部では枝分れしています。肢はその箱から生えています。湯がそれはトンボの胸だと気づくのには時間がかかりました。

「昆虫らしくないと思うかい?非分類エネルギーの加護を受けてるんだから、昆虫らしさに拘る必要なんてないだろう」

 再び人攫いの哄笑。ヂムン小片の力で昆虫の体型から逸脱しているんだ、頭が丸ごと複眼になっているのも、顎や触角はどこか別の場所にしまってあるのだと心のどこかで納得しました。

「腕を動かそうとしたら背中も動くでしょ?手に取るように分かるのさ、文字通りにね」

 肢を結び合わせ、湯の四肢を巻き込む形で人攫いの体が人型に収束しました。肢が湯の体を締め上げています。もがく湯の左手から骨剣をもぎ取り、何本かの腕で骨剣を触ってから無造作に川に放りました。

「さ〜て、空の旅に招待しようか。きっと夜景がキレイだよ〜」

 人攫いの背中から空中に、茶褐色の翅脈が根元から実体化します。網目に水の膜が張るように翅膜が翅の先まで行き渡ります。完成した十三枚の翅を羽ばたかせ、浮き上がりました。

「ご主人様」

 湯は声を絞り出しました。ご主人様にもう会えないかもしれないと思い、ご主人様の眼差しや声を思い出します。ご主人様が帰らなくなったのは一年前なのに、どれもが遥か昔のことのようです。襟はその場から動かさずに、人攫いの頭が湯の顔の間近に寄ってきました。

「夜目遠目って言うけどさー、君近くで見ても結構カワイイじゃん。髪の色も珍しいし。引き渡すのがもったいなく思えてくるよ」

 湯の虚ろな視線の先、遠くなってゆく骨の橋の上で、白と薄桃色の生き物が動いています。

「オーメさん」

 土の中にいたオーメさんが、辺りが静かになったので湯を探しに現れたようです。隠れているから心配は要らないと湯は思っていましたが、自分が連れ去られた後のことは考えていませんでした。オーメさんはにおいを頼りに探していますが、樹々の梢を越えた高さにいる湯のことは見えません。このまま攫われたらオーメさんにももう会えない、また胸が痛みました。

 雲が晴れてきました。月明かりに照らされた湯の顔は濡れています。



 濃緑色の海原、凝澪の熱帯雨林上空を、湯を捕縛した人攫いが飛んでいます。

「流石に苦しそうだねえ。ちょっと緩めてあげよう」

 ぐったりした湯を見かねたのか、人攫いは首の拘束を緩めました。

「君の希望は何なんだい?」

 人攫いがまた湯に尋ねます。

「君だって愛されたいだろう?必要とされたいだろう?恋人に抱き締められてさ、それから」

 人攫いの声が消え、代わりにホワイトノイズが聞こえるようになりました。

「逆位相波を流して音を相殺しているわぁ」

 シグさんからの骨伝導。

「奴の声を聴き続けたら、あなたの心が保たない」

 返事をするほどの力がないので、親指で返事をします。シグさんが、人攫いは呼吸器官と発声器官は別にあると言ったのを思い出しました。声は頭か首から出ていたように聞こえました。

「呼吸はどこで?」

 人攫いに聞こえないよう小声で呟きます。湯はこれまでに分かったことを踏まえ、改めて人攫いの体の構造を推測します。まだ出来ることがある、そう判断しました。

「シグさん、腰の」

「な〜に内緒話してるのかな〜?混ぜてよ〜」

 逆位相波で打ち消されているはずの、人攫いの声。湯は肝を潰しました。雑音も風の音も貫通し、不気味なほどのクリアさで聞こえてきます。

「湯ぉ、これがこいつの術よ、強制的に声を聞かせているわ」

 悪趣味にもほどがある、湯は奥歯を噛み締め指先でシグさんに指示を伝えます。棘皮鎧の全身から淡褐色の管足が伸び始めました。人攫いの肢とコートに管足が触れ、吸いつきます。

「お、どうしたの縋りついてきたりして。もしかして高所恐怖症?それともあれ、ナントカ症候群?被害者が加害者に惚れちゃうってヤツ。い〜やあ参ったなあ」

 人攫いの声が聞こえます。最早何番目か分からない腕のうちの一本で、人攫いは額を掻く仕草をしました。

「怖くもないし、ましてや惚れてもいません」

 湯は溜息混じりに言いました。

「だよね〜、君は篠田博士にゾッコンのようだしな〜。だいたい君にとって篠田博士は何なんだい?片想いの相手?先生?父親?」

 また痛い質問をされた気がしましたが、湯は先ほどまでのノイズを思い浮かべてやり過ごしました。指をパチン、と鳴らします。

「昆虫標本には、防虫剤が不可欠です」

 湯の背中、腰からもうもうと白い煙が上がりました。

「何だ、目眩しのつもりか〜い?密着してるんだから無駄だよ!」

 目眩しではありませんでした。凝澪島の森林は高温多湿で、小さな昆虫がとても多く生息しています。中には人間や陸生棘皮に寄生したり、病気を伝染させるものもいて危険です。棘皮鎧はそんな環境で装着者の命を守るため、殺虫成分を含む煙を吐き出す装置が、標準装備されています。トンボに効果があるのか分からなかったので、湯は四種類あるうちの最も強い殺虫剤を焚くようシグさんに指示しました。濃い煙が出て目立つため、安全な場所以外では使用禁止のものです。

「あれ、この煙幕変なにおいが」

 飛行しているので煙は後ろへ流れてしまいますが、コートの内側へは外から中へ渦巻く風があるので、煙は順調に送り込まれてゆきます。トンボの呼吸器官は筒状の腹にあります。戦っている間腹は見えなかったので、コートの下に隠してあると睨んだのです。

「ンンンッ!」

 人攫いがくぐもった叫び声を上げました。肢が無秩序に動き、飛翔筋が痙攣し、高度ががくんと落ちます。腹の場所は当たっていたようです。

「昆虫相手に密着して殺虫剤を焚いちゃうのか〜酷いな〜苦しいな〜」

 効果があることに勝機を見出した湯ですが、人攫いの体が網目状に拡がりました。煙が素通りしてゆきます。

「ふーっ、風通しがいいと気持ちいいねえ!それに引き換え君はシケた顔してるなあ」

 最早打つ手はないのかと、湯は諦めかけていました。

「しっかし、夜景なんてまるで見えないな。真っ暗に近いなあ。考えてみりゃここぁ、ど田舎か」

 夜景など見える訳がない、地表は危険だから地下の洞窟に街を築いているというのに、湯は人攫いとは別の方向に顔を向けました。森の中に光が見えました。点々とした光が繋がり円い輪になっています。光の粒が傍を通り過ぎ、後から遅れて音が耳をつんざく音が鳴り響きます。続いて、同じものが幾つも幾つも、連続して飛んできます。

「何だ、今のは?!」

 衝撃波と光弾に狼狽える人攫いと違い、湯には分かっていました。今の光は、平貝村の防衛用皮銃が放ったパルス弾です。でも、一体誰が、湯は疑問を浮かべます。石塀に据えられた皮銃が一斉にパルス弾を吐いています。村の人々全員で動かしているとしか思えませんが、そんなことが急に可能なのかは分かりませんでした。

「まさか」

 その頃平貝村では、煙を見つけたトニーさんが六十門ある皮銃をジンガサ接続で動かしていました。照準管制システムが古くなっていたので、シグさんが直したガゼ算機から新しいシステムを取得しました。往年の勘をすぐに取り戻し、湯に当てないよう一発撃つごとに照準を調整します。村の手前にある対空砲台の起動にも取りかかっていました。

「トニーさん」

「誰だ、そいつは。篠田博士以外にも男がいたのか?大人しそうな顔してやるじゃないか。そいつは軍人か何かかよ」

 ある意味そうだと湯は思いました。烈しい弾幕とともに、地上からレーザー照準。

「おい、この赤い光は何だ?何をしてる?」

 人攫いの声は震えています。湯は一つ深呼吸。両腕をさざめく黒い肢から引き剥がし、腕甲の管足で人攫いのコートを掴みます。パルス弾が人攫いの翅を一枚、二枚と破ってゆきます。

「くそっ、くそっ」

 トニーさんが助けてくれている、人攫いと違い、口先だけの言葉でなく行動で、私を折ろうとする意思を挫こうとしてくれている、湯の指先に力がこもりました。この人攫いに似た、不定形の靄のような気持ちが一雫の答えに凝集するのを感じ、湯は脚の推進器に点火します。前へ飛び出しながら人攫いから何本もの肢を引きちぎり、コートを剥ぎ取ります。

「貴方は、まるで私の心の暗部のようでした」

 空中で、人攫いに語りかけます。

「ご主人様を疑う気持ちがなかったかと言えば、嘘になります。でも、私はもう自分に嘘はつきません」

 パルス弾が人攫いの脚を消滅させました。

「私は自分の気持ちを受け入れます。そしていつか、必ず確かめます。ご主人様の気持ちを」

 照準レーザーが、人攫いの曖昧な形の胴体に狙いを定めました。

「だから、貴方は消えて」

 人攫いの頭には、決意を固めた湯の顔が映っています。

「知るか、ンなこと」

 湯は青緑色の複眼を蹴り反動で離脱。ヒビ割れた複眼と瓦解した胴体に、秒間百五十発で連射された砲弾が撃ち込まれました。湯は奪ったコートをパラグライダーとして使い、平貝村へ降下してゆきます。

「シグさん、ちょっと速過ぎます!」

「無理、もう渾が尽きたわぁ」

 あわや墜落寸前だった湯たちを、トニーさんの腕が受け止めました。大騒ぎになっているてづる園の庭に下ろしてもらいます。

「まあ、室賀さん大変。顔色がよくないわ」

 園長先生が駆け寄ってきました。子供たちや村の人も集まってきます。その足の間に体をねじ込みねじ込み、泥と草の汁まみれのオーメさんが這い出してきました。

「オーメさん!あの橋から森を抜けてきてくれたんですね」

 湯はオーメさんの管足を握り、その場に座り込みました。


 一週間後。心身ともに回復した湯は、日常に戻っていました。ときどき、あの人攫いは自分の心が産んだ怪物なのではないか、という思いに囚われます。しかし、あの事件の物証であるコートは、使われていない部屋の衣装棚に掛けてあります。湯は思い切ってコートを洗濯し、鏡の前で羽織ってみました。ぶかぶかです。ふと思い立ち、シグさんを着た上から着てみました。ぴったりです。

「あらぁ、あんな奴の私物だけどよく似合うわねぇ」

「ん、このにおい」

 洗濯をしたのに煙のにおいが残っています。

「あらあら、でも、悪い虫がつかなくなっていいかもねぇ」

 シグさんが笑い出して三秒ほどしてから、湯は洒落だと気づいて笑いました。オーメさんはオイルライターを管足で回し、見慣れない金属光沢を不思議がっていました。



おわり

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