第二夜 線路/ナマコ

 岩の陰で、淡水ナマコが尻から泡を一つ吐きました。銀色の泡は揺れて浮かび上がり、水面で弾けます。水面からは幾つか丸い岩が突き出ており、表面の水の膜が天井の灯りを反射して光っています。灰褐色の岩が窪んで出来た小さな池に、真水が流れ込んでいます。どこかに水の出口があるらしく、水位は一定に保たれています。ナマコは触手を伸ばし、水生昆虫やヨコエビが近づいて来ないか辛抱強く待っているようです。一匹のヨコエビが、生きた罠がいるとは知らずにナマコの方へ近づきました。ナマコは液圧で触手を動かし、勘づかれないようゆっくりと頭の向きを変えます。目の前まで来たヨコエビに向け、樹枝のような触手を打ち出そうとしたその瞬間、地面に軽い振動が走りました。ヨコエビは水底を蹴って深みへ逃げ、ナマコも驚いて触手を縮めます。規則的な振動が陸から伝わってきます。

「今日は少し湿気が多いですね」

 生牡蠣ナマガキ色の髪の少女と、白と薄桃色の大きなヒトデが洞窟の池のほとりを歩いてきます。二人が歩く岩は薄く削れて色が変わっており、普段から通路として使われていることが窺えます。ヒトデは四本の腕で体を持ち上げてリクガメのように歩き、五本目の腕は尻尾のように引きずっています。数本の管足カンソクを前へ伸ばしており、少女の声に反応してその管足を動かしました。

「ああ、そうか。もう夕方ですものね」

 管足の動きから何かを解釈し少女は頷きました。紺色のワンピースを着て白いエプロンを付けた、いわゆるメイドの服装です。肩からはナマコ革の大きな鞄を提げています。少女の名前は、室賀 ムロガ トウといいます。人間に似た姿をしていますが、生物学的にはヒトデの仲間に分類される少女です。隣のヒトデは家事手伝いをする陸生ヒトデ、イエガゼです。

「あまり遅くならないようにしましょうね、オーメさん」

 イエガゼに声をかけてから湯は天井を見上げました。でこぼことした天井に半透明の壺型の生き物が数匹貼りついて、白い昼色光を放っています。正確には貼りついているのではなく貼りつけてあるのです。この島、凝澪コゴリミオでは灯りとして陸生のホヤが広く使われています。凝澪島の広い地下空間の天井には数十種類の発光するホヤ、トウロウボヤとアンドンボヤの仲間が生息しています。その中から養殖と植栽に適した種に品種改良を加え、照明として屋内外で使用しているのです。ホヤの根元には天井を這って伸びる、真鍮色の骨片に覆われた渾水管コンスイカンが繋がっています。渾水とは魔法の源となる渾を溶かした海水のことであり、渾水管は凝澪島の基本的な公共設備の一つです。白く光るホヤに網目状の渾水管が走る様子を見て、湯は心臓と冠動脈カンドウミャクを連想しました。湯には、そのどちらもありません。腹にある輪の形の水管スイカンが心臓に近い役目を果たしています。湯はこれまでの経験から胸を撫で下ろす、とか胸が騒ぐ、という感覚はある程度理解出来ています。しかし彼女の胸の中には心臓はなく、胸郭キョウカクは肺と渾水で満たされています。自分は人に近い形をしているけれど、どの程度人と違うのか?という疑問は、ここ数年湯の胸で膨らみつつあります。

 風が吹き、湯は束の間ホヤを見てぼうっとしていたことに気づきました。風が吹いてきたのは池の向こう、岩の隙間からです。水面に立つ漣の向こうに何かがいるのを見つけました。

「ああっ、ナマコですよ、オーメさん!」

 湯は岩の陰に明褐色の淡水ナマコを見つけ小走りで水際に近づきました。後からついてきたオーメさんは管足で水を味見します。澄んだ水の底でナマコは俵型の胴体を横たえています。陸生化した後再び水中生活に戻った淡水ナマコ、マミズシキリの一種です。伸縮する首と胴体後部は縮めているようです。胴体後部は尻尾のように見えますが先端に肛門があり、水面まで伸ばして空気を吸うことが出来ます。胴体は背中の疣足イボアシが板状になった背板に覆われています。硬そうに見えますが棘皮動物キョクヒドウブツなので、全身の皮膚を軟化させ狭い場所に潜り込むことも出来ます。この池にもそうして隙間を辿りながらやって来たのでしょう。湯はマミズシキリを触ったり握ったりしたくなりましたが、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れました。買い物を済ませないといけないのです。二人は池を後にして洞窟の中を進んでゆきます。

 下り坂になっているため、湯は壁に取りつけられた手摺を掴んでいます。オーメさんは尻尾腕からも管足を出し、滑らないように踏ん張って道を下りてゆきます。傾斜が緩くなった辺りで分岐点に着きました。灰褐色の岩肌とはっきり違う、青灰色の石の洞路標識が壁に貼られています。標識には、今いる七八七番涙洞をこのまま進むと七八八番涙洞ナナハチハチバンルイドウに、左に曲がると国洞二三号に向かうと書かれています。湯は曲がらずに前に進みました。傾斜がまたきつくなり、足元の岩肌からは水分が染み出しています。足場の悪い道ですが天井にはホヤ照明が設置してあり、足元の溝を流れる細い水の筋が見えます。

 凝澪島には、古代の陸生棘皮動物が穿った洞窟が豊富にあります。涙洞ルイドウとは、それらの洞窟のうち太さと向きが一定ではないものを指す名前です。凝澪島全域を毛細血管のように走っており、地下河川が流れているのが名前の由来です。安全が確保され、道として認定された涙洞には渾水管と照明が設置されています。

 七八七番涙洞は下りるにつれて狭まり天井も低くなってきました。湯がやや息苦しさを覚えた頃、出口が見えました。足場となる石の板が打ち付けられた壁があり、地面から胸ほどの高さの場所にいびつな穴が開いています。オーメさんに先に出てもらい、湯は板に足をかけます。オーメさんに腕を貸してもらい七八八番涙洞に這い出しました。閉塞感から解放され、湯は七八七番涙洞より高い天井を見上げます。七八八番涙洞の断面はほぼ円形ですが底の部分が平らなので、馬車や車の通り道として使われています。ホヤ照明は壁にあるため、天井付近は薄暗くなっています。湯は自分が働いているお屋敷の廊下と似ていると感じましたが、お屋敷自体が涙洞の結節点である大きな地下空間に建っていることを思い出しました。風が吹き、岩の凹凸や涙洞との接続口に当たって笛のような音が聞こえます。湯は伸びをして深呼吸すると、オーメさんとともに馬車の停留所へ歩き出しました。


北漁キタイサリ交差点までお願いします」

 運転手のおじさんに行き先を告げ、石と骨パテで出来た馬車に乗り込みました。席に座り、オーメさんを膝に抱えます。前から、ほんのりと石鹸のにおいが漂ってきます。馬車を引いているのはウマ型に進化したヒトデ、ヒトデウマです。青鈍アオニビ色の地色に朱色の模様があります。ヒトデウマは大型で運動量も多いため、渾を使うときに生じる石鹸のにおいが体外へ漏れ出ているのです。運転手さんが手綱を操作すると、ヒトデウマは胸と腹にある呼吸溝から水気と石鹸のにおいを吐き出して走り始めました。根元から爪先まで太さがあまり変わらない脚が、地面を蹴ります。石の色の馬車が揺れながら、灰褐色の洞窟を走ってゆきます。ヒトデウマの朱色の模様と、馬車の蛍光色の番号標は彩度が高く遠くからもよく見えます。

 停留所を幾つか過ぎ湯が眠気を覚えたころ、前方に踏切が見えました。七八八番涙洞と、線路が直角に交わっている場所に来たのです。縞模様の遮断機の棹が下りています。線路を鈍い銀色をした列車が走ってゆきます。列車そのものは、海外のとある国で使われていた中古品を買い取ったものです。線路や踏切も輸入したり海外から技術の提供を受けて作られたもので、金属や樹脂で出来ています。棘皮動物をもとにした機械ではありません。世界的に見てもごく常識的な外見の列車に、色とりどりの厚ぼったい星が貼りついています。オーメさんと同じ種類のイエガゼ、ヒラジオカヒトデたちが列車を移動に使っているのです。彼らは色と模様の個体差が大きいため、赤茶色や青緑色など様々な色が見られます。人の家ではなく、都市機能整備用の個体が多いようです。オーメさんが管足を伸ばして同族たちの方を見ています。湯も変わった模様の個体がいないか、金属がぶつかり合う音とともに通り過ぎる列車を見つめました。イエガゼは沢山いますが、窓の中にはあまり人はいません。ここ、北漁町近辺は特に人口の少ない地域です。湯たちの暮らすお屋敷は北西の島の端にあり、北漁町は南東に進んだ内陸側にあります。そこからさらに南へ向かうと、漁棘イサリトゲという大きな街に出ます。

 ヒトデだらけの列車が走り去り、遮断機の棹が上がってゆきます。踏切の向こうに七八八番涙洞の続きが見えます。遮断機が上がり切ったとき、涙洞の彼方で光の色が変わりました。ホヤ照明の放つ光が白から橙色に切り替わりました。日の入りが近いのです。橙色の光の列が踏切に近づいてきます。踏切まで達した橙色の光は、七八八番涙洞へ流れる分と線路の天井へ流れる分の三つの流れに分かれ、湯たちの頭上を走ってゆきました。全ての照明の色を一度に切り替えることも可能ですが、危険なので通路に沿って順番に色が変わるようにしてある、という話を本で読み湯は感心したことがあります。湯たちの乗る馬車が線路を越え町へと近づく間にも涙洞の末端、島の外縁まで橙色の光は毛細管現象めいて広がってゆきます。


 目の前の建物に、たまきび良品と書かれた看板がかかっています。看板はホーロー引きなので艶がありますが、建物もその周りに広がる町並みも、艶消しの中間色です。多くが石と棘皮の骨で出来た現代建築で、牛乳に少しコーヒーを混ぜた色に近い、薄い色をしています。艶消しになっているだけでなく、そうした建物には尖った角もありません。イエガゼたちが後から加工し、削り取ったのです。白っぽくて丸っこい建物の並びの中に、彩度の低い瓦ぶきの建物が少数あります。貴重な年代物の木造建築です。町を照らしている灯りは植えつけたホヤ照明ではなく、高いアーチ状の天井に棲む、発光生き物たちが出す光です。外の夕焼けの光を模倣して、町並みを茜色に染めています。少し視線を上げると、既に失われた技術により天井に建つ古式建築の家々や、中世以前の遺構が見えます。たまきび良品の戸の前にある、金属製の物体が湯の目に止まりました。艶のある黄色に塗られた金属が集まり、墨に似た直方体になっています。オーメさんにはお店の前で待っていてもらうことにして、引き戸を開けました。戸からガラガラという音がします。

 北漁町は他の多くの町と同様、髄洞ズイドウと呼ばれる洞窟の中にあります。髄洞は涙洞と同じく古代の陸生棘皮が作った洞窟です。太さが一定で勾配が緩く広いため、この島では都市が築かれ人々が暮らしています。断面は半円形で、平たい地面とアーチ状の天井があります。かつては一部の棘皮が持つ重力を操る特性を応用し、壁や天井にも多くの建物が築かれました。戦争でその技術が失われてからはそれらの建物は老朽化で取り壊され、数を減らし続けています。


「いらっしゃい。おや、湯ちゃんじゃないかい」

 お店の奥の番台に座っているお婆さんが、湯に声をかけました。番台の向こうは暖簾を隔ててお店と繋がった部屋があり、鉱石テレビが点いています。

「お婆ちゃん、こんにちは。店先にある物は何ですか?」

 戸を閉めて湯はお婆さんに訊きました。お店の中は木製の古い棚があり、生活用品が並んでいます。他にお客さんはいません。

「それがねえ、よく分からないんだよ。息子が送って来たんだけど」

 湯はええっ、と少し驚き戸の窓越しに見える金属物体を見ました。お婆さんの息子は大陸に移り住み、そこで結婚して暮らしているそうです。

「一体何なんでしょうね」

 金属物体は鮮やかな黄色で所々が銀色に光っています。細い金属の棒や複雑な形の板状の部品もあります。

「湯ちゃんこそ、こんな時間にどうしたんだい。お屋敷に帰るの大変なんだろう?」

 ここまでの道のりのことは、お婆さんも承知しています。湯がお店に来るときは大抵昼過ぎでした。

「実は、台所のアカリボヤが卵を産んだんです。そのせいか光らなくなってしまって」

 そう言いながら湯は店内を見回し、棚にアカリボヤがないか探しました。

「まあ、そりゃ大変だ」

 お婆さんが目を丸くして、椅子から腰を浮かしました。

「棚にあるのは埃を被ってるからね。今裏からいいのを持ってくるよ」

 湯は止めようとしましたが、お婆さんは先ほどから腰掛けている立方体型の椅子ナマコを踵で蹴って起こし、座ったままお店の倉庫へホヤを取りにゆきました。

「やっぱり海に近いお屋敷だから、ホヤも居心地いいのかねえ。幾ついるんだい?」

 三匹です、と答え湯は眉根を寄せた困った表情でお婆さんを見送りました。他にも買うものがあるので、湯はネジや定規のある棚を見て回ります。店内の灯りは少し暗く、窓の外の光はより濃い色になってきました。湯が来た道を、仕事帰りらしき人々が歩いてゆきます。

「ほら、いいのがあったよ」

 お婆さんが新品のホヤを四匹、抱えて番台に戻ってきました。手に何か袋も提げています。

「あの、三匹で大丈夫なのですけど」

 お婆さんが口を開き、ウニ骨の入れ歯を見せて笑いました。

「オマケだよ。アカリボヤが人の家で殖えるなんて滅多にないからね」

 湯もふふっ、と笑いました。お屋敷の、それもホヤのことなのにすごい喜びようだと思い、楽しくなったのです。湯は他に軟骨パッキンとブラシ、砥石を買いました。

「これも持って行きな」

 お婆さんは持っていた袋を湯に渡しました。中にはアテモヤの実が入っています。湯は遠慮せずに、ありがとうございますと言って受け取りました。

 湯は戸を開けてお店の外に出ました。お婆さんも椅子ナマコで軒先に出ます。待っていたオーメさんが、金属物体を管足で触っています。

「オーメさん。それはお婆さんのものですから、勝手に触らないでください」

 しかし、オーメさんは既に検分を終えていたようです。数本の管足で金属物体のある一点を指しています。

「ここに、何かあるんですか?」

 湯が訊くとオーメさんは管足で頷きました。指を引っ掛けられそうな部品があります。

「何か仕掛けがあるみたいです」

 湯がお婆さんの方を振り向くと、お婆さんも身を乗り出して頷きました。辺りに人通りはないので、湯は金属物体をお店から少し離れた場所に担いで動かしました。緊張の面持ちで、部品に指をかけます。お婆さんは両手で耳を塞ぎその様子を注視しています。湯の指が部品を引くと、カチリと音がしました。

「わあっ!」

 湯は思わず飛び退きました。今の操作をきっかけに中のバネや関節が動き出し、形が変わりだしたのです。湯は驚愕の表情を浮かべているお婆さんに駆け寄り、自分を楯にするつもりで抱き寄せました。オーメさんは店先から動いていません。抱き合って震える二人の前で、金属物体は金切り声を上げて変形を完了し、立ち上がりました。

 雲はある訳がないですが、天井の発光生物たちの分布の偏りと日毎の活動の変化から、空には模様が生じます。茜色の空に、ほつれて絡まり合う金色の模様が浮かんでいます。夕日の輝きを受け、ぴかぴかの黄色い自転車がたまきび良品の前に立っています。

「お、折り畳み自転車……?」

 湯は金属物体の正体がやっと分かりました。本で読んだことはありましたが、あんな形に畳める機種が存在するとは知らなかったのです。

「自転車だってえ……?」

 震えていたお婆さんは右目、左目の順に目を開け、息子からの贈り物を見つめました。ほっと一息つきます。

「凝澪じゃ、自転車なんて役に立ちゃしないのにねえ」

 お婆さんが苦笑します。確かに洞窟ばかりの凝澪島は自転車で走るのには向いていません。

「でも、ま、わざわざ湯ちゃんが使えるようにしてくれたんだし。町の中で使おうかね。このナマコもくたびれちまってるし。ありがとうね、湯ちゃん」

 お婆さんは椅子ナマコの背中をこすりました。

「ええ、きっとお婆ちゃんによく似合いますよ」

 湯も笑ってお婆さんを見て、自転車を見ました。丸みを帯びたデザインです。

 湯はオーメさんに教えてもらいながらもう一度自転車を折り畳み、お婆さんに操作を教えてからお店の中に運び込みました。外に出て帰ろうとしたときのことです。

「そうそう、忘れるとこだったよ。湯ちゃん、最近線路にお化けが出るんだよ。気をつけな」

 お婆さんの顔は真剣そうで、からかっているようには見えません。

「お化け、ですか?ヂムン人とかではなく?」

 湯は不思議に思い訊き返します。

「ヂムン人だったら人を襲うはずだろ。何にもしないんだよ」

 何もしないお化け、確かにお化けなら何もしないでそこにいるだけでもお化けと呼べるかな、と湯は思いました。もう少し詳しく聞きたくなりましたが、作業服姿の人達が戸を開け、お婆さんを呼んでいます。

「お婆ちゃん、お客さんです」

 お、こりゃいけないと言ってお婆さんは椅子ナマコを旋回させ、お店に向かってゆきます。

「帰り道、気をつけるんだよお」

 振り返って手を振るお婆さんに、湯も手を振りました。湯は向きを変え、停留所に向かいました。


「しまった……」

 馬車は十分前に出ていました。次に来るのは一時間半後です。湯は顎に手を当てて考えました。そして、どこかで時間を潰すのではなく徒歩で帰ることにしました。

「オーメさん、線路で帰りましょう」

 鞄から地図を取り出します。このようなときのために、町からお屋敷へ通じる涙洞は予め調べてあるのです。入り口を確認すると地図をしまい、二人は住宅が立ち並ぶ一角へと入ってゆきました。

 涙洞は岩盤の中を立体的に走っていますが、髄洞で人々が生活しているのはほぼ平面に限られます。馬車で通った涙洞は髄洞の地面と同じ高さだったので道として直接繋がっていますが、そのような涙洞は少数派です。髄洞に接続している涙洞は壁だけでなく天井や地面などに開口しているものが大多数です。湯は住宅街の外れの空き地にやってきました。四角い空き地の真ん中に、八一四番涙洞と刻まれた円い蓋があります。湯が蓋を持ち上げて中を覗くと、光量は少ないですがホヤが橙色の光を放っており、整備された渾水管もあります。湯はオーメさんに先に入ってもらってから自分も滑り込み、内側から蓋を閉めました。

 髄洞の地面は、本来の岩の地面の上に砂や土が積もって出来た、二次的な地面です。人工的に補強された砂の層を通り、湯たちは八一四番涙洞に梯子から降り立ちました。来たときに通ったのとよく似た灰褐色の起伏が北西へと続いています。湯はもう一度地図を確認し歩き出しました。

 オーメさんとともに、黙々と涙洞を歩き続けます。時折カマドウマや小型の陸生棘皮が物陰に隠れます。通るべき脇道を見つけたとき、照明の色が変わりました。橙色だった灯りが深い青色に切り替わります。日没から一時間が経ち夜の色になったのです。

「シグさん、心配してるかなあ」

 湯は立ち止まり、買ったアカリボヤを手に取って独り言を言いました。シグさんは湯が着る棘皮鎧キョクヒヨロイに宿った心のようなもので、湯の保護者に近い存在です。掌の中のアカリボヤは飴細工のような質感の透き通った表皮を蛇腹状に折り畳み、休眠しています。鞄からホヤランプを取り出して灯りを点け脇道に入りました。

 古い扉を開けて出た先は、廃線となった鉄道です。髄洞を小さくしたような、半分の円筒形を伏せた空間が続いています。足元には線路があり、壁の頼りない照明が涙洞と同じ青い光を出しています。湯が進もうとすると、オーメさんは落ちていた新聞紙らしき紙切れを拾い上げ歩きながら何かを折り始めました。

「オーメさん、静かですね」

 二人の足音が、線路内に反響します。

「涼しいし、まるで深海みたいです」

 どこかに水が染み出ているのか水たまりに水滴の落ちる音がしました。オーメさんは管足を潜望鏡のように上に伸ばし、辺りの様子を窺っています。

「お婆ちゃん、嬉しそうでしたね。息子さんからの贈り物」

 湯がランプを掲げ壁を見上げました。非常時用の隔壁が照らし出されます。塵が厚く積もっていてます。

「オーメさん」

 湯は俯き、立ち止まりました。

「私、ときどきとても不安になるんです。ご主人様は、もう私のことなんかどうでもいいんじゃないのかって」

 湯を数歩分追い抜いてからオーメさんも立ち止まりました。その場で旋回し、管足で震える声を拾い続けます。湯が働いているお屋敷のご主人様は一年前から行方が分からず、手紙も届きません。

「今は、シグさんと一緒に雪を見に行くって目標があります。でも、その目標を達成しても、もしもご主人様が、もう私を必要としていなかったら」

 湯の肩から、鞄が落ちました。オーメさんが管足が地面を踏む微かな音を立てて、足元に近づきます。

「オーメさん、私は、どうしたら」

 左手の甲で目の周りを拭い、湯はオーメさんの方を向きました。オーメさんは前腕で鞄を拾い背中に担いでから、管足で湯の足首を数回、軽く叩きました。

「え、顔色がよくない、ですか」

 イエガゼが人間に対して、あなたは調子が良くなさそうに見える、と伝える場合のサインです。オーメさんは鞄を背負ったまま、前へ進んでゆきます。湯はその後を追いかけ、しばらくオーメさんに先導されて歩きました。彼が立ち止まると、壁が凹み部屋になっている場所があります。オーメさんが壁から削り出された長椅子の前で腕を畳んだので、湯も座面の埃を払ってから腰掛けました。

「鉄道局の方が使っていた休憩所でしょうか」

 最後に使われたのは一体いつ頃だろう、と湯が思っている間にオーメさんは管足で鞄を開け、水筒からコップにお茶を注いでいました。湯にコップを渡し、自身もお茶を飲んでいます。二人はしばらく黙ったまま、お茶を飲み続けました。湯がふう、と息をつきました。

「いただいたアテモヤも食べましょうか」

 オーメさんが鞄からナイフを取り出し、管足で湯に渡しました。湯が食べやすいようにアテモヤを切ってゆきます。

 岩の部屋の中、湯の話にオーメさんは管足で頷いたり、皮膚の骨片を動かして何がしかの返答を示し続けています。湯が話すのに満足した頃、オーメさんは新聞紙で折ったものを湯に差し出しました。

「これは、紙飛行機ですか?」

 小鳥に似せて折られた紙飛行機でした。湯が投げてみると、緩やかに下降しながら線路へ飛んでゆきます。

「複雑な形なのに、よく飛びますね。……私たちも、行きましょう」

 湯は長椅子から立ち上がりました。隣にオーメさんが並びます。紙飛行機を拾い、前へ飛ばし、着地点まで歩いてまた拾って飛ばしながら、二人は歩いてゆきます。


「オーメさん、もうすぐお屋敷に通じる涙洞ですよ」

 しばらく線路を歩き続けると、線路と涙洞が交わる踏切が見えました。古ぼけた遮断機もあります。この涙洞を辿ればお屋敷ですが、途端にオーメさんが数十本の管足を展開しました。周囲の気配を探っています。激しく警戒している状態です。

「な、何が起きているんですか?」

 普段落ち着いているオーメさんの変化に、湯も驚きます。オーメさんの管足は、焦点を合わせるかのように次第に踏切に向きつつありました。

「まさか、列車が?」

 点検用の列車が通過するということも考えられなくはありません。それにしてはただならぬ様子だと思いながらも、湯は鞄ごとオーメさんを背中に背負い、踏切へ走り出しました。

「ちょっ、痛いです!引っ張らないで!」

 背中でオーメさんがジタバタしています。線路から離れた方がいいはずなのになぜ、湯がそう思ったとき、遮断機が鳴り始めました。ぎくりとして思わず足を止めます。遮断機の下から伸びる渾水管は途中で切れており、動くはずがありません。湯がちらりと後ろを振り返ると、自分たちが通ってきた線路の奥で、何かが光りました。そして、むせるほど濃い石鹸のにおいがします。

 湯は鞄の中身が落ちるのも構わず、全力で走りました。オーメさんを落とさないことだけを考えます。遮断機の棹が下り切る直前、湯は減速して姿勢を下げ、踏切の外へ転がり出ました。湯が起き上がると、それが線路を走ってくるのが見えます。

 黒々とした夜の海面のように不定形の柔らかな体が、洞窟の直径ほどに膨らんでいます。水面に映った漁火イサリビのように光るのは、膜に包まれた内臓です。ほぼ液体状の体から、無数の疣足と管足を鞭のように繰り出し、壁と天井を掴みこちらへ向かってきます。

「お婆ちゃんが言っていたお化け……ミヅガネシキリだったんですね」

 湯がずり落ちそうなオーメさんを押さえ、呆然と呟きます。ミヅガネシキリの頭部とおぼしき場所で銀色の環状水管が、振動しつつ輝いています。

 ミヅガネシキリは深海に棲むナマコを先祖に持つといわれる、大型の陸生ナマコです。寒天質の体の深海ナマコに陸上生活はままならないはずですが、彼らは渾の力を取り込みある難事業を成功させました。重力を打ち消し、あらゆる種類の骨格なしでも陸上で潰れずに生活出来るように進化したのです。無重力下に浮かぶ水滴めいた生き物となった彼らは、涙洞の中を白血球の如く変形しながら徘徊していると言われています。生態はほとんど解明されていません。

 湯はミヅガネシキリの半透明の体を見て、記憶に焼きつけようとしていました。ご主人様に会えたら、必ずこのことをお伝えしよう、そう心に決めました。複雑な光の軌跡を残してミヅガネシキリは線路の向こうへ消えてゆきました。遮断機は既に止まっています。きっとミヅガネシキリの強力な渾で外からエネルギーを与えられて動いたのだろう、湯は遮断機が動いた理由をそう分析しました。大変なものを見ましたね、と言いオーメさんを地面に降ろします。

「オーメさん?もうミヅガネシキリは行ってしまいましたよ?」

 オーメさんはまだ警戒態勢を解いていません。管足を踏切へ向けています。湯は薄気味悪くなり、また警戒したままだと負担になるため、オーメさんを抱き上げてその場を離れました。


「という訳で、すごかったんですよ。シグさんにもお見せしたかったです」

 予定よりかなり遅くお屋敷に帰った湯は、下層階にいるシグさんと受話器越しに話をしていました。もちろん叱られましたが、無事に戻ったことは喜んでもらえました。話を終えて受話器を置こうとしたとき、シグさんが湯を呼び止めました。

「湯ぉ、さっきから考えていたけど、やっぱり変よぉ」

 シグさんは話しながら湯たちが通った廃線のことを調べていました。

「そうですか?ミヅガネシキリは未解明なことが多い棘皮ですし、未発見の生息地が見つかっただけ」

「そうじゃなくてぇ」

 シグさんが珍しく湯の言葉を遮りました。少し不安そうな声です。

「あなた達の通った踏切の遮断機、半年前に撤去されているのよぉ」

 湯の表情が固まりました。

「それにねぇ、あなたの性格なら遮断機の棹を丁寧に避けないで体当たりすると思うのよぉ」

 確かに、なぜあのとき自分は屈んで避けたのだろう、そんな余裕はなかったのに、湯の背筋が冷たくなりました。何もしないお化け、というお婆さんの言葉がよぎります。


「湯ぉ、わたしは鎧であって、寝具ではないのだけどぉ」

 湯は有事でもないのにシグさんを着て、台所の長椅子に横になっていました。

「あんなことがあった後、私が一人で部屋で眠れるとお思いですか?」

 湯はいつになくにこやかで、丁寧な話し方です。事実、恐怖で自分の部屋に行くことすら出来ませんでした。

「それはそうだけど、イエガゼちゃんたち全員を呼び寄せるなんて、やり過ぎよぉ」

 湯とシグさんの周りには、オーメさんを含め七匹全員のイエガゼが集結しています。とてもじゃないけど眠れないと、お屋敷の修繕の仕事を中断させて湯が呼び出したのです。

「大丈夫、大丈夫です。今晩だけですから。それじゃ、おやすみなさーい」

 湯は南国の果物が刺繍されたアイマスクをつけて、寝てしまいました。シグさんは仕方なくおやすみと言い、イエガゼたちも丸くなりました。台所の灯りが点いたまま、夜は更けてゆきました。




第二夜 線路/ナマコ おわり

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