ボーンシェル・ガール 2 棘皮夜話

コルヌ湾

第一夜 夢/ウミユリ


「ご主人様、まだかなあ……」

 室賀 ムロガ トウは水平線を見つめながら呟きました。空は高く、澄んだ薄い青色をしています。遠い所に手でちぎったような不規則な雲が浮かび、少しずつ形を変えながら流されてゆくのが見えます。波は穏やかで、高く登った太陽の光を照り返して海面が輝きます。

「湯ぉ」

 背後から自分を呼ぶ声がして、湯は長い時間、波の音と風の音、海鳥の鳴き声しか聞こえていなかったことに気づきました。聞こえたのは、柔和そうな女の人の声です。

「ご主人様のことは、自分で探しに行くって決めたのでしょお?」

 声の主が続けます。後ろを振り返ると、湯に瓜二つの少女が砂浜に立っています。緑色の瞳と白い肌、少し痩せた体つきで、濃紺のワンピースと簡素な白いエプロンを身につけています。お屋敷の、メイドの装いです。湯と違うのは髪の色と身長で、黒く長い髪を後頭部に巻き髪留めで留めています。身長は湯より少しだけ高いようです。

「シグさん」

 そう呼びながら、湯は自分がなぜ、目の前の少女をシグさんだと認識出来たのか不思議に思いました。シグさんは湯が着る棘皮鎧キョクヒヨロイに宿った意識であり、人の形はしていないはずです。風が吹き、切り揃えた湯の生牡蠣色の前髪が震えました。

「立ち話もいいけれど、そこでお茶にしましょお」

 シグさんがにこやかにそう言い、反転して歩き出したので、湯は後に続きました。砂を踏みしめて歩く二人の前には、朽ち果てた建物があります。湯が働いているはずのお屋敷の玄関です。木で出来ていた部分は既に風化し、石や棘皮動物キョクヒドウブツの骨からなる柱と骨組みが、かろうじて形を留めています。そして、お屋敷の玄関を取り囲みその向こうにまで広がっているのは、陸生ウミユリと陸生ウミシダたちの森林です。

「なんて立派な……でも、お屋敷にはこんなウミユリは植えられていないのに……」

 湯は唖然として、太く高い茎の頂点から樹木のように放射状に腕を広げる、薄紫色のウミユリたちを見上げました。多関節の腕からは、葉のように平たい棘が並んで生えています。腕や茎のあちこちには、茎とは対照的な蛍光色に彩られたウミシダが着生しています。

「どうして、浜辺にお屋敷が……。それにこの森、植生が変ですよ」

 ウミユリの森は、湯が立っていた砂浜からさほど離れていません。

「これは、内陸のコゴリミオオオオカウミユリじゃないですか?」

 シグさんは振り返らずにふふ、と笑いました。

 ウミユリとウミシダは茎の有無によって分けられますが、よく似た近縁の棘皮動物です。植物の蕾や球根に似たガクと呼ばれる五角形の胴体から、枝のように分岐した腕が伸びています。腕の両側面には羽枝ウシと呼ばれる突起がずらりと並び、羽のようです。ウミユリには、萼の下に骨が連なる茎があります。茎からは巻枝マキエダという根に似た器官が生えており、体を支えて立つ様はユリの花に似ていなくもありません。湯はウミユリについては、花というより羽の生えた枝に似ている、という見解を持っています。ウミシダは茎を持たず、萼の巻枝でものに掴まって暮らしています。

 棘皮動物の中でも特に植物に似ていると言われるウミユリたちですが、凝澪島コゴリミオトウでは光合成を行うようになり、植物のような生き物に進化しました。羽枝や腕の内部には藻類ソウルイが共生しており、ウミユリから住処や水分の提供を受けています。ウミユリは藻類が光合成で作った栄養分で成長するのです。この藻類と共生するウミユリは他の地域のウミユリと区別して、光合成ウミユリと呼ばれています。凝澪島沿岸では、同じく藻類と共生する固着生の動物であるサンゴを生態系から追い出し、ウミユリ礁を築いています。船からウミユリ礁を見ると色とりどりの大輪の花のようなウミユリの群生を見ることが出来、観光資源として期待されたこともありました。凝澪島は人間に敵対する生き物が多く危険なため、観光事業は現在頓挫しています。

 海中で栄えた光合成ウミユリたちは、他の棘皮と同様陸上に進出しました。ウミユリは樹木のように大型化し、ウミシダはウミユリに着生して効率よく光を集めるようになりました。こうして、凝澪島にはウミユリの森が出来上がったのです。

 シグさんは玄関前の開けた場所で立ち止まりました。彼女が足を止めた先には、直立して整った枝振りのウミユリがあり、その木陰に一つの卓と二つの椅子、石で出来たティーセットが用意してあります。シグさんが先に席に着きました。

「紅茶を用意したわぁ」

 湯は玄関のそばの、ウミユリ森林への入り口を見ました。地面でウミユリの茎がとぐろを巻き、太い巻枝が多孔質の岩からなる地面に食い込んで巨体を支えています。茎から巻枝が垂れ下がる様子は気根キコンの発達した樹木のようです。もとは直立していたものが伸び過ぎて倒れ、倒れてまた成長することを繰り返したのか、茎がのたうち回るミミズの一瞬の姿を固定したかのような、強くうねる形になった個体もいます。

「このウミユリの仕立て直しは、大変そう」

 まだお屋敷の形が少しでも残っているため、湯は兼任している庭師としての仕事のことを考えて眉間に深い皺を寄せました。伸び過ぎた茎を切って植え直す作業の他に、表面に生えた苔も剥がさないといけません。イエガゼさんたち全員に手伝ってもらわないといけないかも、と湯は思いました。

「そうだ、シグさん、オーメさんはどちらに?」

 一緒に働いているはずのイエガゼ、つまり雑用を手伝ってくれるヒトデたちのことを思い出し、湯はオーメさんにまだ会っていないことに気づきました。オーメさんに挨拶をしないと湯の一日は始まりません。シグさんは玄武岩ゲンブガン製のティーカップに紅茶を注ぎました。

「大丈夫、彼ならすぐ側にいるわぁ」

 釈然としないものを感じつつ、お茶が冷めてしまうので湯は席に着きました。


「湯ぉ、何だかそわそわしていないぃ?」

 落ち着きのない様子でお茶を冷ましている湯に、シグさんが尋ねました。

「だって、それは」

 湯はお茶に口をつけてその熱さにあちっ、と声を上げ、カップを皿に置きました。

「こうして、自分が着ている鎧と改めて向かい合うと気恥ずかしいというか」

 湯は、やや困った顔で、卓の側に立つ、ウミユリの茎を見ました。茎から伸びる無数の巻枝の一本に光合成ウミシダが停まっています。全身の色は濃い赤紫色で、羽枝には濃く鮮やかな黄色の紋様があります。また強い太陽光と乾燥に耐える必然から皮膚は光沢を帯びています。大型のウミユリに比べ腕はずっと細くしなやかで、肉厚の葉のような羽枝を内側に折り畳んでいます。腕だけでなく羽枝も畳んでいるのは、この時間の強過ぎる太陽光から体内の藻類を保護するためです。

「だいたい、ここはどこなんですか?」

 息を吹いて冷まし、湯はお茶を一口すすりました。シグさんの向こうのウミユリの腕に、飛行型のウミシダが滑空して来て停りました。黒に近い焦げ茶色で、全体の形は首から上のない鳥のような姿です。全身から藪々しく飛び出した羽枝が、青や紫の金属光沢を帯びて輝いています。皮膚表面の凹凸で構造色が発生しているのです。飛行型ウミシダは採餌サイジ用の腕でウミユリの腕を啄ばみ始めましたが、海鳥の鳴き声が聞こえたためか四枚の翼腕を羽ばたかせ、紫色に霞む森の中へ消えてゆきました。陸生ウミシダには軽量さと運動能力の高さから飛行動物に進化した一群が存在しますが、飛翔能力は鳥類には及ばず種数、個体数ともに多くはありません。凝澪島ではトリガゼと総称され、見ると幸運が訪れると言われています。

「それに、なんでシグさんが私のような姿になっているんですか?」

 湯は角砂糖を五つ、お茶に落としました。タンニンの含まれる紅い水面の下で、角砂糖が崩れて溶けてゆきます。

「ここはね、わたしの夢の中よぉ」

 このぐらい甘くしてやっと甘いと言える、などと思いながらお茶を飲んでいた湯は、怪訝な顔でカップを置きました。

「シグさんの夢?私の夢ではなく、ですか?」

 遠くで、また海鳥が鳴きました。有史以前、凝澪島ではほとんどの陸生脊椎動物が絶滅しました。その後、コン、つまり魔法の源となるエネルギーを用いて俊敏な動作が可能な棘皮動物が上陸し、かつての脊椎動物の生態的地位を引き継ぎました。飛行可能な鳥類は近隣の鳥令トノリ諸島と行き来があるためか絶滅の影響が少なく、今でも他の島々と変わらない種類が見られます。シグさんはミルクを入れたお茶を飲み、湯は質問するのが好きねぇ、と言いました。

「そぉ、わたしの、棘皮知性体の夢。もっと正確に言えば、あなたの中のわたしが、この夢を見ているのねぇ」

 また風が吹きました。二人の足元を、カニクモヒトデムシ、凝澪での呼び名はカニガゼと呼ばれる赤紫色の陸生クモヒトデが歩いてゆきます。横に引き伸ばされた五角形の胴体と、幾つかの節が癒合し甲殻となった二本の腕を持つ姿は、カニによく似ています。残りの三本の腕をクランクめいて機械的に動かし、横と言える向きに歩いて草むらに姿を消しました。

「私の中のシグさん?」

 そう言いながら、湯は強い眠気に襲われていました。まさかシグさんに一服盛られたか、棘皮動物は頑丈だけど化学汚染に弱いのは自分たちが証明済みだし、そんなことを考えている湯は、既に舟を漕ぎ始めています。

「そぉ。不思議に思ったことはなぁい?棘皮鎧には脳にあたる場所がないし、断片になっても思考能力があるわぁ」

 湯が何かむにゃむにゃと言ってお茶を飲み干しました。

「棘皮鎧自体には思考中枢はないのぉ。着ている人の体全部を、思考器官として借りているのよぉ。この夢は、あなたの体に間借りしているわたしの夢」

 今にも卓に突っ伏して眠り始めそうな湯は、なるほど、脳はエネルギー消費の多い器官だし合理的だ、と思いました。

「あれ……でも……シグさん、私が着てないときも……むにゃむにゃ……お屋敷の見張りを……」

 最早湯の言葉は寝言のようです。そんな湯をシグさんは目を細め、頷きながら見ています。シグさんは人工神経でお屋敷の警備システムと一体化しているのです。

「あなたの中に残しておいたわたしと、非分類エネルギーで通信しているのぉ」

 非分類エネルギーとは、渾の国際的な呼び方です。そんな便利な仕組みが、そう言って湯は卓に額をぶつけました。ティーセットが揺れます。

「さっきから眠そうねぇ。寝室に行きましょう」

 シグさんは席から立ち、湯の手を取って歩き出しました。


 二人は植物とウミユリ、ウミシダに覆われたお屋敷の廃墟へと入ってゆきます。壁や梁からは草が生い茂り、ウミユリだけではなく樹木も根を下ろして、お屋敷の分解を速めています。天井は崩れて空を覗くことが出来、床板はシロアリと真菌シンキンの餌となり基礎の棘皮の骨が剥き出しになっています。お屋敷の骨組みを作っているのは、凝澪島中央部産のウミユリの骨と、北西部沿岸のウニのトゲです。どちらも渾で処理され強度が増しています。手を引かれる湯と引くシグさんの姿は、姉妹のようにも見えます。

「シグさん」

 目をこすりながら、湯がシグさんを呼びました。

「そんな大事な話、私にしてよかったんですか?」

 湯が尋ねると、シグさんはうふふと笑いました。

「えぇ。実はね、覚えていないと思うけど、ここであなたと何度も、同じ話をしたのよぉ」

 そう答えるシグさんの背中に、湯の頭がぶつかりました。歩きながら寝てしまったようです。何か寝言を呟いています。シグさんは湯を抱き抱え、寝室に連れてゆきました。

 大きなウミユリの下、木漏れ日が降るベッドの上で、シグさんは湯を膝枕しています。一羽のトリガゼが飛んで来て、ウミユリの腕の隙間に入ってゆきました。骨や木の枝で出来た籠のようなものがあり、中で紅色の小さな翼腕が動くのが見えました。あらぁ、トリガゼさんの巣があるのねぇ、とシグさんは独り言を言い、湯の左手と自分の左手を重ねました。風の音と、虫の声が聞こえます。南海の島である凝澪島には昆虫が少なく、聞こえる鳴き声は耳に心地よいものの単調です。やがて、空の色が非現実的な速さで移ろい、星が見え始めました。夢の中で熟睡するのとは逆に、自分自身の現実に覚醒しつつある湯の意識が反映されているのです。

「湯。話を聞いてくれて、ありがとう」

 シグさんは湯の寝顔を見つめています。二人の上で開いていたウミユリの腕が、ゼンマイのように内側に丸まり始めました。夜間は光合成が出来ず、羽枝を食べる動物もいるため腕を畳むのです。トリガゼの巣は腕を畳んだときにも潰れない、巧妙な位置に作られています。森を形作るウミユリたちも、緩慢ながら一流の楽器演奏者を思わせる滑らかな動きで腕を閉じてゆきます。寝息を立てる湯の髪をシグさんが撫でる僅かな時間で、広葉樹コウヨウジュの森に似ていたウミユリの森は、星明かりに照らされた骨の塔が立ち並ぶ、墓地のような場所に姿を変えました。そして、昼間の活動を終えたウミユリたちとは逆に、ウミシダたちがさざめいて動き出します。巻枝を緩めてウミユリの茎から離れ、数十本の腕をクモやザトウムシのように動かし、物音を立てることなく歩き回ります。明日、より多く光と風を浴びられる場所を、夜の間に探しているのです。

「よかったら、また遊びに来て頂戴」

 シグさんの膝の上の、湯の姿が薄れてゆきます。風の音も虫の声も、細かな気泡が弾けるような音にかき消されてゆきます。シグさんは、湯の手が微かに動いたように思いました。



 湯は、いつもの相部屋のベッドで目を覚ましました。目の周りに違和感を覚え指で触れると、濡れています。

「寝てる間に泣いてた……?」

 夢は見なかったのに変だな、と思い隣を見ると、オーメさんが寝ています。海鼠水工カイソスイコウに向かう準備で疲れ気味なため、オーメさんに枕になってもらったのです。

 着替えながら、湯は床の埃を管足で拾っているオーメさんに言いました。

「後で、シグさんの部屋に行きましょう」

 オーメさんは管足で頷きます。

「なんででしょう……昨日も袖を通したはずなのに、無性に懐かしくって」




第一夜 夢/ウミユリ おわり

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