第三種接近遭遇

「取り敢えず入ってください」


 僕はしゃがんだまま動かない彼女に手を差し伸べた。


「ありがとう」


 彼女は右腕を押さえていた左手を離した。ぽたぽたっ、と液体がアパートの廊下に落ちる。そのまま僕の手を取ろうとした彼女は、はっとしてその手を引っ込めた。


「立てます。手が汚れてて……」


 その時、近くを通り過ぎる車の音がした。びくり、とした彼女が恐怖の表情でそっちを見る。


「いいから。早く! 」


 誰かに追われているのか?

 彼女の様子から察した僕は強引に濡れた彼女の左手を取って、ドアの内側に引き込んだ。

 狭めたドアの隙間から少しだけ外を伺い、異常がないことを確認するとドアを閉め、鍵を掛けた。

 ふと、握った彼女の手に違和感を覚えた。

 肌が、ごわ、と固い。

 特に手の甲側の、指の付け根の関節と第二関節の皮膚は一段盛り上がって厚く、表面はがさがさとして別の生き物の皮膚のようだった。

 女の子の手を握ったのなんてそれこそ中学のフォークダンスの時以来だが、これが一般的な女の子の手、ではないだろう。

 何かの病気、だろうか?

 そこまで考えた時、僕は彼女の手を握りっぱなしだった事に気がついて、


「あ、すみません! 」

「いえ……」


 謝罪して手を離す。

 ちらりとその自分の掌を見て、思わず二度見する。

 僕の掌を染めていたのは、真っ赤な血潮でなく、少し透明感のある緑色の液体だった。

 ……え? ……緑? ……え?

 玄関の土間の狭いスペース。彼女は僕のすぐそばで、困ったような顔でこちらを視ている。


 --灰色の瞳で。


 ちょっと待ってよ。僕は……僕は何を家に引き込んだんだ……?


 助けを必要としている可愛い女の子だと思っていた彼女が、急に人間の形をした異質な存在に思えて、僕の背中は粟立った。


「あの……」


「あ、はい! 」


「シャワーをお借りしてもよろしいですか? 」


「あ、ええ! どうぞ! 」


 靴を脱いで律儀に揃えた彼女は僕の隣をすり抜けて、ユニットバスに向かう。

 その時、彼女の髪や服から線香……いや、焚き火を焚いた煙のような匂いが香った。

 なんだこの子は。追って来てる何者かに家を焼かれでもしたんだろうか。


「何か手伝いますか? 必要なものとかは? 」


「いえ、大丈夫。自分でやれますから」


 彼女はそう言うと、バタンとバスルームのドアを閉めた。

 カチャリ、と鍵の掛かる音がして、ドアノブのインジケーターが青から赤に変わる。

 そして、きゅうと、蛇口を捻る音とシャワーが噴き出す音が聞こえた。

 新しい包帯を巻く前に、傷を洗っているのだろう。


 匂い--か。


 僕は恐る恐る自分の左の掌を鼻に近づける。

 ふわっと生臭い……磯のような匂いが鼻腔に広がる。

 僕は思わず顔をしかめて掌を鼻から遠ざけた。

 鉄のような血の匂いではない。

 だが例えばインクや絵の具を水に溶いたようなものとは明らかに違う、生物由来の生々しさのようなものが確かにあった。

 途端に、さっきまで感じていた不安は恐怖に変わって、流し台に走った僕は大急ぎでその手を洗った。

 台所洗剤を大量に掛けまくって。緑の色素を含む謎の液体はこびり付くようなことはなく、容易に洗い流すことができた。


 なんだ? 何が起きているんだ? こんなことが、現実に起こりうるのか? あの子はなんだ? 人間? ……地球の?

 

 まさか……異星--。


 そこまで考えて、僕はぶんぶんと頭を振った。


 ありえない。

 異星人が窒素大気で生きて行けるのか?

 普通に日本語を話す?

 何かの詐欺か……ドッキリ番組だろうか?

 に、しては演出が地味で分かりにくくないか? 

 なんなんだ?

 なんなんだよ一体⁉︎


 とにかく、一刻も早く彼女には出て行って欲しかった。

 これを切っ掛けに、可愛い女の子と仲良くなれるかも、なんて考えはどこかにすっ飛んだ。

 シャワーの音は続いている。

 早く帰ってくれ。

 視線は自然にこの家の出口……玄関ドアと狭い土間に向いた。

 そこにある彼女の靴……黒い革靴だった。

 きちんと揃えて置かれたそれは、よく見ると靴の左右が反対に置かれている。


 ジーンズに革靴? 

 左右反対に履いてた? 

 もうなんなんだよ! 勘弁してくれよ!


 その時また、きゅう、と音がしてシャワーの水音が止んだ。

 かしゃり、とバスルームのドアノブのインジケーターが青に変わる。

 ぼくは思わず身を固くして彼女が出て来るのを待った。

 間を置かず出てきた彼女。入った時と変わった様子はない。

 シャワーを浴びたわけでもないので髪も乾いていたし、勿論着衣もそのままだ。ただ彼女が言っていた通り、右腕だけ様子が違っていて、新しい包帯が巻かれていた。

 僕は彼女をまじまじと正面から見た。

 ああ、なんだ、やっぱり普通の人間だ、と思える材料が欲しかったのだ。

 だが確かめられたのは、あどけなさの残る可愛い顔立ちと灰色の瞳くらいで、後はジーンズの右足首辺りの内側に黒い汚れとほつれを見出しただけだった。

 やはり火事場から逃げて来たのだろうか。

 いや。待てよ。

 なんだろう。この記憶の片隅に引っかかる感じ。


 僕は以前に、どこかでこの娘に会っている--?


「ありがとうございます。助かりました。実は私は--」


 何か言い掛けた彼女はしかし驚いたような顔をして視線を今の奥の窓に送った。

 窓のカーテンは少しだけ隙間が開いている。


「いけない! カーテンを閉めて! 今すぐ! 」


 彼女は恐怖の表情でしゃがみ込む。僕は訳も分からず、だが取り敢えずバタバタと出窓に駆け付けて急いでカーテンを閉めた。

 僕自身は出窓の直下の壁の影に伏せる。

 その直後、外からの赤い光が何度か繰り返しカーテンを舐めた。


 回転灯?

 パトカーか何かか?

 いや、なんで全く車の音がしないんだ?

 電気自動車のパトカー?

 そんなのあるのか?


 暫くそのままでいると、赤い光はカーテンに映らなくなり、彼女が、ほっ、と息を漏らした。


 今……車の音なんて全くしなかったんだぞ?

 彼女はなんで、それが来るって分かったんだ……? 

『私は実は--』なんなんだよ!

 言ってくれよ!


「これ以上、ご迷惑はお掛けできません。私、おいとまします」


「君は……一体……」


「……最後にもう一つだけ、お願いできますか? 」


「お願い? 」


「お水を、一杯頂けないでしょうか? 」


「水? ……飲むの? 」


「はい」


「スポーツドリンクもあるけど」


「お水で」


「コップに水道の水でも? 」


「頂けるなら」


 僕は洗ってシンクの横の四角い樹脂製のカゴに逆さまに伏せてあった飾り気のないコップに、流しの水道から黙って水を注ぎ、彼女に差し出した。


 彼女はそれを右手で受け取った。

 僕は彼女の右手首の内側に、百円玉位の赤いマークを認めた。

 それは最初、円の中に、漢字の「王」に似た印をあしらったものに見えたが、よく見るとその円も「王」も細かな模様--読めないが恐らく文字--の集合体であり、それは例えばマジックで書いたり何かを貼り付けたりしたようなものには見えず、所謂いわゆる入れ墨のようだった。

 彼女は僕からコップを受け取ると、それを一気に煽り、ごくごくと喉を鳴らして飲み下した。

 ぷはっ、と息を継いだ彼女は無言で僕に空のコップを返した。

 そして灰色の瞳で、僕を真っ直ぐに見つめて言った。


「何から何までありがとう。私は帰ります。あなたは私が去っても、暫くは外に出ないでください」


 確かに。

 さっきのパトカーがいたら僕も逮捕されないまでも、されたくもない詰問を受けるかも知れない。


「君は……大丈夫なのか? 」


「大丈夫です」


 彼女は左右反対の皮靴を当たり前のように履くと、音を立てないように注意深く玄関ドアの鍵を回した。

 次に少しだけ開けたドアの隙間から外を伺うと、僕を振り返って小声で言った。


「私が出たら、すぐに鍵を掛けてください。そしてあなたは、今夜の事は忘れるんです。私はここに来なかった。あなたは誰も助けなかった。そう割り切る方が、お互いに幸せです。

 勿論、私はあなたのご親切を忘れたりしませんし、とても感謝していますが。……いいですね? 」


 僕は黙って頷いた。

 反論したいことも、聴きたいことも色々とあった。

 どこかで会ったような、面影に見覚えがあるような感覚も依然として確かにあった。

 だが、彼女にそれを言うことははばかられた。言葉の、声の迫力に負けた、と言ってもいい。


「本当にありがとう。……さようなら」


 言うが早いか彼女は素早くドアを開けて、猫のようにするり、としなやかに出て言った。

 僕は彼女に言われた通り、すぐにドアに鍵を掛けた。

 全身の力が抜けて、大きな溜息を一つく。

 その息を吐ききった正に最後の瞬間、僕の耳は微かに、だが確かに外の通りで上がった悲鳴を聴いた。

 しばらく出るな、とは言われてはいたものの、居ても立っても居られなくなった僕は、慌ただしくドアの鍵を回してドアを開け、隣室の三部屋分のドアの前を駆け抜けて階段を駆け下りて通りに出た。

 しかし彼女の姿はない。

 それどころか、アパートの前には車一台人っ子一人いなった。

 我が家のアパートの前の通りは、かなり長い直線の生活道路で、敷地を出て右も左も七、八百メートルずつ位は見渡せる。等間隔に小さくなってゆく街灯の、LED照明の白い光の円錐の連なり。

 僕は彼女の名前を叫ぼうとして、名前など名乗り合わなかったことを思い出す。

 きょろきょろと目を凝らしながら彼女の姿を夜の街に探す。心からその無事を祈りながら。

 そんな僕の目が、夜の住宅街の景色の一角に釘付けになった。


 --居た! 彼女だ。


 見渡せるぎりぎりの遥か彼方--恐らく近く1キロ近く先--の街灯の下に、幻のように白いブラウスの人物が立っている。

 ……遠い。悲鳴が聞こえてから僕が通りに飛び出すまで、十五秒と掛かっていない筈。

 その間にあんな所まで?

 テレポーテー……いやいや、まさか。別人、か?

 白いブラウスの人影が、遥か遠い街灯の光の三角の中でこちらに向かって手を振った。

 そして、ふっ、と闇の中に消えた。

 それを見た僕は三歩だけ駆けたが、とても追いつけないと考えを改めて、とぼとぼと自分の部屋に向かって歩き始めた。


 なんだったんだ?

 僕は……何に出会ったんだ?

 彼女は何者だったんだ?

 彼女は何から逃げてたんだ?

 彼女はどこに行ったんだ?

 灰色の瞳。

 面影の記憶。

 節が異常に固く膨れた手。

 緑色の血。

 左右反対の革靴。

 予知まがいの言動。

 一杯の水。

 赤い入れ墨。

 瞬間移動。


 答えの出る筈もない疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。


 夢か。何かの錯覚か。

 自覚のない精神病の患者なのか、僕は。自分でも気付かない内にストレスを抱え込んでいて、体感レベルの妄想を患っているのだろうか。

 そこまで行かないまでも、軽度で一過性の妄想気分かも知れない。

 でないと、説明が付かない。


 そうだ。そうなんだ、と思い込むと、幾分気持ちも落ち着いた。


 顔でも洗って落ち着いて、冷静にもう一度考えてみよう。

 心の問題なら、親に相談した上で専門家に診てもらえばいい。

 彼女は幻。

 僕の心の風邪が見せた幻だ。


 玄関をくぐって、顔を洗う為にバスルームのドアを開ける。

 僕の動きはそこで凍りついた。

 まずほうけたように唖然とする。

 次に、自分でも気持ち悪かったのだが、力無い笑いが込み上げて来た。全身の毛が逆立ち、鳥肌が繰り返し立って治らない。だからオカルトは嫌いなんだ。結局、納得できるような答えは提示されず、深い闇のような不可解と、不可解に起因する根源的な恐怖だけが強烈に残る。


 僕はオカルトが嫌いだった。

 そして、こんな出来事は精神科のカウンセラーにも、親兄弟にも、相談できなかった。


 僕の部屋のユニットバスの洗面台の足元には、とぐろ

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