第24話 洗礼とお披露目の儀
――翌日の早朝。
ルカは大聖堂へとやって来ていた。
既に街の人々が行列を成す中、集団の先頭近くに並んだルカは大聖堂の深部へと入る為の通過儀礼を受ける。
聖堂に一歩足を踏み入れただけで眩暈を覚えたルカだったが、何とか踏ん張り、洗礼を受ける。
洗礼は一番定番でありながら、一番ルカを苦しめるであろう手法が採用されていた。
聖別された水、つまり聖水に全身を浸し、身を清めるというものだ。
聖水に足先が触れた瞬間、ピリッと痺れるような痛みがルカの神経を走る。
「どうかされましたか?」
思わず足を引っ込めて苦悶の表情を浮かべるルカを、年若い見習い神官が怪訝そうな顔つきで窺ってくる。
ここで騒ぎになってしまっては、全ての苦労が水の泡だ。
「いや……。少し水が冷たかっただけだ」
「ああ! そうですよね。すみません、気付かなくて……。でもすぐに終わりますから、少しの間ご辛抱下さい」
ルカは見習い神官に静かに首を振ると、意を決したように聖水の中へと身を踊らせた。
全身を針で刺し貫かれたかのような痛みがルカを襲った。
あまりの痛みに声が出ず、息をする事すら忘れてルカはじっと堪えた。
「はい、これでお清めは終わりですよ」
時間にして十秒足らずだったが、ルカにとっては長い試練だった。
やっと聖水から出てみれば、全身の肌が火傷をしたように真っ赤に色付いている。
凍てつく外気に触れると、肌がヒリヒリと熱を帯びて火照っているのがよく判った。
「こちらにお召し替え下さい」
「……すまない」
どうやらこの見習い神官は何も知らない様子だった。
ルカの正体がいったい何であるか、今日これから何が起こるかを知らず、ただ自分に与えられた役目を懸命にこなしている。
その姿は街の子供たちに話で聞いた高位の神官よりも、よほど立派にルカの目には映った。
渡された白装束に着替えると、案内役の別の神官の指示に従って長い廊下を進む。
高い天井に幾つもの足音が混ざり合って鳴り響いていた。
壁には天から舞い降りた天使や、人々を教え導く神の姿が描かれた色彩豊かなタペストリーが幾つも飾られている。
その中でもルカが一番長い間目を留めたタペストリーには、漆黒の翼と鋭い牙が特徴的な悪魔を討ち滅ぼす聖女と騎士の姿が描かれていた。
それは今日まで受け継がれてきた最も人気の高い伝承の、一番有名な場面である。
そこに描かれている悪魔は恐らくヴァンパイアなのだろうとルカは直感した。
儀式の場へと足を踏み入れたルカはまたしても、体勢を崩しそうになった。
先程の洗礼の影響もあり、また教会本部というだけあって四肢を縛られたと錯覚してしまう程に圧力が重くのし掛かり、ルカを苦しめる。
呼応するかのように、聖水に焼かれたルカの皮膚がカッと熱を帯びた。
身に纏った白装束が炎症を起こしたあちこちの肌に触れて引き攣るような痛みがルカを襲った。
それは迷い込んできた異物を圧し潰し、焼き尽くして排除しようとしているかのようだった。
それでも歯を食い縛り、ルカは顔を上げる。
祭壇へと続く中央通路には、赤い敷布が掛けられていた。
目の覚めるようなその色を辿れば、祭壇の上にゆったりとした法衣の上からでも判る程でっぷりと腹の突き出た男が立っている。
何者だろうかというルカの疑問は、周囲で囁く信者たちの声によってすぐに解決された。
彼は教皇の最高顧問・枢機卿らしい。
そんな彼の背後、ルカたち参拝者の正面には大きな十字架と、薔薇を模したステンドグラスが輝き、天井を見上げれば、黄金に彩られた中に角のような形をしたラッパを持った天使の舞う姿が描かれている。
背後から聖歌が聞こえてくるのは二階通路の延長線上、入り口部分に当たる拝堂の上部に設けられた席で修道女たちが歌っている為だろう。
人の流れに従って身廊を進み、前の方から詰めて会衆席へと掛けると、ルカは最前列の主通路側の端、お誂え向きな事に聖書台の真正面になった。
儀式が始まるまで少し時間があるようで、ルカはアーケードで区切られた側廊と身廊の屋根の高さの差の部分に設けられた
「皆様、ご起立下さい」
そのまま静かに数分の時が流れつつも、新しい巫女のお披露目を今か今かと待ち望む信者たちに待たされる事による苛立ちの色が見え始めた頃、それまで黙っていたようやく枢機卿が口を開いた。
その言葉に従い、皆が会衆席より一斉に立ち上がる。
ルカもそれに習って立ち上がればサッと血の気が引く感覚を覚え、数秒に渡って彼の視界がチカチカと明滅した。
どうやら、立ち眩みを起こしたらしい。
「長らくお待たせ致しました。これより、新しい巫女のお披露目の儀を執り行います」
高らかに宣言する枢機卿の声は、聖職者がこれから宗教的に重要な行事を慣行するというよりも、見せ物を始める前の掛け声のように聞こえた。
事実、多くの者たちにとってこれは見せ物以外の何物でも無いが。
「我らが新巫女・ディアナ様です!」
新巫女、ディアナは聖職者にエスコートされながら祭壇の上に姿を現した。
エスコート役のその男が何者なのか、ルカにはすぐに判った。
ニクスだ。
ニクスがディアナの手を引いている。
一方のディアナはというと、地面を引き摺るような長さの、汚れを知らぬ花嫁が着るような真っ白なドレスに身を包んでいた。
履き慣れない踵の高い靴が歩きにくいのか、ディアナの足取りは覚束ない。
まるで恋人のように寄り添う二人に、皆こぞって感嘆のため息を漏らした。
伝承上の巫女と騎士のようだ、と。
教会の教えによればその昔、相思相愛の男女が手に手を取り合ってヴァンパイアを滅ぼし、世界を救ったそうだ。
会衆席の皆はそれを思い起こし、満足げに頷いていた。
――ただ一人、ルカを除いて。
およそひと月ぶりにディアナの姿を見て、ルカが安堵したのはほんのつかの間の事だった。
ディアナが真正面を向いた途端、サッと顔色が変わる。
「……た?」
ルカの中である感情が大きく膨れ上がるのに比例するようにして、加速度的にルカの存在感が増していく。
身体の両脇で握りしめられたルカの拳はワナワナと震えていた。
抑圧されていた感情は紅玉の瞳がカッと見開かれるのと同時に一気に開放され、爆ぜた。
「ディアナに何をした!?」
ルカの鋭い声が聖堂の天井に響き渡った。
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