第21話 新月
山を登り始めたルカが早々に思った事は、やはりディアナを連れず、自分一人で来て正解だったという事だった。
さすが霊峰と呼ばれて聖職者が修行する為の場所というだけあって、時折道無き道を進まねばならない時もある。
ところどころに登頂者を試すような罠も仕掛けてあり、人間などとは比べものにもならない程に感覚の鋭いルカだからこそ一度も足を取られる事無く進む事が出来たが、ディアナを連れていては同じように登れたかどうかわからない。
加えて今は冬で、標高が高くなれば高くなる程、足元を覆う雪は深くなっていった。
初日は晴れていた空も、二日目の朝には雲行きが怪しくなり、ちょうど霊峰付近に局所的な大雪を降らせた。
零ぜろに近い視界の中、幾度も雪崩に遭遇し、時には直前で道を逸れて回避し、時には洞窟でやり過ごした。
そうして、旅立ってから二日目の夜。
ようやく山頂に辿り着いたルカは、深い雪の中に俯き加減で咲く白い花を見つけた。
「これが……」
街でディアナが人に聞いたという花の話を、果たして本当にそんなものがあるのかと眉唾ものに思っていたルカは、ディアナから伝え聞いたそのままの見た目の花を前に息を呑んだ。
恥じらう乙女のような弱々しく繊細な見た目に反し、その花はずしりと重く冷たい雪をものともせずに咲くその花は、幻想的で美しかった。
人の目ではこの暗がりと雪の中ではその姿、その美しさを確認する事は難しいだろうが、特別製のルカの深紅の瞳はばっちりとその姿形をとらえていた。
その花はレンテンローズ、または異国の言葉でヘレボルス・ニゲルと呼ばれているらしい。
暫しの間見とれていたルカは、根元の土ごと持ち帰ってほしいというディアナの言葉を思いだし、背中に抱えていた荷物から道具を取り出し、作業に入る。
花を無事に採取し終えたルカはすくっと立ち上がる。
そしてたった今踏み固めてやってきた雪道を、花の入った鞄を大事に抱えながら引き返した。
帰り道はルカの心境を反映したかのように、行きの半分ほどの時間で戻ってくる事が出来た。
ディアナに見送られてから、三日目の夜の事である。
花を見せたらディアナはどんな顔をするだろうか?
喜ぶだろうか?
驚くだろうか?
早く会いたい。
ただディアナに会いたいと、その一心でルカは家路を急いだ。
町に入ってからは無意識に全力疾走をして、ついに家の前まで戻ってきた。
扉を一つ潜ればディアナがいる。
自分の帰還と共に採取してきた花を見せて驚かせようと考えたルカは、いそいそと鞄からレンテンローズを取り出す。
彼が異変に気付いたのは、扉に触れた時だった。
明かりが消えている。
既に眠ってしまっているのかとも一度は思った彼だが、規則正しい生活をしてるディアナに限ってそれは考えにくい。
何より、眠っているだとかという以前に、扉の向こうに何者の気配も感じられなかった。
生き物の気配が一切しないのだ。
ルカはゆっくりと扉を開け放つ。
最初に目に付いたのは火の消えた燭台だ。
部屋の中はもぬけの殻だった。
ルカはこんな未来を望んでいたわけでは無かった。
ただ、ディアナの喜ぶ顔が見たくて、霊峰に登ったのだ。
神の試練とも呼ばれるその山を登り切ったルカに与えられたのは、あまりにも残酷な仕打ちだった。
「くっ……」
長い牙を剥き出しにして、玄関先に立ち尽くしたままルカは歯を食い縛る。
左手のレンテンローズの花を恨むかのように、それでいて何かを願うかのようにルカはそれを強く、強く握り締めていた。
空に月は無かった。
*****
一晩中、玄関先に佇んだままだったルカだが、夜が明けるといなくなってしまったディアナを捜し出そうと、行動を開始した。
彼がまず最初に行ったのは、家の中を改める事だった。
明るくなった室内を見回すと、ありがちに椅子が倒れたり、鍋が引っくり返ったりしていない事が判った。
半年以上も一緒に暮らしていれば、狭い家の中の物の配置などすぐに覚えてしまう。
その記憶と照らし合わせても、室内に違和感は無い。
全く争った形跡が無いという事は、恐らくディアナが浚われた現場は家では無いのだろうとルカは考えた。
とすると、ディアナはルカの言いつけを守らなかったという結論に行き着いてしまう。
今更ルカはそれを怒る気にはなれなかった。
どうせ真面目なディアナの事だから、自分ばかり楽をしていられないと考え、マッチの行商に出掛けたのだろう。
ただディアナが無事に戻ってきてくれれば、ルカはそれで良かった。
次にルカは町に出て聞き取りを行う事にした。
情報が何も無いのだ。
そうする他無い。
ディアナがどこに行ったか知らないかと聞いて回る彼に、町の人々は一様に首を振った。
誰も彼もが、昨日も一昨日も姿を見ていないと言う。
最後に見たという証言があったのは、ルカが旅立った初日のお昼過ぎだった。
その情報が確かなら、自分が神域に入った頃にディアナが失踪した可能性が高い。
ちょうどルカが不在の間の出来事。
普通に考えるのならば、何者かに浚われたと考える方が自然だった。
そして、そこまで考えたルカは嫌でもある可能性に気付いてしまう。
「そういえば……」
ここ数日で何か変わった事は無かったかと尋ねるルカに、買い出しの途中だった飲食店の店主は言った。
「今度代替わりをする新しい巫女様が、この町から選ばれたってもっぱらの噂だったな」
「何!?」
「お、おい。いきなり大きな声を出すなよ……」
巫女という言葉を聞いた途端に、ルカは紅玉の瞳をカッと見開いた。
一気に殺気立ったようなその様子に、店主の男が本能的な怯えを感じる。
「悪い……」
「ここなんて、ニクス様が司祭になるまではもっと貧しかったんだ。毎回、巫女様が選ばれるのは教会のお膝元の町からで、だからこの町から雲上人の巫女様が出るって聞いた時にはおったまげたもんだよ」
「ニクス……」
「確かこうも聞いたな。その新しい巫女様はニクス様が見初めた方だって。あのニクス様が選んだ方なら、間違いない。国を、そしてこの町を繁栄に導いて下さるはずだ」
有り難いと繰り返す店主の横で、ルカは静かに硬直していた。
「新しい巫女の名前は?」
「確か……、ディアナとか聞いたな」
懸念が確信に変わった。
ルカとて、それを考えていなかった訳では無い。
自分が教会の管轄の土地へ出向いている間にディアナが消えたとなれば、真っ先に疑って然るべきだ。
それでもたくさんの可能性のうちの一つとして考えるに留めたのは、ニクスのディアナを想う気持ちを信じようとしたからだ。
ニクスがどれだけヴァンパイアを忌み嫌っていようとも、ディアナにとって彼が大切な幼馴染みである事には変わりない。
ディアナなら彼を疑わないだろう。
ニクスが傷つけたいのは、滅ぼしたいのはルカだった筈だ。
なのに、その手段として何故大切なディアナを傷つけてしまうのか?
どうして彼女の意志を無視しようとするのかがルカには解らなかった。
共に暮らそうと言うニクスに、ディアナは否と答えた。
それが彼女の意志だ。
ディアナを餌に、自分をおびき寄せようとしている。
ならば自分はその誘いに乗ろうとルカは思った。
罠だと知りつつ、踏み込む。
ルカにそう決意させたのは、他ならぬディアナへの思慕の情だった。
「どうすればその新しい巫女に会える?」
「ああん? 無理だよ、兄ちゃん。そうさなぁ……、神官にでもなれば話は別だが」
「神官、か……」
ディアナを救えるのなら、神官にだってなってやる。
ルカの意志は固かった。
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