第20話 運命の引き金




 背中に感じていたディアナの視線が外れたのを気配で察すると、ルカは途端に歩調を早めた。

早くディアナのもとに帰ろうという思いが、自然と足取りを軽くしたのだ。


 彼女に見られている間は、あんなにも後ろ髪を引かれる思いだったのに、とルカは不思議に思う。


 ズンズンと歩みを進めて、町を出る頃にはだいぶ人通りが少なくなっていた。

考えてみればそれはそうだ。

まだ日が昇ったばかりの早朝なのだから。


 人影がなくなったのを確認すると、ルカはコウモリに姿を変え、大空に飛び立った。



*****



 霊峰の麓へは、人間の大人の足で歩いて三日程かかると聞いていたが、変身して空を飛ぶ事で、ルカは半日程で辿り着く事が出来た。

そのまま山頂まで飛んでいかなかったのは、見えない力によって阻まれてしまったからだ。

霊峰とは名ばかりではなかったらしい。


 山に入る前に身軽になっておいた方が動きを取りやすいだろうと、草むらに適当に腰を下ろしてルカは弁当を広げる。

可愛らしい包みを解くと、ルカの好物のローズマリーパンで卵や野菜、肉などを挟んだサンドウィッチが顔を出した。


 色とりどりの具材が挟み込まれたそれは、見た目にも美しい。

普段は切り詰めている食費も、今回ばかりは奮発してくれたようで、飽きがこないように中身は様々だった。


 ルカには食欲など存在しないが、それでも腹をすかせた人間が見れば、盛大に食欲をそそられるだろう事は容易に想像出来た。

これがディアナの言っていた、美味しそうというやつなのだろうとルカは一人で妙に納得する。


 潰してしまわないようにそっと、それでも挟んである具を落とさないようにしっかりと両手でサンドウィッチを掴むと、大きく頬張る。

口に含むと、塩漬けにされたローズマリーの香りが鼻に抜ける。

パンの方の塩分を考慮して、具材の方は薄めに味付けをされているが、その加減がまた絶妙だった。


「……うまいな」


 その言葉は無理に繰り出したものでも何でも無く、真心から出たものだった。


 ただ一つ、足りない物があるとするなら隣、或いは向かいにディアナの姿が無い事だ。


 いつかディアナと一緒に出掛けて、一緒にサンドウィッチを食べたい。

ルカはそんな小さな願いを胸に、霊峰を登り始めた。




*****



 一方その頃。

ルカを送り出したディアナは、出掛ける支度をしていた。

何の事はない。

いつも通り、マッチを売りに出ようとしたのだ。


「ルカは外に出るなって言っていたけど、ルカが一人で花を探してきてくれるんだもの。私だけ、サボるわけにはいかないわ」


 マッチの駕籠を左腕に掛け、ひょいと玄関を飛び出す。

久々に一人で歩く街中は、ルカと一緒の時に比べて随分と色褪せて見えた。

それも、より感動的な再会への演出だと思い、寂しさを紛らわすように鼻歌を歌いながら、警戒なステップを踏む。


 真面目で頑張り屋のディアナは、ルカがきっと花を見つけて自分の元に届けてくれると信じて、自分の出来る事を精一杯やろうとした。


 それがこれから急速に動き出す運命の引き金とも知らずに。



「……行け」

「あいよ」


 そんな彼女の様子をこっそりと隠れて見ている影が二つあった。

そしてその影は息を潜めて背後からディアナに近付く。


「ちょっと、そこのお嬢さん?」

「あら? マッチはいかが?」


 背中に声を掛けられ振り返ったディアナの笑顔はすぐに凍り付くことになる。


「すまないね、マッチはいらないんだ。代わりにお嬢さんをもらうよ」

「えっ? いったい何を……んっ」


 疑問の声では無く、すぐに大きな声で叫べば良かったのか?

或いはルカの名前を叫べば良かったのか?


 答えは見出せぬまま、本人たちの意志を無視して事態は急速に進展していく。


 目深にフードを被った男は、素早くディアナの口元を押さえ、慣れた手つきで彼女の身体を拘束した。

そこで初めてディアナは自分の身の危険を認識する。


 だが、時は既に遅し。


 華奢な彼女がどんなに身を捩ったところで、植物の蔓のように巻き付く腕は小揺るぎ一つする事無く、男は片腕で楽々ディアナの反撃をいなし、大通りを外れて路地裏に彼女を引きずり込むと、懐から一枚の布切れを取り出す。

一部の隙も無い、流れるような動作で彼はディアナの口元を覆った。


 布からツンとした刺激臭を感じ取ったディアナは、激しく動揺した。


 布に揮発性の高いなにがしかの薬品が染み込まされているのは間違い無い。

そして、その薬品が彼女自身の身体の自由を奪う類いのものである事は容易に想像がついた。


 けれど、どんなに暴れてもしがらみを解く事はかなわず、逆に暴れれば暴れる程、薬品を吸い込んでしまう。

鼻ごと覆われてしまっているせいで、酸素を求める鼻や口から薬品が流れ込んでくるのを、ディアナはどうする事も出来なかった。


「うっ……、くっ……」


 嗚咽するような声が、布越しにくぐもって零れ落ちる。


 こんな事ならルカに言われた通り、家で大人しく彼の帰りを待っていれば良かったと、激しい後悔がディアナの胸を貫いた。


 事態を知ったルカは驚くだろうか、呆れるだろうか?

それとも悲しむだろうか?


 ルカがディアナの幸せを願うように、ディアナもまたルカに笑っていて欲しかった。

けれど、この事を知ればあの優しいヴァンパイアはきっと心を痛めるだろう。

柘榴石ざくろいしのように綺麗な深紅の双眸を不安に揺らす事だろう。


 自分がこれからどこへ、そして誰に連れ去られるのかよりもその事がディアナは気掛かりで仕方なかった。


 薄れゆく意識の中で、ディアナはただ一つを願い、祈った。

どうか、ルカが泣かないで済みますように、と。



 事切れるようにくたりとこうべを垂れた腕の中のディアナを見て、男は口元の覆いを外し、呼気を確認する。


「意識を失った、のか……?」


 ザリザリと砂を蹴る足音がして、ディアナを抱えるフードの男に、もう一つの影が近付いた。

事が終わるまで、待機をしていたようだ。


「はい、計画通りです」

「しかし、これは少しやり方が乱暴ではないか?」

「下手に騒がれてしまっては困るでしょう? 貴方も、教会も。まさか皆に慕われる若き司祭様が、人々の信仰も厚い教会が俺みたいな人間を雇って人攫いだなんて、恐ろしい話ですよねー」

「黙れ」


 ヘラヘラと口の端を歪めて軽薄な笑いを浮かべる実行犯の男に、雇い主らしい男は青筋を立てた。


「おー、怖い怖い。まあ、俺は金さえ貰えりゃどうだっていいですけどね」


 恐ろしい恐ろしいと言いながら、実行犯の男が雇い主を全く恐れていない事など、誰の目にも明らかだった。


「ふん……」


 不愉快に思った雇い主は、不満げに鼻を鳴らす。


 非常手段だとはいえ、こんな人間に頼らなければいけないのが嫌で嫌で仕方ないといった表情だ。

こちらもフード付きの外套を羽織っているせいで顔の上半分は見えないが、実行犯の男の発言から、どうやら教会関係者らしいと判る。


「お前にもう用は無い。早く去れ」


 実行犯から眠るディアナの身柄を受け取った依頼主は、つっけんどんな態度を隠しもしなかった。


「おっと、そうはいきませんよ? 生憎と、貰うものはきっちり貰う主義なんでね」

「……ちっ」


 物欲しげな目をして手を出す実行犯の男の、金に意地汚い様子に雇い主の男は舌打ちをした。


「ほら」

「まいど!」


 上等な外套の袖から手を出し、金を相手の男の手に落としてやる雇い主。

ほんの一瞬だけ、外套の下から白い法衣がちらりと覗いた。


 その場で硬貨を数えた男は、前金と合わせて要求していた金額がきちんと揃っているのを確認すると、後はさっとどこかへ跳び退すさり、音も無く消えていった。


 その場に残ったのはディアナと、依頼主の男の二人。


 ささくれ立った気持ちを落ち着かせるかのように深いため息をついた彼は、さっきまでの刺々しい態度が嘘のようにそっと腕の中のディアナの顔を覗き込む。


「ディアナ……。君は私を恨むかもしれないが、これも全て君の為なんだ。ディアナ……。私は君の為に、あのヴァンパイアを滅ぼす」


 守りたい気持ちには偽りは無かった。

けれどそれは結局のところ己のエゴであり、やり方を間違えたと彼が気付くのは、何もかも手遅れになった後だった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る