第13話 月下美人と月見草
疲れ切ったディアナがことりと落ちるように眠ってしまった後。
規則的な息遣いを確認してルカは起き上がった。
そっと、壊れ物を扱うように彼女の身体を抱き上げ、今し方まで自分がいた場所に下ろしてやると自分はベッドサイドに膝をついてあどけない寝顔を暫し眺める。
そうして立ち上がると、夜の世界にルカはその身を滑り込ませた。
「今夜は月が明るいな……」
ディアナの花畑にやってきたルカは、空を見上げると誰に語りかけるともなく呟いた。
太陽の光には思わず目を逸らしたくなるが、月の光ならばずっと見つめていたいとすら感じる。
月明かりのもと、月下美人の花が一夜限りの芳香を漂わせていた。
「月下の淡い光が似合いだな」
僅かに欠け始めた月、その明かりに照らされた花たち。
何を見るともなしにぼんやりと眺め、佇むルカの背中に声が掛けられた。
「そんなお前は太陽の光の方が似合いだろう? 何故ここにいる、ニクス?」
突然響いた声にもルカは驚かなかった。
自分に近付いてくる気配に随分と前から気付いていたからだ。
「バレていた、というわけか。さすがだな」
振り向きもせずに自分の正体を言い当てるルカに、ニクスは肩を竦めながら、おどけてみせる。
白い法衣が揺れた。
「何の用だ?」
「おやおや。今日のルカ君は随分とせっかちだな」
「くだらない前置きはいい」
どこまでも飄々とした態度を崩さないニクスに焦れたルカは、神官の戯れ言に短く応える。
ルカは決して気が短い方では無い。
それでも、この後に及んで腹のさぐり合いに時間を費やすのは無意味に思えたのだ。
そんなルカの様子を冷静さを欠いていると判断したニクスは、鼻で笑いながら足元に月見草を見つけて屈み込んだ。
咲き初めの頃ならば白い花弁が、すでに赤紫色に変色している。
「それじゃあ、ご希望通り単刀直入に言わせてもらおうか。お前は何故ここにいる?」
「それは……」
何故ここにいるのか?
存在する筈の無い者が存在している経緯を問うものなのか、それともディアナの傍に留まる理由を問うものか、質問の意図を推量しかねたルカは言葉に詰まる。
すると、ニクスは畳みかけるように言葉を重ねた。
「ヴァンパイアであるお前が何故ここにいるんだ?」
ルカが振り向いた拍子に金色の髪が揺れて、月明かりに煌めいた。
「ヴァンパイアはとうの昔に滅んだ筈だ。それなのに何故お前は今、ここに存在している?」
遠い昔、巫女を通じて女神の力を借り、人間よりも遥かに力の強いヴァンパイアを根絶やしにしたのは他ならぬ教会だった。
その教会に属する者として、現状は到底看過出来るものでは無いとニクスは断ずる。
あの春の日、ルカの姿を初めて見たニクスは驚愕と焦燥を同時に味わった。
滅んだ筈の凶悪な存在が思い人の傍らにある日突然佇んでいたら、誰しもそうなるだろう。
曲がりなりにも神に仕える修練を積んできたニクスには、ルカが人ならざる者だという事はすぐに判った。
たとえ表面上はそう見えなくとも、あの時のニクスは今にもディアナがとって食われてしまうのではないかと、気が気ではなかった。
だからこそ、常時携行しているこれまではただのお飾りくらいにしか思っていなかった聖水を使ってみたのだ。
頭から掛けてやった方が効果は大きかっただろうが、当時のニクスの頭の中では、すぐにでも化け物を退治してやりたいという気持ちと、町の司祭として無用な騒動を起こすまいとする理性の葛藤があった。
結局理性が勝ち、聖水で濡らした手を初対面の握手をする為という口実で差し出した。
何とも地味な方法だったが、ルカが教会の敵である事、等級の低い聖水では効果は薄くとも気休め程度の効き目がある事を確認するに至った。
爛れた己の手をルカはディアナの目から隠すようにしながら見つめていたのだ。
もっとも、その火傷の痕もニクスが横目で見ている間に再生し、綺麗さっぱりと消えてしまったが。
ニクスはディアナが心配だったが、その時は目の前の彼に対抗出来る手段を持ち合わせていなかった。
彼がヴァンパイアの中でどれ程の強さを誇っているのかはわからないが、少なくともやっつけ仕事の間に合わせで作った聖水では湯水のように使おうと、彼を退治るには至らない。
ここで何の準備も無く大立ち回りをしたところで、身体能力的にも劣るだろう人間の思い通りにはいかない事はニクスには容易に想像出来た。
そんなこんなで一時退却を余儀なくされたニクスである。
そこで、たまたま視察(という名のただのお気楽旅行)に町を訪れていた枢機卿に事の次第を報告したニクスは、泥沼にはまってしまった。
対ヴァンパイア用の最高水準の聖水を用意してもらい、さっさと退治してもらおうと思っていたところに、枢機卿命令でヴァンパイアの生き残りが利用出来ないか探れと言われたのだ。
教会に属する者にとって、その上下関係・ヒエラルキーは絶対である。
教皇の唯一の相談役にして、教会の最高顧問の枢機卿の意志はそのまま教会全体の意志だと思ってもいい。
現枢機卿はもとは司教の一人に過ぎなかったが、枢機卿という特殊な地位にはかなりの影響力がある。
そんな訳でニクスはルカの動向を監視するようになった。
いつ、ディアナが襲われるか判らない状況下で、最初の一週間程は眠れぬ夜を過ごす事を彼は強いられた。
けれど何日経っても、ルカに不穏な動きは見られない。
そのまま夏になる頃には、日に日に人間臭くなっていくルカに、ニクスの心の中に同情のようなものが生まれてしまった。
しかし、そんな折に枢機卿から下ったのは、結果を急いだような決断、ルカの抹殺だった。
お前さえ現れてくれなければ自分はこんなにも心乱される事は無かったと、恨み節を込めながらニクスはルカを詰問する。
「同族が狩られる様を目の前で見たら、お前はどう思う? 憤るか? 嘆き哀しむか? 俺は……昔の俺は何も感じなかった。お前の言うように俺はきっとこの最後の化け物なのだろうな」
まともな答えが返ってくる事など期待していなかったニクスは、ルカの示唆に富んだ言葉に少なからず動揺した。
もし現実に、人が次々と襲われる事態が発生したとしたら、不幸に見舞われるのが自分とディアナ以外でありますようにと願ってしまうだろう。
「……はは」
その考えは、その願いは神官としては不適格なものだと思い至り、ニクスは自嘲気味に笑う。
ニクスが教会の神官になったのはディアナを守る為だった。
守りたいものがあるなら、地位を得る事はもっとも確実な方法ではある。
神に仕え、世界平和を願う道を選んだ筈のの少年は、ただ一人の少女を守りたかった。
「目覚めるつもりのない、長い眠りについていた。俺が目覚めたのは誰かに呼ばれたからだ。それこそ神か何者かの意志としか俺には説明しようがない」
「お前のような化け物が神の名を口にするな」
汚らわしい。
そう言わんばかりにニクスは吐き捨てた。
けれどそれはルカに対する言葉ではなく、己に向けたものだった。
それでも、ここで引く事など彼には出来ない。
「お前がどんなつもりでディアナの傍にいるのかは知らないが、俺は教会に属する者として、お前を粛正しなければならない」
「お前はお前のしたいようにすればいい」
これが二人が決定的に決別した瞬間であった。
ルカとニクス。
ヴァンパイアと聖職者。
同じものを同じように慕いながら、その立場は皮肉にも真逆だった。
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