第11話 散り落ちる花弁



「これがコスモス……」

「ええ、そうよ」

「こっちの白いのもコスモスなのか?」

「ええ。どう? 可愛いでしょう?」


 秋になり、暑さも昼間の首筋を焼くような日差しも幾分か和らいだ頃。

花畑で二人はそんな言葉を交わしていた。


 ルカが毎日朝夕と欠かさず水遣りを続けた結果、無事にコスモスが開花したのだ。

鮮やかな桃色と慎ましやかで可憐な白いコスモスが一輪ずつ、並んで佇んでいる。

それらをルカは交互に見ながら、胸に熱いものを感じていた。


 芽が出た時、背丈が伸びた時、蕾が出来た時も、ルカは胸に訴えかけてくるものを覚えた。

けれどやはり一番は花が咲いた時だった。


「色が違うのに、何故両方ともコスモスなんだ?」

「あら? 人間だって髪が茶色い人もいれば、ルカのように金色の人もいるわ」


 いつものようにルカが問えば、ディアナは逆に何がそんなに不思議なのかと問いで返してくる。

いつもそうやって考えさせられる事をルカはもどかしく思いつつも、嫌ではなかった。


「ディアナはすごいな」

「だけどこのお花はルカが頑張ったから咲いてくれたんだよ。毎日お世話してくれて、ありがとうって」


 ルカの手柄だとディアナが言えば、ルカはくすぐったそうに微笑む。


 ぼんやりしている事の多かった彼だが、コスモスの成長と共に、どんどん表情がくっきりと鮮明になってきている。

それがディアナは嬉しかった。

前よりも彼の事がわかるようになったと思えるからだ。


 その一方で、逆に最近になってわからなくなった事もあった。

時々、ルカが夜な夜などこかに一人で出掛けるのだ。


 偶然夜中に目が覚めて、ルカの姿が無い事に気付いた時にはもう返って来ないかもしれないと不安にかられた。

悶々と考えるうちに再び眠ってしまった後、ハッと気が付いて跳ね起きたディアナだったが、そこには何食わぬ顔をしたルカがいる。


 怖い夢でも見たのかと心配してくれるルカの言葉をスルーし、何処に行っていたのかと彼女は訊ねるが、悪い癖がぶり返したかのようにルカはちょっとそこまでと言うだけで、教えてくれない。

一週間かそこらでルカの外出癖は収まり、またちょうど一ヶ月後に再発、一週間で鎮火を繰り返していた。


「じゃあこの二輪はルカのものね。家に帰って花瓶に飾ろうか」

「摘み取ってしまうのか?」

「ルカはこのままの方がいい?」

「ああ。この方が自然だ。それにこの方が花は長生き出来るんだろう?」


 初めて自分の手で育てた命をルカは大切だ、壊したくないと思う。

花などみんな同じだと考えていた自分がいかに愚かで、何も見えてなどいなかったのか痛感した。


「ダメか?」

「ふふっ。ダメじゃないよ。だってそのコスモスはルカのお花だもん」

「俺の花……」


 飼い主の意向を窺う犬のようなルカの視線に、ディアナは笑った。

サラサラの金色の頭に二つ並んだ三角の耳を幻視したのだ。


「それに私がダメって言う訳ないでしょう? ルカがお花を好きになってくれた事が嬉しくてしょうがないんだから」

「好き……。胸が温かくなる気持ちだったな。確かに俺は、この花が好きなのだろう」


 長い指がつと、桃色の花弁の表面を撫でる。

触れたいのに、傷つけてしまいそうで触れるのが怖い。

そんな触れ方だ。


 口の中で誰にも聞こえないように好きという言葉を繰り返し呟き、確かめたルカは、手元のコスモスとディアナを見比べ、やがてひっそりと頷いた。


 ルカにとってディアナは己の世界を優しく照らす月であり、彩る画家であった。

そして、そのまま花売りでもあった。


 次々と芽生え、その存在を訴えかけてくる感情の奔流には戸惑いを隠せなかった。

けれど彼がずっと焦がれてきたものがそこにはあった。


 彼女に育ててもらえるのなら、生まれ変わったら花になりたいとすら思う。


「花は枯れた後、どうなるかルカは知ってる?」

「種子を撒く?」

「そう、その通り。枯れちゃって終わりじゃないの。花の命は短いけれど、そこで終わりじゃないのよ? これってすごい事だと思わない?」


 終わりの無い、先の見えない旅路を呪った事ならルカには数え切れない程あった。

けれどそれすらも、彼女に出会う為だったと思えばゆるしてしまえる。


 いつの間にかディアナが地面の上に屈み込んで、コスモスの花弁をつついていた。

猫がじゃれるように、悪戯っぽい笑みを浮かべながら人差し指でちょんちょんと弾くように触れる。


 コスモスとディアナ。

大事なものを二つが寄り添う姿をしっかりと目に焼き付けておきたくて、ルカは斜め後方へそっと身体を引く。

ちょうどそのタイミングで風が吹くと、結わえられていないディアナの髪が揺れ、白いうなじが露わになった。



 ――ドクン。


 太陽の光の下だというのにルカの心臓が、血が騒ぐ。

ディアナが欲しい、と。


「くっ……」

「ルカ!」


 苦しげに胸を押さえるルカに気付いたディアナは弾かれたように立ち上がり、ルカに駆け寄る。


 ディアナの振り向き様に、はらりと白色のコスモスの花弁が一枚散り落ちた。


「どうしたの、ルカ!? ルカ? 胸? 胸が苦しいの? 痛いの!?」

「なっ……、何でも無い」

「嘘! 何でもないなんて顔してないじゃない!」


 どんなに激しい運動をしても息ひとつ乱さないルカが、肩を上下させて荒々しい呼吸を繰り返している。

前髪の分け目から見え隠れする額には、びっしりと玉のような汗が浮かんでいた。


「くっ……」

「ルカ!」


 低く呻いたルカはがっくりと足の力を失い、地面に膝をつく。


「ルカ? ルカ? どうしたの?」


 ポタリ、ポタリと俯いたルカの鼻先から滴り落ちた汗が、地面に染み込み、模様を作る。


「……何でもない。ただの立ちくらみだ」


 ディアナは見るからに具合の悪そうなルカの名前を何度も呼んだ。

そうして少しでも楽になるように背中をさすってやりながら、下から顔を覗き込もうとする。


 しかし、そんなディアナに気付いたルカは顔を見られぬように逸らすのだった。

代わりに見えた、胸を押さえる大きな手が小刻みに震えている。

指先が白くなるくらいに握り締められたシャツには皺が寄っていた。


 光の中の闇。

影の宿る横顔。

太陽に背く背中。


 何かが急速に磨耗していくような、ごりごりと削り取られていくような嫌な感覚の中、頑なに口を割ろうとしないルカの隣をディアナは決して離れようとしなかった。



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