第10話 光と闇
季節は夏の盛り。
照りつける太陽の日差しが肌を貫く中でも、二人は変わらずいつもの場所で花を売っていた。
「ありがとうございました~」
うだるような暑さの中でもディアナは花を買っていく客たちの前では笑顔を絶やさない。
春は色鮮やかな赤薔薇を主軸とした華やかな売場だったが、夏は夏とてサンフラワーを中心にまた別の賑わいがあった。
その傍らに控えるのがルカだ。
先日ディアナと一緒に訪れた店で買ってもらった明るい色合いのチュニックを身に纏うルカは、厚手のコートからくる重たい印象を払拭し、夏に相応しい清々しさを漂わせている。
ルカ目当てで通い詰める女性客などは、がらりと変わったその印象にさらに魅入られていた。
「ふ~、暑い……」
お昼時になり、客足が途絶えたところでディアナはパタパタと顔の辺りを手で仰ぐ。
「大丈夫か?」
「ふふっ……」
額やこめかみに汗を浮かべ、頬を上気させるディアナを気遣うようにルカが声を掛ければ、彼女は涼やかな笑い声を立てた。
浮かべるのは客に見せるのとはまた違う、朗らかな笑顔だ。
何かおかしな事を言っただろうか?
そう思って首を傾げるルカを見てさらに彼女は笑みを深める。
「ルカもすっかり慣れたよね、この仕事」
出会って最初の二週間は朝はぐずぐずと眠たそうで、なかなか起きられなかったルカだが、コスモスの件をきっかけに、水遣りの仕事に対する使命感からか、だんだんと起床時間が早くなり、時にディアナよりも早く起きて花畑で朝の一時を過ごすまでになった。
その事に、手の掛かる弟が急に成長した時のような寂しさを覚えたディアナだったが、それでもやはり二人で花のお世話をするのは一人でするよりも何倍も楽しいと感じていた。
それまで誰に教えるとも無く、一人で黙々と作業をしていたのが、二人になれば会話が生まれる。
ディアナが何か言えば、その都度ルカが疑問を口にする。
そんな彼はいつも子供のような無垢な目でひたとディアナを見つめ、静かに彼女の話に耳を傾ける。
自分の好きなものについて語る相手がいるというのは、やはり良い事だった。
仕事にしろ、食事にしろ、一人より二人の方が倍楽しい。
「初めてルカが私より早起きした時は、すごく驚いたなぁ。あの朝の苦手なルカが、鍬を持って土を耕しているんだもの」
「野菜を育ててみようとディアナが言っていたから、土を耕しておこうと思ったんだ」
「うん、気持ちは嬉しかったんだけどね。ミニキャロットは鉢植えでも栽培出来るから、そっちで挑戦してみようと思ってたんだ」
「しかし、空いている土地をもっと有効活用した方がいいんじゃないのか?」
「土を休ませるっていうのも大事なのよ? 休み無しにずっと植え続けたら土だって疲れちゃうわ」
「土が……?」
土が疲弊するというのがルカには想像がつかないようで、彼は胸の前で両腕を組んで首を傾げる。
人でもあるまいし、とでも言いたげだ。
土をもまるで生き物であるかのように語るディアナの言葉は、彼には不可解なものだった。
こうしたルカの疑問も、人によっては煩わしく思うだろうが、ディアナは自分と違った捉え方をする彼の言葉にいちいち驚かされ、また時に感心させられるので、疎ましく思う事は無かった。
「う~ん。じゃあ今日、家に帰ったら、あと二つ、ミニキャロットの鉢植えを作ろうかしら? 一つは三月程休ませた土、もう一つは全く休ませていない土を敷き詰めて、あとは同じように育てるの」
「するとどうなるんだ?」
思いつきで提案するディアナの言葉に、ルカは身を乗り出す。
普段は比較的のんびり屋なのに、こういうところだけ知りたがりでせっかちだ。
「それを知るための実験よ」
「……何を知る為の実験だって?」
「きゃっ……」
「ディアナ!」
「……っ」
頭のすぐ後ろでいた声に驚いたディアナは反射的に前へと身体を逸らし、大きく体勢を崩す。
「痛……くない?」
「大丈夫か、ディアナ?」
前につんのめって倒れ込みそうになった彼女を支えたのは、ひんやりと冷たい大きな手だった。
「え、ええ……。平気よ」
抱きすくめられる身体の感触、冷たいのに優しい手、キラキラと輝く金糸のような髪、至近距離から見つめてくる深紅の瞳。
それら全てにディアナは胸を高鳴らせた。
支えてくれているだけで、そこに他意はm無いのだと頭では解っていても、身体が勝手に反応してしまう。
それらを隠したくて、ディアナは顔だけ取り澄ましたふうを装い、手で制してルカに離れてもらう。
自分で言いだした事だと言うのに、失くしてしまった感覚が寂しくて、どうしようもなく急速に心を奪われていく自分を自覚した。
「もうっ、ニクス様! 貴方って人はどうしていつもそうなの? おどかさないでって何度も言っているのに」
「危なかったな、ディアナ。だけど、こちらだっていつも言っているだろう? 昔のように、ただのニクスと呼んでくれと」
その場を誤魔化すように、大げさに頬を膨らませながらディアナが振り返ればいつもの如くニクスが立っていた。
彼も一応は助けようとしたのか、右腕が中途半端な姿勢で宙に伸ばされている。
毎度毎度、ニクスは突然現れる。
毎回同じ手に引っかかるディアナを面白がるかのように彼は突然ディアナの背後に音も無く現れるのだ。
このところのニクスは以前より頻繁にディアナの元へ顔を出すようになり、いい加減慣れても良さそうなものだが、今のところディアナの全敗である。
「……ダメ。司祭様をそんなふうに軽々しく呼んだり出来ないわ。だって、ニクス様は神様にお仕えする身。神様のものであり、教えを乞う信徒皆のものだから、私だけ特別扱いしちゃダメ」
「ディアナ、君は……」
拒絶とも取れるディアナの言葉に、ニクスは俯いた。
それに気付かず、ディアナは再び口を開く。
「ニクス様は昔からいつもそうだよね。私にだけ、意地悪なんだから。それに引き替え、ルカは私のボディーガードみたいだよね。なんだか、私も教会の巫女様にでもなった気分」
「巫女?」
「巫女様はね、とっても偉い人なの。世界平和の為に毎日お祈りを捧げて、皆の幸せを願って。世界中の人たちから慕われて、大事にされて。何だか、別世界の人って感じ。昔、ヴァンパイアがいた頃の巫女様は、現代の巫女様よりももっと力を持っていて、神様との繋がりも深くて、その身に神様を降ろして、託宣の儀を執り行ったと云われているわ。それに基づいて、人はヴァンパイアの脅威を退けたの」
「そうか……」
遠くの空、教会の本拠地・大聖堂のある方向へと向けられるオリーブグリーンの瞳は女神への信仰と、巫女への憧憬が入り交じっていた。
そんな彼女の様子を見て、ルカもまた青い空を見上げる。
真夏の太陽が照りつける空は、彼には優しくなかった。
「ディアナはヴァンパイアが嫌いか?」
「どうしたの? 急に?」
唐突な質問に、空の向こうに向けられていたディアナの視線が引き戻される。
だが、ルカは静かに空を仰いだままだった。
さらりと、風も無いのに金色の髪がルカの額から零れ落ちる。
「……わからないわ。だって実際に会った事が無いんだもの」
いつものルカを真似たような彼女の返事。
それに反応してか、空の眩しさに極限まで細められていたルカの瞳孔が、ほんの僅かばかり大きくなる。
「教えでは、ヴァンパイアは凶暴で野蛮で、人間にとっては脅威そのものだって云われているわ。強欲で恐ろしいヴァンパイアはその存在自体が罪だって。だけど、本当に全てのヴァンパイアがそうかしら? 心優しいヴァンパイアだっていたかもしれないわ。人だって、たくさんの罪を犯している。だけど、赦される為に、二度と同じ過ちを犯さぬように、神様は人間に教えを授けられたのだと私は思うわ」
「ディアナ!」
教会の教えに対して疑問を抱くディアナにルクスの鋭い声が飛ぶ。
何もルクスは神への冒涜だと怒り狂った訳では無い。
長いものには巻かれておけと言いたかったのだ。
教えと異なる考え方は異端と呼ばれ、世を乱す危険因子だと見なされてしまう。
けれど彼女は首を振る。
信念は何があろうとも曲げない強さがそこにはあった。
そんな彼女にルカはもう一度静かに問う。
「ヴァンパイアに会ってみたいと思うか?」
「ヴァンパイアはとっくに滅んでしまったわ、人の手によって。だけどもし、本当にそんな事か可能なら、私は会ってみたいわ」
たとえ千の人から嫌われようとも。
ディアナのその言葉だけで、ルカは救われた気がした。
****
――その夜。
「……して、その後の経過はどうなのだね、ウェリデ司祭?」
「特に目立った動きはありません。彼女の元で正体を隠しつつ、生活しているようです」
「ふんっ、忌々しい化け物め。下手な獣と違って、知恵がある分、厄介極まりないな。だが、本性はそこらの獣と何も変わらん。大方、娘を喰らう機会を窺っているのだろうよ」
深夜の他に誰もいない聖堂で、男二人が話し込んでいた。
そのやりとりから察するにウェリデ司祭と呼ばれた背の高い、若い男の方が身分が下なのだろう。
二人ともデザインの似通った白の法衣を纏っている事から、彼らが聖職者である事が窺える。
若い方の男の報告を聞いた、でっぷりと太った男はいかにも腹立たしげに、豚のように鼻を鳴らした。
短い腕を胸の前で組んで暫し考え込んだ太った男は、やがて冷たく言い放つ。
「……殺せ」
「なっ……」
これには若い男が動揺を走らせた。
「それは少し性急過ぎるのではございませんか?」
「ふんっ、相手は化け物だ。殺すのに何を躊躇う必要があるというのだ?」
「しかし、ご指示は利用価値があるようなら生きて捕らえよと……」
「利用出来そうにないから殺せと命じているのであろう? 聖水が効かぬとなれば、殺す他無い」
「いえ、多少の効果はあるようでした。それに、あれは咄嗟の事で、握手を交わすのに紛れて、聖水のついた手で彼の手に触れただけに過ぎません。もっと急所に近ければ、或いは……」
殺せと繰り返す太った男に対して、若い男は必死にそれを思いとどまらせようとする。
「私に口答えをするでない。枢機卿の名において命じる! 世界に蘇りし憎きヴァンパイアを始末せよ!」
「お待ち下さい! それでは彼に悔い改める機会を与えぬと仰るのですか!?」
「そうだ」
「しかし、教典には……」
「ええい、黙れ黙れ黙れ! ヴァンパイアは我々人間の脅威だ! 無差別に人を襲い、その命を貪る強欲の悪魔だ! 悪魔が悔い改めるなど有り得ん!」
「この件は私に一任して下さると仰ったではありませんか!」
「状況が変わったのだ。これ以上、私に刃向かうようなら、私は君の破門を考えねばならなくなりますぞ」
果敢に反論していた年若い司祭も、破門をちらつかせる枢機卿の威圧的な態度に押し黙らざるを得なかった。
そこへ畳みかけるように、枢機卿は誘惑の言葉を吐く。
「それに、君は大事な幼馴染みを魔の手から守りたいのだろう? ウェリデ司祭?」
「それは……」
ずっと大事に見守ってきた大切な人を引き合いにだされ、司祭は言い淀む。
彼にとって彼女は何に変えても守りたい存在だった。
例えどんな犠牲を払う事になっても――。
「こうするのはどうだね? 君の幼馴染みは効けば巫女の素質があるようだね? 奴は随分と君の幼馴染みにご執心の様子。今年は巫女の交代の年でもある。そこで次期巫女として彼女を餌に例の化け物をおびき出すのだ」
「そんな事が可能なのですか?」
「私は枢機卿なのだよ。近頃はめっきりと力も衰え、どの娘を選んだところで大差無い、面倒な巫女選定の儀だ。私が推せば、次期巫女は彼女になる。巫女ともなれば、厳重な警備のもと、その身の安全は保証されるだろう。何なら、私の力で君を司教に昇格させ、巫女の傍に置いてやってもいい。巫女の発表と同時に君がその手で化け物を殺す。そうすれば君は英雄だ。どうかね、ニクス・ウェリデ君?」
全ては彼女の幸せの為だと自分に言い聞かせながら、甘い誘いの言葉に、ニクスは耳を傾けてしまった。
枢機卿の語る未来予想図は、ずっとニクスが欲してやまなかったものだったから。
英雄になれば、ディアナも振り向いてくれるだろうか?
あの頃のようにニクスと呼んでくれるだろうか?
ニクスの頭には司教の地位も、英雄の地位もなかった。
ただ一つ望んだのは、ディアナの心だった。
「どうやら決まりのようだね。ではしっかりやってくれたまえよ、ウェリデ司祭」
カツカツと音をさせて腹の突き出た枢機卿は女神像に背を向けながら、聖堂を出て行く。
その空に月は無い。
後に残されたニクスの顔を、揺らめく蝋燭の光がぼんやりと照らしていた。
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