第8話 咲き初めの花
翌朝、ディアナが目覚めるとそこにルカの姿は無かった。
何処に行ったのかと首を傾げながらも、朝の日課をおこなう為に花畑に向かうと、朝靄と土の香りに混じって黒い背中が目に入る。
「おはよう、ルカ。今日はちゃんと起きられたのね」
「おはよう。コスモスに水をやらないといけないからな」
「よろしい。……ふふっ、あ~おかしい!」
どうだ、すごいだろうと言わんばかりのルカがおかしくて、わざと真顔を作って尊大な態度で鷹揚に頷いて見せたディアナだったが、すぐに堪えきれなくなり、噴いてしまう。
そんなディアナの様子を勘違いしたルカは、頭を掻きながらぼそりと呟いた。
「昨日の夜から寝ずにここにいたのがバレてしまったか……」
「え? そうなの?」
「寝坊してしまうのが恐ろしくてな」
「えー、それで一睡もしなかったの?」
極端から極端に走るルカに、ディアナは緑色の目を丸くする。
さも当然というようにルカが頷くと、彼女は途端に目を吊り上げた。
「だからって、一睡もしないなんて良くないよ。花のお世話以前に、自分が倒れちゃったらどうするの?」
「このくらい、どうという事はない」
「そうやってすぐに自分の体力を過信するのはルカの悪い癖だよ。それに、もしルカが倒れたら、困るのはルカだけじゃないんだからね」
「そうなのか?」
「うん、だってルカが寝込んでるのにお店なんて心配でやってられないわ。だから、私の為にも無茶はしちゃダメよ?」
「わかった」
一緒に暮らすようになってから、まだ二週間程だというのに、ディアナの暮らしの中でルカの存在が確実に大きなものとなっていっている。
今朝だって、なかなか夢の中から出られないルカを起こすという朝のごたごたが無くて、本当はもの寂しさを感じていたのだ。
あれがないと、一日が始まった気がしないとすら思うようになっていた。
ルカの様子が気になって商売が出来ないと脅迫めいた文言で、ディアナはルカが自分の体調を気遣うように強引に仕向ける。
何がそんなに悪いのかいまいち飲み込めていないものの、心配の居心地の悪さを覚えているルカには、それに頷く以外の選択肢は残されていなかった。
「よし、今日のお仕事はここまで。一緒に買い物に行こうか?」
「店は? 今日は花を売らなくていいのか?」
「うん、たまには息抜きも必要かなって。それに買いたいものもあるし、毎日摘んでたらすぐにお花がなくなっちゃうでしょう?」
時間にして一時間ほどだろうか?
屈み込んで作業に没頭していたディアナだったが、
いつもなら朝食を食べた後、いつもの場所で花を売るはずだ。
だが、今日の彼女は花摘みをしていない。
それで生活は大丈夫なのかと暗に問うルカに、彼女はこれからの時間に思いを馳せながら、花も人も息抜きが必要だと言う。
そんな彼女の何気ない一言にルカは唸った。
家を出て十分も歩くと、そこは活気に溢れていた。
同じ町だというのに、通りが一本違えばこんなにも様子が違うものなのかとルカは首を傾げる。
「この辺りは賑やかでしょう? どう? 驚いた?」
「……驚く?」
「驚くっていうのは、予想外だって事!」
「じゃあ、驚いた」
ともすれば酔ってしまいそうな喧噪の中、永遠に続くようにすら思わせる人の往来を横目に見ながらディアナは悪戯な笑みを浮かべて声を張り上げる。
そうしなければ、人混みという巨大な生き物に呑み込まれてしまいそうだった。
いつものように聞き返して、ディアナに驚くというのがどんな感情なのか教えてもらったルカは、ストンと得心がいった。
たった今知った単語だが、実のところディアナに出会ってからのルカは驚きっぱなしだった。
彼女の言動にいちいち心を揺さぶられ、またそんな自分に驚愕する。
それまでの自分はこんなにも表情が豊かだっただろうか?
ルカは自分の問いに首を振る。
「おっ、ティアナちゃんじゃないか! 今日もいつものを買っていってくれるかい?」
「おばさん、おはよう。うん、いつもすごく安くしてくれてありがとう。でも今日はちょっと他に寄るところがあるから、また後でね」
果物やら野菜やらを売る店がずらりと軒を連ねる通りを二人並んで歩いていると、ディアナの姿に気付いた豆屋の店主が声を掛けた。
親しげな様子から、彼女がここの常連客らしいと察したルカは、邪魔にならぬように二人のやり取りを黙って見守る。
ディアナの隣に立つ見慣れぬ男の存在に店主が気付いたのは、ちょうど二人が店主に背を向けかけた時だった。
「おや? そこのアンタ、ディアナの知り合いなのかい?」
「え、あ……」
「そっ、そうなの! 最近仲良くなってね……」
急に伸びてきた腕を掴まえられ、思わぬ質問を受ける事になったルカは言葉を詰まらせる。
知り合いと言えば、知り合いなのだが、腕をがっちりとホールドされた彼は答えに窮していた。
強引に迫ってくる店主の様子に何となく、下手な返事をしては危険な気がしたのだ。
そこへすかさずディアナが駆け寄り、早口でルカの代わりに答えながら腕の拘束を解く。
「そうかい、そうかい。あの小さかったディアナちゃんにもついに春が来たんだね~。青春だね~」
「違っ……!」
「……春? もうすぐ夏だが……?」
「いいんだよ、いいんだよ。そんなに照れることじゃあないさ。あたしも野暮な事を聞いちまったもんだよ」
「だから違うんだってば!」
ディアナの三倍生きてきた店主には、年若い彼女の動揺など勿論お見通しだった。
娘の成長を喜ぶようにしみじみと店主が感慨に耽れば、ディアナは慌てて店主の言わんとしている事を否定し、ルカはその横で真面目に的外れな発言をする。
その先は店主の独壇場だった。
「いいじゃないか。ニクス坊やあたりが聞いたら騒ぐだろうが、あたしに言わせれば若い頃の恋はどんどんするべきだね」
「おばさん……」
「しかし、見れば見る程いい男だね~。あたしがもう二十年若けれりゃ放っておかなかったよ。ディアナちゃんも、ニクス坊やに全然靡かないと思ったら、意外に面食いだったんだねぇ」
「もうっ、おばさんったら!」
恥ずかしさのあまり顔から火が出るとはこの事だった。
店主の長年の商売で鍛え上げられた声は、非常によく響く。
加えて、この辺り一帯はディアナの顔馴染みが多く住まっている。
その証拠に、二軒隣の果物屋の店主が両腕に抱えた売り物の赤いプラムをバラバラと足元に落としながら、ショックを受けた表情のまま固まっている。
「ルカ、もう行こう!」
「うん? ああ」
「二人とも、楽しんでくるんだよ~」
羞恥に堪えきれなくなったディアナは、事態の呑み込めていないルカの手を引いて脱兎の如く駆け出す。
遠ざかっていく大小二つの背中に、豆屋の女店主はひらりひらりと手を振った。
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