第4話 光と花と雪




「――ねえ、ルカ。起きて。ねえ、ルカったら、起きてよ!」

「……んっ」


 早朝、小さな手に身体を揺すられたルカは顔を顰めながら起き上がった。


「もうっ、やっと起きてくれた。ルカのせいで今朝は大遅刻だよ」

「遅刻……?」

「そう、遅刻。ルカったらいくら呼んでも起きないんだもの」


 寝起きで不明瞭な頭をフルフルと振り、金色の髪を乱しながらオウム返しに耳慣れない単語をルカは呟く。

時間などに縛られたりしないルカには遅刻という概念が解らなかった。

そんなルカにディアナは桃色の唇を尖らせて恨み言を告げる。


 ディアナの朝はいつも早い。

生活の為にはお店を朝早くから開けねばならず、また商売を朝早くからする為にはさらに早い時間に起きなくてはならない。


 この日もまた例外では無く、日が昇ると同時に一人目覚めたディアナは身支度をし、今日出店で売る花を摘みに出掛け、戻ってきて朝食の準備を終えたところで未だぐっすりと眠るルカに声を掛けた。


 穏やかな寝顔だなんてのんびり観察していられたのは最初の数分だけで、ディアナが多少大きな声を出したところで身じろぎ一つしないルカに焦燥感を覚えた。

長い事一人暮らしで、またそれ以前も周囲には早朝に起きて活動する者しかいなかった為、こんなにも朝に弱い人がいるという事をディアナは知らなかったのだ。


 一方のルカといえば、その気になれば何年も寝ないでいられるものの、昨日まで寝たきりで好きなだけ寝る生活を送っていた事もあり、また昨晩は何故か嘗て無い安らぎに包まれていつの間にか深い眠りに落ちていた。

本当に眠るつもりは全く無かったにも拘わらずだ。

これまでのルカなら考えられない事だった。


「……夢か」

「コラコラ、また寝ないの! 起きて仕事に行くんだからっ。ほらっ、早くこれを食べて」


 寝呆けて再び横たわろうとするルカにディアナは待ったをかけて、朝食を運び込む。

パンとサラダと、少し冷めてしまったスープの簡単な朝食だ。

思考力の低下した状態のルカは言われるがままそれらをもそもそと口にし、されるがままに髪をくしけずられ、手を引いて促されるままに外に出た。



「俺は何故ここにいる……?」


 ルカの思考の靄もやが晴れたのは、だいぶ経ってから。

昼前の事だった。


「やっとちゃんと起きてくれたよ……。何を言っても生返事すらしないから、心配したんだからね」


 唐突に独り言を言い始めたルカの方をディアナは手を止めて振り向く。

心配したというのは口先だけの話ではなく、喋るどころか、まばたきすらせずに虚ろな目で宙を見つめるルカに彼女は恐怖を覚えていた。

恐怖と言っても、ルカが怖かった訳ではない。

ルカがどこかに行ってしまいそうに思えて怖かったのだ。


 いなくなれば昨日までと同じ暮らしに戻るだけだというのに、失うまいとして身体が勝手に動いてしまう。

今朝の一連の行動も、それじゃあこれまでと言って離別を告げられる瞬間を恐れての事だ。


 ただ単に寂しかったのか?

それは違うとディアナにははっきり判っていた。


 では、何を考えているか判らない男の何がいいのか?

これはおそらく、一目惚れなのだろうとディアナは結論付けた。

運命だなんて言うとルカを困らせてしまうだろうが、それでも彼女にとってはそう思えた。


 初めて姿を見かけた時から、心を奪われた。

しとりと優美な曲線を描いて流れる金髪に、石英で出来た彫刻のように滑らかな白い肌、細身ながらも長い手足。

何よりディアナが心牽かれたのは、柘榴石ガーネットのように紅い瞳だ。

薔薇のような瞳と例えてもいい。


 燃えるような紅だというのに、そこに宿る光はディアナの目には寂しげに見えて、花でも慰めになればと思ってつい声を掛けてしまったのだ。



「心配とは……?」


 一方的な好意の押しつけによる苦情にもルカは首を傾げてしまう。

自分より大人に見えるのに、時々あどけない子供のような事を言うおかしな人だとディアナは思った。

道行く人も、常連のお客さんもルカの姿に気付いては、人間離れした相貌に目を見開いているのに、つれない。


 かと言って感情に乏しいのではなく、本当に知らないような、あるいは忘れてしまった人のような反応だ。


「心配っていうのはね、その人の事が気掛かりで、放っておけなくて、じっとしていられなくて、今にも飛び出してその人の元に駆け寄ってしまいたいっていう気持ちだよ」

「それは……昨日の俺と同じだな。暴漢に襲われる君を見て、気付いたら飛び出していた」

「……っ!」


 ルカの思わぬ言葉にディアナはハッと息を呑んだ。

オリーブのような緑の瞳が揺れる。

告白紛いの言葉に、自分も同じ気持ちだと彼は言ったのだ。


 ルカにそんなつもりは無いのは判っている。

それでも心臓を鷲掴みされたような衝撃がディアナを襲った。


 土を耕し、そこに種を撒き、水を遣って花を育てるような、ゆっくりと実るような恋にディアナは憧れていた。

けれど実際に彼女に訪れたのは、どうだろうか?


 勝手に好きになって一番身勝手なのは自分だと自虐的な考えを過ぎらせながらも、そんな気も無い癖にに酷い人、とディアナは心の中で呟く。

だけど、言うなら今しか無いだろうと彼女は爪の当たった部分が白くなるくらいに手を握りしめ、勇気を振り絞った。


「ねえ、ル……」

「ディアナ?」


 大事な事を告げようとしたディアナの声に、怪訝そうに彼女の名を呼ぶ低い声が重なった。


「……ニクス様」


 思わぬ邪魔に声を詰まらせながら、彼女は闖入者の姿を認めて名前を呼び返す。


「やあ、ディアナ。様はいらないっていつも言っているだろう? 午後の礼拝用に君のところで花を買おうと思って朝一に出向いたのに、君の姿が無くて心配したよ。どうかしたのかい?」

「その……今朝は寝坊をしてしまって」

「君が?」

「ええ、そうよ」

「それは珍しい事もあったものだね。……ところで、そっちの彼は?」


 ニクスと呼ばれた彼は、随分と親しげにディアナに声を掛けた。

心配したと言って肩を竦める姿は自然体そのものだ。


 二言、三言、彼女と言葉を交わした後に彼は、気後れするディアナから視線を移し、人好きのする笑みを浮かべながら初対面のルカにも気さくに声を掛ける。

しかしその目には、鋭いモノが混じっていた。


「……ええと、彼はルカっていうの。昨日、ガラの悪い男の人たちに乱暴をされそうになっていたところを助けてもらって……」

「何だって!? 大丈夫だったのか!?」

「ええ、私はこの通り無事よ。ルカに助けてもらったから」

「だからいつも言っているだろう? 君はもう少し周囲の目を気にするべきだって。何かある度に私が肝を冷やすことになるのだから。そういう事なら、私からも礼を言わせてもらうよ。大事な幼馴染みを救ってくれてありだとう。ええと、ルカくん、だったかな? 私はこの町の教会で司祭をしている、ニクスだ」

「ルカだ」


 聖職者だと名乗ったニクスは、白手袋を填めたままの手をルカの方に差し出す。

対するルカは言葉少なに挨拶をして、その手を握った。



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