第3話 ローズマリーとガラス細工



 ディアナはそれはもう精一杯、ルカをもてなした。

薔薇の花びらを浮かべたお茶を煎れて、大切なお客様が退屈しないように話に花を咲かせたり(九割方、ディアナの話でルカは始終聞き役に回った)、夕食にはローズマリーを練り込んだお手製のパンを振る舞い、思い付く限りの歓待をした。


 あまり裕福な暮らし向きとは言えないのに、このように予定外の大盤振る舞いをして大丈夫なのだろうかと懸念し、最初はどれもひと口だけ戴いてから自分ではなく、ディアナが食べるように言おうと思っていたルカだったが、自分の食べる姿を見て彼女があんまり嬉しそうな顔をするので、結局出された料理を全て平らげてしまった。


「これが腹が満たされるという事か……」

「どうしたの、そんな急に改まって。ルカったらっみんな食べちゃうんですもの、よっぽどお腹がすいていたのね」

「分からない」


 感慨深げに自分の腹に手を当てるルカの横で、ディアナは綺麗に空になった皿を満足げに眺めてくすくす笑う。

しかし、その屈託の無い笑顔でさえもやがて消え、真顔に戻ってしまう。

ルカが自分の事なのに分からないと首を振ったせいだ。


「そういえば、スラムの人たちによくある話だけれど、長いこと空腹状態が続くと、自分が空腹だって事すら感じなくなるって聞いた事があるわ」


 街で客商売をしていると、意外にもたくさんの情報が耳に入ってくる。

その大半は噂話だとか、知っていて役に立つかどうかも分からない取り留めのないものだったが、そういったものの一つとして思い出した彼女は、貴方もそうなのかとそっと視線で問う。


 直接言葉にして訊かなかったのは、それではあまりにも無粋だと思ったからだ。

年頃の娘相応の好奇心はあるが、あまり人の過去こころに土足で踏み入るべきでは無い事も理解している。


 そんなディアナの気遣いを察しつつも、やはりルカは首を左右に振るばかりだった。


 別に答えにくいだとか、誤魔化そうだとか考えていた訳では無い。

こればかりは本当にルカには分からなかったのだ。


 ヴァンパイアとして生きた連綿と続く幾星霜の時の中で、ルカが空腹を覚えた事は一度たりとも無かった。

覚えがあるのは、今も鮮烈に彼の脳裏に焼き付いているのは、渇きの感覚のみだ。


 血が欲しくて、欲しくて堪らなかった。

遠い過去、一時の快楽を求めて無差別に人間を襲い、その血を貪り啜った事もある。

けれど、本当に求めて止まない者の血を口にしない限り、その渇きは根本的に癒される事は無い。


 何処にいるとも知れぬ存在を捜し出す事などとうに諦めていたが、焼けつくような渇きに堪えられず、それが鎮静剤だとでも言わんばかりに何度も不味い血を啜った。


 だがそれも長くは続かず、正気を取り戻す度にルカはこの上無い空しさに襲われ、そのうち吸血行為自体を厭うようになった。

不思議なもので、あれだけ浴びるように呑んでいたというのに彼の心の動きに呼応するかのように、次第に吸血衝動も薄れていった。

後に遺されたのは伽藍堂のように空虚で、なんの感情も持たない身体のみである。


 空腹とは渇きに似た現象だろうか?

腹が膨れると、微かにだが安寧の時を得たような気持ちになる。


「私の料理、美味しくなかった?」

「すまないが、わからない」

「もっと食べたいとか、そういうのは? これが好き、とか」

「よく分からない。……だが、これは嫌いじゃない。食べると花の香りが胸の辺りに広がって、温かくなる」


 深い沈黙を訳ありだと判断したディアナは、それ以上その話題には突っ込まずにおどけてみせる。

嫌いじゃないと言ってルカが指差したのは、ローズマリーを練り込んだパンだった。


「ふむふむ、成る程ね~。ルカはちょっと天の邪鬼なのかな~? それが多分、美味しいだとか好きって気持ちじゃないかな?」

「これが……」


 何千年も生きているというのに、たかだか十数年しか生きていないディアナにズバリと断言され、目を見開くルカ。

どちらも初めて抱く満ち足りた感情だった。


「美味しいとは、好きとは、とても温かい感情なのだな……」

「そういうのをね、人は幸せって言うんだよ」


 ルカが長年追い求めていたモノをディアナがいとも容易く与えた。


 ヒトとは不思議な生き物だと思いながら、小さな幸福を噛み締める。

伏せられた紅い瞳は本人すら気付かないまま、滲んでいる。


 そんなルカの事を、大きく逞しい背中をしていてその気配をこれでもかと主張してくる癖に、ふと目を離した瞬間、それこそ瞬きの間に消えていなくなってしまいそうな不安定な存在だとディアナは思った。



*****



「……いい? この線からこっち側には入ってきちゃダメだからね?」

「わかった」


 夜は更けて、寝支度が調ったところでディアナは初めてルカに探るような目を向けた。

ディアナはベッドの上、ルカは床に座り込んでいる。

夜になってようやく、ルカの事を男として警戒し始めたのだ。


 この構図に落ち着くまでには勿論、激しい攻防戦が繰り広げられた。

自分はどこでも熟睡出来るからと床で寝ると言って聞かないルカと、お客様を固い床で寝かせる訳にはいかないと主張するディアナだったが、結局折れたのはディアナだった。

ルカが床に座り込んで梃子でも動かなかったのだ。


 初めはディアナもムキになってルカを引っ張り立たせようとしたものの、白々しいくらい涼しい顔をした彼はびくともしなくて、反動に転げてしまいそうなったところをそっと腕で支えられてしまった。


 もともと体格で大きなハンデがあると思い至ったディアナは諦めながらも、せめて直に寝るのはやめてほしいと嘆願をしてシーツを広げ、簡易的な寝床をこしらえた。


 それさえも最初は必要無いと言って断られそうになり、ディアナが内心ですごく焦らされたのは言うまでも無い。

ルカが遠慮からというよりも、何の為にそんな事をするのかと本気で疑問に思って首を傾げていた事がディアナには不思議でならなかった。


 自分は丈夫だから床で寝ても大丈夫だと言いながら、ディアナの事はまるでガラス細工のように扱う。

過保護という言葉がすぐにディアナの頭を過ぎった。


 十歳になってすぐに一人暮らしを始めたディアナは細くか弱く見えても、身体は健康そのものだ。

風邪だってめったに引かないし、その辺りの裕福な町娘よりも身体は頑丈だという自身がある。

むしろ、ディアナにはルカの方こそ繊細なガラス細工のように思えた。


 美しさ、儚さ、冷たいようで優しいその手。

その全ての面においてそっくりだ、と。


 ルカが暴漢に襲われるディアナを救い出した時のように、ディアナもまたルカの事を放っておけないと感じていた。



「――ねえ、ルカ?」


 ひっそりとした薄暗いにディアナの声が小さく響く。

おやすみを言い、明かりを消して横になってから暫く経っての事だった。


「明日になったら、さよならなんて私は嫌だよ。もし、ルカさえ良かったら、このまま一緒にここで暮らさない?」


 月明かりが、ぼうっとルカの背中を照らしている。

黒衣の上着を羽織ったままディアナに背を向けて横になっているルカは、疲れてすぐに眠ってしまったのか、彼の口から返り言の声が発される事はついに無かった。

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