第2話 月と女神
「……終わったのか?」
「わっ……って、もう。貴方だったのね。びっくりさせないでよ」
日が完全に落ち掛けた頃、店じまいを始めた少女にルカは声を掛けた。
ビクッと肩を揺らして驚いた少女は振り向いてルカの姿を認めると、ホッと胸を撫で下ろす。
先刻の出来事に対する恐怖はまだ完全に消えた訳では無いらしい。
「今日はもうお終い。今日は売れ行きが好調で、ここに運び込んだお花は全部売れちゃったの」
「そうか」
「まさか貴方、ずっと見張っててくれたの?」
嬉しそうに空のバケツを手で示す少女を、ルカは黙ってじーっと見つめる。
質問に答える気は無いようだ。
神秘的な紅の瞳に見つめられた少女は狼狽えながら、がっくりと肩を落とした。
こんなにも自然に質問をスルーされるのは初めての事だ。
「もうすぐこの辺りも暗くなるわ。夜になると物盗りや通り魔が徘徊するようになるから、貴方も早く帰った方がいいわよ」
片付けを終えた少女は商売道具と今日の売上げを携えて、歩き始める。
だが、数歩進んですぐに後ろが気になり、立ち止まる。
振り返ると、ルカがさっきの場所から一ディジットも動かずに、こちらを見ている。
「どうしたの? 帰らないの?」
「帰る場所が無い」
人の心配をしている場合ではない。
自分とて、早く家に帰らねばまたさっきのような目に遭い兼ねないのだが、どうにも少女はルカの事が気になって仕方なかった。
そこへ来て、彼は帰る場所が無いと言う。
「じゃあ、うちに来なよ」
気軽な提案に聞こえるそれは実は悩みに悩み抜いた結果出されたものだった。
それを解っているのかいないのか、ルカは首を振る。
「ご両親が許してくれるとはとても思えない」
「平気よ。だって私、一人暮らしだから」
「こんなに幼いのに、か?」
「失礼ね。これでも私、十七なのよ? 生活費だって、誰にも頼らずに自分で稼いでいるわ」
ルカの目には少女は実年齢よりももっと幼く見えて、信じ難いと眉を顰める。
子供っぽく見られた少女は憤慨し、大人だと主張した。
もっとも、何千年も生きているルカにとっては彼女が十二だろうが、十七だろうが大差は無いのだが。
「しかし、それならなおさらダメだろう。若い娘の家に上がり込むというのは倫理的にどうかと思うのだが……。それとも最近の若者の風紀はそんなにも緩んでいると言うのか?」
「ふっ……、何その言い方! こんなに格好いいのに、お年寄りみたいな事を言うんだね」
「お年寄り……」
自分と幾つも年が違わないように見えるルカが、口うるさい年寄りのような事を言い出すギャップが可笑しくて少女は噴き出した。
反対にルカの方は何故笑われてしまったのかピンと来ず、自分が年寄りなどいうのは当たっているなと思いながら首を傾げる。
恐らく、彼はこの世の生きとし生けるもの全ての中で、一番の年寄りだろう。
そのくらい、人間にとっても、自身にとっても気の遠くなるような永い時をルカは屍のように生きていた。
「ふふっ、他に行くところが無いなら、うちにおいでよ。助けてもらったお礼だよ」
少女は何も知らずに曇り無く笑う。
ほんの数刻前に危ない目に遭ったばかりだというのに、不思議とルカの事は怖いとは思わなかった。
そればかりか、初対面だというのにどこか信頼に似た感情すら抱いていた。
「さっきも言ったけど、この辺りは昼間は
返事を渋るルカに対して、少女はさらに言い募る。
脅かすような事を言うのは、本気でルカの事を心配してくれているからだろう。
真面目に考えるのならば、単なる物盗りや通り魔程度がルカをどうにか出来るとはとても思えない。
盗られるようなものは持っていないし、通り魔に至っては恐らく傷一つ付ける事すら敵かなわないだろう。
だが、少女の好意を無碍にする事がルカには出来ず、結局押し切られる形で一晩だけと言って泊めてもらう事になった。
「ふふっ、お客様なんて久し振りだわ」
鼻歌を夕日に捧げながら歩く少女は酷く上機嫌で、横に並んで歩きながら、ルカは紅い瞳を甘く濁らせて見守っていた。
「ディアナの家にようこそ! ふふん、狭いけどなかなかいい部屋でしょ?」
「……わからない」
「もうっ、こういう時は嘘でも素敵なお家ですねって言うものよ?」
家に着くと少女は、両手を広げてルカに見せびらかすような仕草をした。
花売りなんてやっている時点で想像は付きそうなものだが、本人の言葉通り、そこは手狭な部屋だった。
長身のルカはドアを潜るにも身を屈めなくてはならない。
広さでだけで言えば、ルカが眠っていた風車小屋の方が幾分か広いかもしれない。
だが、少女一人が慎ましやかに暮らすにはこのくらいの広さで十分なのだろう。
実際に部屋の中は隅々まで手入れが行き届き、ベッドや戸棚、テーブルに椅子など最低限の家具が配置され、窓辺には赤いゼラニウムの花が飾られていた。
生の気配が感じられる部屋。
眠る前も長年廃墟で暮らしていたルカにはそれが珍しいものに感じられたものの、良いかどうかと聞かれるとよく判らなくて、素直にそう述べると少女は童女のように頬を膨らませた。
「そうしているとますます、子供のように見えるな」
「もうっ、いいわ。それより、自己紹介がまだだったわね。私はディアナ。貴方のお名前は……?」
澄ました顔で子供っぽいと言われた少女はますます頬を膨らませながら、ディアナと名乗った。
月の女神と同じ名前かと、ルカは頭の隅でぼんやりと考える。
ルカは月が好きだった。
これでもかとばかりにその存在を主張してくる太陽と違い、月の光はいつだって穏やかだ。
こんなスラムで暮らす少女にしてはディアナの容姿は整っていて美しい。
小さな
大きな緑色の瞳はそれこそ女神のような慈愛の光に満ちていて、ずっとその瞳に囚われていたいと思う。
肩の辺りで切り揃えられた銀色の髪はどんな手入れをしているのか艶やかで、指を通してみたいという衝動にすら駆られる。
自分のような化け物がが神の話をするだなんて馬鹿げているが、それでも神に特別愛された娘なのだろうとルカは思った。
「……良い名だな」
「今更そんな事を言っても知りません!」
これまで直球で名前を褒められた事の無いディアナは頬を染めながらカルミアの花のような唇に抗議の声を乗せる。
部屋の事は褒めてくれなかったのに、理不尽な不意打ちだと感じたのだ。
「気を悪くしたのなら謝るが……」
「そんな事より、貴方の名前は? 答えにくい質問には答えなくてもいいけれど、名前くらい教えてくれたっていいでしょう? ずっと貴方のままじゃ呼びにくいんですもの」
照れているディアナを怒っていると勘違いしたルカは、褒めたのに何故怒られてしまうのか、年頃の娘は複雑怪奇で難しいと内心で思う。
そんなルカの勘違いにはディアナの方は勿論気付いていたものの、恥ずかしいので訂正はせず、やや強引に話を元に戻す。
そこから暫くの間、長い沈黙が訪れた。
こんな一晩で解消されるだろう、家主と居候の関係にわざわざ名を名乗る必要などあるのだろうか?
呼称しにくいというだけならば、いっその事偽名を名乗ってしまおうか?
そんな消極的な考えが幾つもルカの思考を過ぎる。
期待に満ちた緑の視線にルカは散々迷ったものの、やがて口を開いた。
「……ルカだ」
「ルカ……。貴方もとってもいい名前ね!」
パッと花が開いた瞬間を思わせる笑顔と共にディアナの声で名前を呼ばれると、ルカは少しも欠けていない満月の明かりに包まれているような、そんな幸福な感覚に囚われた。
こうして、ぎこちない自己紹介から二人の共同生活が始まった。
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