『インテリヤクザは不器用な策略家』刊行記念SS!


東雲しののめ先輩!」 

 いつも冷静な後輩が、見たこともないほどに焦りを浮かべて息を切らせながら自分の前までやってきた時、賢吾は何か厄介なことが起こったのだなと思った。

「どうした、お前がそんなに取り乱すなんて珍しいじゃねえか」

 広いカフェテリアのほとんど死角になった場所。うるさい女どもに見つかりにくいこの場所は賢吾の気に入りで、時間つぶしには最適だ。人がまばらな時間帯にここで一人、のんびりとコーヒーを飲んでいることが多いのは、伊勢崎もよく知っていることだった。

「……助けてください」

「は?」

 聞き間違いかと思った。伊勢崎晴海は、大抵のことは涼しい顔でやってのける男だ。頭脳明晰で行動力もある。それなりにプライドも高く、そう簡単に賢吾に頭を下げるようなタイプではないのだ。

 そんな男が、今にも土下座せんばかりの勢いで(おそらくしろと言えば今すぐにでもするだろう)、賢吾に向かって懇願こんがんしている。これは何の冗談かと思った。

「何でもします。俺の全部をあなたに差し出すから、頼むから願いを聞いてください」

 冗談にしては、伊勢崎の表情は必死すぎる。これは本気なのだと理解した瞬間には返答を決めていた。

 だがどうにも我慢できず、賢吾はとうとう笑い出した。

「くく、く……あははははははっ」

 この男でも、こんなに必死になることがあるのか。ここ数年の付き合いの中で初めて見た。いつものすました顔よりずっといい。

 賢吾が笑っている間も、伊勢崎の切羽詰まった表情が崩れることはなかった。ひとしきり笑ってから、賢吾はあっさりと是の返事をする。

「分かった」

 自分から言い出したくせに、伊勢崎は賢吾の返事に驚いた顔をした。

「まだ、何を頼みたいのか言っていません」

「お前は状況を把握することに長けてる。そのお前が俺に頼みたいってことは、俺なら叶えられる願いなんだろう?」

 伊勢崎が頭を下げる相手に賢吾を選んだということは、賢吾なら叶えられるという確信があるということだ。賢吾は伊勢崎の状況を読む能力を高く評価している。

「……はい」

「だったら叶えてやる」

「そんなに安請け合いしていいんですか? 俺が、あなたに無茶を頼むとは思わないんですか?」

「たとえ無茶でも、お前が俺なら叶えられると思った無茶なんだから問題ねえだろ。お前はさっきから、叶えて欲しいのか欲しくねえのか、どっちなんだよ」

「……叶えて、欲しいです」

「だったら、素直にありがとうでいいだろうが。いちいち面倒臭えやつだな」

 疑い深い言葉は、それだけ伊勢崎にとって大事な願いということなのだろう。一体どんな願いが飛び出すのかとわくわくしてきた。賢吾からしてみれば、勿体ぶらずに早く言えよという気持ちである。

「……ありがとう、ございます。このご恩は絶対に忘れません。俺の全部であなたに――」

「いらねえよ」

「でも……」

「お前のそんな顔を見られたチップだと思えば安いもんだ」

 賢吾は望んで極道になったが、伊勢崎はまっとうな道を進める男だ。わざわざ道を外れる必要などない。

「そんなことより、俺に何をして欲しいのか話せよ」

 賢吾が笑いながら言うと、伊勢崎はちょっと悔しそうに顔を歪めた。

「……本当に、あなたには敵いませんね」

「おいおい、勝つつもりだったのか? 百年早えぞ」

 座ったままでわざとつま先で伊勢崎の膝を蹴ると、伊勢崎はようやく表情を緩める。

「いつかは絶対追いつきますから」



 ……なんてこともあったなあと、隣で涼しい顔をして立っている伊勢崎の横顔を眺めて賢吾が笑うと、顔を動かさないまま視線だけがじろりとこちらを向いて、わざとらしくため息を吐かれた。

「思い出し笑いなんてやめてくださいよ、若。心底気持ちが悪いです」

「うるせえ。感動に浸ってたんだよ。お前の初恋が叶ってよかったなあ、ってな」

 中庭に目を向ければ、水遊びをする史と碧斗と、それを見守る佐知と舞桜がいる。

「…………」

「俺の全部をあなたに差し出すから、とか言って、可愛げがあったよなあ、あの頃のお前は」

「すみませんね、すっかり可愛げがなくなってしまって」

 あれからもう何年も経つ。まさかこうして縁側で並んで座り、互いの恋人を眺める日が来るとは思わなかった。

 賢吾は必要ないと言ったのに、伊勢崎は結局、こうして賢吾に仕える道を選んでいる。頑固な男だ。だが、その融通の利かなさが伊勢崎のいいところでもある。

「佐知をダシにしてあんな重てえ首輪つけてる時点で、お前が舞桜を自由にするなんて、信じちゃいなかったがな」

 舞桜の左手の中指に光る指輪は、二人がこうなる前から舞桜の指にあったものだ。GPS発信機が埋め込まれた特注品で、舞桜がどこに逃げても即座に見つけ出すことができる。

「誤解です。あれは本当に、佐知さんの護衛のために――」

「護衛のためにしちゃあ、ちょっと値段が張りすぎてねえか?」

「…………」

 どうせ舞桜は気づきもしていないのだろうが、あの指輪はプラチナ製で、しかも指輪の内側にはダイヤが何粒も埋め込まれていた。

「俺は何百万をするような指輪の領収書を見せられた覚えはねえけどな」

 本当に佐知の護衛のためだというなら、どうして伊勢崎が金を出したのかと暗にからかうと、伊勢崎は表情一つ変えずに言った。

「他の男が金を出したものを舞桜が身につけるなんて、冗談じゃありませんよ」

「ははは、ほら見てみろ。舞桜を手放すなんて、お前には土台無理だったんだよ」

 それだけの独占欲を持ちながら、舞桜が他の誰かと幸せになるのを見守る、なんてことができるはずがない。

「本人に黙って高い指輪を持たせるなんて、自己満足にもほどがあるだろ」

「……舞桜には、非常事態が起こって金に困った時は、あの指輪を売るようにと言ってありましたので」

「過保護なやつだよ、お前は」

「東雲先輩に言われたくないです」

 後輩に戻った伊勢崎に、賢吾は「だな」と苦笑を向けた。好きな相手に対して過保護なのはお互い様だ。

「で、どうだった?」

「……? 何がですか?」

「舞桜を抱いてみて」

「…………」

 からかっていると思われたらしい。伊勢崎に嫌そうな顔をされたので、賢吾は「違うって」と笑ってから、さっき佐知が入れておいてくれた麦茶を一口飲んだ。

「おっかねえだろ?」

 ただその言葉だけで、伊勢崎は賢吾の言いたいことを正確に理解した。

「……はい」

 当然、分かるだろうとも思っていた。……どうしても触れたかったものに触れることを許された、その先。

 その体を抱きしめたいとずっと渇望していた。それさえできればもう何もいらないと思うほど。だが一度その温もりを知ってしまうと、今度は失う日を恐れる。人間というものは、どこまでも欲が深い。

「今はもう、どうして舞桜と離れられると思っていたのか、理解できないぐらいですね。俺が、舞桜を抱いた時に泣いてしまいそうだったと言ったら笑いますか?」

「笑わねえよ。俺だってそうだったからな」

 やっとこの温もりに触れることができた喜びと、この温もりがまた離れていくかもしれない恐怖。感情が入り乱れてぐしゃぐしゃで、自分でも馬鹿みたいだと思った。

「俺なんか、手が震えてんのがバレねえようにするのに精一杯だったぞ」

「今までの俺なら鼻で笑うところですけど、今は先輩の言うことがよく分かります」

 中庭で太陽の光を浴びている、互いの恋人に視線を向ける。

「おい佐知!」

 声をかけると、佐知が「どうした? 麦茶か?」とこちらを向いた。当たり前に会話ができる幸せに、今でも時々胸が疼くと言ったら、佐知は笑うだろうか。

「愛してるぞ!」

「ば、馬鹿! おまっ、急に何言ってんだよ!」

 佐知は顔を真っ赤にしたが、賢吾が隣を指差すと賢吾のしたいことを察してにやっと笑った。さすがは幼馴染みだ。

「ほら伊勢崎! 次はお前の番だぞ!」

「馬鹿言わないでください。どうして俺がそんな――」

「お前、舞桜のあの期待した顔見て、何とも思わねえのか?」

 伊勢崎に耳打ちする。次は伊勢崎の番だと知って、照れながらも相手が自分だと信じて疑っていない舞桜の期待を裏切るつもりか、と。

「…………」

 伊勢崎はぐっと膨れ上がった感情を押し込めるように喉を鳴らし、それからようやく口を開いた。

「舞桜、君を愛してる!」

「あははははっ、ほんとに言った!」

 こちらを指差して大爆笑する佐知と、真っ赤になった頬を両手で押さえて涙目になる舞桜。その両方に笑って、賢吾は伊勢崎の肩をがしっと掴んだ。

「よし、佐知! 今日は赤飯だぞ!」

「了解!」

 そして中庭には、珍しく本気で嫌がる伊勢崎の叫び声が響き渡るのである。

「勘弁してください‼」

 不器用な策略家の初恋の成就を祝う宴は、三日三晩繰り広げられた。

「家に帰らせてくださいよ‼」

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