アリア視点

 アリアが賢吾に会うことになったのは、もう自分がそう長くないことをようやく受け入れた頃のことだった。

 どうあがいても、自分は史が大人になるまでそばにいてやれないのだと思うと、今だって大声で泣き叫んで暴れ回りたいぐらいだが、幸か不幸か、そんなことをしている時間はアリアには残されていなかった。

 可愛い可愛い、アリアの宝物。史のためなら、どんなことでもできる。たとえアリアがどう思われても構わない。史が安全に、幸せに、生きていける場所を何としてでも確保する。そう心に決めて、アリアは吾郎に連絡を取った。本当なら、一生黙っているつもりだったのに。

 吾郎は、子供がいたというアリアの話を聞いても迷惑そうにすることなく、真っ先にアリアの身を心配してくれた。アリアが余命を告げ、史のことを頼みたいとお願いすると、少しだけ時間をくれと言ったが、それも逃げなどではなく、本気で史のことを受け入れるつもりで、どうすることが史のために一番いいのか、考えるための時間だったと知っている。そういう、とても優しい人なのだ。だからこそ、アリアは吾郎を好きになった。

 そうして今日、アリアは初めて賢吾に会う。吾郎の息子。アリアによい感情など持っているはずはない。そんな人に本当に史を預けてもいいのか、迷う気持ちがあった。

 それでも、吾郎がそれが一番いいと言うから。その言葉を信じてみようと思ったのだ。



 こんこん。

 時間通りに病室のドアがノックされた。

「どうぞ」

 緊張して声が震えてしまっていないだろうか。そう思いながらも入室を促せば、すっと開いたドアから、吾郎とはまったく正反対の、それなのにどこか吾郎を連想させる、ひどく不可思議な男が入ってきた。

「邪魔するぞ」

 端整な顔立ちに、優雅な身のこなし。けれどどこか粗野な部分もあって、それが不思議と魅力的に映る。きつい眼差しは大抵の人間に畏怖に似た感情を抱かせるだろう。怖い。けれど、怖いだけじゃない。ひどくアリアの心を揺さぶる何かがあって、アリアはその予感にかけてみようと思った。

「初めまして。賢吾さん……とお呼びしていいですか?」

 精一杯の笑顔を作る。可哀想な女だなんて思われたくはなかった。もしこの人が史を引き取ることになって、史が大きくなった時に、お前の母親は可哀想な女だったなんて絶対に言われたくない。

 賢吾は少しだけ驚いたような顔をして、それからふっと口元に笑みを浮かべた。そうすると、もう誰とも恋愛などする気のないアリアですら、どきりと胸を高鳴らせてしまう。罪作りな男だ。

「話は親父から聞いた。どんな女かと思ったら、親父にはもったいないぐらいいい女だな」

 まさかそんな風に言われるとは思っていなくて、今度はアリアのほうが驚いた。罵られる覚悟ならしていたが、こんな色男に褒められる心の準備はしていない。

「もしもの時は、あんたの息子は俺の息子として育てる。だから後のことは何の心配もするな」

「……史を、やくざにしますか?」

 アリアの言葉に、賢吾がほんの少しだけ眉を動かす。表情は読めなかったが、当たり前のことを聞くなと思われたのかもしれなかった。でも、これだけは絶対に譲れない。

 アリアの人生は、物心ついた時から暴力と共にあった。

マフィアのボスである父と、その父に見初められたがゆえに、攫われて閉じ込められた母親。母は父が作ったまるで牢獄のような部屋に閉じ込められ、逆らえば殴られ、逃げることを許されないまま、静かに狂っていった。逃げる気力を奪うためなのか、食事は生きるためにぎりぎりの量しか与えられず、いっそ自分達を殺したいのかと思うのに、父は足繁く母のもとへと通ってくる。

 今考えれば、父は母を愛しすぎていた。檻の中に囲い、母が逃げ出すことに怯えていたのだ。同情などしない。自業自得だ。無理やりに連れ去り、手籠めにして閉じ込めて、そんな男を誰が愛するというのだろう。

 自分や兄の存在も、父にとっては母が逃げ出さないための保険でしかなかった。だから父から愛情を感じたことはただの一度もない。

 アリアはマフィアが嫌いだ。反吐が出るほど嫌いだった。それでも、母がいる間は、母のそばを離れる訳にはいかなかった。大好きな母。母がそばにいてくれるなら、どんなに辛くても耐えられる。母のためなら、どんなことだって。

 だけれど、その母はもう死んだ。だからアリアは逃げ出したのだ。もう二度とマフィアになどかかわらない、そう決めて。

 それなのに、母の故郷である日本に来て、生まれて初めて好きになった男はやくざだった。何の因果だと自分を呪っても、その頃にはアリアの気持ちは後戻りができないところまできていた。

 吾郎は遊び人だと言われているが、実際はそうではない。吾郎はただ困っている人間を見過ごせないだけなのだ。そうして吾郎に助けられた女は、いつしか吾郎を愛するようになり、どうか一度だけでもとその情に縋る。優しい吾郎は、それを無下にできないと知っていた。アリアもそうして吾郎から一時の慰めを手に入れた一人だ。

 吾郎の特別になれないのは分かっていた。吾郎は妻を誰よりも愛している。吾郎が言葉にしなくても、それは痛いほどよく分かった。

 それでもと望んでしまったのは、アリアの弱さだ。吾郎の中に理想の父親像を見たのかもしれない。何にせよ、吾郎の家族からしてみれば迷惑な話だろう。

 だから、アリアは賢吾に偉そうに何かを頼める立場でない。それは分かっていたが、アリアにだってどうしても譲れないものはある。

「……史を、やくざにしますか?」

 もう一度、同じ問いを繰り返す。賢吾がそのつもりでいるのなら、アリアは賢吾に史を渡す訳にはいかない。我が儘を言える立場でもなければ時間もないと分かってはいるが、史に自分と同じような殺伐とした人生を送らせることは、何としてでも避けたかった。

 賢吾はしばらくアリアをじっと見つめて、それから不意に驚くほど柔らかい苦笑を見せた。このギャップに勝てる女がいるだろうか。吾郎とはまた別の魅力に、アリアの胸が甘く疼く。

「やくざなんてもんは、ならずに済むならそれに越したことはねえ。俺は好きでやってるが、それを誰かに強制するつもりはねえな」

「本当……ですか?」

 口だけなら何とでも言える。今だけそんなことを言ったって、もしかしたら気が変わるかもしれない。死んでしまった後では、確かめようがないのだ。

 どうしても疑い深くなるアリアを責めるでもなく、賢吾は少し考えてから言った。

「俺は人の親になったことはねえし、ガキの扱いも分からねえ。だからあんたが望むような親にはなってやれねえのかもしれねえ。けど、あんたが史を思う気持ちとは違うかもしれねえが、俺にだってこの世で一番大事なやつがいる」

「……恋人?」

「いや、幼馴染みだ。俺はもう物心ついた時からずっとそいつのことが好きで、もし、そいつをこの世に残したまま自分が死んだらって考えたら、ほんの少しぐらいはあんたの気持ちが分かるような気がしたよ」

 幼馴染み、と答えたということは、恋人ではないということで、だとしたら賢吾の片思いだろうか。意外だ。こんないい男を袖にする女がいるなんて。

「史のことは、そいつにも頼もうと思ってる。そいつは母親を亡くしてるから、きっとあんたを亡くした後の史の気持ちに寄り添ってくれるはずだ。それから、あんたの気持ちを慮って、あんたの分まで史を大事にする。そういう男だ」

 男、なのか。あまりにさらりと会話に出たせいで、突っ込んで聞くことが憚られた。でも、賢吾の想い人が男でよかったのかもしれない。賢吾がその相手を好きでいる限り、賢吾に子供が生まれることもないだろうし、そうであるなら、史がないがしろにされることもないかも。

アリアがそんな打算的なことを考えていることを知ってか知らずか、賢吾は恋する相手を思い出したように、ひどく甘い表情を浮かべた。これほどの男にここまでの表情をさせる相手なのだから、きっと素晴らしい人に違いない。そうアリアに確信させるほど甘い。

「だから、死んだ後のことを心配するのに時間をかけるのはもうやめろ」

 賢吾の言葉に、ずきりと胸が痛む。死んだ後のこと。そうはっきり言葉にされて、笑っていられるほど開き直れていない。

 残酷なことを言う。少しだけ苛立ってしまった気持ちを静めようと息を吐くと、賢吾は思いがけないことを言った。

「今からは、生きるためにできることに時間をかけろ」

「……え?」

「さっきから見てたら、あんたはもう生きることを諦めてるように見えるが、本当にそれでいいのか? 俺なら、たとえ駄目だって分かってても、最後まで足掻くけどな」

 そう言われて初めて気づく。余命を宣告されてからずっと、アリアは自分が死んだ後のことばかり考えていた。でも、たとえ一日でもいいから、長く史といたい。そのためにできることがあるなら、何でもしたい。

「金のことは心配いらねえ。治療費は全部俺が面倒見てやる」

「どうして……そこまでしてくれるの?」

 賢吾に何のメリットがあるのか。

「別にあんたのためにやる訳じゃねえ。これは史のためだ」

「史の、ため?」

「一応、半分は血の繋がった弟だからな」

 きっと、アリアに罪悪感を持たせないために言った台詞だと分かっている。血の繋がりというものをそこまで気にするような男には見えない。

 ただの気まぐれかもしれない。それでも、賢吾に諦めるなと応援された気がして、アリアの胸にずっと痞えていた何かが消えていくのを感じた。

「賢吾さん、あなたとてもいい男ね」

「知ってる。だが俺の心は佐知のもんだ。惚れても無駄だぞ」

 自信家な男。でも、本当に、惚れてしまいそうなぐらいいい男だ。

「ふふ、私の史も、将来きっといい男になるわ」

「そりゃあ、半分は俺と血が繋がってるからな」

「史は親の私が言うのも何だけど、本当に優しくて、この間なんて――」

 最近はずっと死んだ後のことばかり考えて、今生きているこの時の話なんてしていなかった気がする。これまでの分を取り返すぐらいの勢いで、どれだけ史が可愛いかを力説し始めたアリアに、賢吾は「女ってのはどうしてこううるせえんだ」とぼやきながらも、仕方なさそうに話を聞いてくれた。

 史。ママ、頑張るから。一日でも長く、史のそばにいられるように。頑張るからね。

 だからお願い。誰より幸せになってね。それだけがママの願いだから。

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