伊勢崎視点

 伊勢崎はその日、隙あらば事務所としているビルの一室から抜け出して佐知のもとへ行こうとする賢吾を見張りながら雑務をこなしていた。

 長年の片恋を実らせて、先日とうとう養子縁組まで果たした賢吾だが、籍に入れたことで落ち着くかと思った伊勢崎の期待を裏切り、その執着は止まるところを知らない。

 浮かれる気持ちは分からないでもないが、仕事はして欲しいと切実に思う伊勢崎である。賢吾が逃走するたびに、どれだけ自分にしわ寄せが来ると思っているのか。

 今は静かに書類を眺めているが、さっきからまったく捲られていないから油断はできない。

「おい、伊勢崎」

「はい」

 書類に何か気になる点でもあるのかと、真面目な顔で返事をした伊勢崎だったが、次に続いた賢吾の言葉に、思わず顔を顰めることになる。

「佐知に二十四時間体制で見張りをつけるぞ」

「若」

「屋敷にいる時以外は目を離すな。何かあったらすぐに報告しろ」

「落ち着いてください、若」

 やはり仕事などしていなかった。真面目くさった顔で何を言い出すのか。

これまでも状況によって医院には見張りをつけていたし、そもそも今現在も佐知にはボディーガードとして舞桜をつけている。確かに舞桜は武闘派とは言えず、賢吾から見れば頼りないのかもしれないが、その分機転が利く。佐知にだって信頼されている。舞桜の何が不満だ。

「落ち着ける訳ねえだろうが。何だ、あいつのあの可愛さは。際限がねえのか。やべえ。あの可愛さは本気でやべえ。俺が今初めてあいつを知ったとしたら、今すぐ監禁して俺のものにしてる」

「しっかりしてください、もう佐知さんはとっくに若のものですから」

 佐知には自覚がなかっただろうが、伊勢崎が二人を知った高校生の頃にはすでに、周りの認識の中では佐知は賢吾のものだった。あそこまであからさまに周りを牽制し、佐知に近づけないようにしていた賢吾に気づかないなんて、佐知の鈍感ぶりには参る。

「あんまり可愛いから、寝てる時に内緒で隠し撮りした。けどあんまり綺麗に撮れねえんだよ」

「やめてください若、俺を巻き込まないでください。心の底から迷惑です」

 そういうことはいちいち言葉にしないで自分の胸にだけ閉まっておいて欲しい。後々そのことが佐知にバレて賢吾と佐知が喧嘩になった時、巻き込まれるのはごめんだ。賢吾はすぐに人を巻き添えにするから困る。

「お前にしかこんなこと言えねえだろうが。可愛すぎてやべえ」

「本当に迷惑です。今すぐ黙って仕事をしてください」

 これが泣く子も黙る東雲組の若頭だと、今の賢吾を見て誰が信じてくれるだろう。真剣に頭を抱えて話す悩みがパートナーの可愛さについてだなんて、こんな馬鹿馬鹿しいことがあっていいのか。賢吾は本当に佐知のことを好きすぎる。恋愛は自由だし、人を好きになる気持ちは伊勢崎にも分かるが、賢吾の場合、好きのベクトルが突き抜けている。

「お前だってそう思うだろ?」

「……まあ確かに、最近の佐知さんは以前より可愛くなったとは思いますが」

「よしてめえ表に出ろ」

「最後まで聞いてください。……佐知さんの可愛さが増したのは、若に対してだけです」

「……そうか? そう思うか?」

「はい」

 これは別に賢吾の機嫌を取っている訳でも何でもなく、伊勢崎の目から見た素直な感想だ。

 二人が付き合う以前の佐知の賢吾に対する態度といえばひどいもので、あそこまでつんけんされているにもかかわらず、佐知への気持ちがまったく揺るがない賢吾のことを実はドMなんじゃないかと思ったことがある。実際は、二人が幼馴染みとして過ごしてきた時間の分だけ積み重なった経験ゆえの、表面上の言葉だけでは分からない絆のようなものがあった(と賢吾が言い張っている)らしいが、少なくとも傍目で見ている分にはさっぱり分からなかった。

 だが賢吾と付き合い始めてからの佐知は目に見えて変わった。本人はこれまで通りに接しているつもりのようだが、全然違う。たとえば以前のように賢吾に悪態を吐いている時でも、言葉の端々に、表情に、甘いものが滲む。それが無意識であればあるほど、佐知が賢吾のことを心から好きなのだと、態度で告白しているようなものだ。

「俺の目から見ても、佐知さんは若が好きでたまらないように見えます。ですからわざわざ監視などしなくても――」

「それとこれとは別だ」

「…………」

 何だこいつ面倒臭いな。……口に出さなかった自分を褒めたい。

「あいつが俺のことを好きなことは分かってる。あの佐知が養子縁組までしたんだ。それを疑うほど俺も馬鹿じゃねえ。だが、あいつがどんなに俺のことを好きでも、もし俺みたいなやつに狙われたらどうすんだ」

 ……自分が危ない男だという自覚はあったんだなという気持ちも、伊勢崎は心の奥に何とか押し込めた。

「舞桜が有能なのは分かってるが、佐知はもう俺の籍に入っちまったから、今までみたいに無関係な一般人でいられるとは限らねえだろう? そうなると、さすがに舞桜一人には荷が重いだろうが。あいつを雇う時の約束を反故にするつもりはねえ。危険なことはなるべくさせない、だったか?」

「……今更な気もしますがね」

「舞桜を雇った時は、ただあいつに変な虫がつかねえように見張らせとくだけのつもりだったんだがな」

 二人の脳裏に浮かんだのはおそらく同じことだ。以前史が誘拐された時、その場に居合わせた佐知と舞桜が一緒に誘拐されてしまった。あの時は舞桜の機転のお蔭で早く助けに向かうことができたが、一時は拳銃を突きつけられて身の危険もあったのだ。確かにあの時のことを思えば、これから先も舞桜一人に佐知を守らせるのはどうかという気持ちが伊勢崎にもある。

「いっそ、あいつを閉じ込めておけたらいいんだがなあ」

「佐知さんにそんなことをしたら、間違いなく大暴れですよ」

「違いねえ」

 伊勢崎の言葉に、賢吾が声を上げて笑う。

 本当に賢吾と佐知の関係は不思議だ。伊勢崎からしてみれば信じられない。

 賢吾にとって佐知が誰よりも特別で、替えがきかない存在だというのは見ていて分かる。それなのに賢吾は、時に図々しいぐらいに佐知にアピールをし続けた。佐知が鈍いとは言っても、もし嫌われたらと考えない辺り、賢吾がポジティブすぎるだけなのだろうか。伊勢崎には到底できない芸当だ。

「舞桜にはこれまで通り佐知のそばにいてもらうが、それとは別で警護をつけろ。くれぐれも佐知に悟られねえようにな。そのほうがお前も安心だろう?」

「……分かりました。すぐに手配しておきます」

 佐知のことを心配しすぎて賢吾が仕事をおろそかにするのは困るし、佐知に何かが起こって賢吾がキレるのはもっと困る。

 伊勢崎は心配性な恋人を持つ佐知に少しの同情をしながら、手配するためにスーツの内ポケットからスマホを取り出した。



 ……というやり取りがあったのが、ほんの数週間前のことだった。

「野生のカン……とでも言うべきか」

 伊勢崎の目を盗んで仕事から抜け出していた賢吾を眺めながら、伊勢崎はいっそ感心した気持ちでほうっとため息を吐く。

 佐知が誘拐されそうになっていると報告を受けた伊勢崎が慌てて現場に辿り着いた時には、本来この時間は傘下の組長と打ち合わせ中のはずの賢吾が何故か先に到着していて、すでに大暴れした後だった。

 裏路地に入ってくれていたお蔭で警察を呼ばれることなく済んでよかったが、後始末をする身としてはなるべく派手にやらないで欲しいところだ。賢吾に言ったところで無駄なことは分かっているが。

「お疲れ様です」

 伊勢崎に近づいてきた舞桜が、クリスにヤキモチを焼いた佐知に抱きつかれて鼻の下を伸ばしている賢吾に視線を向け、ふふっと笑う。

「賢吾さんは本当に佐知さんがお好きですよね」

「……時々腹が立つぐらいにな」

 賢吾は何よりも佐知が最優先で、佐知のためなら伊勢崎が組んだ予定も平気でめちゃくちゃにする。後で今日の打ち合わせの相手である傘下の組長に詫びの電話を入れ、改めて予定を組み直さなくてはならない。

 そのことにうんざりとしてため息を吐けば、舞桜が少し驚いた顔をして伊勢崎を見た。

「もしかして、佐知さんのことが好きなんですか? でもさすがにそれは……」

「勘弁してくれ……」

 先日はクリスのことを好きだと勘違いされ、今度は佐知か。自分はああいう面倒臭いタイプはまったく好みじゃない。頼まれてもごめんだ。

 そんなことを考えていたら、賢吾と目があった。脳内でさえ佐知の悪口を言うのは許されないのかと、気持ち悪いほどに佐知に関してはカンが働く男に身構えたが、賢吾はふっと勝ち誇ったような笑みを浮かべただけだった。

「……本当に嫌な人だ」

 やはり見張りをつけて正解だっただろう? と賢吾の表情が言っている。まったくその通りなのだが、ああして仕事をすっぽかしたことを微塵も悪いと思っていない顔をされると、素直に感心もできやしない。

「賢吾は俺と史のだって何回も言ってるだろう!」

 賢吾に抱きついたままクリスと言い合いを続けていた佐知の声が、段々ヒートアップして大きくなっていく。

 それを止めるどころか鼻の下を伸ばして堪能している賢吾に、伊勢崎はやれやれと肩を竦めて足を踏み出す。

「まったく……世話ばかり焼かせてくれる」

いつまでもこんなところで騒いでいる訳にはいかない。とっとと撤収しなければ。

 そうして賢吾達のほうへ去っていく伊勢崎の後ろ姿を見ながら、舞桜がくすくすと笑う。

「そんな顔をして言っても、全然嫌そうに見えないですけどね」

 口元が緩んでいたのを舞桜に見られたことに気づかず、伊勢崎は賢吾達に近づいてぱんと手を叩いた。

「はい、おふざけはそのぐらいにして帰りますよ」

「俺はふざけてない!」

「ボクはちょっとふざけてた」

「俺はまだ堪能したいから帰りたくねえ」

 三者三様の言葉に、伊勢崎はにっこりとほほ笑んでみせる。

「言っておきますが、史坊ちゃんのお迎え時間を過ぎています。このまま我が儘を言うようなら、史坊ちゃんにはあなた方が遊んでいたせいでお迎え時間が遅れたと、ありのままを伝えることにしましょう。史坊ちゃんがどんな顔をなさるか、楽しみですね」

 保育園には遅れるという連絡を入れてあるが、きっと今頃史はどうして迎えが来ないのか不安がっているだろう。こんなところで遊んでいていいのかと腕時計を指差すと、それに最初に反応したのは佐知だった。

「やばい! 早く史を迎えに行かないと!」

「俺も一緒に行ってやる」

 走り出した佐知に釣られたように賢吾も走り出す。

 そうするとそれにクリスも反応して、二人の後について駆け出した。

「ボクも行く!」

 そうして嵐のように去っていった三人の後ろ姿を見送りながら、伊勢崎はやれやれとため息を吐く。

「史坊ちゃんよりよほど子供だな」

 伊勢崎の言葉に、後ろから近づいてきた舞桜が隣に並んでいたずらっぽく言った。

「お母さんは大変ですね」

「せめてお父さんにしてくれ……」

 今のところ伊勢崎が父親になる予定はないが、もし自分が父親になる日が来るとしたら、あんな息子には絶対に育てまい。面倒ばかり起こす先輩二人を頭に浮かべて、伊勢崎は静かに首を振った。

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