人気俳優の初恋独占欲

番外編

「なーんか、腹が立つのよねえ」

 もうすっかり自分の家のような顔でキッチンに立って紅茶を入れてくれる伊織の姿を、テーブルについた肘の上に顎を置いて眺めながら、姫川はおとなげなく唇を尖らせる。

「紅茶ならもうすぐ入りますよ?」

「違うわよ」

 我慢のない子供みたいな扱いをされるのは心外だ。紅茶がすぐに出てこないぐらいで腹を立てるほど短気ではない。たぶん。

「だったら何にそんなに怒ってるんですか?」

「何だか安心しきった顔でのほほんとされると――」

「あ、そうだ、テレビの時間だ」

 人が話している最中だというのに、伊織が手元に置いていたリモコンでテレビをつけた。

 他の誰かに同じことをされれば失礼だと怒るところだが、相手は芝居馬鹿の伊織だ。どうせ最近気になっている監督だか脚本家だか俳優だかのドラマでもあるのだろうと、姫川は大して気にも留めずに何の気なしにテレビの画面に目を向けたが、そこに映っている人物を見てふんと鼻を鳴らす。私の可愛い伊織を奪った憎き宿敵。

「……伊織、あなたもしかして、あの子の出てるテレビ番組を全部チェックしてるの?」

「え? あ、いや、違いますっ! 今日はたまたまで……っ」

 伊織は必死に誤魔化そうとしたが、耳まで真っ赤にしていては何の説得力もない。ああ、今日も私の伊織は可愛い。この可愛い伊織があの狼に食われたなんて、本当に腹が立つ。

 姫川と伊織の出会いは、伊織がまだ中学生の頃の話だ。初めて伊織に会った時、この子は絶対に売れると思った。姫川の直感は正しく、伊織はまるで乾いたスポンジが水を吸うように、教えれば教えるだけたくさんのことを吸収していき、気がつけば俳優として姫川の事務所を代表する人材になっていた。

 だが、姫川が伊織を特別に可愛がっているのは、事務所の売れっ子だったからというそれだけの理由ではない。

 初めて会った時のことは忘れもしない。よれよれのシャツに痩せた体。そんなみすぼらしい恰好でも自分を恥じることなく真っ直ぐ姫川の目を見て、『母の助けになりたい』と言った伊織に、姫川は心を打たれた。

 この業界にいれば、お涙ちょうだいの話など掃いて捨てるほどある。どうして伊織だけをこんなに特別だと思ってしまうのか、今でもはっきりとは分からない。何も持っていない子供が、どんなことをしてでも母を幸せにすると歯を食いしばって仕事をする姿だったのかもしれないし、もしかしたら初めて自分で働いてお金を手に入れた時の笑顔だったのかもしれない。

 ただはっきりと言えることは、伊織が今の状態になって以降、この子は絶対に私が守ってやると心に誓っていることだ。

 伊織には話していないが、伊織が睡眠障害の症状に悩まされるようになってすぐに、一度だけ姫川は伊織の母親に電話をかけていた。

 事務所でできるだけのフォローはするつもりだったが、それでもあの時の伊織には母親の存在が必要だと思ったのだ。誰かの支えなしでは、伊織はあの状況を乗り越えられないと思った。

 だが、少し間でいいから伊織のそばにいてやってくれないかと頼んだ姫川に、伊織の母親は言ったのだ。

『心配してくださるお気持ちは嬉しいのですが、あの子は強い子なので大丈夫です』

 お前は馬鹿かと、口汚い言葉で罵るのを堪えた自分を褒めたいと、今思い出しても思う。

 伊織は決して強い子などではない。ただそうあろうとしただけだ。母親に心配をかけないように、少しでも負担にならないように。

 姫川から言わせれば、あの母親は伊織の優しさに甘えすぎている。時々ああいうタイプがいるのだ。悪気はないから自分では自覚がないが、弱さを免罪符にしているようで姫川は好きではない。

 どうして、無理をしている伊織に気づいてやれないのか。はらわたが煮えくりかえる思いだった。

 母親にだって自分の人生がある。それは分かる。だがその陰で犠牲になった伊織の人生を思うと、姫川はどうしても伊織の母親が許せない。それが、伊織に肩入れしすぎているせいだと分かってはいるけれど。

 思い出しただけで腹が立ってきて、むかむかした気持ちを持て余しながらテレビの画面を眺める。

 映っているのは神代理人。この家の主で、姫川の事務所のドル箱。そして、姫川の可愛い可愛い伊織を食った狼。

 相変わらず、憎たらしいほど整った顔立ちをしている。オーディションで初めて見た時、伊織を見た時と同じように、売れると確信した。姫川の直感は当たり、今では事務所を代表する俳優となっている。そうでなければ放り出してやったのに。

 見た目にそぐわず真面目な性格ではあるが、演技以外では表情が乏しくいつもむすっとしている理人に、事務所としてはこれまでトーク番組の仕事をさせることはなかった。だが今回は伊織の件でドラマの制作陣に迷惑をかけたこともあり、ドラマの番宣のために出演することになったのだ。

『神代さんのプライベートがあまり想像できないんですが、最近は何かご趣味などあるんですか?』

『趣味……最近猫を飼い始めました』

 少し考えてからそう言った理人の言葉を聞いて、紅茶を姫川の目の前に置いた伊織が嬉しそうに福に話しかける。

「ふふ、福の話をしてるよ? よかったね、福」

 姫川には近づきもしない福は、少し離れたところにちょこんと座ってみゃあんと可愛く鳴く。伊織にだけぶりっこする辺り、どこかの飼い主にそっくりだ。

『神代さんと一緒に暮らせるなんて、羨ましい猫ちゃんですね。皆さん、やはり動物を飼われると自分のうちの子が一番可愛い! と力説されますが、神代さんにとっても猫ちゃんはそんな存在ですか?』

『可愛いなんてもんじゃないですね。一日中でも見ていられます。本当に仕草一つ一つが全部可愛くて。同じ部屋にいられるだけで幸せで、頑張ってきてよかったなと思えますね』

 理人は今まで聞いたこともないような柔らかく甘い声を出し、思わずといった様子でふっと笑みを零した。……危ない。驚きのあまり、手に持った紅茶を零すところだった。そんな顔もできたのね。

「理人が惚気てる」

 呑気にふふっと笑った伊織が、姫川の隣に腰を下ろし、自分の分の紅茶を啜る。だが姫川はむすっと唇を尖らせて、理人のその惚気を聞いていた。面白くない。

『……っ、私、今、魂が天国に召されるところでした……っ、か、神代さんは本当にその猫ちゃんがお好きなんですねっ』

「はい。一番とかそういうのではなくて、俺にとっては唯一の存在ですね。愛してます」

『……っ!』 

 真正面で理人の愛の言葉を聞いた女性司会者が、そのあまりの甘さに息を呑んだのが分かった。きっと今テレビの画面を見つめている女性達も骨抜きになったことだろう。ファンが増えるのはありがたいことだが、やっぱり姫川はむっと顔を顰めてしまう。

『え、えーと……何だか、神代さんの意外な一面を見た気がします。遊び慣れた男性の役を演じることが多い神代さんですが、実生活では一途なんですね』

『誰にでも、という訳ではありませんよ。自分でも意外だったんですが、本当に好きな相手には尽くすタイプだったみたいです。最近はお風呂で体を洗ってあげたりもします。特に背中が気持ちいいみたいで、もっとと強請るような顔をされるといくらでもしてあげたくなるんですよね』

 がたんっ。突然隣の伊織が立ち上がって、姫川は意地悪な質問をする。

「ねえ、これって本当に猫のことよね?」

「あ、当たり前じゃないですか!」

 大げさな反応をした自分を恥じるように、伊織が顔を真っ赤にして座り直す。挙動不審すぎる。演技は得意なはずなのに、こういう時に嘘を吐けないってどういうことなの。しかも気づくのが遅い。あの理人が猫のことであそこまで惚気る訳がないと、最初の段階で姫川は気づいたのに。

『最近は、夜寝る時も俺の腕の中で寝てくれるようになって、安心してくれてるんだなと思うとすごく嬉しくなりますね』

「ふーん、腕の中で一緒に、ねえ。……これ、本当に猫のことなのよね?」

「もも、もちろんですよっ! 福のことに決まってるじゃないですか! い、嫌だなあ! はは、ははははっ」

 演技が上手い伊織は、決して誤魔化すのが下手な訳ではない。だが、ことが恋愛になると途端に自分を制御できなくなるらしい。伊織にとっては初恋だろうから、何もかもが初めての出来事だ。まあ仕方がないのだろう。分かっていてもやっぱり面白くない。

 これで、この二人は本気で姫川に自分達の関係がバレていないと思っているのだ。二人だけではない。あの帯刀ですらも、姫川がまだ気づいていないと思っている。女のカンを舐めないでもらいたい。

 事務所的に考えれば反対するべきだ。売れっ子俳優が男を恋人にしている。しかもそれが元売れっ子俳優だなんて、とんでもないスキャンダルになるだろう。

 だが今のご時世、女性に取られるぐらいなら男性に取られたほうがましだという層もいるし、男性同士の絡みを喜ぶ層もいる。バレないに越したことはないが、バレても理人なら乗り越えることができるだろう。もし乗り切れない程度の男だとしたら、それこそ伊織を任せるに値しない。

 リスクマネジメントは必要だから、もしもの時のために、これから仕事先に迷惑をかけないようなイメージ戦略を考えていかなけれなならないとは思うが、それは追々帯刀と計画を立てることにしよう。

 そこまで考えて、どうして私が伊織を奪った狼のために、とまた面白くない気持ちになる。

「あーあ、こうなるって分かっていたら絶対に拒否したのに」

 理人に伊織と会わせてくれと言われた時は純粋な憧れだと思ったし、伊織が理人に対して怒っているのを見た時はいい転機になるとも思った。だから伊織にしばらくここにいることを薦めたが、まさか二人の関係が恋愛に発展するなどと、誰が想像しただろうか。

 一人ごちると、伊織がちょっと心配げな顔で覗き込んでくる。

「どうしたんですか? 俺、何か変なことをしました?」

 バレてやしないかとハラハラしているのだろう。いっそ気づいているとバラして強制的に二人を引き離してやろうかと思ったが、そんな悪役みたいなことをして嫌われるのは嫌だ。

 悔しいが、伊織は今が一番いい顔をしている。姫川や帯刀がさせてやれなかった顔だ。

「私が一緒に住もうって言った時は、嫌だって言ったくせに」

 二人を引き離さない代わりに、ささやかな不満を口にする。姫川や帯刀がどんなにうちにおいでと言っても、伊織は頑として首を縦に振らなかったのに。

「私のほうが伊織を大切にしてあげるのに、伊織はどうして分かってくれないのかしらね。つまらないわ」

 伊織はそんなことを言われると思っていなかったようで、少し面喰った顔をした後で困ったように言った。

「大切にしてくれると分かってたから、一緒に暮らせなかったんです」

「…………」

「大切にしてくれるというのは、要するに気遣ってくれるってことでしょう? ずっとそうされたら、俺はきっと申し訳なさでいっぱいになってしまったと思うんです。理人は俺を必要以上に気遣わないので、俺も気遣わないでいられる。だから、一緒にいて楽なんですよ」

 伊織は子供の頃からずっと自分が相手を気遣う立場だったので、気遣われることに慣れていない。姫川と帯刀からしてみれば当然の心配も、伊織にとっては負担になってしまっていたということか。

「でも俺……すごく我が儘なんですけど、社長と帯刀さんが俺のことを心配してくれているのが嬉しいんです。俺のことを大事に思ってくれているのがよく分かって、くすぐったいっていうか照れ臭いっていうか。二人は俺のことを本気で心配してくれてるのに、勝手なことばかり言ってすみません」

 何よそれ。姫川はふんとそっぽを向いて伊織から目を逸らした。

「そんなこと言ったら、これからもお節介なほど心配するから。覚悟しなさいよ?」

「はい。俺が今こうして幸せでいられるのも、社長と帯刀さんのお蔭だと思ってるんで、できれば心配ばかりかける側じゃなくて、助けられる側になりたいとも思いますけど」

 そんな風に言われたら怒れないじゃない。

 本当に悔しいけれど、伊織がどうしても理人がいいなら、見逃してあげることだってやぶさかじゃないかもしれない。明日には気が変わってるかもしれないけど、とりあえず今のところは。いや、もしかしたら数時間後には変わってるかもしれないけど、今だけは。

「じゃあ、うちに来なかったのは許してあげるから、今度うちに泊まりに来なさい」

「え? 社長の家にですか?」

「そうよ。何か文句があるの? 私にだって伊織の手料理をお腹いっぱい食べる権利があると思うわ」

「ふふ、そういうことなら喜んで」

 よし、言質を取った。姫川は伊織に見られない角度でにやりと笑みを浮かべる。

 見逃してはあげるけれど、少しぐらい理人に報復してやらないと気が済まない。理人のオフの前日に、約束を盾に理人に行先を告げる暇も与えず無理矢理伊織を連れ出してやる。

 姫川も鬼ではないから、数時間後には伊織はここにいると教えてあげよう。伊織の頬にキスでもして写真を撮って送ってやったら、理人はどんな顔をするだろうか。

 職権乱用だのパワハラだの言われようが痛くも痒くもない。伊織が姫川のことを大好きだということぐらいはちゃんと分かっている。伊織はそれぐらいのことで姫川に怒ったりしないし、むしろ母親とあまりスキンシップを取っていなかった分、照れ臭そうにしながら喜ぶだろう。それで理人と伊織が喧嘩になるなら、そのまましばらくうちで暮らせばいい。

「楽しみね」

 伊織ににっこりと笑いかければ、何も知らない伊織もにっこりと笑みを返してくれた。やっぱりうちの伊織は可愛い。さあ、帰ったら帯刀も巻き込んで、これからの計画を立てなきゃ。

 覚悟しなさいよ、理人。これぐらいで許してあげるんだから、感謝して欲しいぐらいだわ。


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